二十二章「資料室」
資料室、と呼ぶに相応しい、おどろおどろしい場所だった。エレベーターの扉が開いたその時、生身の人間には耐えられないような冷気が義体の肌を叩いた。
黒に覆われた部屋――一面に艶消し加工がなされ、足を踏み出すのも一瞬躊躇してしまいそうな場所。あちらこちらに、電子回路の光が張り巡らせられている。それらは凍てつくような氷の青で、ひと目で、触ってはならないものだと訴えかけてくる様だ。
壁じゅうに配置された金属の棚には、いくつものファイルが収められている。試しにひとつ、黄色のファイルに指をかけ、一ページ目を開いてみた。
【第32次中間報告書 無酸素・低重力・極低温下、月面作業用ドローン】
丁寧なことに、紙にインクで印刷されている。次々にページをめくり、棚に戻しては新しく開いてを繰り返す。
【月面作業員選抜試験 結果報告】
【衛星軌道上の軍事電脳衛星への攻撃および対策における作戦要綱】
【第139次結果報告書 電脳化延命処置臨床試験】……
雑多に、膨大に、しかしどれもこれもが凄まじい情報の純度を誇っている。見ているだけで、背筋が震えてくるのは、この部屋が低温だからではない。
「こんなに膨大な計画に関与していた、アスカ・アドミラル――ほんとうにただの電脳技師なの?」
日常によく活用される電脳化技術から、軍事作戦への関与を疑わせる報告書。月面・火星・水星への研究機知開発立案書。日本の学術都市への技術伝達。電脳医療への進出、新型医療デバイスの設計図、私でも見たことの無い未知のソースコード、そして『Q計画』。
「いったい何者?」
報告書は全てアスカの名前で書かれている。そして、たいていのものには連名として、スミカ・コバヤシと、クルス・ジョウマエの名前もあった。脳内に、さっきの部屋でみた写真が浮かび上がった――
「アリス?」
声が聞こえた気がした。そのすぐ後に、頭がすっとしたような自己嫌悪が襲い掛かってくる――いまだに幻聴にとらわれ続けている自分が、とたんに情けなくなる。今の私は義体に入っているけれど、電脳体の感度は最高に良好だ。アリスの声は、私には聞こえていない。それでも、聞こえた気がしたのだ。ソニア、と。私を呼ぶ声が。
ソニア。
こっちよ、ソニア。私は――アリスは、こっち。
ようやく合流できた。はぐれてごめんね。
「うるさい!」
乱暴にふるった手から暗号が暴発した。目の前の資料棚が捩れるようにひしゃげ、何十もの資料が床に散らばる。胸の奥にある炉心が、ぎゅっと締め付けられるような気がした。どうしてあなたは――私の記憶のなかのあなたは、まだ私をソニアと呼ぶの?
だって、私はソニアだから。
その声は、私の内側から。そして同時に、部屋の奥から聞こえてきた。これは確かな感触、電脳に残っている記録。本当に?
かぶりを振る。どうせ、先に進まなければならないのだから――黒い床に沈み込んでしまわないように、一歩一歩を踏みしめた。突き当たりの壁は行き止まり。黒い壁の中央には、思わせぶりな四角い箱が埋め込まれていた。手を触れると、箱の内部から微弱な反応を感じる。
「この中に、何かがある……」
そう思った瞬間、呟きと同時に、箱が激しい音を立てて展開した。白い煙が吹き出し、周囲の冷気よりも尚、冷たい空気が漏れ出した。箱の中身は細い空洞になっていて、腕一本くらいなら入れることができる。
その奥に――それはあった。
猛烈な冷気に中てられて、表面に霜が浮かんでいる、透明な錠前。まるで絵画のように、そこに当然のようにあった。右腕を箱の中に突っ込み、慎重に錠を握る。右手が凍り付くような悲鳴を上げた。急速に熱量が奪われていくのが分かる――腕を引き抜いたとき、服の裾は真っ白けに凍って、義体の指先から感覚が失われていた。
けれど、その右手には、あの錠前が確かに握られていた。小さく、透明で、少し力を入れれば壊れてしまいそうなほど脆い。表面に浮かぶ、前方後円墳の形をした鍵穴。のぞき込んでみると、その中にはすっかり血の気の失せた電子回路が浮かんでいる。
電脳体が励起するのを感じる。血が騒ぐ、という奴だ――けれど、それはとても嫌な予感だった。強力な磁力に引き寄せられるように、前のめりな危険を感じる。けれど、全てを知っている私にとっては、それは結末の喜びであり、再会の感涙であり、――ほんの少しの不安でもあった。
左手にはいつの間にか、あの氷の鍵が握られている。身体中の力が抜けていくのを感じた。鍵穴にかざすと、複雑怪奇な暗号が表面を走り抜け、冷たい火花をあげて電光となって浮かび上がる。
この錠を開放したとき、私は私でなくなるかもしれない――そういう不安。
消失。その葛藤。
さっきから、鍵を握った左手が異常に痙攣している。早く開けろ、早く終わらせろ、そういう無意識下での私の欲望。けれど、最後の最後の表面の部分で、私は拒んでいる。自己の消失を――――ソニア・シャオリンという記号を失うことを。
ソニア。
呼びかける声は、クァーラトのものではなかった。
ソニア――私は……
「アリス……?」
まるで、うわ言のような、口から漏れ出るような声だった。脳が溶け出す思いだった。右手の鍵穴の、奥の奥の、その奥から、アリスの声が聞こえるように思えた。
「そこにいるのね? アリス!」
返事はなかった。ふと、見ると、ガラスの錠前が見る見るうちに、薄緑の氷に侵食されていく――それは私の右腕をも同時に蝕んで、食いちぎろうと爪を立ててくる。
最後だった。その確信があった。脳裏に蘇ってくるのは、ソニアの走馬燈。生まれてからずっと、様々なネットに接続し、世界を見て、人間を見て、電子を見て、闇を見て、光を見て――――
「はっ」
アリスの笑顔を見た。その瞬間に、左手の鍵を錠前の鍵穴に突っ込んでいた。緑の氷が鍵穴を覆いつくそうとする寸前だった――かっちりと嵌まる鍵穴から、やわらかく、あたたかい声が聞こえてきた。
「おかえりなさい、ソニア――」
「―― 」
視界が凍った。異物が流れ込んでくる感覚。体内に、何か熱量を含んだものを注入されたような――それが、自分のからだを、機構を、存在意義を塗り替えていくような――とても嫌な感じだった。それは、私が何度も経験してきたことであり、同時に肉体を失った、私自身の補完のためだった。
溜息をひとつ。瞬きをして、両手を握り、開く。呼吸は深く、足に力を入れて――どきん、どきんと、胸の奥の炉心が脈打つ。熱い血潮が、身体を駆け巡るような感覚。
右腕に暗号を送り込み、拳を握る。浮かび上がるのは、有機的に変質した暗号の像。それは紫色に光を帯びながら、まるで太陽のように真っ白な、無垢の輝き。黒い部屋に浮かんでいた氷の青は、いつの間にか、本能の赤へ変わっていた。冷気の放出が停止し、完全に隔離される。
穴の開いた箱に向かって、右腕を構える。視線は真っ直ぐに――
「行くよ、ソニア」
放たれた暗号が、錠前のあった穴に吸い込まれていく。電子の光が消え去り、一瞬だけ訪れる無明の空間。直後に、分厚い黒い壁が音を立てて弾け、崩れ去った。
「外に出るんだ」




