一章「マンダラ」
かつて、私もちょっと「ワルさ」をしていた時期があった。少女からおとなへ移り変わるとき……幼さと若さの中間くらいのころ。思い出したくない記憶というわけでもないけれど、自慢するほどでもない。ソニア・シャオリンという少女はかつて、世界中のネットを荒らして回っていた。
理由は特にない。目の前に解の部分が空欄の計算式があったから、解いてしまわずにはいられなかったというだけの話だ。そして私は、たまたま計算が得意だったから――そして周りには、難しい計算を解くほど私をほめてくれる人があふれていた。前に出入りしていた仮想空間のコミュニティで、依頼されたとおりに鍵を開き、壁を壊していた。それによって、苦労とはとても見合わない莫大な報酬を得ることが出来た――それが違法な行為であったことは知らずに、ただ好奇心の赴くままに式を解いてきた。電脳軍隊に追い回された時期もあったけれど、なんとか逃げおおせて今もこうして生きている――
その過程でいろいろなものを失ったけれど、命あっての物種という。
リビングから扉を一枚隔てたエントランスホールの、更に奥の部屋へ向かう道筋を頭の中に思い浮かべる。壁に手を触れると、あたたかみのある大理石の感触は一瞬で、柔らかいガラス細工のように冷たく、軽いものに変わる。半透明の壁の中を、青と緑の稲妻のような光が、水を得た魚のように跳ねまわる。
「なにをしたの」アリスが疑るような視線を私の背中に投げる。何のことはないのだ、声をかけるように、視線を投げるように、ただ意志を持って触れるだけ。その感覚は、なかなか普通の人間がつかめるようになるには、時間のかかることなのだ。
「簡単なことだよ。口や目や、耳や……指先をそういうものと同じように使うってこと。赤いものと青いものを触ったとき、同じなんてことはありえない。あらゆる感覚を駆使しないと、たぶん、この『宮殿』を攻略することはできない」
「何のために?」
「分からない」ただ、暮らすための家に、ここまで複雑な機構を施す意図は確かに分かりかねる。侵入を拒むというのならわかる。しかし、私はこうして声紋照合だけで、簡単に入り込めた。エントランスホールからリビングへ入っていくためには、何ひとつ困難なことはなかった。
髪の毛がビリビリ引っ張られるような気がした。
「行ってみよう」アリスの手を引いて、リビングから引き返し、キッチンへ向かう。まだ明るい部屋には、さっきまでアリスが淹れていた、コーヒーの香りがわずかに残っている。床に取り付けられたカバーを開くと、そこから下へ向かって階段が伸びていた。
アリスは驚愕を顔に浮かべていた。
「こんなの、見たことない」
「このカバーがあった事にも、気が付かなかったの?」
「ううん、でもここには収納があったはず。小麦粉や缶詰をしまっていたはずなのに……」
私を先頭に、黒く塗られた階段を下りると、すぐ下に部屋があった。空間を指先で突くと、そこにホロ・ウィンドウが広がる。
「ここが、リビングの真下の部屋だ」
そこは黒い木で覆われた、光の一切差し込まない部屋だった。家具は一切無く、ただ四角く囲まれた輪郭だけが、闇の中でうっすらと見える。扉もない。窓もない。床には赤と緑でサイケデリックに彩られた、悪趣味な曼荼羅が描かれた絨毯が敷かれている。
「ここは、何の部屋?」
「ううん、わからない。初めて見た」
「ほんとうに、知らないんだね……」
「こんな場所があったなんて。でも、行き止まりみたい」
アリスも私のまねをするように、壁に手を触れて、軽くさすってみたりする。私もそんなアリスを真似て、壁に触れてみた。黒い木の板は、重くしっかりとした感触を持ち、とても付け入る隙がなさそうだ。
私は神経を巡らせて、何もない部屋をぐるりと見回した。ここには何がある? まさか、本当に行き止まりなのだろうか。
「これ……」アリスがふと、部屋の中心――曼荼羅の中央にしゃがみこんで、手を触れた。「どこかで見たことがあるような、気がする」
印度神話でも、波斯神話でも見たことの無い、面妖な神々が四方に配されている。それぞれ、捩れた剣や曲がった槍を持ち、不気味な表情で目を半月状に浮かべ、笑っている。外周を四足歩行の動物が行列を成し、翼をはやしたドラゴンが炎を吹いて、尻尾に稲妻をまとっていた。
「お父さんの趣味?」
「違うと思う。父さんは絨毯とか、そういうのを集める人じゃなかった。母さんも違うかな」
「据え置きのインテリアってことかな」
試しに絨毯の端を持ってみると、何らかの力で床に張り付いていて、引きはがすことが出来ない。アリスはあちこちをうろうろしながら、
「ここには何もないのかな」
そんなことはない、という勘が、私にはあった。あの感覚に似ている――白い紙に、黒い文字で、途方もない――それまで見たこともないような記号や言語を用いて書かれた数式がある。何に使うのか、分からないような言葉でも、あれこれいじって、分解していくと、ある時かちっと嵌まる。頭の中でパズルが組み上がるように、黒い文字にオレンジ色の輪郭が浮かび、ライト・グリーンとモス・グリーンのグラデーションを帯びる。
そういう色を含んでいる、という、感覚。予感でしかない。根拠もない。
アリスは壁に手をつきながら、部屋の外周をなぞるように歩きまわっている。
「そうだ」私の言葉に、アリスははっと立ち止まった。言葉より先に、肺から空気が漏れて喉を震わせる。「そのまま! きっとここは迷路なんだ」
「迷路って?」途端にアリスの表情が曇った。「どういうこと?」
「閉じられた部屋に見えるけど、どこかに繋がってる。ここはエントランスホールみたいに、部屋と部屋をつなぐ通路のようなもの」
私はアリスのそばに駆け寄った。彼女の左手を、自分の右手で取る。アリスの指はほっそりしていて、ちょっぴり冷たかった。
「そのまま、壁に手をついて、壁から手を離さないように歩くの――大丈夫、きっとどこかに繋がっている。それに、私がついているから大丈夫」
アリスは無言で頷いた。私は目を閉じて、視覚に流れ込む嘘の情報をシャット・アウトする。手を引かれる感覚に従って、ゆっくり歩を進める。最初は転びそうになりながらも、手を引くスピードはすぐに私の歩くスピードとほとんど同じになった。壁を曲がるとき、ぎゅっと少し強く手を握られる。合図なんて、決めてもいないのに。それがちょっぴり、嬉しかった。瞼を下ろすと、肌をなめるような真っ赤な炎が広がる。アリスはぐんぐんと歩いていくが、不意にするりとその手が抜けた。
「アリス?」返事はなかった。あたたかい肌の気配は、炎に紛れて消えてしまう。私が目を開くと、アリスは影も形もなかった。
「どこに行ったの?」
キッチンから繋がっていた扉が閉じられていた。それどころか、階段そのものも消えていた――取り外せるようなものじゃない、きちんと据え置かれた階段のはずだった。無明の四角い箱の中で私は立ち尽くした。
耳がじりじりする。脳裏に『宮殿』の設計図を思い浮かべる。ここはリビングと繋がったキッチンの真下の部屋――眼球が二ミリほど揺れると、ページがばらばらとめくれる。『宮殿』の配管図がびっしり記されたページによれば、この部屋の中は樹海のように数々のパイプが通っているらしい。それらは地下まで貫通していて、この部屋には歩き回れるような空洞はないようだ。
地面の曼荼羅を見た。さっきまでとは、微妙に模様が違っていた。それは見る方向が変わったからだ。ずいぶん歩き回ったように思えたが、ほんの少ししか移動していないようだった。笑いながら長い草刈り鎌を携えた女性の、その部分にしゃがみこんで触れると、わずかに部屋の一部が光り出す。壁の木板がせり上がり、黒い金属質の扉が現れた。
観音開きの扉で、真鍮のような取っ手に半透明なガラス製の錠が取りつけられている。前方後円墳型の鍵穴を覗きこむと、そこに穴やシリンダーは見えない。これは見せかけであり、あからさまな像を伴って現れるのは、開くことが前提のつくりだからだ。開いてほしくない扉なら、鍵や閂なんて見せなければいい。
鍵穴の辺りを指で触れると、キャンディのように有機的な肌触りがした。ホロ・ウィンドウが開き、見たこともない暗号がスクロールしだす。キリル文字とハングルが数字で結びついた、言語としては成り立たない羅列。
「簡単だね」
左右の手をかざすと、光球が浮かび上がり、やがて円盤状のホロ・キーボードがあらわれる。スクロールし続ける暗号へ介入し、左手を捻って解読しながら右手で解答を打ち込んでいく。視線誘導コマンドを打ち込むと、画面に二つの赤い点が現れる。楔を打ち込んだようにウィンドウのスクロールが止まった。こうなれば後は簡単で――
こめかみを汗が伝う。この感覚――脳の血管に、新しい液体を流し込んで行くようなこの感覚。使っても使っても、新しい領域をどんどん広げられる脳という無限の荒野を開拓していくようなこの感覚。たまらない――これだからやめられない。
最後のコマンドを打ち込むと、プレッツェルの折れるような音と共に錠が開いて床に落ち、こなごなになって消えた。身体いっぱいに麻薬が広がるような、爪の先から電気が走るような……
アリスはどこに行ったのだろうか。