秘めたる想いは憂いのうちに【2】
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【2020/8/1:修正】他の投稿と合わせるために改行と文体に手を加えました。
居間を後にした私の足は、伯母さまのタウンハウスの中でも一番落ち着く場所――図書室に向かっていた。
扉を開けると案の定、図書室の中は窓から雨音だけが伝わるほど静閑だった。
四方の壁にずらりと並べられた本棚に、ぎっしりと詰められた本。
長年過ごしていた修道院にも図書館と呼べる場所はあったけれど、蔵書といっても手書きのものがほとんどで、それも農工や自然について書かれている部類だった。
あれらは資料と呼んだ方が相応しい気がする。例外に寄付という形で地元の貴族から絵本や古本が、両手で数えるほどあったくらいだ。
読書が趣味という伯母さまの蔵書は驚くほどに多く、この屋敷で初めて本という装丁に出会った私は、以来本の虜となっていた。
ページを捲ることで、知らない知識や知らない物語が溢れだす。それを何度も読んで吸収するのが、何よりも楽しかった。
こんな思考が纏まらない状態で読書する気は起きなかったけれど、今はともかく静かな場所で過ごしたかったのだ。
本棚の前に置かれた脚立の踏み場に腰を下ろし、本棚に背を向ける形で座り込む。
(舞踏会……すっかり忘れてたわ)
仮面舞踏会が開かれるのは、来週末。
確かに結婚式の前後で、舞踏会の衣装について有名デザイナーのマーガレット=オスタルシアが、屋敷を訪れてどんな意匠がいいのか、希望はあるのかと訊かれていたのを思い出す。
『完成次第、お屋敷にお持ちいたしますわ! ぜひお楽しみにしていらして』
そう。完成した衣装は、あちらの屋敷に届けられるのだ。
「せっかく仕立ててもらったのだし、戻らなきゃダメよね……」
確か、夫婦で《十二月の神々》がモチーフの意匠にするとマーガレットが言っていた。
彼女は伯母さまと知己の仲ということで、私の結婚式の花嫁衣装も仕立ててもらったのだ。
そんな彼女が「腕に縒りを掛けて鋭意製作いたしますわっ」と瞳を燃やしていたのを思い出すと、流石に即席のドレスで出席するのは気が引けた。
けれど、そうは言ってもである。
戻らなければならないとして、屋敷には必ずオリバーがいる。
そして一緒に舞踏会に出席するのだ。常に一緒にいるのだ。踊るのだ。
そんなの――
(耐えられる気がしない……!)
婚約時代は何度もお茶や会食をした経験はあったものの、一緒にダンスを踊った経験はただの一度きり。
婚約式を終えて披露パーティーでの一回のみだ。
あの時は伯母さまがつけてくれた先生のスパルタ特訓のおかげで、何とかダンスと呼べる代物になっていたと言っても過言ではない。
あと、ダンスパートナーのオリバーにエスコートしてもらったことも大きい。
けれどそれが一転、今回の一連の騒動である。
あの時のように、オリバーにエスコートしてもらっても、それに100%合わせられる自信がない。
それどころか、まともに顔を合わせられそうにない。
正直、もう頭と心のキャパシティが追い付かなかった。
「もう、嫌……」
組んだ腕の中に顔を埋め、私は考えることをやめて瞳を閉じた。耳は窓の外から奏でられる雨音に向ける。
不規則なメロディを聞いていると、不思議とどこか落ち着いた気分になってくる。
そうして思考を止めた私は、いつの間にかウトウトしていた。
「――ちゃん、ニカちゃん?」
肩を揺すられて微睡みの中から私を引き戻した声は、聞き覚えのあるとても優しい声だった。
顔をあげた先にあったのは、短く整えられた明るい茶髪。そして眼鏡の奥の深緑の瞳と目が合う。
「伯父さま……?」
「こんなところで寝たら風邪を引いてしまうよ」
時間はどのくらい経っていたのだろう。窓の外には鼠色の曇天が広がっているから太陽の傾きはわからなかったけれど、まだ夜ではないようだ。
「ごめんなさい。少し考え事をしてたら、いつの間にか……でも伯父さま、確か今日は、アカデミーにいるはずじゃ?」
伯父さま――ライアン=デルフィーノは婿養子として侯爵家へ迎えられ、現在は王立アカデミーで教壇に立っている。確か今日は一日中、アカデミーで授業だと聞いていたのだけれど。
「ああ。午後の授業は以前、他の科と交換していてね。ついでに生徒に頼まれものをしていたのを思い出して、一旦取りに戻ったんだ」
そう言って、伯父さまは手に持った一冊の古ぼけた本を私に見せた。その厚さは私の指の第二関節分くらいある。
「『回帰王の復活』?」
古びた深緑の表紙を飾る剥がれかけた金縁の文字のタイトルは、隣国ストランテ共和国のストランテ語で書かれていた。
そのタイトルは、同じ名前でこの国でも出版されている。内容は騎士道物語で、子供向けにアレンジされた童話もいくつか出されているほど有名だ。
ストランテ語は僅かに知ってはいるけれど、辞書を片手に持たないと読破に難しいレベルだ。隣国だから文法に共通する部分もいくつかあるはずなのだけれど。今度、伯母さまに言って辞書と一緒に貸してもらおうかしら。
「共和国から来ている留学生にお貸しするのですか?」
アカデミーでは、隣国の共和国や大公国から留学生を受け入れて、三方の文化交流を図っているそうだ。
私の問いに伯父さまは「いいや」と首を横に振る。
「今度アカデミーの学園祭で三年生がこれを基に舞台をするみたいでね。
脚本担当の生徒がうちのゼミによく来てくれる子で、参考のために原版を探していたんだけど、学院の図書館の蔵書は貸し出されていたらしくて。
ちょうど前にマリーが読んでいたのを思い出したから、マリーに訊いて『貸してもいい』って許可をもらって取りに来たわけなんだ」
「なるほど」
かなり熱心な生徒さんらしい。
「それで図書室に来たら、ニカちゃんがすやすや寝ていた、というわけさ」
「あはは……」
ふと私の肩には、伯父さまが着ているスーツの上着が掛けられていたことに気付く。
「上着、ありがとうございます」
「どういたしまして。そうそう、ニカちゃん。このあと、時間空いてるかな?」
にこっと笑みを浮かべる伯父さまの問いに、私は首を傾げながら答える。
「ええ、空いていますけど……」
「君に見せたいものがあるんだ」
伯父さまに手を引かれ、立ち上がって見た窓の外からは、空の隙間から一筋の光が大地に差し込んでいた。
来週からは金曜日更新に戻します。
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それでは、また次回。




