二十章「デッドエンド」
意識が覚醒したとき、私は立っていた。物理的な穴による落下の衝撃は、肉体から離れて電脳体として活動している私には、まったく関係のないことだ。そこは、まるで誰かの寝室――豪奢な天蓋のついたベッド、周囲を取り囲むのは、未だに電子の光を灯らせているサーバーの数々。壁は、赤褐色の壁紙で取り囲まれ、ふかふかとした高級そうな絨毯が敷かれている。壁には見たことの無い旗が飾られている。
洋服箪笥の上に、さっきの写真が飾られていた。中央で屈託なく微笑むアスカ――その両隣に、戸惑ったような顔を浮かべるクルス・ジョウマエ。そして、静かに笑みを浮かべるのは、私の母親ということになっている女性――スミカ・コバヤシ。
見たことも、聞いたこともないのに、なんだろう――きっと、前世の記憶というものがよみがえるときは、こんな感じなのだろうか。記憶や経験、情報だけでは決して感知できない、遺伝子とか、魂とか、そういう領域での違和感。細胞のその内側から沸き起こってくるような、むずがゆさ。
天井には豪奢なシャンデリアと、その横にぽっかり空いた黒い穴が開いている。私はあそこから落ちてきたようだ。
『宮殿』の設計図を確認――ここが一階の最東端の部屋。アリスがいるという資料室は、このすぐ下の階にある。
「どうやって、下に向かおうか」
当然のようにこの部屋にも、外へつながる扉や窓は無い――ひどい欠陥住宅だ。ここで、誰がどうやって寝るというのだろう? しかし、目に見えるもの、耳で聞こえるものに頼っていては、いつまでも先は見えてこない。
部屋の内部を電子的にサーチ。すると、ベッドの中からその反応が現れた。棺桶のような形をした寝台――固く閉ざされたような木目が、何十の鋲で打ち付けられている。この中から、微弱な電脳反応が感知できる。
「中に何があるだろう?」
外からでは、なにもわからない。特殊な物理結界が張られているようだ。何とかして、物理的にこじ開けるしかない。幸いにして鋲は錆びつき、木はぼろぼろになっている。物理的な干渉手段さえ得れば、壊すのはたやすいだろう。
ひとまず、ここは後回し。
壁際に安置されたサーバーに手をかざし、内部への侵入を試みる――当然のように防壁が展開され、容易なアクセスは阻まれる。私は目を閉じた――智天使の座へ侵入。このサーバーのセキュリティを、内部から開放する。
「侵入する」視界が錐揉みして鋭く途切れた。
――ようやく、君と繋がった。
「何しに来たの」サーバーの内部に侵入したとき、脳内にクァーラトの声が響いた。「出ていきなさい、いま忙しいの」
ソニア。君の肉体が、生命活動を停止したぞ。
「え?」
心拍なし。呼吸なし。蘇生を試みたが、効果がなかった。
君の身体が死んだ。
「じゃあ、どうして私は生きているの?」
分からない――君は肉体を直接『宮殿』に接続しているはずだ。
君がこうして電脳体として活動できているのは、おかしい。
肉体が失われた今、どうして君は活動を停止しない?
「――――、まあ、いいんじゃないかしら」
ソニア?
「いい機会だし、次は身体を義体に乗せ換えるわ。こうして私が消えていないということは、私の電脳は、まだ生きているんでしょう?」
その通りだ。いまは肉体に道連れにされないように、君の脳を僕の電脳に接続している。
「それで、あなたが入ってきたってことね――クァーラト」
そういうことだ。僕がここで切断すれば、恐らく君の電脳体も死ぬ。
「そのまま、そこにいて。私に何かが起こったとき、即座にそっちに逃げられるように」
現在の君の位置は、把握しているが――何があった?
私に見えているのは、どこまでも広がる真っ白な空間だけ。まるで、別の宇宙に迷い込んでしまった時の様だ。しゃがみこんで、今立っている場所に触ってみる――すると、勢いのままに右腕がすり抜けて、私はその場で骨盤を軸に一回転した。私は今、ここに立っていない。ここには上も下も、何もない。
視線誘導コマンド。空間の詳細をサーチ――何も反応がない。
「まさか――なにもない?」
恐らく、何らかの資料が残されていたんだろう。
「ここに資料が保存されていたけれど、何かがあって消去された」
そうだ。恐らく、君が原因だろうね。
「だから――勝手に記録を読まないで」
君が月面基地を陥落させたことで、貴重な研究資料まで奪われてしまうことを恐れたんだ。
恐らく、物理的な媒体にフォーマットされ、保存されているはず。
「それが、資料室ってことね」
退出――再び部屋の中に戻ってくる。私はいったん立ち尽くし、溜息をついた。他の手がかりは残っていないだろうか?
壁を睨むように歩き回ってみる。箪笥の中に何が入っているか、調べてみる。もう一度寝台をくまなく探してみる。物理的な身体を喪失したことが、こんなに不便だとは。
「ん」
――目に留まったのは、身長五十センチくらいの高さの人形だった。フリルのついた青いドレス、金色の長い髪。相当な懐古主義のものだが、意識を凝らすと、この中に広がる領域を感じる。
「贅沢は言っていられない、か」
目を覚ますと、私の身体は、糊付けされているように固い。手はまるで作り物のように小さく、視界は朦朧としている。歩き出そうと足を踏み出すと、長いスカートの裾を踏んずけて転びそうになる。
――不便だな……あれ?
声が出ない。どうやら発声する機能は搭載していないようだ。
ここから見ると、まるでスパイ映画のような景色。スカートの裾をつまみ、箪笥の上から飛び降りる――大変な衝撃が、私の身体を叩いた。そのままバランスもとれず、身体を強かに打ち付ける。この人形にはもちろん痛覚機能も無いので、痛くはないが、衝撃音だけが作り物の身体を叩き、不快な音が電脳体に響いた。
小さな体で見ると、随分と大きな部屋だった。私はまず、固い木の寝台へ歩み寄る――歩幅もたいそう小さいので、それだけでも凄まじく時間を浪費した。寝台と床の間には、狭い穴の隙間が空いていて、この身体なら匍匐前進で下に潜っていけそうだ。
――不格好だなあ。
良い格好だね、ソニア。
――邪魔しないでよ。
ベッドの中央、その底に小さなプラグのようなものがぶら下がっていた。巻き取り式のもので、恐らく電源を取るためにあるようだ。そこから天蓋の内側の間接照明や、アラーム機能を使うのだろう。また匍匐前進でプラグを抱えたまま、今度はアウトレットを探すために歩き回る。
ふだんは手のひらで握れるサイズのプラグは、このサイズでは湖の乙女よろしく、両手で抱えて歩き回ることになる。『宮殿』の配電図をチェック、この部屋の電源アウトレットは、
――ここだ。
箪笥のすぐそばにある、円形に黒くくりぬかれた床。両手で作動させると、でんぐり返しのように半球状のデバイスが現れた。プラグを差し込むと、バチッという小さな音と共に、真っ青な火花が散った。
ガタガタと、寝台の内側で何かが震える。私は人形の小さな関節をいっぱいに広げ、手のひらを翳した。このデバイスを経由し、電力線を介して、内部の電脳反応を感知する。
目を閉じる機能が搭載されていたのは幸いだった。集中して、意識を没入できる……




