十七章「囲炉裏」
目を開く。女の姿が消えていた――視界が揺らいだ。耳の奥に響く甲高い音声――電脳体の変質を確認。既存アルゴリズムとの情報齟齬によるエラー報告、八九一六件。
胸に手を当てる。手のひらにかざした暗号を、心臓に触れさせるように――アルゴリズムの同調を開始。自律コマンドを配置――修復を開始。
両腕を視界にかざす。淡く、緑色に輝く肌が目に入った。やけに色白で、血の気を感じない。どうせ血管の通っていない電脳体だが、いまの状態を保持したまま肉体に戻ったとき、拒否反応を起こしたりしないだろうか。
「その時こそ、義体に乗り換えようかな」
修復完了。アルゴリズムの同調を確認。三ミリ地面から浮かび上がるような高揚感をおぼえた。
智天使の座――セキュリティ・システムの中枢だろうか――へアクセス。新たな情報野を確認、ネットの拡大変容を探知、侵入。『宮殿』じゅうに意識を張り巡らせる、その感覚はより鋭敏に、より細かく、より広く――
殺風景な、この部屋を見回す。家具も何も配置されていない。扉も窓もない。あの、曼荼羅の部屋を思い出した。『宮殿』の配置図に従えば、この部屋の真下には、あのプールの部屋がある。三階を貫くように広がっているのは、クァーラトが散々駆け回った画廊。すぐ隣にはエントランスホール。
「こっちか」
女が入り込んできた壁の、虹色に輝く罅割れ。軽く拳で叩くと、すんなりと黒塗りの金属質な扉が現れた。しかし、ドアノブがない。単なる板切れだった。『宮殿』内部の反応を探る――電脳体の活動は確認できない。他のセキュリティ・システムたちの稼働も確認できなかった。唯一あるのは、地下階の最西端の倉庫――私の肉体と、クァーラトの反応だ。
「じゃあ、アリスは――」
ここにはいない?
「いや、そんなはずはない」予感があった。「どこかにいる。電脳体の活動が確認できないなら――どこかに隔離されているとか、あるいは凍結されているとか」
クァーラトは言っていた。自分が入ったとき、アリスは既にいなかったと。強引に、電脳体をログアウトさせられたと。それをしたのは、「あっちの僕」だと。
予感に、確信が追いすがってきた。『宮殿』じゅうのネットに意識を同化させている今だから分かる――このドメインは、外部のネットに接続されていない。物理的な身体を喪失したアリスが、ここから出ていく術はないのだ。
右手に拳を握り、強くぶつけると、黒い扉が解けるように崩れていった。この、全能感にも似た心臓の高鳴り――もしかしたら、とっくに肉体の心臓は、止まっているかもしれないけれど。
○
そこは小さな六畳間だった。電気照明はなく、小さな窓には障子が掛けられ、淡く陽光を部屋の中に取り込んでいる。茶色くすすけた、漆喰の壁。腰の高さくらいの小さな本棚に、並べられた古ぼけた文庫本。ふり返ると、私が通ってきたはずの場所に扉はなく、薄いタッチで描かれた水墨画の掛け軸が飾られている。
瞬きをひとつ、視界が移り変わる――部屋の内部のあらゆる信号を探知。電気、空調、熱、電脳――
「こんなところから?」
鉄瓶がぶら下げられた、懐古趣味の囲炉裏。知識でしか経験のないそれは、重厚な黒い鉄と、敷き詰められた灰と炭化した薪の色合いが、部屋の空気をぎゅっと収斂させているような気がした。しかし、これは本当の囲炉裏ではない。
指先で、鉄瓶に触れる。起動音と共に、何枚ものホロ・ウィンドウが立ち上がる――これはこんな形をしていても、れっきとした電脳デバイス。『宮殿』のドメインに接続している。
探ることはひとつ。何のためのデバイスか。
ホロ・キーボードを展開し、デバイスと接続。手のひらの中で、くるくると情報が回転する。唐突に、虚無感に襲われた。どうして私は、手先を動かして、わざわざこんな風に膝をついて、ホロ・ウィンドウとにらめっこしているのだろう――
デバイスの内部は、相当に強固なプロテクトが何重にも掛けられていた。中に、相当重要なデータが詰まっているということだろうか。
電脳体になって活動している私の認識において、ホロ・ウィンドウの中で羅列されるコードの数々は、同時に私の電脳体を刺激する。肉体の五感とは別の感覚において、五感的な情報を伴って表示される。私は今、宇宙のような場所に浮かんでいる。目の前には、鉄で作られた巨大な知恵の輪のようなオブジェが浮かんでいる。
そこには、「うそ漢字」が並べられた、奇妙な文字で形作られた結界が浮かび上がり、堅牢に私の侵入を拒んでいる。赤錆びた南京錠が何十個も引っ掛けられ、金剛力士の像がこちらを睨みつけている。竹林に風が吹くような、独特の音と、生涼しさ。
右手で触れると、ばちっと火花が爆ぜ、ノイズが走った。
「迂闊に触れない――セキュリティ・システムは掌握しているはずなのに」
これまで攻略してきた『宮殿』で獲得した経験値を暗号に応用すれば、アルゴリズムの解読じたいは簡単に行える。解読したら、それを破り、侵入していくだけ。しかし、プロテクト同士が複雑に絡み合い、相当に肥大化した暗号を練り上げる必要があった。
解読を進めていくうちに、ソースコードに既視感をおぼえた――二、三世代前のコンピュータによく利用されていたプロテクトだ。私が電子の海を駆け回っていたころ、よく見たタイプのコードで書かれていた。アルゴリズムを変換しているだけで、それなりに古い型。
「分かっちゃえば、かんたんだ」
プロテクト全体を構成するコードを把握。配置図をロード。手早さより、慎重な攻撃を。ひと文字、ひと文字の丁寧な構築――総面積は、これまでにないほど多くの桁数を示していた。これだけ煩雑に広がった暗号は、ちょっとした衝撃で細部が壊れてしまう。脳の血管をつっぱるようなイメージを保ったまま、更に細部にコードを書き加えた。
指先から、暗号をロードさせる――目まぐるしく視界が回転した。意識は、部屋の電脳体に回復する。ホロ・ウィンドウには、プロテクトを突破したことを知らせるメッセージが表示されていた。
内部データを開封すると、そこにはいくつかの文書ファイルが保存されていた。日付は、十年以上も前――そのうち一つをクリックし、開いた。
ユーザー名は、Asuka Admiral。
文書のタイトルは、こうだ。
【Project Q】




