五章「シアター」
「あなた、電脳には詳しいかしら」
アリスは唐突に私に、そう尋ねてきた。仮想空間上のコミュニティ・サイト――目的もなく、なんの熱量もない。ただ、ピンク色に燃える星空の下、だらだらとプラット・フォームを歩き続けるだけの日々。私は咄嗟にアリスに対して受動暗号を行使し、電脳軍隊の追手ではないかと疑った。
「まあ……多少はね」
「ちょっと、頼みたいことがあるのだけれど」
「悪いけど、今はそういうのはやってない」アリスは首を傾げた。「昔はね、そういうことをしてたこともあるけど――もう懲りた。危ない電脳テロの片棒を、知らないうちに担がされてたの。もう、そういうことはしないようにしてる」
「テロなんて、そんな大層なことじゃないわ」
アリスのアバターは、金髪で青い瞳の「人形」のような姿をしていた。彼女は空間にホロ・ウィンドウを投射して、私に見せた。そこには簡単なコードが、つらつら並んでいた。
「最近、よく通信にノイズが入るようになって。不正アクセスは弾いてるはずなんだけど、日に日にひどくなっていくの。詳しい人に聞いても分からないっていうから……」アリスは胸の前で両手を組んで、「この間なんか、大切なファイルのインポート中に通信が切れて、データが破損しちゃったの。仕事で使うものだったから、とても困って……もう、私ひとりじゃお手上げなの」
「それで、どうして私に聞くの?」
「あれよ」
アリスが指さした先――コミュニティ・パークの中央に建つ、クリスタルを模した電脳オベリスクの周囲に浮かぶホロ・ウィンドウ。そのひとつには、仮想空間上で流行しているVRゲームのランキングが映し出されていた。
「あなた、『TREMOLO』のランカーでしょう? きっと詳しいと思って」
確かに、生き甲斐を失ったも同然だった私は、寝食を忘れるように『TREMOLO』にのめり込んでいた。しかし、たかがゲームの実力と、電脳技術とは決してリンクしない。アリスは、そのことも分からないくらいには、電脳に明るくないようだった。
「いいよ、ちょっと見てみるね」
「ありがとう。お願いします」
「やるだけやってみるから――アクセス鍵をちょうだい。あなたのドメインに侵入して、バグを探してみる」
アリスと私は指を絡めて、しっかり握り合った。ぱちっと静電気が走るような感覚が走り、アリスは驚いたように肩を震わせていた。手をほどくと、私の手にはベージュの鍵が握られていた。ホロ・ウィンドウを展開し、アクセス鍵の示す方向へ向かう。目を閉じ、仮想視覚情報をシャット・アウト――同時に回線へ侵入し、アリスの所有するドメインへ飛ぶ。電子の鳥とすれ違い、幾条もの光が回線を走っていく。新たな情報の渦が生まれ、また同時に消えていく。青い世界が広がっていた。その先に、ぽっつりと赤く浮かび上がる恒星――鍵は、その方向を指し示していた。
「なんだろう……?」
身をよじって減速する。赤い恒星の周囲には、奇妙な紅蓮の炎が燃え盛り、近付いていくと肌が焼けるように熱かった――燃える氷――アリスのドメインは、この奥にある。
「何を見せられているの――」
映画館があった。高く積み上がった客席は、数百人は座れそうなほど大きく、しかし観客の姿はない。私が入ってきた扉は、最上段後方の非常口だった。階段を下りるたび、少し足元が揺れる。からからからから、と旧いフィルムの音と共に、スクリーン上には私とアリスが初めてであった時のエピソードが、私の主観で映し出されていた。スクリーンの道中には、ふらふら揺れる視界の中、恒星に伸びる手が描かれている。暗号の光が射出され、ノイズが走る。
この後のことも、私は知っている。これは私の記憶そのものだ――恒星へハッキングを仕掛けると、派手に見えた防壁はあっさり砕け散って、侵入する。そこでは、あらかじめ組み込まれていたセキュリティ・システムがいくつか共食いを起こしてバグを発生させており、そのために回線に負荷がかかっていた。
アリスに尋ねる。
「いくつかのセキュリティを解除しないと、問題は解決しない。任せてもらっていいかな?」
「うん、お願い」
すべてのシステムのログを洗いなおし、最も信頼性と機能性の高いものを一つ選んで、残りのシステムは全て削除する。ドメインのプロパティから全てのシステムが正常に動作していることを示す緑色の光が現れた。軽く空間を蹴って、入ってきた場所から離脱し、コミュニティ・フィールドへ戻る。
「ありがとう! 本当に助かったわ」
アリスが頬をほころばせるのを見て、私も頷く。しかし、その後すぐにアリスの顔が少し曇って、口をもごもごしだした。それを見て、私がさっと、言う。
「ソニア。私の名前」
「ありがとう、ソニア」
ぶつっと画面が切り替わった。ほの暗い部屋を、ぼうっと見上げている。オレンジ色の照明が部屋の中にぼんやりと灯り、白い天井に誰かの影がぬっとあらわれた。
「今日び、性用人形なんざ、流行らないと思ってたけどな――思ったより悪くない」真っ黒い肌をした、筋肉質な男が画面越しの私を凝視した。瞳は金色で、黒いリングが二重三重にぎょろぎょろ回転する。高度な電脳義眼だと、私はひと目で分かった。
視線がぐい、と起き上がった。男はきょとんとした目で画面越しにこちらを見つめている。
「そう言っていただければ、光栄ですわ」
「あんた、人間だろ? ロボットじゃなく」
「さあ……」
「ま、物理現実でのセックスなんて、いい経験させてもらったよ」男は面倒くさそうにホロ・ウィンドウを開き、「この口座に金を振り込んでおけばいいんだよな?」
視線が縦に揺れる。頷いたのだ――男はぐい、と顔を寄せてきて、
「あんた、何でこんなことをしてるんだ?」
「そういうことを、女性に聞くものじゃ、ありませんよ」
打撃音と共に視界にノイズが走った。ゆっくり視線を戻すと、男が乱暴に歯を見せて笑っていた。
「生意気な口を利いてんじゃねえ。俺が聞いてるんだ。お前は答えればいいんだよ!」
「あなたと同じですわ――物理世界でのセックス――興味があるから、やってみたかっただけ。たったそれだけの理由。妊娠しない。性病にもかからない。壊れた義体はいくらでも取り換えられる」
ぼすっと男に押し倒された。白い天井が一瞬だけ見えて、すぐに男が視界に覆いかぶさってくる。
「じゃあよ――今ここで、お前の首をへし折ってもいいわけだな?」
「お望みなら――それはまだ経験がありませんわね」
「俺もだよ。首を折るなんざ簡単にできる。でも、首に手をやりながら、現実で女を抱けるなんて興奮するなぁ……あんたはどうだ? 興奮しないか?」
「その方がよろしいなら、そう致しますわ」視界にいくつものコマンドが浮かび上がった。「どういった台詞がお好みですか? 表情はどういたしましょう――苦悶の表情、臨死絶頂、憤怒、憎悪、感涙……いくらでもありますわ」
「やめだ」
男はベッドから立ち上がり、頭を乱暴にがりがりと掻いた。こちらを二度と見ることもなく、吐き捨てた。
「気持ちわりい。これなら仮想でやってるほうが、何倍かましだ」
突然画面上の視界が揺れた。激しい音、しかし輪郭は鮮明に――驚愕して振り返る男の金色の両目に、白い二本の指が突き刺さった。火花を散らしながら男は叫び声をあげる。急に画面上のあらゆる情報が渦を巻き、違う色の絵具を混色するようにぐるぐるに混ざり合っていく。
バチンと音を立てて投影機が壊れた。煙をあげながら、それでもからからと音を立てて回り続けていた。
「今のは……」
アリスの記憶だろうか。どうしてこんなものを見せられないといけない?
きみが一番わかってることだろう、ソニア。
クァーラトの声が聞こえたような気がして振り返っても、そこには誰もいなかった。私が施した十字架の封印は、まだきらきら氷柱のように輝いていた。
「くそッ」近くの椅子を蹴り飛ばし、階段を下りていく。最下段まで来た時、スクリーンのすぐ真下に、取っ手のようなものを見つけた。金属音をたてながら引き出すと、それは旧式のコンソール・デバイスだった。スイッチを入れると、まだ起動するようだった。ホロ・ディスプレイが広がり、ログイン画面が表示される――
PRESS THE PASSWORD。
困ったな、なんて古典的なセキュリティだ……