ようこそ、ここはカワセミ村だよ
のどかな農村には清流のせせらぎだけが響き渡る。
雪に押し留められられていた水は春を待ちわびて我先にと水流を作り、川下へと流れ込んでいく。
息を吐けば白い吐息が零れる。山間に囲まれた村は太陽が顔を出すのものんびりしくさり、もうしばらく陽の光を拝めないと諦める。
幸いにも脂肪の付きやすい、小太りな肉で安心した。肥えていなければ山風にすら耐えられないもやしになっていたところだと農作業用の衣服に覆われた恰幅の良い腹を撫でた。
軽い運動がてら、男は腕を伸ばしてみると、ごきごきと小気味いい音が聞こえる。人によっては耳障りかもしれないが、昔からこの音を耳にし続けたものだからついつい慣れてしまった。
靭帯がどうだの、体に悪いだの良くない事だと小言をご近所さんから言われたりもしたが、もう生活習慣として慣れ切ってしまったものは変えようがない。
黎明はとうに過ぎ、青白い空が冷えきった風を運ぶと共に、この地では嗅ぎ慣れない土の香りを感じ取ったのでその方向を向く。
剣に杖、甲冑に法衣。物々しい武装をしているものの、どれも腰に下げたりしていることから敵意はない。忍び寄ろうとする仕草も足音も至って普通で、特に甲冑姿の青年らしき人物のそれは、しっかりとした足取りでこちらに向かってくる。
術師らしき娘に至っては魔法の触媒にするはずの杖をまこと棒きれのように地面を付いて歩いていることからひどく疲弊していることが窺える。介助しているのが剣を持った若い戦士であることから、野党の類でもないだろう。
見るからに冒険者の一党らしい三人だと確信した直後、一党は目的地を此処と定めて全員が歩いてきた。
すかさず、男は彼らが訪ねようとする間髪に口を開いた。
「ようこそ、ここはカワセミ村だよ!」
◇
「へぇ、冒険者の一党で。ははぁ、この先の山を越えた都に行きたいと。それで宿を探している」
冒険者たちはこの村――カワセミ村よりさらに北上した地にある都を目指しているとめいめいが口にして首肯した。
ここより西にある地から山を越え、数日かけて歩き通したらしい。しかし度重なる野宿生活で疲れがみて取れる。
軍人だろうが商人だろうが、休息をとらなければ足が棒になるというものだ。なので彼らは丁度この村が中継地点になると踏んで、ここで休息をとる予定でいたらしい。
「まだ寒い季節だから宿には人もいないし、そっちで話付ければすぐ空いてる部屋を用意してくれますよ」
その実、数日間は畑の様子を見にこの周囲を見回っているが、来訪者らしい人が来たという話も村では出回っていない。
多少の食糧事情を改善する程度しか蓄えのない村だから大抵は無視して通るし、騎士団だなんだと物々しい連中が行軍や補給のために立ち寄るということもない。
とはいえ宿や店など冒険者にとって必要な設備は存在するので、遠くから遠征している冒険者の中継地点としてこの村は成り立っている。
「でもまだ明け方で流石に宿は閉まってるから、適当に物見して明るくなった時間に行くと良い。女将が宿の前で掃除してたら対応してくれるはずですぜ」
甲冑の男が礼を伝え、軽く頭を下げるとそれに続いて他の一党も各々が会釈しながら横を通り過ぎていく。術師は今にも死にそうなほど青ざめていたが、山越えしてきた直後ならばあの様相も納得は出来るが、体の弱い人物なのかもしれない。
ふと空をみあげると、転び出るようにして現れた太陽が、雪と緑に覆われた山々を照らし始めるところだった。氷結した雪は夜風に吹かれて凍り付き、太陽の光を浴びてさんさんと煌いている。
太陽の光をその全身で浴びようと大きく伸びをしたところで肩の力を抜く。完全に陽が高くなる前に、日課の農作業を始めることにした。
◇
土いじりをして疲れた腕に、井戸の水は肉体により重みをかけてくる。
加えて言うなら汚れた手袋を洗う水はひどく冷たかった。
刺すような痛みすら感じるほどに冷え冷えとしているが、氷水になっていないだけまだマシかもしれないと男は笑う。
気づけばすっかりと太陽が昇ってしまったが、未だ冬の寒さが残る村に活気はない。数十ばかしいる子供も冬はベッドでぬくぬくしたいだろうし、もとより外に出て家事手伝いを意欲的に行うことはないだろうと思う。
適当に考え事をしながら洗い物をすればこの冷たい感触も忘れられそうになると詮無い考えをとつとつと巡らせていると、それなりに綺麗になった手袋と手を叩いて、陽の高い内に家のランタンに火をつけ、手袋を傍においてやる。明日の朝の作業に支障が出ると困るから、行動するときは早め早めの方が良い。
朝の日課を終えて、荷物を入れる籠を持って再び外へ。
あの冒険者たちは無事に宿に在り付けただろうか。この時間帯ならそろそろ宿も空いているだろうが。
男は足先を村の中心地へと向ける。男と最初に出会った場所からはものの十分ほどで辿りつく程度の敷地しかないが、同じような建物が立ち並ぶ民家だらけだ。バザーなどの店構えは一目で把握できるものの、宿も民家と相違ない程度には小さい。
しかしそんな考えは杞憂だったようで、男が外で掃除をしている女将の元へと向かうと、今さっき宿に入って術師は休み、男達はバザーを見に行くと出て行ったそうだ。
「へぇ、旦那方。無事に宿に着いたようで何より。宿の目印はあるんですがいかんせん小さいモンで。ちゃんと伝えておけば良かった」
バザー……つまるところ村が運営する市場なのだが、元々人数の少ない村人ではその数もたかが知れている。村の中心から十字路にほうほうへと伸びた簡易テントでは武器屋や防具屋、万屋基本的なものは取り揃えているものの、武器は狩り用のものばかりだし、防具も同じ。強いて言えば万屋が薬草だのを買うのに最適ということくらいしか自慢にならない。
武器屋と防具屋に関しては、武具を制作する鉄板を利用した屋台を共同で運営しているのだが、こちらの方が総合的な売り上げは良いという本職としては御飯食いっぱぐれそうな実情もあるのだが。
子供に武器の使い方を教えるために一定層から新品を買う者らもいるから、かろうじて無駄な運営にはなっていないという。
「ここの武器・防具屋は飯屋にもなってましてね。昼頃はいつもここで食うんですが、旦那方とお連れの方もここで食っていくと良い。ここの野菜と焼き飯は特に絶品なんで」
戦士たちは少し迷うそぶりを見せた後、ここで食事をするかと即決してくれた。
この村はそこそこの規模はあるが、裕福とは言い難い。
少しでも路銀をここで落としてくれるなら、この村もやっていける。行商の稼ぎと農作物の輸送だけでは賄いきれない分も、こうしていればいずれ村の発展の為になる。
特段、武器・防具屋の旦那共と特別仲が良いわけではないが、時たま酒場で一緒に酒を飲む程度には良好な関係だ。
何より飯屋が繁盛しなくて畳むとなったら、上手い飯の食い処も少なくなってしまう。
「道具屋は隣のテントにありますぜ。あの雪山を越えるとなると火薬も必要でしょうし、足りなければそっちで補給できる」
軽快に捲し立てるような声に、戦士は懐疑的――というよりも単純な興味を抱いたらしい。何か益があるわけでもないのに、と。
「外から来た人を案内するのが好きなだけでさ。いの一番にようこそ! って言ってやるのが生き甲斐なのさ」
戦士と甲冑は相槌を打つ。甲冑越しで表情が分からないが、少なくとも戦士は男に対して嫌悪感や邪魔臭そうな表情は浮かべてこない。
「こういう村って閉塞的な空気があるって偏見があるんでさ。なら笑顔で出迎えてやればその内いいことがあるんじゃないかって思ったんだが――まあ元から人なんて立ち寄らなんだが」
こうして立ち寄る者と言えば、野菜を買っていく商人か、迷った人間か、遠くの町を目指して旅をする彼らのような一党だけだ。
騎士の行軍も来なければ盗賊の襲撃すらない、冒険者以外からは補給地点として定められることもないこの場所は、それだけなら閉鎖的にもなるだろう。
それだけはいけない、と男は力説する。
「一歩村の手前から歓迎すりゃ、良い顔して中に入って貰える。……っていうのずっーと続けてたら、俺につけられた綽名が『村人A』だってよ。笑っちまうが誇りに思うさ」
村人A、いいじゃないかと。それだけ功績が称えられて『名無し』に近いエキストラ名を確立したとて、村人Aとして活動した功績は本物なのだ。
信念と継続さえできれば、たかが農村の人間も舞台の上に上がるエキストラ『村人A』になれる。
「……あ、いやすまない。こんなトコで長話してしまって。お連れさん方のお嬢さんの調子が良くなったら飯を食いに来てくだせえ。それじゃあ俺はこれで」
戦士達から逃げるようにして、肩を窄めてそそくさ立ち去る。元々バザーで今日の買い物をするだけだったのにすっかり話し込んでしまった。身の上話までぺら回しては、ただの村人A失格ではなかろうか。
冒険者の人生に介入できるほどえらい立場ではないというのに。男は恥ずかしさを紛らわすようにして、身を縮こまらせながら今日の買い物を急いで済ませた。
◇
翌朝、冒険者達は明け方に北の方へと向かって行ったと女将から連絡が来た。懸念していた術師も軽快な足取りで立ち去って行ったという。いつまで持つか分からないが、若さは良いなと愚痴を零していた。
乾いたものの、夜の空気を浴びてすっかり冷たくなっていた手袋を軽く叩いて、凍える感触に身を震わせながら身に着ける。しばらくすれば指先からの熱や土で暖まるだろう。
昨日よりも太陽の輝きは幾分か存在する程度には明るい時間帯。白みを帯びた太陽の輝きは眩しく照り付けるが、依然として光は弱い。葉物はそろそろ収穫しておこう。まとめて煮込んでスープにしたら格別に違いない。
畑から這い出ながら村の外を見ると、複数人程の人影が見えた。珍しいことにまた冒険者らしい。
男は――村人Aは軍手を丸めながら彼らが自分の姿を認識できる頃に、大きな声でいつものように挨拶をした。
「ようこそ、ここはカワセミ村だよ!」