十九章「氷の鍵」
言っている意味が、よく分からなかった。私がアリス――私の肉体は、アリスのもので、じゃあ、仮想空間で出会った、この『宮殿』の中ではぐれたアリスは、いったい誰?
「混乱するのも無理はないわね」アスカはゆらっと立ち上がった。紫色の裾が、電子の風に揺れる。「ソニア・シャオリン。あなたは『Q計画』によって生み出された、私たちの研究成果――その第一号なの。
『Q計画』とは、電脳体のクローニング技術の開発・運用を実用化するプロジェクト。個人の電脳体の複製は、それまでは論理結界の存在と容量の問題から不可能とされてきた。私たちに課せられたオーダーは、その問題を克服し、個人の電脳体を遠隔地へ送り込むことだった。私とスミカが基礎コードを書き、実験のための義体をクルスが作った。最初の被験体――電脳体のオリジナル――には、私の娘であるアリスが選ばれた。彼女は、電脳を扱うことに昔から稀有な才能があった。彼女の電脳体を肉体から分離させ、別の義体に乗せ換える実験は、ちょうど彼女が六歳の時に行われた。散々のシミュレーションの結果、アリスは実験に高い親和性を示していたの。
実験は、アリスが七歳になったときに行われた。肉体から電脳体を分離させ、細切れにしたそれを剥離し、別の義体に定着させる――そうして生まれた個体を、私たちは『クァーラト』という仮称で呼んでいた。それは、旧い言葉で城砦という意味よ。
けれど、実験は失敗だった。アリスの場合、本来なら行われるべき能力の移植がなされず、人格と共に電脳の処理能力まで分断されてしまったの。結果として、義体に移し替えられた魂には、アリスの記憶が残っていても、それまでの電脳力は期待できなかった。代わりに、肉体に残留した魂には高度なネットが広がっていた――それらは、アリスという人格が剥離したことで、より無垢で、ささくれ立った広がりを見せていた。代わりに、アリスの記憶はほとんど残留しなかった。私たちは、その肉体に残留した自我にソニアという名前を付け、スミカの娘として私たちが養育した」
「それじゃあ、クァーラトというのは――」
「あなたが出会って来たものは、また別の個体よ。アリスの失敗を踏まえて、第二次実験で作り出されたもの。その被験者は、私――基礎コードの改良や実験の手法などを見直した結果、私の記憶と電脳力をほぼそのまま引き継いだ『クァーラト』を、十三体つくりだすことに成功した。それらは、一旦義体に定着し、固有の像を持たせた後、電脳世界を彷徨いながら、おのおのに経験値を獲得していったわ。そうして固有の自我を持たせ、人間と同じような挙動をマスターしたところで、月面の基地へ送り込み、プロジェクトに従事させる手はずだった。
ちょうど、その頃かしら。あなたが行方不明になったのは」
「あなた達に育てられていたっていう、私が?」
「誘拐されたの。中東アジア、回教圏の犯罪シンジケート――肉体年齢が十歳に達する前のことだったわ。そこであなたは暗号屋としての技術を磨き、世界各地のネットで電脳犯罪を起こした――」
慌てて電脳の記録を確かめた。私と共に仕事をした人間、私に仕事を依頼した人間、私と戦ってきた人間――ありありと、顔と声が思い浮かぶ。けれど、そこにはアスカや、スミカの顔がなかった。
「あなたの記録に私やスミカの姿がないのは、恐らく組織に意図的に消されたから。そして、自分の意思の赴くままに様々なネットを荒らし続けた――私たちが建造を進めていた月面基地も、あなたの攻撃を受けた。結果として基地は稼働停止、放棄するに至り、十三体いたクァーラトのうち、四体が消滅し、六体が私たちの制御を離れ、脱走した……残ったのは三体だけ。私は、そうして残ったうちの一体――進化の結果、アスカ・アドミラルの人格を、もっとも色濃く反映した『クァーラト』よ」
「本物のアスカは?」
「とっくに死んでいる。彼女の魂と呼べるものは、既に存在しない――『クァーラト』はすでに、完全に独立した知的生命体として、個別に活動し続けている。魂という重力が消失したことで、もう、集まり合うことがない……
けれど、あなたとアリスは違う。あなたは魂を持ち、今もこうして生きている。物理的に距離を隔てていても、ネットを介してあなた達は自然に引き合い、この『宮殿』で出会った」
「『宮殿』って、いったい何なの?」
「アリス――義体に入った、もう一人のあなた――を、守るための要塞。同時に、私たちの研究を外に漏らさないための牢獄。
月面基地が放棄され、アスカ・アドミラルが死んだことで、『Q計画』は完全に頓挫した。スミカ・コバヤシは、責任を取って処刑され、クルス・ジョウマエは忽然と行方をくらました。そして、莫大な研究資料だけが残された。アスカは、私に最終命令コードを残していたわ。それが『宮殿』の管理――彼女が残した研究成果と、残り二体のクァーラトを閉じ込め、外部のネットに漏れ出ないように厳重に閉鎖しておくこと。同時に、アリス・アドミラルを、あなたに引き合わせないために守ることだった」
「どうして……?」
「あなたとアリスは、魂の重力で引き合う運命にある。あなたの電脳力が行使されるたび、バタフライ効果のように電脳世界に揺らぎが生じる――アリスはその余波を受けて、徐々に能力を覚醒させる兆しを見せていたの。そして、夢を見るようになった。リヒター効果に逆らい、ソニア――あなたの獲得したネットに、無意識下でアクセスするようになった。
それは、とても危険なことだった。アリスの記憶が消滅し、ソニアと統合することを意味していた。肉体――つまり魂――の主導権は、あなたにある。アスカは、それを阻止しようとしていた。娘の記憶を、最後まで保存しようとしたの。
けれど、ここにあなたが来た。そして、私の『宮殿』を、次々に攻略していった――私は命令を遂行できなかったわけ。そして今、あなたとアリスは、再びひとつに融け合おうとしている……」
長い話が終わり、私は言葉が出なかった。
私は、アリス――アリス・アドミラル。
ソニア・シャオリンという人間は、世界のどこにも存在しない。それは、この肉体からアリスという記憶を剥がして生まれてきた別のナニカに、借りに付けられた記号――胸が苦しくなるような思いがした。反対に、頭蓋骨の関節が解け、脳が境界を失って大気中に溶け出していくような気がした。足だけが、きちんと力を込めて、そこに立っていた。
アスカ――クァーラトは、長い睫毛に憂いを帯びさせて、溜息をついた。
「すべて、分かったでしょう?」
「わからない」私は彼女を真っ直ぐに見据えた。「わからない――私とアリスを引き合わせるのを阻止するのが、あなたの、この『宮殿』の役割なら、どうしてあなたは私に、アリスの居場所の手がかりを教えてくれるの? それは、アスカの最終命令に反する行動なのでは?」
「私はアスカから生まれた、別のアスカ。けれど、私はアスカ・アドミラルという肉体をもった存在ではないの」
彼女は座り込んだ。光の柱から、徐々に白い光が失われていく。周囲の風景が霧散して、柱に収斂していくように吸い込まれていった。次の瞬間には、そこに広がっていたのは、あの畳敷きの小さな部屋だった。
「あなた達は、どちらもアリス。けれど、散々のままでは、アリス・アドミラルという、かつて存在した人間にはなれない――これもアスカの意志のひとつ、彼女の葛藤の選択肢の――アリスには、本来あるべきだったアリスらしい、人生を自由に送ってほしい。それが、私という個体が持つ願い」
「勝手すぎる! 自分で娘の人格を引き裂いておいて、今更元に戻ってほしいだなんて」
返す言葉もない、という風に彼女はうつむいた。
「理論上は、あなたが生まれるはずはなかった。全ての能力と記憶が肉体に残留したまま、同じものを持った電脳体が剥離するはずだったの。けれど、そうはならなかった。原因不明の失敗だった」
「失敗作として生まれた私に、そもそもの計画を頓挫させられるなんてね。自業自得もいいところ」
囲炉裏に突然、火がともった。薪が爆ぜる音と共に、小さな蟲みたいな火の粉が舞い、アスカの顔を赤く照らした。
「アリスの所に行く」私が言うと、アスカが安心したように微笑んだ。「勘違いしないで――私は、アリスのことが好きなの。友だちだから……それに、私はソニア・シャオリン。暗号屋として、受けた仕事は必ず遂行する」
『宮殿』の攻略。
それは、ソニアの存在意義にも等しいのだ――きっと。
アスカはのっそりと立ち上がり、部屋の隅にある畳をひっくり返した。そこには、真っ黒に煤けた木の板の扉が据え付けられている――開くと、そこには先の見えない穴と、どこまでも伸びていくようなタラップが続いていた。
「ここから下へ」
「『宮殿』のドメインを書き換えたの?」こんな場所は、発見できなかった。
「もともと、書き換えられていたものを復元させただけ。ここは電子的には袋小路。けれど、物理的には先へ続いているの」
アスカが両手で水をすくうような形を作り、私の目の前にかざした。半分だけ目を閉じ、吹雪のような光が明滅する――英語と数字と、キリル文字。それから漢字が螺旋のように渦を巻いて、光に変わっていく。徐々に形作られていくそれは、小さな鍵のような形をしていた。
「持っていきなさい――これは、私のドメインの最奥部に安置されていた暗号。何かの役に立つはず」
指先でつまみ取る。婚約指輪のような穴に、無理やり棒をくっつけたようなフォルム。光にかざすと、黄色や緑、青に複雑に輝く――電脳物質のはずなのに、ひんやりとした手触り。まるで、何百倍にも圧縮した氷のような。
「行きなさい、ソニア」
「……、ありがとう。必ず、アリスを見つけてみせる。あなたのためじゃない、私のために」
鍵を電脳体にインストールすると、身体がひんやりと冷たく、他の空間との境界を隔ててくれた。私は穴に飛び込み、電子の速さを得て向かう。
最後に穴の上を見上げると、アスカは――今にも泣きだしそうな顔で、私を見ていた。




