仮面に隠すは祈りと願い【2】
*
約一年ぶりに訪れた宮廷の大広間は、前回よりも絢爛さが増しているように思えた。
煌々と灯るシャンデリアの明かりが、大理石で出来た広間の床を輝かせている。
それに加え、今回は招待客でもある貴族の衣装の種類がだいぶ異なっていた。
一年前私が参加したのは、王家主催のデビュタントボール。
貴族の令嬢たちは純白のドレスを纏い挑むのに対し、今回の仮面舞踏会は貴族がその地位や権力を表すように、きらびやかであったり派手であったりと、それぞれの趣向が存分に盛り込まれている衣装となっていた。まあ、誰が誰かわからない状況ではあるけれど。
「……」
「……」
仮面越しとはいえーーいや、もしかしたらその仮面のせいかも知れない--視線を向けられているのが、嫌でもわかった。
今日この宮廷の中で、私たちの衣装はとても控えめな部類に入る。仕上がりはマーガレットの手腕によって一級品にあたるとは思うけれど、ちらほら視界に映り込む全身上から下まで真っ赤な衣装や、背中にお伽噺の中に出てくるドラゴンのような翼を生やしている衣装に比べたら……。
(仮面舞踏会というよりは、仮装舞踏会よね……)
オリバーにエスコートされながら、広間の中央に向かう。
今宵は王家主催の仮面舞踏会。無礼講のため、入り口で招待状を見せる以外は名乗る必要はない。
通常であれば一番に挨拶すべき国王夫妻の姿も、前回来たときとは違って広間の玉座にはなかった。
国王シオドア=カール・シミオン=クウェリア陛下の御代は、今年で二十年目になる。先王の突然の崩御から三十二歳という若さで即位することとなった若き王は、革命以来外交が膠着状態だったストランテ共和国に対して外交政策を一変させ、その後の活路を見出したことで有名だった。
広間の空いている場所へ着いた時、隅の一角に座しているオーケストラの金管楽器が、高い音をあげた。
すると、周りから聞こえていた話し声も一旦は静かになり、手を取り合い曲の始まりを待つ者、壁際のテーブルに並べられた料理に向かう者、または壁の花を決め込む者、そしてまた小さく話し出す者と、各々が取りたい行動を取り始めた。
会場内に視線を泳がせていた私は、不意に組んでいた腕に力が込められていることに気付く。
隣を見ると、仮面越しに覗く漆黒の瞳と目が合った。
そして、その固く結ばれていた口許から、ゆっくりと言葉が紡がれる。
「一曲、私とお相手願えませんか?」
「……はい。喜んで」
やがてオーケストラの演奏が始まった。
ついに、仮面舞踏会が幕を開ける。
◆
リリカ=ブレスは大広間から少し離れた宮廷の一角に用意されている、使用人たちの控え室の扉の前に立っていた。
解放されている扉の中は、すでに舞踏会へ参加している主人に随行して宮廷へ来た、他の貴族の従僕や侍女たちでひしめき合っている。
自分と同じようにここで待機することになっている使用人たちの手には、仮面舞踏会というだけあって、招待客である主人に習って簡易的な仮面が持たされていた。
しかしそれをこの場で付ける者はほとんどいない。あくまでもこの舞踏会の主役は主人たちであって、自分たちではないのだ。
部屋に待機する使用人たちは、知っている顔ぶれ同士で話をしているか、静かに時を過ごしているのが大半だった。
部屋の隅には軽食等も用意されてるようだったが、リリカ自身、今は気掛かりなことがあるせいで、なにも喉を通る気がしなかった。
「どうかしたか?」
エインズワース邸からともに随行して来たニコラス=ルガードが、先に部屋に入る形でこちらに振り向く。
自分たちは主人から何か言付けがない限り、舞踏会が終わるまでこの部屋で待機しなければならない。
しかし、リリカは後ろ髪を引かれる思いで別れた女主人――ヴェロニカのことが気になって仕方がなかった。
「……お二人は、大丈夫でしょうか」
馬車の中でも会話がまったく聞こえてこなかった。
デルフィーノ邸にて、久しぶりに会う養父に挨拶してくるようにとヴェロニカから告げられた時から、なにか違和感はあった。いや、本当はそれよりも前から、彼女の様子には気付いていた。
そして公爵家へ戻ってドレスを試着している間も、こちらへの返事がずっと上の空だった。
だからこそせっかく廊下で出会った公爵に部屋へ向かうよう告げたのに、戻るとなぜだか二人とも沈黙しているし。
それにマーガレットが「拗らせているわね……」と呟いていたことが気にかかる。
これまでの状況を知らないにしても、馬車の中でのあの何とも言えない空気は、同じくその場にいたニコラスにもわかると思っていたのだが。
「そのことか。私たちが気にしても仕方がないことだろう」
人としても従者としても先輩でもあるニコラスは、溜め息を吐きながらこちらに向き直った。
「でも、ニコラスさん。このままでは、お二人は完全にすれ違ってしまいます」
いや、今だってすれ違いも極限まで来ている。このままヴェロニカの誤解を解かない限り、最悪の事態が待っているだけだ。
以前は目を合わせる度に苦笑しながらも「大丈夫よ」と口にするヴェロニカだったが、今日は特に歯切れが悪かった。
それどころか、リリカはここ数日、なにかとヴェロニカから避けられている気さえしている。
これまで彼女と出会って十二年。こんなことなどなかったというのに。
舞踏会へついて来たはいいものの、二人のあの様子では、一度踊ったとしても二度と踊ることは絶対にないだろう。
それこそヴェロニカに至っては、その後踊ること自体を避けて壁の花を決め込むか、テラスかバルコニーへ逃げ込むに違いない。
「それは私たちが決めることではない。我々は互いの主人が決めたことに従うだけだ」
ニコラスは主に似て冷静というべきか、冷血というべきか。
その迅速で的確な判断力は見習うべき点だと思いはするが、自分の主人の人生の一大事にそこまで冷静でいることの方が難しく思える。
「ニコラスさんは、あのお二人が離婚されてもよろしいのですか?」
リリカの言葉に刹那眉をひそめたニコラスは、静かに憤気を含んだ声で告げた。
「口が過ぎるぞ、ブレス。ここで我々はエインズワース家の使用人。主人の私情を簡単に口にするな」
「……失礼いたしました」
確かに、使用人の口から仕えている屋敷の情報が漏れることは、絶対に避けなければならない。
主人を護るべき使用人が、その立場を危うくさせては元も子もないのだ。
『汝、忠誠を尽くすこと』。養親のブレス家に伝わる家訓のひとつとも通じるものがある。
それでも、このままでは誰も幸せになんてなれはしない。
この結婚はあの人が望んでいたものだったはずだ。
やっと叶ったというのに、どうして自分で壊すようなことをしているのだろう……?
「失礼。この部屋は使用人の控え室で合っているかな?」
背後の入り口から声がした。
振り向くと、舞踏会の招待客と思われる華やかな衣装を纏った中年の男が部屋の中を覗いていた。
いち早く気付いた宮廷の使用人が、その対応に入る。
「はい、左様でございます。どなたをお呼び致しましょうか?」
「ああ、アカデミーのサルテジット伯爵家の使用人に話がしたいんだがーーん?」
「?」
道を譲ろうと動いたその時、男と目が合った。一瞬ではあるが、その新緑色の瞳が見開かれたように感じる。
扉の天辺に届きそうなほどの上背で、腕や身体の筋肉も外見の年齢の割りに逞しい。
肩で軽く結わえられている亜麻色の髪から、隣国に出自をおく人物だと推測ができた。
頬に傷がありながらも、その眼差しには人を威嚇するよりも見守る優しさが含まれている気がする。
「失礼、レディ。私はロドルフ=ドランバルと申します。立ち入ったことを聞くようで、とても恐縮なのですが……あなたの母君や親戚にジョゼットという人物はいないでしょうか?」
簡略されたものとはいえ、手に持つ仮面と纏う衣装からは、彼が今夜の舞踏会の招待客というのが見てとれた。
けれども、貴族……という割りには、とても丁寧な物言いである。
「ドランバル様、申し訳ございません。私は幼少の頃より今の主人の許にいたため、生家のことはほとんど知らないのです」
ロドルフと名乗った人物は驚いた様子で口をわずかに開けていた。それも当然だろう。
確かに、自分の出自が気にならないといえば嘘になる。亜麻色の髪に薄緑の瞳。きっと両親のどちらかか、あるいはその血縁者にストランテの出身者がいたのだろう。
しかしリリカは十二年前のあの日、ブロントでヴェロニカに助けられて以来、彼女の家で彼女とその両親に育てられた恩がある。
だから自分の出自がどの国にあるものなのかと思うことよりも、目の前にいる姉以上に慕う恩人の力になりたいと思うのは、至極当然のことだった。
そしてヴェロニカが修道院へ入り、女侯爵からすべてを聞いて知ったあとも、その決心は変わらなかった。
「それはすまないことを訊いてしまいました。非礼を詫びましょう……あなたが昔の知り合いにあまりにも似ていたものだから、つい、その縁者なのではと考えてしまったのです」
「そうでしたか。……その方も、ストランテ王国生まれの方なのでしょうか?」
今はなき亡国の名を口にするのはいささか憚られたが、男の外見での年齢を鑑みると、ストランテが三十余年前に革命で共和国へと国名が変わるよりも以前の生まれなのは確かだ。
「ええ。生きていれば、私と同年代のはずなのですが、革命以降、いくら探しても出会えませんでした」
ロドルフの言葉の含みから、その『ジョゼット』という女性は、彼にとって憎からず思っている相手なのだと容易に想像がついた。
その表情を見て、リリカは不意に気付く。
自分とロドルフは似ている、と。
彼にとっての『ジョゼット』という存在は、リリカにとってのヴェロニカと同じなのだと。
瞬間、リリカの脳裏に、過去の冷たい記憶が蘇る。
ストランテ革命では、中心となる大きな暴動は王都と王宮でのみ起こったと養父から教わった。
当時の国内各地は度重なる不作で、国力となる農地も国民もかなり疲弊していたという。
だからこそ、王都の貴族たちの変わらぬ浪費や振る舞いに立ち上がった一部の農民や平民、そして貴族により、革命は成功したのだと。
失うものがない人間の覚悟は、まさに決死というわけだ。
その後、共和制の統治下となった国内では、新政策についていけない旧王国民たちが、隣国のヴァロネン大公国やこのクウェリア王国へと流れるようになった。
流民となった彼らが、大公国や王国で受け入れられたのはごく一部。
リリカは、それ以外の人間に当たっていた。
今でこそ国交や法の改正でだいぶマシになっているとはいえ、この見た目のせいでーー流民の血を引いているというだけで、いわれのない中傷や非難をどれほど受けたことか。
『お前ら流民のせいでーー』
『お前たちなんかいなければ』
『さっさとここから出ていけ』
記憶の底に澱む、数多の負の感情が込められた言葉。
多くの冷たい視線を時代のせいと昇華するには、当時のリリカは幼すぎた。
ただただ、自分のすべてが世界から否定されているようで。
自分の居場所なんて、世界のどこにもないと言われているようで。
しかし、それを一瞬にして吹き飛ばしたのは、他ならない彼女の言葉だった。
『あなたといると、お日様の下にいるみたい』
今にして思えば、それは単に語彙力の乏しい幼子の発した一言に過ぎない。
けれどその言葉で、あの時の自分は確かに救われたのだ。
あの人の言葉があったから、自分は陽の下にいてもいいのだと思えた。
ロドルフのその優しさや表情は、きっとリリカと同じように大切な記憶を拠り所にしているから、そのように感じるのだろう。
「そうだったのですね。ストランテ出身の知り合いに、知っている者がいないかどうか、聞いてみます。なにかわかれば、お伝えいたしますね」
「それはかたじけない。あ――」
ロドルフの言葉の先に、リリカは名前を求められていること、名を名乗っていなかったことに気付く。
「失礼いたしました。私は、ヴェロニカ=エインズワース公爵夫人にお仕えしております、リリカと申します」
「その名は--」
再び、ロドルフの目が見開かれた。
◆
オーケストラの音が、次第に落ち着いていく。
これで、なんとか一曲が終わった。
互いにお辞儀をして、それまで組んでいた手を離す。
しかして私も彼も、次のダンスパートナーと踊ることはなかった。
遠ざかっていく彼の背を背後に感じながら、心の中で静かに胸を撫で下ろす。
踊っている間の夫婦の会話は一切なし。
しかし曲が終える直前の不意に落とされた言葉は、今でも心に波紋を呼んでいた。
「それでは、あとで迎えに行く」
辛うじて頷いて返答をしたものの、気分はまるで死刑宣告をされた罪人のようだった。
きっと顔は人に見せられるものじゃなかったはず。今ほど視界を狭める邪魔な仮面をつけていて良かったと思うことはない。
あと数時間で、この曖昧な関係も終わりを告げる。
念願だったはずなのに、いざその瞬間が迫っているとわかった途端、戸惑いが心の底から溢れ始めてていた。
いや、何を迷っているのだろう。私は悪いことなどひとつもしていないはず……なのに--
胸を締め付けるような痛みと、何かがつかえたような違和感。
当然、胸に手を当てても、何もわかりはしなかった。
唯一わかるのは、この見えない感情を向けている相手が『彼』であるということ。
今はもう人波の中に消えてしまった後ろ姿を瞼の裏に思い出し、この違和感の名前を探す。
けれど、そんな簡単に見つかるわけなんてなくて。
そうこうしているうちに、間奏のバイオリンの音色に違う楽器の音色が加わった。
いけない。もうすぐ、次の曲が始まってしまう。
こうなったら、あとはテラスの陰にでも逃げて、舞踏会が終わるまで時間を潰そう。
その間で、ゆっくりとこの感情の名前を探せばいい。
幸いなことに、すぐ近くにテラスへと出られる大窓があった。
そうやって、意識を外一点に向けていたのがいけなかった。
どんっ。
私は数歩踏み出した途端に、視界の横から現れた人の気配に気付かず、ぶつかってしまったのだ。
勢いよくとはいかないまでも、反動で勝手に後方へと身体が傾く。
(あ……っ)
転ぶ。
しかしそうなると思っていた身体は、いつになっても床に衝突することはなかった。
「--お怪我は、ありませんか?」
代わりに、目を瞑っていた顔の真上からもたらされる声。
男声のようでいて女声のようでもある、中性的な声。
そしていつの間にか、腰に添えられている手。
その手が、後ろに転ぶ寸前だった私を受け止めてくれていたことに気付いたのは、純白の羽根があしらわれた仮面の奥にきらりと光る、琥珀色の瞳と視線が合ったあとだった。
「あっ、あの……」
言葉を紡ぐ前に、私の身体はその人物によって起こされた。
舞踏会で醜態を晒すという事態を防いでくれた恩人は、まるで何もなかったかのようにこちらへ微笑を向けている。
仮面に用いられている純白の羽根は頭の緑の帽子にも飾られ、その背中には長身痩躯な体格に似合うハープが背負われていた。
いかにも『吟遊詩人』という仮装だ。
(……やっぱり、女の人みたい)
声と同じように、一見すると女性とも見て取れる中性的な線の細さに、思わず仮面の裏を窺いそうになる。しかし衣装は明らかに男性用。
伯母さまのように男装の麗人である可能性も万にひとつもなくはないけれど、今宵は仮面舞踏会。
無礼講とはいえ、聞かれてもいないのに正体を暴くような無粋な真似はすべきではない。
そう思い直して視線を逸らそうとした時、再びその琥珀色の瞳と目が合ってしまった。
そしてその口から、思っても見なかった言葉が紡がれる。
「どうかしたのですか? そんな泣きたいような顔をして」
(……っ!?)
そんな顔をしているなんて、自分では思いもしなかった。
それに目元だけとはいえ仮面も付けているし、簡単に顔の表情なんてわかる訳がない。
けれど相手の言葉には、どこかこちらを見透かすような、不思議な感覚があった。
「……す、少し人に酔ってしまったようです。それでは、私はこれで--」
ぶつかったことにもう一度詫びをし、私はテラスへ逃げようと彼の前を通る。
しかし。
「待ってください。貴女に--」
手を掴まれて、呼び止められた。
驚きを隠せなかったものの、私は他に失礼をしてしまったのではと緊張で息を飲む。
けれどそれは、次の言葉で別のものへと変わった。
「貴女にずっと、お会いしたかった」
「はい……?」
その声や言葉と同じように、触れられている手を通して、こちらの考えていることがすべて読まれているように思えて、すぐにでも離したくなった。
私は努めて平然に聞こえるよう、静かに言葉を選んで答える。
「あの……どなたかとお間違えではありませんか?」
「いいえ。私がお会いしたかったのは、貴女で間違いありません。ヴェロニカ=エインズワース公爵夫人」
さも当然であるかのように、私の名を告げる。
名前を知られていることもそうだけれど、その顔に浮かべた笑みには、何か含みも感じられた。
「……っ!? あなたは、一体……」
「お話ししますよ、すべてね。けれどまずは--」
この場をどう切り抜けようかと考えあぐねている私に追い撃ちをかけるようかに、目の前へと差し出される掌。
「私と一曲、お相手願えませんか?」




