二章「月の女」
真鍮の扉を開くと、ほのかに滝の音が聞こえた。光が網膜に差し込んでくる。真っ白に塗りつぶされた視界に、少しずつ色が戻ってきた。肌に水飛沫がかかり、虹が見えた。壁一面にガラスが張られ、防水タイルの床と美しい透明度の水。背の高い植物。涼し気な空気の匂い。
「プールだ」まるで、本物の宮殿だ。しかし不気味に静まり返っていて、人の気配がない。時折、風でも地震でも、はたまた人の手によるものでもない不思議な力で、水がちゃぽちゃぽ揺れる。
私は壁のガラスに歩み寄った。まるで外の景色が見えるようだが――濁りガラスのように輪郭がぼやけている。手で触れてみると、わずかにノイズが走った。これは立体投影だ。しかし、手で水を触れてみると、冷たくて液体そのもの。水は本物で、それも汚染されたり薬物が混じったりしている水ではないようだ。
ここにもアリスはいない。目を閉じている間に突然消えてしまった。どうやって?
「先ずは、この部屋をどうにかしよう」
壁の隅、天井に設置された、ホログラムの投影装置。人差し指と小指を向け、親指で照準を定める。ちょっとでも私と同じような技術を持つ人間なら、誰でも知っているサインだ。脳内でぐるぐる化学反応が螺旋を巻き、螺旋はさらに複雑に絡み合って暗号を作り出す。発砲音もマズル・フラッシュもない仮想の銃身から放たれた見えない魔弾は、投影装置に着弾すると――これも私と同じような技術を持つものが、視覚とは違う感覚で感じるものに過ぎない――、ばちっと火花を散らして部屋全体の照明をダウンさせた。
窓は消え、その外の風景も掻き消えた。すると、それだけではなくプールの中の水も、一瞬で蒸発するように消えてしまった。寒々しい白色灯が、部屋の中を照らしている。
ホロ・ウィンドウがふいに私の前に広がった。
『ソニア、聞こえる?』
「アリス? いま、どこにいるの?」
『分からない』
通信は繋がっている。発信元のデータを解読――この『宮殿』のドメインを経由しているので、この建物の中にいるようだ。
『ソニアったら。急にいなくなっちゃうんだもん』
「私が? 急にいなくなったって?」
『そうだよ――どこにいるの?』
通信は切らないままで、右手にホロ・キーボードを浮かべ、アリスの居所を探る。『宮殿』内から発せられている通信――彼女はどうやら一階にはいない。いつの間にかあの部屋から脱出したようだ。
「いま、一階の部屋にいる」右手の指の関節が、ぽきっと鳴る。「あの部屋から出たところ。プールがあるよ」
『プール?』
「アリスは? どこにいる? どんな部屋?」
『分からない――美術館みたいなところにいるの』
美術館。
「詳しく教えてもらえる?」
『赤い絨毯が、ずっと向こうまで伸びてるの。両脇の壁に、いくつも絵が飾ってあって――』
「ずっと向こうまで伸びている?」
つまり、そこは部屋というよりも、通路のような場所であるということ。しかし構造図を信じるなら、この『宮殿』に限ってそんな構造はあり得ないはずなのだ。
「アリス、そこから動かないで」右手のホロ・キーボードを叩く手が止まる。「そこは何階なの? あの部屋からどうやって、そこまで行ったの?」
ひた、ひた、ひた……
足音が聞こえて振り返る。さっき私が入ってきた扉から、二メートル三十センチはありそうな裸足の女が、こちらを濡れた瞳で見下ろしていた。その両手には、その上背よりずっと長い、金属質の草刈り鎌を持って佇んでいる。
『ソニア?』
人間じゃない、とひと目で分かった。ほとんど振り被ることなく鎌を薙ぎ払って、私の首を捉えてくる。咄嗟に身をかがめて躱さなければ――たぶん頭が回電死を起こしていた。女は勢いのままに腰を半回転させ、鋭い刃先が壁に突き刺さる。生々しい描写だが、私は騙されない――ここでだまされる人間は、電脳酔いしやすい。三半規管の四次元的躍動に、慣れていない人間だ。
壁に刃物が突き刺さっているのに、音がしない。明らかに不自然な現象なのに、視覚情報のショッキングさに紛れて、それを見落としがちだ。女の頭部を目がけて暗号を打ち込むと、激しいノイズと嬌声を混じらせて、情報として霧散していく。
『ソニア!』アリスは泣きそうな声で叫んでいた。『返事をして。何があったの』
「襲われた」
『襲われたって――』
「ただのホログラム。暗号で倒せる」扉から元の部屋を見返しても、何の変化もなかった。「見た目はただの情報の塊だけど、打ち所が悪いと神経が焼ける」
『暗号なんて分からない』
「ひとまず、アリスはそこから動かないで。私がそっちに向かうから」
通信を長く続けていたから、アリスの居場所は割り出せた。脳内の設計図と重ね合わせると一目瞭然――視覚情報ではないから、使っているのは目じゃないけれど――、アリスからの通信は、三階の西端の部屋から発せられていた。
「とにかく、どうやってそこまで行ったのか教えて。そのルートを辿ってみるから」
返事はなかった。
「アリス?」
いつの間にか通信は切れている。『宮殿』内のドメインへアクセスを試みると、ノイズがひどく、情報はほとんど読み取れなかった。さっきまで、アリスの声は鮮明に聞こえていたし、こちらとの通信のタイムラグもなかった。なぜ急に?
急に燃えてきた。
「面白いじゃん」扉を閉めて、新たに鍵をかけなおした。銀色に輝く錠から、北極から切り出された氷のように鋭く、冷たい鍵が吐き出された。スカートのポケットに投げ入れて、それから草刈り鎌が突き刺さっていた壁を見た。何事もなかったかのように修復されているが、指先で突いてみるとホロ・ウィンドウが広がる。視覚情報プロパティによれば、このあたりの空間だけデータの破損の形跡がある。
十数枚のウィンドウを、自分を取り囲むように展開し、この部屋から外へつながるあらゆる情報をサーチする。空調、熱、電波、水道……どんなものでもいい。脳内で設計図がバラバラと激しい音を立ててめくれ上がり、一瞬ごとに更新されていく情報と逐一同期されていく。
これだよ、これ! 思わず叫びたくなる程、脳の血管が沸騰するほど熱を上げ、身体じゅうが熱くなるのを感じる。情報の密度に押しつぶされそうになりながら、もがき、流れをかき分けていく。やがてひとつの解に辿り着いた。水がすっかり抜けたプールに入り込むと、その排水溝へ近づく。金網の蓋を外し、奥にハンドルのようなものを見つける。取っ手を掴んで引き抜くと、中から黒い円柱状のデバイスがせり出てきた。青い回路が光を帯びて、強烈な冷気を放っている。
とん、と側面のスイッチを軽く叩く。表面に部首と部首を乱雑に配置した「うそ漢字」が浮かび上がり、走り回っていた。漢字は嫌いだ――形が生き物のようで、まるで眼球の中を這い回る羽虫みたい。左手のホロ・キーボードでコマンドを打ち込んでみると、このデバイスを介して『宮殿』内部の配水ラインを把握できることが分かった。
「あれ――」
地下階で激しく配水ラインが稼働している。――ちょうどこの部屋の真下だ。私やアリスの他にも、この家には誰かがいる? さっきの女のこともある。ふと、閃いた。アリスは今まで気づいていなかっただけで、ここは様々な人間やプログラムが住み着く、複合住宅として設計されているのかもしれない。それなら、容易に部屋と部屋を移動できないのも分かる。
それでも疑問は出てくる。どうして廊下を作らない? 部屋と部屋を直接繋げている『宮殿』の構造は、複合住宅としては致命的だ。否、それでも別にいいのだが、それならエントランスが一か所に集約されているのもおかしい。設計図で記された配水ラインと、このデバイスから読み取れる配水ラインの配置は見事に一致する。
急に耳の奥を轟音が貫いた。頭蓋骨の中で真鍮の笛が鳴り響くような――思わず一瞬だけ、視界がくらむ。その隙に私の身体を取り巻くように、いくつものホロ・ウィンドウが広がった。これは私の意志じゃない。
それぞれのウィンドウには、それぞれ違った「うそ漢字」が浮かび上がり、私の身体にノイズが走り始める。焼けついた鉄を、無理やり神経に押し付けられるような痛覚情報。あらかじめ仕込まれていた反射攻撃プログラム――「うそ漢字」で組まれた暗号はアルゴリズムが複雑怪奇で、ひと目ではとうてい理解できそうになかった。こちらの身体へのアクセスを叩き落すだけで精いっぱいだ。前髪からバチッと火花が散る。それに気を取られた一瞬の間に、左腕に緑色のバグが這い回る。気持ち悪くて、思わず肺が縮み上がった。
「負けるもんか」
計算は得意なんだ。これくらいのことは、何十回何百回と経験している。視界が完全にブラックアウトしたことも、身体の右半分が吹き飛ばされたこともある。その度、あらゆる神経を動かして切り抜けてきた。
「来た――――」あの感覚だ。アルゴリズムを解読するのではなく、感覚で理解した。攻撃を受けて破損した身体を修復しながら、反射攻撃を受け止める。それらと同時に、ますます激しくなる攻撃からアルゴリズムを解読し、更に反撃する。左腕のバグはすっかり消えてなくなり、逆にホロ・ウィンドウがバヒュ、と音を立てて爆ぜた。こちらの暗号が通り始めたのだ。こうなってしまえばこちらのもの。扱う武器が同じなら、扱いはこちらの方が上なのだ。まるで花火大会のように「うそ漢字」がはじけ飛んでいくのは、なかなか爽快だった。全ての攻撃が止んだ時、一枚だけホロ・ウィンドウが残された。展開するとそこには何かのコマンドがしまってあった。また「うそ漢字」だったけれど、今は不思議と美しい形に見える――このコマンドは、一体何に使うのだろうか?
ひとまず右手に装填して、次の部屋へ向かう扉を探すことにした。