二兎追うものは一兎をも得ず【2】
毎週更新を目指します。
【2020/8/1:修正】他の投稿と合わせるために改行と文体に手を加えました。
「奥様」
噴水が描く水のアートを眺めていると、不意に背後から声をかけられた。
その声には聞き覚えがある。
(この声は――)
振り向くと、そこにはオリバーの家来ニコラス=ルガードが立っていた。
幼少よりオリバーに仕え、彼とともにエインズワースを支える家来の一人。齢もオリバーと二つしか変わらない二十三歳だ。
「……」
「旦那様より、火急の知らせがございます。至急、お屋敷へお戻りください」
無言を貫いていると、ニコラスはその藍色の瞳をこちらへ向けて、静かに続けた。どんな時も表情一つ変えずに対処するところは彼の美点だが、その淡々とした口調と相まってどこか冷淡に思えてしまう。
まあ、今回のことで言えば、私にも非はあるのかもしれないけれど。
「……もう届いたのね」
さすがは伯母さま。仕事が速い。それに対応する我が旦那様も。
時間を潰していればもしかして……とは思っていたけれど、さすがは両者とも国政の一角を担う名貴族なだけある。
「わかりました。すぐに戻ります」
用意された馬車に乗り、王都から四半刻ほど離れた郊外の屋敷へと向かう。
リリカも同乗していたものの、何に気を遣ってか話しかけてこなかった。御者台にいるニコラスの耳を気にしているのだろうか。
私の胸には憂鬱さと緊張、それと少しの後悔が渦を巻いていた。
抱える問題は違えど、どことなくあの日と似た状態だったと思い出す。
オリバーと出会った、あの日のことを。
私が修道院から戻ると、王都にある伯母さまのタウンハウスに招かれた。
そこで私を待っていたのは、幾着ものドレスの試着と採寸、そして社交界マナーのレッスンだった。
最低限のマナーは生家にいた時や修道院で身につけてはいたものの、口調や所作については伯母さまの及第点にすら届かず、分野ごとの家庭教師をつける徹底ぶり。
それから毎日、怒涛の特訓が始まったのだった。
特に難しかったのはダンスのレッスン。
ヒールを履いた上で軽やかなターンやステップなど、修道院でも収穫祭の祈願踊りくらいしか踊ったことがない私にとっては、苦行以外の何物でもなかった。
それでも何とか社交界に出せると及第点が下り、送り出された舞踏会への道すがら。
あの時は、王宮という場違いな舞台へ登壇する憂鬱さと付け焼き刃で習ったマナーがボロを出さないようにという緊張、そして今直ぐにでもタウンハウスへ帰りたいという後悔があった。
けれど、今は――
「ヴェロニカ様。着きましたが……どうかなさいましたか?」
リリカは馬車の扉を開けて、すでに外へ出ていた。どうやら私は、着いたことすら気付かなかったらしい。
「……何でもないわ」
胸の渦を押し込めて、馬車から降りた。
ニコラスに案内されて、真っ直ぐに二階の執務室の前まで辿り着く。
宮廷にも彼の執務室があり、今朝もそちらへ行ったものとばかり思っていたけれど、どうやら今は戻ってきているらしい。
本当に、仕事が早い人だこと。
ニコラスが扉をノックし、用件を告げる。
「奥様をお連れいたしました」
「入れ」
室内から短い言葉で許可されたあと、ニコラスは「失礼します」と変わらない口調でそれを開ける。
執務室内は壁の両側に沿って並べられた本棚と、それに敷き詰められる本や資料の山。
そして私の身長を優に越すはめ殺しの窓の前に、執務机と来客用のソファがあるだけだった。
背後で扉の閉まる音。隔離されたこの空間にいるのは、私ともう一人の人物。
机の椅子に座る一人の男性。
ずっと見ていたら吸い込まれそうになる、漆黒の髪と瞳。
オリバー=エインズワース、その人だった。
「……ただいま戻りました」
ドレスの裾をまくりお辞儀する。
「ああ。単刀直入に訊こう。私に何か言いたいことはあるか?」
舞踏会でご令嬢方から『精悍』だと称される目付きに、疑問符が打たれているとはいえ、有無を言わさぬ口調。これにはニコラス同様、どこか冷淡だと感じてしまう。
鋭く尖るその視線に、私は精一杯の誠意で答えた。
「――私と、離縁してください」
私が言葉を発したあともなお向けられる、オリバーの射抜かれそうな眼差し。
見つめ返しても、この人が何を考えているのか、私には全く読めない。
「またその話か。一刻ほど前に届いた、デルフィーノ女侯爵からの文の内容も同様のものだったが」
それと同時に机の上に置かれた封筒。開封された封蝋には、向かい合う二匹の海豚の紋章――伯母さまからのものだった。
「これはお前の仕業なのか」
実際その通りだというのに、オリバーの言葉を聞いた私はなぜか心が虚しくなっていた。
(私にそうさせたのは、あなたじゃない……)
喉まで出かかった言葉を、すんでのところで押し留める。
ここまで来て、引き下がるわけにはいかない。
「……伯母さまに、あの件をお話ししました。離縁は、お互いにとって最善策だと思われます」
私が離婚を決めた最大の理由。それは――
「心に想う方がいるのであれば、私よりもその方をお側において大切にしてください」
「本気で言っているのか?」
黒髪に潜む瞳が、さらに険しくなった。
「以前お話しした通り、私は本気です」
別に、私は恋愛結婚がしたいとも、オリバーにさせたいとも思っていない。
それは修道院に入って、自分が貴族の令嬢だと自覚し始めた時から、夢のまた夢であると気付いていた。
言うなれば、そう。これは単なる醜い嫉妬心。
貴族社会は身分という檻で造られた鳥籠で、家柄や身分ですべてが決まると言っても過言ではない。
それは政略結婚もまたしかりで、相手の家柄や身分が自分のそれに相応しくなければ意味がない。
ただ、両親が恋愛結婚で結ばれた私にとって、結婚が持つ意味とは『相手を誰よりも思いやり、愛すること』に同等だった。
だからこそ自分が結婚する時は、相手を誰よりも理解し、心から愛せるよう努めるつもりだったのだ。
例え、始めは互いに愛のない結婚だったとしても、信頼関係を築いたその先に、きっと互いを想い合える関係になれると、そう信じていた。
それが彼となら出来ると、そう思っていた。
けれどこれは、あくまで私が勝手に抱いた押し付けの願望。彼に、彼の心に、想い人がいるのであれば話は別だ。
長く続いた沈黙のあとに返ってきた言葉は、これまでとまったく同じものだった。
「何度言われても、私の答えは変わらない。こちらにその意思はない。却下だ」
何を隠す必要があるのだろう。『あれ』を見せたとき、あんなにも驚いていたのに。
「……伯母さまには、今後の仲介もお願いしてきました」
このままでは会話の平行線だからと、伯母さまに文をしたためての今日の呼び出しだった。
「何もないようでしたら、失礼します」
私は何か物言いたげなオリバーの視線を振り切って、執務室をあとにした。