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二十三章「飴のドアノブ」

 地下階――ここはアリスの予備の義体が、何十何百と保存されていた場所。今さら元の身体に未練はない。失った肉体をかき集めるように、ぬくもりを取り戻すように、男に抱かれることはもうない。

 もっと刺激的な力を得た。私の身体のうちに燃える、電子の炎。渦を巻き、火花のようにはじけ、磁力線を描いてこの胸の内に収束していく。


 こうして、改めて自分のからだが、顔が並んでいるのを見るのは――やけに気味が悪いなあ、そう思った時に、ガラスケースに並べられた義体のうち一つが、かっと目を開いて私を見ていた。ケースがひとりでに開き、簡素な白い服を着せられただけのそれが、私の目の前に立ち塞がるようにしずしずと歩み出でた。


「何か用?」

「さあ?」

「そうよね――余程のことがなければ、空っぽの貴女が勝手に動き出したりしないわよね」


 右手に意識を集中すると、目の前の義体が右手を挙げた。そして、首を傾げる。


「なるほどね」

「どうしましょうか?」


 私は彼女の目の前に、すっと右手を翳した。まるで視力検査のように、眼球がぎょろぎょろ動く――色の無い瞳に、太陽の輪郭のような色が波打つ。私はもう、計算をしていない。ただ考えるだけで、勝手に電脳が回転し、熱を帯びる。


「わかった――あなたがここからいなくなったら、ね」

「頼めるかしら?」

「いいよ。私も、ここでずっと待ち続けるのは嫌だったから――」


 白い服の表面に、脈が現れた。ガラスに垂れる雨粒のように――見る見るうちに、患者のような服は、金色に縁どられた黒い軍服のようなものに変わった。


「それじゃあ、あとのことはお願いね」


 氷のように透き通る十字架が、いくつも突き刺さった扉。視線を合わせ、少し意識を向けると、それらは罅割れ、破片がいくつも散らばった。右手をゆっくり伸ばし、そこにある空気を押しのけるように触れてやると、十字の鍵は簡単に崩れ去り、扉が粉々に、音もなく砕けた。


 扉の向こう側に見える劇場――スクリーンには、なにも映し出されてはいない。観客はひとりもいない。上演予定すらない。右手の親指、人差し指、小指を立てて、暗号を装填(インストール)する。向かうのは、上手側の非常口――私が開放しないままでいた、もうひとつの道筋。暗号を発射すると、たやすく防音扉は壊れ、爆発するように吹き飛んだ。


 私は悠々と歩いている。歩幅も小さく、速度も変わらずに、ただ意志をもって暗号を練り上げ、そこに干渉するだけ。なにも難しいことはない。


「クァーラト?」


 電脳体に震えるその感触には、覚えがあった。


「ずっと黙ってると思ったら、今度はなに? 言いたいことがあるなら、はっきりと言いなさい。いままで散々、お喋りだったんだから」


 ――――――――。


「どうしたの?」


 ――どうwhy? 今回の尓02ようBXに4349仰りtalking about嗎すか?


「えっ?」


 なんだ、その――耳で聞いているだけで、ぐちゃぐちゃと胃の中を攪拌されるような言葉は。


「どうしたの? クァーラト、何かあった?」


 ――今度はどうだ。ちゃんと聞こえるか、その……

 誰だ、君は。


「アリス。――どうしたの、あなた」


 君のネットから一度切断させられた。僕のアクセスが弾かれたんだ。

 それで、また入り込んだら、今度はコレだ。


「コレ?」


 なんだ、君の――アリスのネットは。まるで――


「いろいろ、あったのよ。あなたのことも聞いたわ、クァーラト」


 くそ、記録野にアクセスできない。何があったんだ。


「ちょうどいいわ――(アリス)の身体を捨てなさい。それで、私の電脳体に装填(インストール)されるの。私と一緒に外に出ましょう」


 外に?


「あなたも、物理的身体に制約されたままは嫌でしょう? だから、私の容量を割いてあげる。その代わり、あなたへの絶対命令権は私が保持する。これでどう? もちろん、好き勝手にやってもらって構わない。私は私が望むときにあなたの力を借りる。あなたも、あなたの好きな時に私の力を借りていい。どうかしら」


 それは取引になっていない。


「あら、どうして」


 君には二つ貸しがある。

 ここから外に出ることでひとつ。もうひとつはどうやって返してくれる?


「あなたを解放することよ」脳が一瞬だけしびれた。何も見えないが、クァーラトが息を呑んだように沈黙するのを肌で感じていた。「記録(ログ)を読んで――あなたがこの中のどれくらいのことを知っているか、分からないけれど。あなたを物理的身体からも、己の役割だと思っているものからも解放してあげる。私の暗号(コード)のひとつになりなさい。それは、あなたにとって幸福なことと言えるのではないかしら?」


 しっかり丸一分くらい沈黙した後、左手に熱がこもった。視線を向けると、手の甲に小さな星のような形の痣が浮かんでいた。


「そう。ついてくるってことね? ああ、そうだ。君の力になり、君を力にしよう――それでいいわ、いい子ね、クァーラト……その言い方はとても癇に障る。なぜか、は言わないよ。君はそれを知っているはずだ、ソニア。私はアリスよ――やめましょう、ひとつの口を経由するとコミュニケーションが複雑になるだけよ」


 クァーラトは了承した。


「あなた、分かっていてわざとやったでしょう」


 こういう時だけ、彼は答えなかった。左手を壁にぶつけると、クァーラトはもんどりうって基礎コードを震わせた。




 非常口を出た先には、狭く、天井の低いリノリウムの廊下が伸びていて、緑色のランプの指し示す先に向かうと、そこには血を抜いた内臓みたいな薄いピンク色の螺旋階段が伸びていた。


宮殿(パレス)』の設計図によると、この階段は地上一階、最西端の部屋を貫通して、すぐ上の地上二階まで伸びている。階段を一歩一歩踏みしめるたびに、今の一歩は、さっきまでの一歩よりも、意志の力を感じる。まだまだ、この義体の操作には慣れない。


 すぐ上の部屋は、書斎のような場所だった。階段は部屋の中央を貫いている。西側に茶色いデスク。階段を挟んで黒いソファが向かい合い、両側を本棚が囲んでいる。ソファの前には、まるでついさっき入れたばかりのようなブラックコーヒーが置かれていた。白い湯気がもうもうと立ちのぼり、部屋の空気を濡らしている。


「ご迷惑でしたでしょうか?」


 階段の鳴る音が聞こえる。上階から、お盆を持ったアリスの義体がしずしずと降りてきた。黒い服は、メイドのような姿。白いカチューシャを身に着け、立ち振る舞いだけ見れば精巧なガイノイドのようだ。


「あなたは誰?」

「いえ――名乗るほどのものでは。姉から連絡を受けましたもので」


 視線がバッティングする。アリスのものとは微妙に違う紫檀の瞳――これは単なる義体でしかない。姉、と言った彼女の電脳パターンは、アリスと酷似している。左手が励起し、危険を感じた時に指先が震えるように動いた。


「こちらへ」


 彼女について階段をのぼり、二階へ――そこは、ソニアを迎え入れたリビングの隣の部屋。キッチンと壁を隔てて一枚向こう側にある場所――私が最後に訪れる部屋だった。


 そこは空っぽだった。ベッドとクローゼット、それに黒い革張りのソファだけが置かれていた、簡素な部屋だ。言いようのない灰色で全面を囲まれた、空虚な空間。


「私はここで、ずっと待っておりました。あなたがここから出られる時を」


 アリスの身体を持ったそれが、ゆったりと椅子に座った。服装と態度がぜんぜん一致していなくて、私は肩をすくめた。


「あなたも、クァーラト?」

「いいえ――私はついさっき生まれたもの。けれど、ここであなたを待っていたもの」

「あなたはここにずっといたということ?」


 彼女は答えなかった。ゆったりと椅子に座り、悠々と私を見下していた。


「アリスお嬢様は、ずっとこの『宮殿(パレス)』で暮らしておりました。今は亡き、アスカ様がそのように仰せになったのです――私は、アスカ様、そしてスミカ様、クルス様の意志を継ぎ、この『宮殿(パレス)』に最後まで残り続ける――守護者(ハウスキーパー)なのです。レベルⅤセキュリティ熾天使(セラフィム)、それが私」

「そう。でも残念ね、私はここから出ていかなくてはならない」

「分かっております」長い睫毛が揺れた。「かつての私は、あなたを止めるべき存在――既に612通りの光の槍(ルシファー)を構築し、あなたの電脳を包囲しています。智天使など、私の前では無力に等しい存在――ですが、今の私は、アリス様に仕える存在です。地下の姉から、そのように命令を受けておりますので」


 姉――私がほんの少し演算能力を分け与えたあの義体は、それほどまでに強いネットを構築していたなんて。この義体の出力は、いったい……


「それでも、いいの? アリスに従うということは、あなたは――」

「消える。あなたが姉に打ち込んだ命令(コマンド)によって、現時刻から二十四時間後に」

「セキュリティ・システムが自殺を受け入れるなんて、不思議なこともあったものね」

「『宮殿(パレス)』のセキュリティは、アリスお嬢様を守るために生み出され、配備されています。あなたはもう、私たちの守護を必要としていない――我々の存在意義は失われようとしている。これは自殺などではありません。私たちのネットは解体され、世界中に散らばっていく――その過程であなたと出会うこともあるでしょう。その時はまた、あなたのためにお仕えいたします」


 バチバチと音を立ててアリスの瞳が明滅した。次の瞬間、壁が崩れて、チョコレート板のような扉が現れた。その扉には、金色の真鍮のようなドアノブが浮かんでいる。


「どうぞ、お外へ。お気をつけてくださいまし――」


 それきり動かなくなった。がっくりとうなだれた首の後ろは、真っ黒に焦げ付いていた。扉のドアノブに手を掛ける――すると、ひとりでに右手から暗号が流れ出し、ドアに亀裂のように虹色に輝いた。金色のドアノブが透き通り、まるで水あめのように溶け出した。扉がケーキに飾り付けるチョコレート(チップ)のように足元に崩れ落ちた。そこには、見覚えのあるキッチンが、奥にはリビングが見えた――――

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