仮面に隠すは祈りと願い【3】
一点、修正点です。
ヴェロニカのデビュタントボールがあったのは、二年前です。
そこから婚約期間が約一年半あり、今年の春に挙式を上げました。
失礼しました。
広間の大窓から外へ繋がる広いテラスには、既に幾組もの男女がそれぞれ視界の邪魔にならない間隔で並んでいた。
まるで他を寄せ付けさせない、二人きりの世界が広がっているよう。
結局私は一曲踊ったあと、その微笑につられるがまま、テラスへと出てきてしまった。
そして二人きりで話せる場所をと、テラスの端ーー降りれば、宮廷庭園へと繋がる階段近くーーまで来ていた。
「……まあ、ここでならいいか」
そう手すりに腰を掛けて呟くその横顔は、どこか真剣なようでいて好奇をも含んでいた。
まさにどこから切り取ってみても画になる光景。
「……それで、どうして私が誰かご存知なのですか?」
「いきなりそれを話しても、情緒の欠片もありませんよ。ですが、以前より貴女のことは存じ上げておりました」
ふふ、と口許に手を添えて笑う姿も、とても優美だった。
私に会いたかった、なんて言う人がいたことにも驚きだけれど、そもそも私のことをどこで知ったのだろう。
私が社交界に出たのは、二年前のデビュタントボールの一度きり。
けれどそこでは結局、緊張のあまり誰とも踊ることなく退出してしまったから、接点なんて生まれるはずがなかった。
そしてそれ以降はオリバーから婚約の申し込みがあって、なんやかんや忙しく過ごしていたこともあり、新しく誰かと知り合うなんて数えるくらいしかない。
もちろん、その中で目の前の人物と知り合ったことはなかった……はず。
(……となると、それよりも前の話?)
そうなると修道院時代にまで遡ることになるのだけれど。
だとしても修道院やその隣の孤児院には、私と同世代の少女か年下の子供たち、そしてご年配の院長やシスターしかいなかった。
ましてや眼前の人物は貴族。それこそ村の領主様以外の貴族の方と接点なんて--
「順を追って説明します」と青年が口にしたのは、彼自身の名前だった。
けれどその名を聞いて、私は唖然とする。
「まずは、私の自己紹介をした方がよろしいですね。私の名はエリオット=ガーデンと申します」
それは、よく知っている人物の名前。
「あ、あなたが……ミシェイラ院に援助してくださっていた、あの『エリオット=ガーデン』様?」
想い描いていた人物像と、まったくといっていいほど違っていた。
想像では、もっとお年を召された方だとばかり思っていたから。
「何でしたら、招待状をお見せしましょうか?」
そう言って彼は懐から取り出した封筒を、こちらへ向けた。
手に取って見たそれには、私たちが貰ったものと同じ宮廷府の印が施されている。
宛先はもちろん『エリオット=ガーデン』となっていた。
今、目の前にいる人が、本当にあのーーエリオット=ガーデン?
「それで、あなたは一体、私に何のお話があるというのですか?」
封筒を返した私の内面を忖度しているように、エリオットの真っ直ぐな瞳と視線が合う。
「貴女だけが知らないのは、公平じゃないからですよ」
「公平、じゃない?」
先ほどからおうむ返しの会話がもどかしい。
一体、私だけ何を知らないというの?
「あなたのことを私が知ることは、あなたが言う公平と、一体どういう関係があるのですか?」
わからないことばかりだ。
募る焦燥感を悟られぬように、私は小さく呼吸を整える。
視線を合わせた先の仮面越しに浮かぶ琥珀色の瞳が、微かに細められた気がした。
「聡い貴女なら、ご自身の置かれている状況を、薄々感じているはずです。『あの方』は貴女を欺いていると」
誰のことを示しているのかは明白だった。
けれど、その言葉はどこか私を試しているようにも聞こえて。
その言葉を聞いて、苛立ちよりも静かに私の内側に募る感情があった。
「……そう、だとしたら? あなたは私に何をしてくださるのですか?」
「知りたいとは、思いませんか? 何を偽り、何を隠されているのか」
まるで、自分はすべてを知っているという口振り。
それはまた、私の中の感情を膨らませる。
「貴女が望まれるのであれば、私は助力いたしますよ」
それはまるでお伽噺の中に出てくる、誘惑の使い魔の類いとでもいうように、私の求めていることを提示してくる。
けれど。例えそうだとしても。
「私が聞きたいことは、すべて夫の口から聞きたいことなのであって、あなたの口からではありません」
「よろしいのですか? また欺かれるかもしれないというのに」
「……夫婦といえど、立場や状況次第で偽りごとや秘密が生まれてしまうことは仕方のないことです」
自分で言っていて、ふと気が付いた。
そうなのだ。私は別に、何かを隠されていることに対してはさして重要なことと思っていない。
嘘を吐かれることも傷つきはするけれど、偽りを口にするのにはきっと理由があるわけで。
むしろ、重要なのはその『理由』なのでであって。
(……他に好きな人がいるってこととか、あらかじめ言ってくれてれば、私にだって心の準備ができてたわよ!)
いや、これは嘘だ。もし事前に言われていたら、きっと私は二人が結ばれるように何か策を考えたはず。
けれどそれが叶わない今、私がこれからすべきなのは、潔く身を引くことしかない。
そうすれば、本当に結ばれるべき二人が結ばれるのだから。
好きな人と結ばれることが一番の幸せなのだとしたら、私の存在は二人の幸せの障害でしかないのだ。
(あれ……? 今、私なんて--)
その時、唐突にこれまであった自分の思考の違和感に気付いた。気付いてしまった。
(身を引く? 潔く? 好きな人と結ばれる?)
そこで記憶の底から湧き上がるように、マーガレットが言っていたあの言葉を思い出した。
『自分の心に嘘は吐かず、正直でいること』
そこまで思い至って、不意に、すべてが腑に落ちる。
(そっか、私……)
--離婚することが辛いんじゃない。『好きな人』と幸せになれないことが辛いんだ。
これまで胸に溜まっていた靄が、一気に晴れた気分だった。
心に残る感情は、怒りでもなく、妬みでもない。
ただただ、辛いという思いだけ。
今までこの思考に至らなかったのは、どこかで自分の気持ちを認めたくなかったから。
既に答えの出ている問いに挑んで、正解を知りたくなかったから。
今まで直感的に避けて通ってきた道が、突然目の前に現れたような気分だった。
例え気持ちとは裏腹に、訪れようとしている現実が最悪なものであったとしても。
この道を通らなくては、私は先へ進めない。
「……どうかされましたか? 公爵夫人」
「あなたのおかげで、自分のすべきことがわかりました」
訝しげに尋ねてきたエリオットに、私は仮面を取って見せた。
目元に、夜風が優しく当たる。
自分と向き合って決めた答えを、覆う必要はない。
「ありがとうございます。ガーデン様」
先ほどの招待状には、彼の爵位や称号は書かれていなかった。
だから無難に〝様〞付けで言葉を返す。
「どちらへ?」
「行くところができましたので、これにて失礼いたします」
エリオットに対してカーテシーをして、仮面を着け直した。
そして舞踏会が続く広間へと踵を返す。
広間では丁度曲が始まった頃合いらしく、人の流れが出来ていた。
広間の隅を通ることも考えたものの、今も多くの人が立って話している。
そのすべてを避けながら広間の入り口へ行くには難しいと判断して、高まる鼓動を落ち着かせながら曲が終わるのを待つことにする。
玉砕覚悟で、伝えるのだ。
--あなたが好きだ、と。
(よし……っ)
意気込みを入れて、大きく深呼吸をしたその時。
広間の隅からこちら側ーーテラスの入り口へと向かって来る二人の招待客に目が行った。
何となくその招待客が気になった理由は、どちらも男性だったということ。
それにどことなく、テラスで睦合う男女たちとは纏う雰囲気も異なっている気がした。
「庭の蕾は咲いたか?」
(……っ!?)
ーーすれ違った時に耳に届いた会話の中で、確かにその声が聞こえた。
「はい。ひとつ残らず」
「そうか」
--まさか。そんな……でも、どうして思い至らなかったのだろう。
沢山の貴族が出入りする仮面舞踏会の中に『あの話をしていた者たち』が入り込んでいる可能性に。
あんな日常の宮廷の中で暗殺を話題に出せるほど、連中は宮廷深くに入り込んでいるのだ。
なら、貴族と偽って仲間を城内に忍び込ませることなど簡単なはず。
(……もし、陛下を狙うのが今日だったら?)
いくら宮廷の警備が細心の注意を払って行われているとはいえ、有事の際に一人ひとりの仮装を暴いて身元を確認するなんてことはできない。
何せ今日は、ストランテ共和国やヴァロネン大公国の来賓も数多く来ているらしいし、下手をすれば外交問題に発展しかねない。
「……夫人?」
つい今しがた広間に戻ったはずの私の姿を見て、エリオットが真意を聞こうと近寄ってくる。
しかしどこへ行くのかという彼の問いにも答えず、私は階段を下る影のあとを追っていた。
◆
「で、お前は彼女になんて言ってあげたんだよ?」
拷問のような詰問。
それから逃れられないということは、長年の付き合いからわかっていた。
「『似合っている』と」
「……たったのそれだけか?」
「……ああ」
自分をこれだけやり込めることができる人物は、この国に数えるほどしかいない。
王族専用の貴賓室のソファに腰を下ろしている、幼馴染みでもあり、この国の王太子でもあるエルドレッド=グレン=クウェリア殿下は、その数少ない人物の一人だった。
エルドレッドは『庭師』の仮装で、首の後ろには麦わら帽を下げている。
一見してこの国の王太子とは思えない彼は、頭を抱えながら大きな溜め息を吐いた。
「はあ……そこは『とても似合っていますね。まるで《二月の慈姫》のようです』くらい言ったらどうだ! なんのために俺がアドバイスしたと思ってるんだよ」
「とは言ってもだな……」
そんな台詞、舞台の役者でもなければ咄嗟に出てくる訳がない。
「言い訳は無用。おい、ルーカス。こいつにありったけのブラックコーヒーを淹れてやれ」
「畏まりました。殿下」
エルドレッドの従者であるルーカス=カードが、慣れた手つきでコーヒーを淹れる準備をしだした。
共和国の南方で生産される『コーヒー豆』という豆を焙煎して淹れられるその液体は、紅茶とは違って濁った泥のような見た目と渋味と苦味を併せ持っていて、自分には些か馴染みがない。
このコーヒーは、先日のウルトラウムの運河視察にてエルドレッドが共和国の視察団から土産だともたらされたものとのことだ。
そのため、近頃エルドレッドの許へ行くと大抵これが出されており、そのたびに飲み慣れない異文化の飲料に舌を悩まされている。
「どうぞ」
装飾の少ない白磁のカップに淹れられたコーヒーが、自分とエルドレッド双方の目の前に置かれた。
並々に注がれた黒色の液体を、その味を思いながら見下ろす。
「それを飲み終わるまで、この部屋から外には出さないからな」
エルドレッドがにやりと笑みを浮かべる。
以前に「この味は苦手だ」とエルドレッドに告げたことがあるというのに、こんなカップの縁の寸でのところまで注がせるとは。
その様子に傍に控えていたルーカスのやや灰色を帯びた茶髪が揺れ、眼鏡の奥の翡翠の瞳が微笑んだ。
「主命ですので」
こちらの視線を読み、ルーカスは爽やかに告げる。
「お前は、これを飲んだことがあるのか? ルーカス」
「勿論でございます。殿下へお出しするものは、すべて私が用意しておりますので」
そう誇らしげに言うルーカスに、なぜだかエルドレッドもうんうんと頷いていた。
「ああ。俺も他の者が淹れたコーヒーを飲んだが、ルーカスのが一番旨かったぞ」
「ありがたきお言葉。ですが、今の言葉は聞き捨てなりませんね」
「何だよ、お前が淹れたコーヒーが一番だって褒めただけだろう?」
「それでは一体、私の淹れたコーヒーをどなたが淹れたものとお比べになられたのでしょうか? 殿下」
毒見役を通さずに飲食をした事実を知られ、エルドレッドはルーカスから目を逸らしている。
その表情は、明らかに言い訳を考えている顔だった。
「えっ? いや、ほらっ、お前が用事で近くにいない時とか、視察の時に淹れ方を聞いてた秘書官の淹れたものを飲んだことがあっただけだって」
「……はあ。以後はそのようなことがないよう、お願いいたします」
自分をやり込めるエルドレッドを、さらにやり込めるルーカス。
自分達三人の中で、身分では王太子であるエルドレッドが一番上だ。
しかし同世代ということもあり、公的以外のこのようなプライベートでは、比較的親しく過ごしている。
溜め息をこぼしたルーカスは、次にこちらを向いて言った。
「それでは何か、お口直しに別のものをご用意いたします。オリバー様は確か、甘いものは不得手でいらっしゃいましたね」
「ああ。助かる」
ルーカスが退出し、貴賓室にいくらかの沈黙が流れる。
大広間からは大分離れているためか、オーケストラの音楽はここまで聞こえてこない。
最初に口を開いたのはエルドレッドの方だった。
「それで、俺のアドバイス通りにやったんだろう? 彼女はなんて?」
「それが……」
エルドレッドの指示通りにしたつもりだが、たぶん、彼女は気付いていない。
それどころか、会うたびに彼女に避けられている気さえする。
(まあ、離婚をしたいと言っているのだから、無理もないか……)
「……なるほどな。とは言え、彼女にここまで曲解に曲解を重ねさせる原因を作ったのは、お前だからな」
「……ああ」
わかっている。そうなった原因は、一番自分にあると。
だからこそ、舞踏会が終わったら、彼女にすべてを話すつもりだ。
これまで彼女に偽っていたことすべてを。
「--今日ですべてを終わらせる」
これは自分への戒めの言葉でもある。
いつまでも後悔に縛られないように、進むしかない。
コーヒーを一口含んだエルドレッドが、なにかを思い出したように「そうだ」と言葉を口にした。
「終わらせるで思い出したが、例の件は《秋》から先ほど問題ないという報告が入った。『西風は太陽に従った』とのことだ」
どうやら、共和国の西風--共和国の評議院共和派筆頭のクレイヴ=ウェスタンが、こちらの意図を汲んだようだ。
これもすべて、評議院長のアルダン=ベイルのお陰と言っていいだろう。
とは言え、だ。
「……《四季》を全員召集したのか?」
てっきりエリオットだけかと思っていたのだが。
「いいや、全員じゃない。《春》は三人ともだが、《夏》はガートルード、《秋》はジェシカ、《冬》はアルバートだけだ。《春》も大方問題ないし、《夏》と《冬》双方からの報告で、公国と帝国、どちらも動きはないことがわかった」
しかし続く《春》の報告に一点だけ疑問をもったエルドレッドの言葉に、眉をひそめざるを得なかった。
「そういえば、取りまとめのデリアが『エリオットの報告を聞けていない』と言っていたが、あいつからは別途で『問題なし』と報告を受けていたんだよな」
「エリオットが? はあ……あいつは一体どこで何をやっているんだ」
《四季》はエルドレッド直属の諜報機関だ。
その中の一人でもあるエリオットは普段気分屋ではあるが、こういう仕事に関しては確実にこなす奴でもある。
特に情報がすべての諜報の世界で、報告系統は密にすべき事項なのは自明の理だ。
なのに、あいつはどうしてーー
「デリア曰く、『私との番だというのに、どこかの公爵夫人と踊っていた』そうだぞ」
「…………」
その言葉を聞いて、刹那、時という認識がなくなった。
「……今、なんと?」
こちらの言葉の意味を理解したのか、エルドレッドは首を横に振りながら「自分にはどうしようもなかった」と告げる。
「いや。だって俺、その時ジェシカの報告聞いてたから。そのあとに聞いたんだって」
そしてデリアの話では、二人揃ってどこかへ消えてしまったのだとか。
(あの馬鹿……)
八つ当たり甚だしいとは思うが、内から沸き起こる怒りと情けなさで手が震えていた。
この感情を向けるべきなのは、エリオットではなく、他でもない自分自身だ。
「まあまあ、コーヒーでも飲んで少し落ち着けって」
エルドレッドが手をつけていなかった白磁のカップに注がれているそれを、受け皿ごとこちらへ差し出した。
手にしたカップを口元へ運び、中の黒々とした液体を一気に喉へ流し込む。
味や温度を感じる余裕などなかった。
「ちょ……オリバー。どこ行くんだよ?」
「彼女を連れ戻しに」
「連れ戻すって、お前な……」
わかっている。すべて自分の我が儘だということを。
(それでも……)
それでもあの日、自分は誓ったのだ。
何に代えても、彼女を守ると。




