私が新しい恋にあと一歩踏み出せない言い訳
「白石さん、この販促資料、出来れば明日の午後までにお願いします」
そう言って、その若い営業社員は私のデスクの未処理トレーの中に、彼が作成した資料案を置いた。
「了解しました。今手持ちで急ぎのものはないので、今日中にお渡し出来ると思います」
そう答えると、彼は一瞬笑顔のまま動きを止め、そして一呼吸置いて「お願いします」と頷いた。
特に溜まった業務もなく割とすっきり片付いている私のデスクをちら、と確認するように彼は眺めた後、心なしかしょんぼりした様子で自分のデスクに戻って行った。
彼の名前は廣澤 哲也、25歳の我が社の営業第一課営業社員である。持ち前の万人受けする爽やかな見た目に、前向きで細やかな気配りの出来る彼のキャラクターは、社内はもちろん取引先にも広く受け入れられていて、彼の営業成績は毎年堅実に伸びている、まさに若手ホープといった位置付けの人物である。
そんな彼に先日、思いがけない愛の告白を受けてから早、3週間。
私こと、勤続8年目の営業第一課営業事務社員、白石 由香は、今だにその返事を保留にしたまま、自分の気持ちにも白黒をつけられずにいた。
はっきりと気持ちを告げてくれた彼に、きちんと返事を返さなければ、という思いはずっとあるのだ。大人としても、無視し続けるのはとても失礼なことだと。しかし、考えれば考えるほど彼がどうして私にそんな気持ちを抱いてくれたのか、そしてそれがどれくらい真剣なのか、私自身がそれを受け入れる覚悟があるのか、分からなくなってしまうのだ。
彼のことは新入社員としてこの地方支社に配属されて来た当時から知っているが、つい数ヶ月前までは特に親しい間柄でもなくただの同僚でしかなかった。私よりも10個近くも若い彼は私にとってただの後輩でしかなく、手のかからない優秀な営業社員という以外は特別な印象は持っていなかった。当然、彼のプライベートにも何の関心も無かった。
それがある日の飲み会の帰りに、お互いの自宅が隣駅にある近所だと言うことが分かり、その日彼が自分の最寄り駅よりも一つ前の私の利用する駅で降りて、私を自宅近くのコンビニまで送ってくれたことがそもそものきっかけだった。それ以降も何故か私が残業をする度に、同じように家の近くまで送ってくれる彼と、いつしかしょっちゅう晩御飯を食べて帰る仲にもなっていったのである。
その過程で私が彼のことをただの会社の後輩から、知り合いの中で一番親しい異性として意識し始めたのはごくごく最近のことだ。しかし彼の話によると、彼が私を恋愛対象として見てくれていたのはそれよりもずっと前からであったらしい。聞けば帰る方向が一緒になったのも彼がわざわざ私の近所に引っ越して来たからだそうで、つまり少なくとも彼が引っ越しをした半年前には彼は私のことを好きになっていたことになる。
……心当たりが無さすぎる。
私はただの少し疲れ気味の34歳で、今話題の美魔女でもなければ恋愛ドラマに出て来る女優さんのような見た目でもない、ごくごく普通の三十路女であった。しかも、前の恋愛からは軽く9年のブランクがあり、結婚も出産も早々に諦めてぬるま湯のような安定のお一人様暮らしに幸せを見出して久しかった。
彼の告白は、そんな私の平穏な日常に風穴を明けるものだった。
―――この波、乗っとくべき?
「最近ヒマですねー」
私の隣で、今年の新入社員で私と同じ営業事務職の畑山 真美が呟いた。いつも明るい色のカーディガンと、ふわりとしたフレアスカートを着て、ネイルもヘアメイクもばっちりの我が営業第一課の花である。
「そうねー、営業さんからの資料や見積もり作成依頼も業務時間内で出来るくらいの量しか来ないし、書庫のファイル整理もやっちゃたしねー」
畑山さんに返事をしながら私もうーん、と両手を伸ばし伸びをした。
四半期決算を乗り切ったあとのこの時期は一番業務が少なく、いつもこのタイミングを見計らって伝票類を仕舞っている書庫の整理や棚卸をするのだが、今年は畑山さんが入って来たこともあり例年にない速さでそれも終えてしまい、日中やることが電話応対くらいになるほど暇であった。当然、残業も今月に入って一回もしていない。
私が廣澤さんへの返事が出来ずじまいでいるのもこれが原因、と言いたいところだが、むしろ私は残業が無く彼と一緒に帰る機会がないおかげで、まだ返事を保留にする時間稼ぎをしているとも言える。もちろん、営業社員もこの時期はほとんど残業はしていないが、得意先訪問もあれば営業課員同士のミーティングがあったりもするので、彼らはやっぱり定時で帰るのは難しいのだ。
「白石さん、これも頼むよ。今日中、3時まででお願いします」
またもや、バサッと私の未処理トレーに別の資料案が置かれた。
「松田係長、またですか、今1時ですよ」
私の机に書類を回して来た別の営業社員に私ははっきりと眉根を寄せた。
「悪い悪い、先方さんから急ぎで欲しいって言われて。今日中に持って行くから、俺が出る3時までに頂戴」
謝っている割に全く悪びれた様子のないその営業社員を、私は軽く睨み付けた。
彼は松田 智樹32歳、我が社のトップクラスの営業成績を誇り、すでに役職もついているこの支社内でも出世頭の社員だ。しかも、人気俳優に似ていると自他ともに認めるイケメンであり、自信があるのか少々強引で態度の大きな人物でもあった。悪い人ではないのだが、相手の都合より自分の都合を押し通す彼が、正直言って私は苦手だ。
しかし彼は廣澤さんが新入社員だった時に教育係を務めたこともあり、廣澤さんとはとても仲が良い。しかも役職についてからは、営業社員が新規開拓をした時の大事な商談に課長の代わりに同行することもあり、なんだかんだ言って面倒見のいい人でもあるので、営業社員には慕われている人でもある。
対して、私は年上とは言え中途入社なので彼よりも後輩であり、平社員の事務職の立場では彼の依頼に否を言えるはずもない。
私は一つはぁ、と小さくため息を吐いて、その書類を手に取った。
「……分かりました、3時までに仕上げます」
「白石さん、俺のは後回しでいいですよ。明日の午前中に貰えれば間に合うんで」
私の様子を窺っていたのか、少し離れた自分の席に座って自分も事務処理をしていた廣澤さんが私に声を掛けて来た。その手には、ミルクキャラメルの箱があった。好きなのか、彼は自分の席でよくキャラメルを食べている。今も口をもぐもぐさせながら、白石さんも糖分補給します?とでも言うかのように箱を私の席の方に伸ばして来た。うう、なんか自分の中の眠っている本能を刺激されるようで、困る。
私はそのキャラメルを断る意味でも、片手を挙げた。
「ありがとう、廣澤さん。でも、大丈夫、廣澤さんのも今日の終業までには終わらせられます」
私が終業までに、と強調すると、またもや廣澤さんが肩を落とした。……やっぱり私が残業するのを期待していたんだろうか。
正直言って、よしんば彼と一緒に帰りたかったとしても私は不必要な残業をするつもりはない。業務を効率よくやるのも、無駄な残業代を会社に払わせないのも社会人としてのマナーだと考えているし、実際に時間外労働が多い程ボーナスの査定にも響くのである。
「おい、廣澤、今度の木曜定時で上がれるように訪問先のアポ時間調整しとけよ」
「はい?」
その時、私のデスクの側から離れた松田係長が廣澤さんに話しかける声が聞こえて来た。
この会社では、慣例として男性社員でも『君』付けでは呼ばず、上司や先輩であっても『さん』付けで呼ぶのが暗黙のルールなのだが、この松田係長に限っては自分が気に入っている後輩営業社員のことを呼び捨てにする癖があった。何度か課長には注意されているのだが、親しさの表れでもあり後輩社員らが受け入れていること、また松田係長がこの支社の稼ぎ頭でもあることから半ば放置されている。
「今度の木曜、何かありましたっけ?」
松田係長に急に話しかけられ、廣澤さんは怪訝な表情をした。
「俺の連れが合コンセッティングしてくれてるから、お前と柳も参加メンバーな」
「はぁ!?聞いてませんよ!!」
「今初めて言ったんだよ。でもお前も彼女と別れて1年以上経つだろ?今度の相手はすごいぞーなんたってローカルの……」
社内で堂々と、しかも業務時間中に合コンの話など持ち出して来た松田係長は、私と畑山さんの白い目に気付いたのか急に声のトーンを落とした。
「ま、まぁ後で相手については教えてやるから、とにかく予定空けておけよ」
「そんな、急に困りますよ、俺今合コンとかいいですって!」
「うるせー、もう連れて行く人数、幹事のやつに言っちまってるし、そこそこ若くて顔が良いやつ連れて行かないと俺の交友関係のレベル疑われるんだよ」
サ、サイテーだ……。
私と畑山さんは思わず横目に頷き合った。
そう、松田係長のもう一つ困ったところは、32歳にもなって未だに大学生のように派手で自由な交友関係を繰り返していることである。合コンもしょっちゅう行っているようだし、特定の彼女が出来ても数ヶ月で相手が入れ替わっている。かくいう私や畑山さんも入社当初一度は声を掛けられている。畑山さんは長く続いている彼氏と安定の付き合いをしているようだし、その魔の手にはかからなかった。私に至っては入社したばかりの8年前は酷い大失恋のあとで、誰とも恋愛をする気にはなれず、非常に不愉快な思いをしたことをよく覚えている。そう言ったことからも私はこの松田係長が苦手なのだけれど。
一方的に廣澤さんに合コンへの参加を強制した松田係長は、そのまま煙草を吸いに外に出てしまった。
残された廣澤さんが私に困ったように視線を向けて来た。
「廣澤さん、大変ですねー。でも、案外いい出会いがあるかもしれませんよ!」
「え、ええー……はは……」
廣澤さんの視線を、女性社員の目を気にして困っているのだと認識した畑山さんが、励ますようにファイト、といった様子で拳を廣澤さんに向ける。すると廣澤さんはさらに困惑の表情を浮かべていた。
「畑山さん、私ちょっと前の資料の控えを確認しに、書庫行ってくるね」
私は廣澤さんからの視線に耐え切れず、一度席を外すことにした。廊下を通ってこの階の外れにある書庫のドアのドアノブに手を掛けようとした時、背後に少し急いだような足音が聞こえて来た。
「白石さん!」
「廣澤さん……何ですか?」
ドアの前で声を掛けられて、私は仕方なく振り返った。そこには、今も困り顔の廣澤青年がいた。
「あの……さっきの話なんですけど、数合わせで仕方なくですから」
「……ええと、はい」
「あ……でも、もし白石さんが嫌だったら、俺ちゃんと断わります。俺、今合コンとか興味ないんで」
「……廣澤さん、私、何も言ってませんよ?そもそもどうこう言える立場でもないし、松田係長との関係もあるでしょうし、廣澤さんが行きたいかどうかで決めたらいいと思います」
あ、ちょっと嫌な言い方になっちゃっただろうか。
私がビジネスライクな返答をすると、さっきのとは比べ物にならないくらい廣澤さんはガッカリとした表情をした。
「……そうですか。……そうですよね、すみません、業務中に」
「……あ」
そう言って、私が自分の冷たい発言をフォローする暇もなく、廣澤さんは踵を返しまた事務所内に戻って行った。
ああ、誤解させてしまった。
私が言いたかったのは、未だに返事保留をしている私が行かないで、なんて言える立場にないという意味だったのだけど、彼は私が仕事中にプライベートの話をすることを苦手としているのを知っているので、それで突き放されたと受け止めてしまったのだろう。確かに私に告白をして来たくせに合コンに行かれるのは少しモヤモヤする。でもあの状況で廣澤さんが断わるのは難しいというのは分かっているし、もし合コンで彼に素敵な出会いがあったとして、それはそれで仕方のないことだと思うのだ。彼はまだまだ遊びたい盛りの25歳の男の子だし。
実際今回私は、彼が職場でプライベートの話題を持ち出して来たことに腹を立てている訳ではなかった。むしろ告白をしてくれた時、私の返事を気長に待つ、と言ってくれた通り3週間も保留にしているのに急かすことも無く、仕事中はあくまで今までと同じように職場の先輩後輩として接してくれている彼に申し訳なく思ってさえいた。
もし私と彼の歳の差がこれほどまで離れていなかったら、私は彼の告白にこんなにうだうだと悩んだりせず、もっと早く、もっと気軽に彼の想いに答えを出せていたのかな、と私は人知れずまた一つため息を吐いた。
たしか、松田係長は合コンの日程を次の木曜日って言っていたっけ。
「木曜日……って明後日か。って、私と絵里子が会う日だ」
私は地元でないこの地域で、唯一プライベートで会う女友達との約束を思い出した。
絵里子は、私が29歳の時に一時的に婚活をしていた頃に、ある婚活パーティで知り合った同年代の友達だ。私は婚活という人為的に恋愛をお膳立てするシステムが合わず、すぐに活動を辞めてさっさとお一人様人生にシフトしてしまったのだけれど、結婚願望が強かった絵里子は私が戦線離脱したあとも根気強く活動を続け、去年見事素敵な今の彼氏と出逢い、先日念願の婚約を果たしたのだった。
現在、自分も会社員として働きつつ結婚に向けて準備に追われている彼女と会うのは、前回彼女の婚約を祝った日以来の3ヶ月ぶりだった。
「……で?突然長文のメッセージなんて送って来て、一体何があったのよ?」
繁華街の一角にあるお洒落な創作イタリアンのレストランで、二人分のグラスの白ワインが運ばれたと同時に、絵里子は切り出して来た。
「……話せば長くなるのですが」
「最初から詳しく」
絵里子はテーブルに両肘をつき、やや前のめりになった。
実は絵里子には、廣澤さんからの告白を受けた翌日にラインメッセージで相談をしていたのだ。会社とプライベートを分けたいタイプの私は、恋愛相談を出来るような身近な友人が彼女くらいしかおらず、告白を受けた時の大混乱のテンションのまま送ったメッセージを見て彼女は会って話が直接聞きたいと言って来て、二人ともスケジュールが合わず結局3週間も経ってしまった。
私は絵里子に、例の飲み会の日から起こった出来事を順を追って説明した。
「……うわー……すごい、ドラマみたいなことってあるんだね。10個も下の男の子に告られるなんて、由香やるじゃん」
絵里子はガーリックトーストを手でちぎりながら、興奮した様子で言った。既に2杯目のグラスを空けている彼女の頬は赤くなっている。
「ドラマみたいって、現実はそんなに簡単じゃないよー!もう、本当にどうしていいか分からないんだから!!」
私はフォークとナイフを持った両手でテーブルをバン、と叩いた。白ワインから赤に切り替えた私も顔が赤くなって来ているだろう。
「えー、何が問題なの?その子、見た目がナシとか?性格に難ありとか?」
「正直タイプだったわけじゃないけど、一般的にカッコいいと思う。性格も、気が利くいい子だよ」
「じゃあなんで3週間も返事してないの?」
「だって10個も離れてるんだよ!?」
「えー……でも、今時歳の差婚とか、珍しくないじゃん。ほら、この前も40代の女優さんが若手俳優と結婚してたし」
「いや、私は女優さんみたいに綺麗な訳じゃないし、ただの三十路女だし!」
お酒が入るにつれ、私達の声もヒートアップしていく。
「……それに、それにさ、私前の恋から9年もブランクがあるんだよ。付き合うってなると当然セックスとかも入って来る訳じゃん、もう肌のハリだって衰えて来てるし、いざそういうことになって、本当に廣澤さんが私の体で興奮するのかな、とか」
「そこ!?」
「私には大問題だよ!そもそも三十路のすっぴんを20代の男の子に見られることすら恐怖なのに!!」
「あー……それは、少し分かる気がする」
「最初は興味本位で言ってくれてるのかもしれないけど、付き合ってからやっぱり私がおばさんだってことを認識して、すみません思ってたのと違いました、なんて言われたら私立ち直れないよ!!」
「そもそもなんで廣澤青年は由香をいいと思ったんだろうね?」
「それなのよ!!」
私は再びテーブルをドン、と叩いた。そして視線をテーブルにある、まだ半分以上ローストビーフの残るプレートに落とした。
「……廣澤さんが前ね、私の服装とか、振る舞いが落ち着いているのをいいと思うって言ってくれたことがあるの。……でもそれは、赤の他人で先輩後輩の距離感だったから外面を取り繕っていられただけで、恋愛が絡むと私、全然平常心でいられないよ。前の恋愛の話、絵里子には話したことあるでしょ?」
「ああー……由香と元カノを二股かけてて、しかも由香に隠れて出来婚していたっていうサイテーな元カレの話でしょ」
「そう、その彼と付き合っていた時は私、いつも嫉妬したり感情的になってすぐ泣いたり怒ったりしてたし、別れた時なんて鬱で会社を休んだり生理が来なくなったりもあったんだよ」
「まぁ、元カレは正直良い奴じゃなかったと思うし、恋愛で不安定になるのは誰でも大なり小なりあるんじゃない?私だって彼と喧嘩はよくするし、結婚準備でも揉めるしね。由香だって、結婚願望がない訳じゃないんでしょ?」
私は絵里子を少し恨めし気に見つめた。
「10個も下の男の子と付き合って、結婚に繋がると思う?」
「でも結婚を考えられないような無責任な男だと思わないで下さい、って言ってくれたんでしょ?」
「結婚前提で付き合って下さい、とは言われてない……。それに、もし仮に結婚前提で付き合っても、本当に結婚できるほど相性が良いかも分からないし……それで駄目だったら、同じ職場でどうやって過ごして行けばいいの?そもそも、私の結婚したいタイミングと彼の結婚したいタイミングが合うと思う?子供のタイミングだって、もう来年には高齢出産って呼ばれる年齢だよ私……今までもう自分には可能性ないって思って気持ちを切り替えて今の生活を楽しむようにして来たのに、今更また恋愛して結婚するかもって可能性に一喜一憂すること考えたら、怖くて堪らないよ」
「あー……現実的に考えたら、確かにそうだよね。私みたいに同世代の相手なら、お互いに色々諦めて来たものもあるし妥協し合えるけど、相手がまだまだ可能性に溢れてる20代だと、こっちのタイミングに結婚も出産も合わせてよ!って言いにくいしね」
「……そうだよ、それならいっそ、こんな若い子に好きだって言われたことあるんだ、って良い思い出のまま保存して天国に持って行くお土産にした方がいい気がして」
「それはまだ気が早いって!」
絵里子はデザートメニューを開きながら、呆れながら言った。
「まぁ、でも由香は色々難しく考えすぎだと思うよ?その廣澤さんがさ、どれくらいの真剣さで由香に告白してくれたのかは知らないけど、大事なのは由香が廣澤さんを好きかどうかに尽きると思うな。だって由香が結局断っても廣澤さんとは同じ職場な訳でしょ?そしたらいつか彼に別の恋人が出来て、その恋人と結婚をして子供が生まれるかもしれないじゃん。その時に由香があの時断らなければ良かったって、感じたら私も辛いよ。恋愛なんてさ、どんな相手とでも、どんな終わり方でも綺麗なだけじゃないよ。それよりも自分が納得行くまで相手と向き合えたかの方が大事じゃない?」
「絵里子……」
絵里子の言葉を聞きながら、私は将来廣澤さんが別の若くて可愛い女性と幸せな結婚を発表する場面を想像してみた。すると、胸がちりちりして何だか泣きたい気持ちになった。
だってそれは、私が彼の手を取らないまま同じ職場で働き続けていれば、いつか必ずやってくる未来だと思ったからだ。
その時、テーブルの端に置いていた私のスマートフォンが振動し、ディスプレイが点灯した。そこに映ったラインメッセージの差出人に廣澤の文字。
『白石さん、今はもう家にいますか?』
そのメッセージを見て、私は動揺した。確か今日は松田係長主導の合コンに参加していたはずだ。私が会社を出るよりも早く、松田係長に急かされながら退社して行く廣澤さんを見た。その時にまた、何かを言いたそうな視線を向けられて、困惑したのも覚えている。
また続けてスマートフォンが鳴った。
『もし良かったら、少し会いたいんですけど』
『白石さんの家の近くまで行くので』
『10分だけとかでもいいです』
私は同じくディスプレイに映し出された時刻を見た。21:26。いつもならとっくにお風呂に入って、メイクも落としている時間だ。女子大生じゃあるまいし、こんな時間に突然会いたいなんて言われても、三十路女が二つ返事で会いに行けるとでも思っているのだろうか?まぁ、今日はたまたま外に出ているから、メイクも落としてないけど。でも今は絵里子に会ってるんだし。
「どうしたの?携帯何回も鳴ってるね」
「あ、お、お母さんみたい。あとで家に帰って電話する」
私はとっさに誤魔化した。絵里子は不思議そうな顔で、私を見ている。またスマートフォンが鳴った。
『外に出るのが難しければ、電話だけでもいいです』
その文字を見て、私は堪らずスマートフォンを自分のバッグに戻そうと手に取った。しかし、バッグに戻す前に、そのスマートフォンは長時間振動しだした。電話のコールをされているのだ。
「……別に出てもいいよ?」
「い、いい、いい!大丈夫!」
私が慌てた様子で手を振ると、絵里子がさっと私の手から今も振動しているスマートフォンを奪い取った。
「……廣澤氏からじゃん」
「ちょ、返して!」
私は赤面して、絵里子からスマートフォンを取り返そうと手を伸ばした。
「……『やっぱり、直接会いたいです』だって。……残念、デザート食べたかったけど、私に気にせず行って来たら?」
「え、そ、そんな、デザート食べようよ!」
私がやっとのことでスマートフォンを取り返し、気を取り直すようにデザートメニューを開き直した時、絵里子はそのメニューを遮るように片手で押さえた。
「だって由香も会いたそうな顔してるよ?」
にっこりと笑った絵里子に私は何も言い返せなかった。
『大浜駅の近くのファミリーレストランで会いましょう』
私はメッセージを送ってすぐ、会計の半分を絵里子に託し創作イタリアンレストランを出て、駅に向かった。今日はやや高いヒールを履いていたから走るのには適さないのに、早歩きから結局小走りになってしまった。
レストランからの最寄り駅からすぐ来た電車に飛び乗り、大浜駅の南口から歩いて10分くらいの距離にあるこの近辺で一軒だけのファミリーレストランに向かう。廣澤さんが市内のどのあたりのお店で合コンに参加していたのか分からないが、私のメッセージを見てから店を出たのなら私が先に着くかな、などと考えていた。
暗い住宅街の一角に一つだけ明るく存在感を放つそのファミリーレストランの入り口に、意外にも廣澤さんは既に立って待っていた。
「白石さん!」
「廣澤さん、お待たせ」
私は自分の息が上がっていないことを確認しつつ、動悸がしないように平静を装ってゆっくりと近づいた。
「白石さん、来てくれてありがとうございます」
そう廣澤青年は少し呂律の回らない声で言うと、私が自分のところまで辿り着くのを待たず、私の方に歩いて来ておもむろに私の手をぐいっと引き寄せた。
「……ちょ、ちょっと、廣澤さん、急に何……!?」
急に抱きしめられ、私は驚いて彼の胸に両手をつき離れた。その瞬間、強めのアルコールが薫った。だいぶ廣澤さんは酔っているようだ。
「……すみません、来てもらって嬉しくて……。白石さん、会社を出る時と同じ服ですね……今まで、誰かと会ってたんですか?」
呂律が回っていない上に、トロンとした目で廣澤さんは私を上から下に眺めた。
「ちょっと女友達と会ってたの」
何故か言い訳をするような口調で私は返事を返した。後ろめたいことなんて、何もないのに。
「廣澤さん、すごい酔ってるでしょ。ちょっと中でコーヒーか、ソフトドリンクでも飲もう」
私が促すと、廣澤さんは「はい」と素直に頷いて店内に入って行った。
店内はもう10時近くということもあって、数組のカップルや、学生がちらほら見えるだけだった。私達は席についてすぐ、ドリンクバーだけ注文した。
「コーヒーにする?温かいお茶にする?」
私が聞くと、今にも眠ってしまいそうな表情で、テーブルに突っ伏した廣澤さんは「コーヒーのブラックお願いします」と呟いた。その子供のような仕草に、私は思わず笑ってしまいそうになる。
本当は、今日絵里子と晩御飯を食べている間もずっと廣澤さんのことが気になっていた。付き合いで参加すると言っていた合コンだけど、出会いの場には違いない。元々万人受けする見た目と性格の持ち主だ、私が告白の返事をするよりも前に、彼に新しい恋が芽生えていても何ら不思議でもない。だから、正直さっき連絡をもらった時、ホッとしたのも嬉しかったのも事実だ。
私はブラックコーヒーと、ジャスミンティーを持って、席に戻った。
「ありがとうございます。すみません、先輩に持ってこさせちゃって」
「いいのよ」
ブラックコーヒーを一口だけ飲んで、廣澤さんはソファ席に座る自分の背筋を少し伸ばした。
「……今日、例の合コンの日だったんでしょ?」
私は少し躊躇いつつも自分から切り出した。
「……はい、でも俺、途中で抜けて来て」
「大丈夫なの?松田係長に何か言われなかった?」
「……まだ早いだろって言われたんですけど、腹が痛くなったって誤魔化して出て来ちゃいました。……なんか、楽しくなくて」
今もどこか焦点があっていない目をコーヒーに向けつつ、小さな声で廣澤さんは呟いた。
「……相手の人達、美人は美人だったんですけど、なんか男をランク分けして見てるっぽくて、値踏みされてるみたいで正直気分が悪かったって言うか……」
「そ、そうなんだ……」
一体どんな相手と合コンしたんだろう、と気になったが追及はしなかった。
「話してても、なんか作ってるって言うか、全然自然なリアクションじゃないんですよ。すごいですねー、さすがですねーの棒読みの相槌で。全然、白石さんと話している時の方が楽しいし、落ち着きます」
そう言いながら、彼は私の手に自分の手を伸ばして来て、勝手にさすり始めた。酔っている時に人の手を触るのが癖なようだ。私は少し恥ずかしく思いつつも、好きなようにさせておいた。
「……白石さんは、友達とどんなこと話したんですか?」
「……内緒」
本人に言えるわけがない。
廣澤さんはぷくっと頬を膨らませて、「ずるい」と言った。こんな小さい子供のような物言いに、不覚にもキュンとなってしまった。ああ、今の仕草といい、キャラメルといいどうして彼はこんな風にピンポイントに、枯れかけていた私の母性本能に訴えかけて来るのだろう。
「……でも、いいです。会いに来てくれましたから。今日、白石さんちょっとお洒落しててその友達に妬けますけど、俺にも会いに来てくれましたから」
ここまでストレートに気持ちを伝えられると、もう返す言葉もない。私は赤面して、黙りこくってしまった。
これは、前の告白の返事をしないといけない空気……?
―――たぶん、間違いなく私は廣澤さんが好きだ。惹かれてしまっている。
それは今更変えようのない事実で、だからこんな時間に呼び出されてるのにもかかわらず、会いに来てしまっているのだ。
さっきからさすられている手も、恥ずかしいけど、生理的な嫌悪感なんてまるでない。
でも、勢いで好きだと返せるほど、私の覚悟はこの期に及んでも固まっていなかった。私は、例えこの先どんなに難しい状況に直面して傷ついても、後悔しないと言えるほど自分の彼への気持ちの強さに確信がなかったし、自分の精神的なタフさにも自信がなかった。
結局その後は、たわいもない会話を数十分話して私達はファミリーレストランを出た。いつも通り私の家の近くのコンビニまで廣澤さんは送ってくれる。その間、私達の手は繋がれたままだ。
「……明日が平日じゃなかったらなぁ……」
コンビニの前で、廣澤さんはぽつりと呟いた。
繋いだ手にさらに力を込められてじっと見つめられた時、改めて性的な意味も含めて好かれていることを意識し、私は動揺して言葉を失った。自分自身も奥の奥の部分で、彼のことを一人の女性として本能的に求めていると感じとったからだ。
「……まだ、返事は貰えないんですよね?」
「え……と、それは……」
どうする?これは、勢いに任せるべき?好きだと言う自分の気持ちに賭けてみる?でも、酔った勢いで関係を持つのは、私が引っかかっていることを曖昧にするだけで、何か違う気がする……。
頭の中をまたぐるぐるといろんな思いが駆け巡り、身動きが取れないまま私は何度も瞬きをした。
微妙な空気のまま、しばらく私達は沈黙していた。
しかし、しばらくして突然、パッと手が離された。
途端に、私の底の方から寂しさがうわっと込み上げて来た。
「……冗談です。今日、俺酔ってるし、白石さんも呑んでますよね?返事はしらふの時に聞きたいんで、今日は大人しく帰ります」
そう言うと、私から一歩距離を取った廣澤さんは「お疲れ様です」と頭を下げた。
私は離されて宙ぶらりんになったままの手を持て余しながら、同じように「お疲れ様です」と返した。
―――翌朝、いつもよりも早くに目を覚ました私は、唐突に決意した。今日、廣澤さんに告白の返事をしようと。そして、とことん彼と話してみようと。
不確かな未来のことを考えれば不安しかないけど、昨日確かに手を離したくないと思ったのは私の方だった。また、前の恋みたいにたくさん傷つくかもしれないし、たくさん泣くことになるかもしれない。でも、絵里子の言う通り、彼がいつか私とは全然違う誰かとの人生を選んだ時に、あの時彼の手を取っていれば隣にいたのは私だったのかな、なんて後悔だけは絶対にしたくないと思ったのだ。
いつも遅刻なんてしないのに、朝礼が始まるぎりぎり直前に出社して来た廣澤さんは、朝礼後慌ただしく外出の準備をしていた。朝礼時の一日の行動予定報告で取引先とのアポイントメントが3件午前中に固まっていると言っていた。そうなると、昼食も外で食べて来るだろうし業務時間中に私的な用事で話しかけるのは私の主義に反するから、少なくとも彼が仕事を終えるまで話をするタイミングはないな、と私は頭の中で計算する。
まぁ、今日の行動予定でも、定時ではなくてもそんなに遅い時間まで残業はしなさそうだし、私が仕事の後に会社近くのカフェとかで時間を潰しておけばいいか。後で休憩時間中にメッセージだけ入れておこう、私がそんな風に考えていた時、ふいに廣澤さんの席に近づいて行く松田係長の姿が目に留まった。
「廣澤ー、昨日は何なんだよ、途中で帰っちゃって」
「すみません、急に腹が痛くなっちゃって……」
朝礼が終わったばかりで、課長も含め支社の社員がほぼ揃っている空間で堂々と昨日の合コンの話を持ち掛けて来た松田係長に、周囲は冷たい視線を投げかけている。廣澤さんが急いで準備している様子は松田係長も分かるだろうに、何事も自分のペースを貫きたがる彼はお構いなしに話しかけ続ける。
「まぁ、いいけど。今日も定時で帰れるようにしておけよ、同じメンバーでボーリング行くからな」
「はっ!?何ですかそれ、聞いてませんよ!!」
「だから今言っただろ。もう昨日の内に予約も済ませてるから、絶対参加しろよ」
「ちょっ……また勝手に!!」
さすがに苛ついた様子で廣澤さんが松田係長に抗議しようとすると、松田係長はぐいっと廣澤さんの肩に自分の手を回して内緒話をするような姿勢をとった。
「……それにしても、昨日若菜ちゃんがお前のことやたら気にしてたぞー、お前今日彼女持ち帰れるかもな」
内緒話をしているはずなのに、松田係長の声は向かい斜めの席の私にまではっきりと聞こえて来た。
「いや俺今そういうのいいですって!昨日はただの数合わせでしょ!?」
「何だよ、お前あの宮崎若菜だぞ?こんなチャンス滅多にないって、行っとけって!」
「ああもう、俺今から取引先3件回らないといけないんで失礼します!」
「絶対、参加だからなー!」
無理矢理に松田係長の話をぶったぎって、廣澤さんは慌ただしく社用車のカギを取り、ホワイトボードに訪問先を書いて出て行った。そこにしつこく松田係長は念を押していた。
その様子を始業準備をしていた私と畑山さんは、あっけに取られながら見ていた。
「……白石さん、昨日松田係長達、誰と合コンしていたか知ってます?」
「……ううん?」
こそっと私に耳打ちして来た畑山さんに、私は首を小さく振った。
たしか、宮崎 若菜、って名前が聞こえたけれど、どこかで聞いたことのある名前だ。少なくとも社内や知っている取引先の人じゃなかったはずだけど……?
「FKTテレビの女子アナと地元モデルですって!」
「あ!宮崎若菜って、いつも日曜のローカルのワイドショーでリポーターやってる!」
たまに日曜に見るローカルテレビ局のワイドショーを思い出し、私は小さく叫んだ。畑山さんがそれを肯定するように頷く。
「なんか松田係長の友達の一人が、そのFKTと取引のある広告代理店に勤めてるらしくて、その伝手みたいですよ。でもこの前もキャビンアテンダントとの合コンしたばかりじゃないですか、松田係長ってほんと節操ないですよねー」
ちょっと不愉快そうに畑山さんは口を尖らせた。
「いくら見た目がカッコ良くても30過ぎてあんなちゃらちゃらした男の人、私は絶対嫌ですねー。私の彼氏は見た目はまぁまぁだけど、私一人を大事にしてくれるんで」
「はいはい、ご馳走様」
私はほっとくとすぐに彼氏自慢をしたがる後輩の女の子に、さっさと仕事に戻るように促した。
廣澤さんは心底嫌がっている様子だったけど、あの感じじゃ松田係長の誘いを断るなんて難しそうね……。仕方ない、また別のタイミングを見計らおう。
私はパソコン内の自社作業用アプリケーションを立ち上げながら、人知れずため息を吐いた。せっかく勇気を出す気でいたのに、出鼻を挫かれ、ガッカリしたのと少しホッとしたのがないまぜになった、複雑な心境だった。
―――定時で仕事を終え、真っ直ぐ家に着いた私は焼き魚とお味噌汁とご飯だけの簡単な夕食を食べながら、何とはなしにテレビを見ていた。ローカルの生活情報番組の間に流れた、地元結婚情報雑誌のコマーシャルに、ウェディングドレス姿で笑っている綺麗な女の子が目に飛び込んできて、私は動きを止めた。……たしか、昨日廣澤さん達が合コンをして、今日もボーリングに行っている女の子って、この子じゃないっけ?
そのコマーシャルの中の女の子は、ローカルのテレビ局のタレントとは思えないくらい目鼻立ちが整っていて、体つきも華奢で、それでいて出るとこは出ていると言う抜群の容姿だった。しかもどう見ても年齢は廣澤さんと同じくらいの25歳前後に見える。
「……うそでしょ」
私は思わず絶句した。
こんな可愛い子が、廣澤さん狙い?
いや、そりゃ廣澤さんはうちの会社でも爽やかで人気がある青年だけど、若手イケメン俳優というほどじゃないし、背だって180はなかったはず。それにうちの会社は地方の建築資材を卸す中小企業で、そんなに華やかな会社じゃない。規模の割にはお給料も労働環境も良いと思うけど。
松田係長の話じゃないけど、こんなにレベルの高い女の子と恋愛できる機会なんて、地方に住んでいてそうそうあるチャンスじゃないんじゃないだろうか。
私は突然不安になって、胸騒ぎがしだした。
芸能人の美女と、枯れ気味の三十路女、私が廣澤さんなら三十路女は選ばない。でも悲しいかな、その三十路女が自分なのだ。
どうしよう、こんな可愛い女の子に本当にアプローチされたら、元々はその気はなくても気持ちが傾いちゃうかもしれない。もし彼が心変わりをしたとして、3週間以上も彼の告白の返事を保留にしている上に、ただの会社の先輩という間柄でしかない私に何が言えると言うのだ。
昨日絵里子に示唆された未来が、思ったよりも早くやって来るかも、と考えると、私はいてもたってもいられなくなって来た。今はまだ、ご飯を食べているだけで、お風呂には入っていないし、メイクも落としていない。
部屋着にはなってるけど、服はすぐに着替えられる。
私はそこまで考えると、とっさに自分のスマートフォンを手に取った。
『ボーリングが終わった後でも構わないので、会えませんか?連絡待ってます』
一つだけラインでメッセージを送って、待ってみた。私からプライベートで初めて彼に送るメッセージだった。
5分経過。まだ既読にはならない。そうだよね、それはいくら何でも焦り過ぎだよね。
15分経過。まだ既読にはならない。結構ボーリング盛り上がってるのかな……。
1時間経過。そろそろ9時、まだボーリングやってるのかな。それとも別の店で今日も飲み会もしてるのかな。
2時間経過。今もメッセージは未読のままだ。昨日は今の時間くらいには、廣澤さんと会っていたのに。
―――時間が経つにつれ不安は増して行く。
どうして既読にならないんだろう、廣澤さんってそんなにスマートフォンチェックしない人なんだっけ?
自分でメッセージを送った手前、私はお風呂に入ることもメイクを落とすことも出来ないでいた。そしてさらに時間が経過して、とうとう0時を越えてしまった。
酷く落胆する気持ちを抑えられず、しかし一つのメッセージが既読にならないためにそれ以上何をすることも出来ず、結局諦めてお風呂に入りベッドに向かった。その時点でもメッセージは相変わらず未読状態だった。
浅い眠りを繰り返して、翌朝目覚めても、メッセージは未読状態だった。
もしかして、本当にあの女性タレントの子とどうにかなっちゃったのかな。
それとも、何か事故とかに巻き込まれてないよね?
よしんば心変わりをしたとしても、会社の先輩からのメッセージを丸無視なんてするだろうか。
それともいつまでも結論を出せない私に呆れて、既に気持ちが離れちゃったとか?
嫌な想像ばかりが駆け巡り、せっかくの休日なのに食事もろくに喉を通らなければ、大好きな撮りためているドラマを見ていても一つも集中出来なかった。
何度スマートフォンをチェックしても、状況に変化はなかった。
ただひたすら、速く時間が過ぎて月曜になって欲しいと思っていた。
―――長い長い週末を終え、ようやく月曜日になった時、廣澤さんは私の予想に反して拍子抜けするくらいいつも通りの時間に、いつもの爽やかな笑顔で出社して来た。
私にもいつも通りの挨拶をして来て、一瞬メッセージを間違えて別の人にでも送ってしまったのだろうかと自分のスマートフォンを再度確認したくらいだ。しかしやはり、送り先は廣澤さんで間違いなく、今も未読のまま。
……え?本当にどういうこと!?
私が困惑した表情で廣澤さんの方を見ていると、廣澤さんは私の視線には気付かず、後から出社して来た柳さんをみるなり一目散に駆け寄って行った。すると柳さんは廣澤さんの姿を見るなり呆れ顔をして、自分のジャケットの胸ポケットから一つのスマートフォンを取り出した。
……あ、あのケース、廣澤さんのじゃない?
「柳さん、すみません、俺のスマートフォン回収して来てもらって!」
「ひーろーさーわーさーん!わざわざお前のために休日なのにあのボーリング場に取りに行ってやったんだぞ。今度飯でもおごれよー」
「本当にすみません、はい!いつでも!」
私はその様子をあっけに取られながら見つめていた。
「……スマートフォンを失くしていたの?」
「あ……それが、金曜に松田係長に連れて行かれたボーリング場でいつの間にか落としちゃってたみたいで、でも俺その日中にどうしても実家に帰らないと行けない用事があって、先に抜けた後に気付いたんですよね。営業用携帯で柳さんに連絡とったら柳さん達もボーリング場出た後で。その上、土曜日曜に県内にいなかったので、柳さんにボーリング場に取りに行ってもらったんです」
恥ずかしそうに経緯を話す廣澤さんに、私は安心して力が抜けて行った。
なんだ……じゃあ、無視されていた訳じゃなかったんだ。
「あーやっぱりバッテリー切れてる。充電しなきゃなぁ……」
そうぶつぶつ言いながら営業カバンから自宅から持って来たらしいスマートフォンのチャージャーを取り出して、充電を始めた。
その様子を見て、今更私はもの凄く恥ずかしくなって来た。スマートフォンの充電が出来たら、この社内でメッセージチェックをされるということだ。
今ここに自分がいるのに、金曜に不安な気持ちで送ったメッセージがここで開かれるかと思うと、気が気でなかった。背中に変な汗まで噴き出して来た。
私は書庫に行く振りをして、こっそりと事務所を出た。その出る直前に「うわっ!!」という廣澤さんの大声が事務所内に響いた。私はさらに急かされるように廊下に出て、足早に書庫に向かった。
それから数分も経たない内に、事務所の方から慌ただしい足音が聞こえて来た。こそっと自分のスマートフォンを見ると、ラインメッセージにはやっと既読、の文字が付いていた。
「し、しら、白石さんっ!!!」
「ストップ!」
酷く慌てた様子で書庫に駆け込んで来た廣澤さんに私は思わず手を伸ばし、止まれ、というサインを出した。コホン、と一つわざとらしい咳ばらいをして、仕事用の笑顔を作った。
「廣澤さん、今は業務時間ですから、私語は控えて頂けます?」
「でっ、でも、俺っ今メッセージ……!」
「だから、私、公私混同する人は好きじゃないんです。……仕事には関係のない話ですよね?」
「……はい」
私はそう言いながら、資料を探す振りをした。これは私の精一杯の照れ隠しでもあった。
思った以上に冷たく突き放したような言い方になり、廣澤さんが傷ついたような表情になったのを見て、少し良心が痛んだ。しかし、社会人たるもの、オンオフはつけねばならない。
「おーい、廣澤ー!?」
廊下の方で、廣澤さんを呼ぶ松田係長の声がした。
「松田係長が呼んでいますよ?」
「……っ!あの!今日仕事の後なら話す時間貰えますか!?」
必死に食らいついて来た廣澤さんの勢いに、私は呑まれそうになる。
「お願いします!!」
「……仕事の後なら」
「じゃあ、また仕事の後で!!」
そう言って廣澤さんは駆け足で書庫から出て行った。
「廣澤ーお前どこ行ってたんだよ!今日は新規取引先の篠崎建設に契約に行くから同行してくれ、って言ってたのはお前だろー!?今日は俺もその後、別のアポがあるから車2台で行くからな」
「はい、すみません!お願いします!」
廊下の方で、仕事モードに切り替わった松田係長と廣澤さんの声が威勢よく響いていた。
もうすぐ昼休憩を知らせるチャイムが鳴るな、という時間に課長は早めの昼食を摂りに外出して行った。何でも、最近贔屓にしている蕎麦屋さんが人気店で、昼休憩と同時に事務所を出ると並ぶ羽目になるそうだ。
私も時計を見ながら、そろそろ今やっているものの区切りをつけてしまおう、と考えていた時―――。
トゥルルルルル……トゥルルルルル……
と、事務所の電話が鳴った。この音は、社内連絡用だ。
「はい、営業第一課、畑山です。……廣澤さん、お疲れ様です。……え?課長は現在お昼休憩で外出中です……はい、はい、……ええ!?」
電話を受けた畑山さんの受け答えを何とはなしに聞きながら、その畑山さんが驚く様子に何があったんだろう、と私は内心変な胸騒ぎがしていた。
「はい……ええと、少々お待ち下さい」
畑山さんが一度保留ボタンを押して、受話器を自分の耳から離し、私に困ったように顔を向けた。
「し、白石さん……、廣澤さんが、社用車で接触事故を起こしてしまったみたいなんですけど……」
「!!!か、替わって!!」
言うが早いか、私は自分のデスクの固定電話の受話器を取り、保留ボタンを押した。
「もしもし!?廣澤さん!?接触事故起こしたって聞いたけど、怪我は!?」
『あ……、お疲れ様です、白石さん。……すみません、俺右折しようと交差点の中央で待ってて、右折信号で右に曲がろうとした時に無理に飛び出して来た対向車が接触して来て……』
「怪我はっ!?!?」
『あ、すぐ急ブレーキ掛けたんで、バンパーをちょっと擦っちゃったくらいで、走行とかは問題なくて、今警察に連絡して実況見分待ちで取り急ぎ課長に報告しようと……』
私は長い息を吐いて、胸を撫でおろした。取り合えず、廣澤さんの報告を聞く限り、大きな怪我を負ったわけではなさそうだ。
「……分かりました、課長には私から先に報告しておきます。他にも課長に伝えておかないといけないことはありますか?」
『あ、篠崎建設さんとの契約は、松田係長が代行して下さっています、と』
「分かりました、じゃあ、今日の行動予定の変更に支障はないんですね。じゃあ、警察の実況見分が終わり次第、廣澤さんは念のため病院で検査を受けて下さい」
『いや、車も走れますし、俺自身も外傷はないので、仕事に戻ります』
「駄目です、今は痛みが無くても、何か体に変調が出るかもしれませんし」
『え、でも……』
なおも言い募る廣澤さんに私は苛立って、受話器を強く握りしめ、すうっと息を吸った。
「でもも何もないっ!!廣澤さんの体が心配だって言ってんの!!つべこべ言わず病院行きなさいっっっ!!!」
受話器越しに、私の大声に驚いて慌てふためく廣澤さんの様子が伝わって来た。事務所内の社員も驚いて、固まったように私に注目している。
『す、すみません、白石さん……!本当に、ご心配をおかけして……病院行きます。それから課長に改めて報告するために、社に戻ります』
「宜しい、庶務にも私から連絡を入れておくので、帰社したら始末書を書いてもらうことになると思います」
『………はい、重ね重ね、すみません……』
消え入りそうな声で謝った廣澤さんの電話を切り、私はふぅー、とまた長い息を吐いて机に突っ伏した。本当に大きな怪我がなくて、よかった……。
先週末から、廣澤さんにはハラハラさせられっぱなしだ。こんなんじゃ、私の心臓がもたないよ。
「白石さん、大丈夫ですか……?びっくりしましたよね」
私がぐったりとなったのを、手のかかる後輩に腹を立てているのだと認識した畑山さんが、恐る恐る声を掛けて来た。
うん、半分は当たってるけど、営業社員の接触事故は実際珍しいことじゃない。廣澤さんじゃなかったら、私の肝はここまで冷えなかっただろうな。
―――午後4時過ぎになって、廣澤さんはようやく事務所に戻って来た。
なんと、その首にごついコルセットを巻いて。
「ひ、廣澤さん、その首……!!」
私はコルセットを指さしながら、声をひっくり返して叫んだ。
「……その、白石さんの言われる通り、実況見分が終わるくらいに段々首が痛くなって来て……」
動かせない首を押さえ、恥ずかしそうに廣澤さんは認めた。
いわゆる、むち打ち症ということらしい。交通事故で特に多い怪我だそうだ。
「痛むの?大丈夫?」
「……今は結構。お医者さんの話だと、1週間くらいでコルセットは取れるみたいなんですけど、完全に治るのには2、3か月かかるって言われて……」
「そうなんだ……」
情けない表情で言った廣澤さんに私は呆れ半分、心配半分で相槌を打った。彼の様子を事務所内にいた社員みんなが心配そうに眺め、次々に声をかけている。それに恐縮した様子で返事をしながら廣澤さんは課長の席に報告に向かっていた。
10分くらい課長に叱られた後、庶務から回って来た始末書を書く廣澤さん。
「廣澤さん、今日はそれ書いたらもう帰りなさい。あと、大事をとって明日も有休をとるように」
「課長、俺、首こんなですけど、仕事は出来ます」
「大事をとって、と言っただろう。明日念のため、もう一度病院に行って自宅で安静にしておくように。手持ちの仕事は松田係長や他の営業社員に引き継いでおいて」
課長に諭され、廣澤さんはがっくりと落ち込んだ様子で、また恥ずかしそうに「はい」と言った。
「廣澤さん、課長の言う通り、早く家に帰って安静にしてね」
私が彼の席にお茶を出しながら言うと、廣澤さんは上体ごと私に向けて、何か言いたそうな顔で見つめて来たが、私はそれを無視して自分の仕事に戻った。それから事故報告に必要な書類と引き継ぎ内容を全て書き終えた廣澤さんは、定時を待たずに帰宅した。
私は彼の事故の連絡を受けてから動揺していたせいもあって、彼が帰った後も仕事が思うように捗らず、予想外の残業をしてしまい結局、会社を出ることが出来たのは午後7時過ぎになってからだった。
いつもよりだいぶ遅くなってしまったな、廣澤さん怪我大丈夫かな、あとで一回メッセージを入れてみよう。
そんな風に考えながら帰宅の電車に乗り、最寄りの大浜駅で降りる。北口の改札を出て、タクシーや来訪車用のロータリーの横を通っている時に、ふと途中のベンチに見慣れた人物の姿が見えた。
細身のスーツに、秋物の濃いカーキ色のコート。首には分厚い黒いコルセット……
「ひ、廣澤さん!?」
私は驚いて、駆け寄った。
「白石さん」
廣澤さんは私の声に顔をあげ、首が痛そうに顔をしかめながら立ち上がった。
「なんでここにいるの!自宅で安静にしていなさいって、課長に言われたでしょ!?」
「……だって、白石さんに、今日の仕事の後、時間貰うって約束していたから」
「怪我してるんだから、そんなの無効でしょ!!ほんとにもう、何をやっているの!!」
私が叱り飛ばすと、廣澤さんはまた情けない表情を浮かべた。
本当にもう、何を考えているの?
しかも今は10月。まだすごく寒いと言う訳ではないけど、朝と夕方は風が冷たくなって来ている。彼の手をとると、ひんやりとした。
「もう……手もこんなに冷えてるじゃない」
私は呆れながら、何か暖をとれるものは持っていなかったかな、と自分のバッグの中を探る。すると、一度私が離した手を、廣澤さんがまた握って来た。
「ださいとこばっか見せてすみません……でも、俺、白石さんの金曜のメッセージのこと気になってて。金曜に、白石さんが俺に何を言いたかったのか、どうしても知りたくて……」
「でも、それならメッセージでも、電話でも良かったのに」
「直接話したいことだから、金曜にわざわざ会いたいって連絡くれたんでしょ?それなのに、俺、三日もメッセージ見れなくて、放置して……その上、仕事中に事故なんか起こして、もう本当駄目駄目ですよね……」
これ以上ないくらい落ち込んでいる廣澤さんに、私もどう声を掛けていいか分からなくなる。
確かに、メッセージが未読のまま過ごした週末はすごく不安だったし、事故の報告を聞いた時も心臓が止まるかと思った。でもだからと言って今は怒っていないし、それよりも怪我が早く良くなるように安静にして欲しい。
私は一つ大きなため息を吐いた。
「……仕方ないな、とりあえず、私の家に行こう。このままここで話してても寒いし、その様子じゃ晩御飯も食べていないんでしょ?」
「えっ……?いいんですか!?」
私の言葉に驚いた廣澤さんは、一瞬前まで世界の終わりとでも言うかのような表情をしていたのに、信じられないと言うような顔で私を見つつも、頬がぴくぴくしている。
「仕方なく!です!その首じゃ、変なことも出来ないでしょうし、後輩をこのままほっとけないでしょ!!」
「……後輩」
「そこ、突っ込まないの!ほら行くよ!」
手を強引に離してから、私は先を行くように歩き出した。首の痛みに響いたのか、一度首元を押さえ顔を歪ませつつ、廣澤さんは私に小走りに追いついて来た。で、結局手を握って来る。
ご飯は炊いてあるのがあるはずだし、昨日作ったアジの南蛮漬けは二人分くらいはある。あとは冷凍の枝豆があったはずだし、お惣菜のさつま揚げもあったな。じゃああとはお味噌汁でも作れば、廣澤さんでもお腹いっぱいになるかな。ビールとか、コンビニで買って行った方がいいのかな?でも今日は怪我をしているし、アルコールは控えさせるべき?
まるで母親のようなことを考えながら、私が一人でぶつぶつ言っていると、廣澤さんが何かむずむずとした、嬉しそうな顔を浮かべていた。
……私、選択間違ってないよね?
いつも「お疲れさまでした」をするコンビニを通り過ぎ、私は初めて、自分のアパートの位置まで彼を連れて来た。
築15年の少し古めのアパートだけど、外観は割と洗練された女性に人気のあるタイル張りの洋館風の造りになっている。今の会社の入社当時から住んでいる私の城だ。
人を招くのは、絵里子や両親以外に初のことだ。もちろん、異性なんて入れたことは無い。
すごく散らかってる訳じゃないけど、朝に家を出たままの状態で、多少化粧品とか洋服が仕舞われずに散乱している。
「とりあえず、ソファにかけてて」
私は手早く仕舞われていなかった持ち物を回収し、クッションを元の位置に戻し、小さめのソファに十分二人座れるスペースを確保した。
「お邪魔します」
少し躊躇いつつも、廣澤さんは私の1DKの部屋に入って来る。そして、当然、興味深そうにリビング兼寝室になっている部屋を見回した。寝室スペースは一応、パーテーションで区切ってはいるが狭い一人暮らし用の部屋なので、あらかたの物は見えてしまう。……ああー、やめてーじろじろ見ないでー!!
内心、恥ずかしい気持ちでいっぱいなのだけれど、自分で連れて来たのだからと腹をくくる。
「首、大丈夫?」
廣澤さんが上着を脱ぐのを手伝いつつ、尋ねる。
「大丈夫です」
彼の上着をとりあえず皺にならないようにハンガーに掛けて、私は早速晩御飯の準備に取り掛かる。「手伝います」と言われ、怪我してるのに馬鹿言うんじゃない、安静にしてなさいとソファに戻し、テレビをつけてやる。
ふう、なんか本当に手のかかる大きな子供か、弟みたいだな、と私は思った。
「……なんか、夫婦みたいですね」
私は冷蔵庫から出したばかりの玉ねぎを床に落とした。
「んなっ……なっ……何言ってるの!!」
「だって、さっきから由香さん優しいし、部屋も居心地がいいし、俺なんかほっこりきちゃって……」
「ああーもう!ちょっと今恥ずかしくなること言うの止めて!包丁持つ手が狂うから!!名前呼びも禁止!!」
私が両耳を押さえながら叫ぶと、廣澤さんはまたさっきのむずむずしたようなにやけた顔をしつつ、黙った。
急いでお味噌汁を作り、アジの南蛮漬けを温め直し、ご飯や枝豆、お茶と一緒に食卓に並べて行く。
「感想なんて言わなくていいから!黙って食べてね」
さっきから恥ずかしさが高水準を保ったままの私は、ぶっきらぼうに告げ、来客用の箸を彼に渡した。
「嬉しいです」
「黙って食べて!」
「はい」
今度こそ大人しく両手を合わせ、いただきます、と食べ始めた彼に、私も向かいの椅子に座り両手を合わせる。
最初に今作ったばかりのお味噌汁に口をつける。……うん、色々テンパりながら作ったけど、味はいつも通りだ。
しばらくは私の言った通り、無言で廣澤さんは料理を口に運んでいる。私も特に話すこともせず、二人のお椀を置いたり、箸が器に当たる音と、テレビから流れて来る音声が背景のように空間を満たしていた。
今までどこかのお店で、廣澤さんとは何度もご飯を食べて来たのに、こんな風にじっくり食べる姿を見るなんて初めてだな、と私は思った。
今日は首が痛いせいか、上体はあまり動かさないまま、箸や器の方を口元に持って行ってるけど、食べにくそうな割には一口が大きく、びっくりするような速さで皿の中身が減って行っている。ちゃんと口を閉じてもぐもぐと咀嚼する姿が、何だか可愛い。
私の視線に気付いたのか、廣澤さんは片手で顔を隠すような仕草をした。
「……あまり見つめないで下さい」
「……ご、ごめん」
私もまた恥ずかしくなって、俯いた。
「……俺、期待しちゃいますけど」
「……ええっ?」
ぽつりと呟かれた言葉に、私が驚いて顔を上げると、とても真剣な表情を廣澤さんは浮かべていた。
「白石さんが、仮に怪我を心配してても、何とも思ってない男を家に上げるなんて思わないです。例え晩飯時だって言っても、手料理をご馳走してくれるなんて思わないし、ましてや、不用心にそいつの顔をじっと見つめて来るなんて思いません」
「な、な、急に何!?」
突然おかしな分析を始めた廣澤さんに、私は顔が急激に赤くなっていくのを感じながら、口をぱくぱくと動かした。
「まだ返事貰ってないですけど、こんなん、俺、OK貰ったのと同じだと受け取っちゃいますけど、いいですか?」
「……ぇっと……それは………」
いいですか、と言われても……。
どう返事を返すのが正解か分からず、私は言葉を濁す。
……ううん、廣澤さんは間違ってない。本当なら、金曜日に自分から気持ちを伝えるって決めてたじゃない。なのにどうして今、素直にそうですって言えないんだろう。
「……違うんですか?それだったら、俺、正直すごいガッカリですよ。こんな思わせぶりなことをされて平気なほど、俺だって人間出来てる訳じゃないです」
私の煮え切らない返答に、廣澤さんの顔があからさまに落胆の色を映した。
私は一度箸を揃えて、食卓に置いた。
「……違わない、よ……でも、どうして廣澤さんが私をそんな風に想ってくれてるのか、分からなくて。……だって私は女優さんとか、女子アナとかみたいに綺麗な訳じゃない、ただの三十路OLだよ。それに、前に廣澤さんは私が安定しているところがいいって言ってくれたことあるけど、本当の私は年齢を重ねてるほどは余裕がある訳じゃなくて、こんな風に自分の気持ちにも白黒つけられなくて、ぐだぐだするような人間なんだよ」
私の話をじっと聞いて、廣澤さんは自分も箸を食卓に置いた。
「……俺、別に見た目とか、年齢で人を好きになってる訳じゃないです。あ、いや、白石さんの見た目も好きですけど、それは俺が白石さんが好きだから見た目にも惹かれてるだけで、それが一番の理由じゃないです。……確かに、白石さんは、俺が今まで知らなかったネガティブに物事を考える面があることを知ったけど、でもそれは俺の気持ちを真剣に考えてくれてるのかなって、俺はプラスに考えてたし。会社と家でキャラが少し違っても、それは皆そうだと思うし、逆に他の人達が知らない白石さんを知れて嬉しかったって言うか……」
「……ねぇ、どうして私なの?だって私、別に廣澤さんに何かした覚えないよ?仕事中だって、きついこと言うことだってあったし、二人きりになることだって、一緒に帰り始める前はほとんどなかったじゃない」
私は、彼の告白を受けて以来、一番ひっかかっていた疑問をようやく彼にぶつけた。
まさか、私だって彼が私に一目惚れしたとか、滅茶苦茶タイプだったなんてことは思わない。年齢差のことを抜きにしても、特別関わりのない男女間に、そうそう恋愛感情なんて生まれないものだ。
「……やっぱり、覚えてないですよね」
「……え?」
廣澤さんは、少し寂しそうに微笑んだ。
「出雲興産さんのこと、覚えてます?」
「出雲興産さん?」
私はきょとん、と首を傾げた。
確かに、覚えている。覚えていると言っても出雲興産とは、前に取引のあった会社だということだけど。
建設会社の中でも、中堅規模のその会社は長くうちの会社の主要取引先の一つで、たしか20年以上の付き合いがあった。なのに去年突然、他社に乗り換えられてしまったのだ。丁度その時、ずっと担当していた松田係長から、まだ2年目で早くも頭角を現し始めていた廣澤さんに担当替えがあったばかりだった。
「俺、あの時、これ以上ないってくらい落ち込んでたんです。松田係長にも滅茶苦茶怒られたし、課長は仕方ない、と言いつつも担当替えをするタイミングが早すぎたなって言ってて。主要取引先の一つを失って、その月の売り上げもガーンと下がったし、皆俺にガッカリしてるんだって思って」
確かに、まだ2年目の新人が主要取引先の契約を打ち切られれば、相当落ち込むのは当たり前だろう。松田係長は少し直情型な傾向があるから、最初だけすごく怒ってたのは私も覚えてるけど、でもあとから先方が契約打ち切りをすることは松田係長の担当時代から考えていたこと、新人に担当が替わったのを良い口実にされただけで、廣澤さんの実力や営業態度が問題だった訳じゃないことはすぐに判明したはずだ。
「……あの時、プライベートでも、元カノが元サヤに戻りたいとか言って来てて精神的に参っていた時だったんです。それで、俺が一人で休憩室で落ち込んでいた時に、白石さんが来たんですよ。俺にキャラメル2個くれて、『人生なんて、失敗と挫折の繰り返しよ、でもちゃんとコツコツ頑張ってれば報われる日も来るから』って言ってくれたんです」
そうか、そう言えば廣澤さんはよく業務中にキャラメルを食べるなって思ってた。チョコレートとかよりも糖分補給に良いのかなって思ってたけど、私がきっかけだったんだ。
「……ごめん、覚えてない」
どう記憶を探っても、その出来事は思い出せない。私は悔しい思いをしつつも、素直に謝った。すると廣澤さんは少し苦笑いを浮かべた。
「……いいですけど。俺はすごく嬉しかったんです。俺のために投げかけてもらえた優しさが沁みて、白石さんが部屋を出た後、恥ずかしいけど、ちょっと泣いたんですよ」
「……そうだったんだ」
「そっから白石さんが気になって、飲み会とかでちょっと話すと、話しやすいし、俺の話をじっと聞いてくれるし、すごい居心地がいいなって。元カノはどっちかって言うと自分が!自分が!って子だったから、とても仕事の相談なんて出来る感じじゃなかったし。年齢が離れてることは分かってたけど、そんなの関係ないくらい、白石さんの隣を独り占めしたくなって」
ゆっくりと言葉を噛みしめながら話す廣澤さんに、私は胸がジンと来てしまった。自分がそんな言葉を掛けたことも、キャラメルをあげたのかも全然覚えてなくて、申し訳ない気持ちになる。でも、少なくとも私が考えていたよりもずっと、特別な気持ちで私のことを想ってくれていたのが分かり、何とも言えない安堵と嬉しさが広がる。
ふいに廣澤さんは椅子から立ち上がり、食卓を迂回して私の隣に立った。私も思わず立ち上がり、私達は向かい合わせになる。廣澤さんは私の両手を取って自分の両手で包み込んだ。
「……白石さん、俺は10個近くも年下だし、スマホをボーリング場に忘れてメッセを見損ねたり、仕事中に車事故っちゃったり、ほんと情けないとこあるけど、白石さんを真剣に好きです。不安にさせることもあると思いますけど、絶対大事にします。……俺と付き合ってくれませんか?」
そんな風に真っ直ぐに見つめられて、しかも両手をぎゅっと握られて、こんな真面目な告白を気になっていた異性にされて、NOと言える人なんているのだろうか。
―――少なくとも、私は出来ない。
込み上げそうになる涙を何とか堪え、私は心の中で白旗を振った。完全に完敗、降参です。
「……ぅお願ぃします」
やっぱり胸がいっぱい過ぎて、声が少しひっくり返ってしまった。笑われるかと思ったけど、そんなことは無かった。
両手を背中に回されて、引き寄せられた。キスされる、とドキドキして、目をつぶって、それから少し変な間があった。
「……?」
薄く目を開けると、痛みに顔をしかめている廣澤さんの顔があった。どうやらコルセットが邪魔で、顔を近づけることも出来ず、痛みに首を曲げることも出来ないようだ。
「……せっかく付き合えるようになったのに、この首のせいで、キスも出来ない……。めっちゃ俺、カッコ悪いですね……」
ごめん、悪いと思ったけど、吹き出してしまった。だって真面目な顔で、本当に悔しそうに言うんだもん。
彼の腕の中で、ひとしきり笑った後、私は真っ直ぐ立ってて、と注文をつけた。
素直に直立した廣澤さんの肩に両手を着き、私は思いっきり背筋を伸ばし、踵を上げた。
これが恋愛ドラマとか、ヤングレディース向けの漫画なら、松田か元カレ辺りが出て来て、由香の取り合いになり「けんかをやめて、私のために争わないで」的な展開になると思いますが、現実的にはそういう場面はあまりないことだと思うので、実際にありえそうな展開でまとめてみました。……とはいえ、10個も下の男の子に普通の三十路女が告白される時点で、ファンタジーと言われたら身も蓋もありませんが(^^;
お読み頂き有難うございました。