十六章「智天使の座」
空気の壁に包まれていくような浮遊感。やがて、羽毛のようにふわりと足が地につくような安心感――目を開くとそこには、鮮やかな植物の色をしたマトリクスが絡み合い、流れ、渦を巻く空間が広がっていた。
足元に、魔法陣が浮かび上がる。蔦植物のように絡み合った「うそ漢字」のアルゴリズムに、私の感覚が解けていく。その中に、はっきりと浮かび上がる文字――palace。
「侵入した」
誰に向けたわけでもない。私を、私であるための呪文。滝のように渦巻く情報に飲み込まれて、ソニア・シャオリンが消えないために。
ここはまるで、広大な宇宙。私は、地面に立っているわけでも、空を飛んでいるわけでもない。ただ、そこにいる。周囲には、輝く銀河のように様々な情報が周縁し、繋がり、時に火花を散らしながら爆ぜる。
私は、その中心――ひときわ大きく輝く、太陽のように暖かい光を放つ恒星を目指す。足元に、川のせせらぎのように心地よい、電子潮流が流れる。追い風を受けて、空を飛ぶように、浮かび上がりながら駆けていくような感覚。
肉体という枷から解放され、純粋に、意志の力だけで仮想空間を躍動するこの感覚は、何度やっても心地よく、癖になる。時どき、生の身体で暮らしていると、生活の所作や動作が、どうしようもなく緩慢に思えてきて、耐えがたい屈辱を感じることがある。仮想空間に何十時間も入り浸っているような中毒者は、自分が肉体に縛られることを嫌い、意識を義体に移したがる。義体には筋肉もなく、疲労もない。
それでも違和感を払拭できず、肉体と意志の齟齬が我慢ならないものは、電脳覚醒剤で無理やり脳を起こす。暗号屋という連中は、大概そうして暮らしている。路地裏のバーか何処かで酒に浸りながら、ネットに没入して稼いだ金で薬を買って、その薬を使ってまたネットに没入する――頭がおかしい人間もどきばかりなのだ。
もっとも、私はそこまで腐っちゃいない。そうまでして脳のスペックを解放しないと、暗号をまともに練れもしない連中と一緒にされるのは心外だ。
「ここ、だ」
辿り着いた恒星は、白熱電球のように真っ白に光っていた。その周囲を、熱を可視化したような炎が取り巻いている。私が手を伸ばすと、意外にすんなりと道を示した。頭の中で暗号を練り上げる動きが、そのまま電脳体の動作に連動している。目の前に現れたのは、半透明に浮かび上がる薄いガラス。指先で触れると、そこには『宮殿』の設計図のようなものが次々に浮かび上がった。
電脳に保存されている設計図と照合――情報の一致を確認。各部屋の電力消費量、空調稼働率、監視カメラの映像、防犯用の感圧式センサの稼働状況――様々な情報が、事細かに表示されている。
「アリス――」電脳体に流れ込んでくる情報はきらきら輝いている。青々と茂った木の葉の隙間から漏れ出てくる陽光のように。「どこにいるの、アリス?」
『宮殿』の内部に意識を張り巡らせ、アリスの反応を探る。義体から抜け出し、どこかへ消えたアリスの電脳体――この『宮殿』のどこかにいるはず。電脳体である以上、何もない空間をそのままふらつくことはあり得ない。何らかの手段で、ネットに接続しているはず――この『宮殿』のドメインに、足跡を残しているはずだ。
目まぐるしい奔流に、押し流されないように。赤と青が複雑に入り組んだ、遺伝子構造のような渦が、きらきらと私の電脳体をすり抜けて、駆け抜けていく。
「――――いた!」
二階東側――エントランスホールのすぐ隣の部屋に、活発に活動する電脳体が存在する。焦点を合わせ、意識を鋭く尖らせていく。遠くを見ようとするのではなく、目を閉じて、より自分の内側を見ようとするような感覚。指先に、血流が集まってくるような気分だった。
○
自由落下から、地に足をつけるような感覚が少しずつ戻ってくる。『宮殿』に張り巡らされた生命線を辿り、部屋の内部へ侵入――ようやく人心地付いたような気分がした。
殺風景な部屋だった。薄暗く、コンクリートで覆われている。部屋の中央には、円テーブルと椅子が四脚だけ置かれていた。ポスターも、絨毯もない。私はそこに立っていた。肉体ではなく、電脳の身体で。意識も、感覚も、全てがそこに存在する、紛れもない「私」。
「とうとう、ここまでやってきてしまったのね」
声は背後から聞こえた。思わず身構える――混凝土の壁に、虹を切り裂いたようなひび割れが生まれた。そこからぬっと、這い出るように、あの草刈り鎌の女が現れた。二メートル近い長身、白い服、白い肌、真っ黒に濡れた瞳――ただ、私が散々壊してきたものとは、雰囲気が違った。彼女はじっとこちらを見つめ、明らかに意志の篭った声で私の名前を読んだ。
「出ていきなさい。ソニア・シャオリン――貴女はここにいてはいけないの」
「どういう意味?」
「貴女はここにいてはいけない。お嬢様のために」
襲いかかってくる様子はない。ただ、草刈り鎌を両手に握って、そこに佇んでいる。まるで生きているかのように――すでに視覚に仕込まれた暗号が、女の身体を隅々まで検索している。彼女は肉体ではなく、今の私と同じように、そこに映っているだけの電脳体だ。
「お嬢様って、アリスのこと?」
「出ていきなさい。ソニア・シャオリン」
「アリスはどこ――私はアリスを探しに来たの。彼女を見つけるまで、ここを出るわけにはいかない」
「不許可です」
女の腹部に、緑色に輝く戒めが巻き付いた。ぎょっとしたような表情を浮かべる。巻き付いた暗号は、そのまま弾けて熱を帯び、女の電脳体を細切れのノイズに変え、霧散させた。硬い殻をもつ羽虫を、指で押しつぶしたような音がした。
「無駄ですよ、ソニア・シャオリン」振り返ると、背後にまた、あの女が立っていた。「わたしは『宮殿』のレベルⅣセキュリティ智天使――貴女の暗号程度で壊れるほど、やわな存在ではありません」
草刈り鎌が振るわれる。後ろに下がると、続けざまに二度、三度――視線誘導コマンドで暗号を打ち込むと、女の右腕が肩からねじ切られ、錐揉みしながら吹き飛んだ。巨大な鎌を取り落とし、膝から崩れ落ちる。
右手を構えた。電脳体が震え、ノイズが走った。勢いのまま放たれた暗号が着弾し、女の身体に染み込んでいく。炎と共に悲鳴を上げながら、女の身体が爆散した。衝撃が、電脳体を直接叩く――いけない、今は生身ではないのだ。電脳空間の衝撃が、直接、私にも伝わってくる。
「何度やっても同じ、ですよ」
飛び散った火花が、磁力で引き寄せられるように空中で結合していく。それは次第に、女の身体を形作っていった。頭の先から、目、鼻、口……頭の中で暗号を練り上げ、視線をはっきりと女に合わせる。氷の粒が集まっていくように再構成されていく女の身体――腕が再生されると同時に、私の頭のなかの暗号が練り上がった。
目の中で、カッターナイフを振り回されるような激痛が走った。音を伴った視覚情報のノイズ――復旧したとき、そこには右腕と頭以外を欠損した女が、固まったように転がっていた。
ソニア、何があった?
「勝手に入ってくるなって言ったでしょ」思わず膝を折り、その場に倒れた。これだけ高出力の暗号を組み上げ、視線誘導コマンドで放つ――電脳体に相当の負荷がかかったようだ。「鈍ったな――クァーラト、私の身体を保護っていて、と、頼んだはずだけど」
だから、だ。君の肉体に異常が出ている。
「異常?」
あちこち、肌が裂けて出血がひどい。視神経にも損傷が見られる。
電脳体の損傷が、肉体にここまでフィードバックするのは異常だ。
何があった。
「ちょっと……強い暗号を使っただけ。問題ない」
バックアップに回ろうか?
「いらない」
無理をするな。
こめかみを、拳で思い切り殴った。鈍痛が身体じゅうを駆け巡る代わりに、クァーラトの小うるさい声はもう聞こえなかった。まだノイズの混じる視界で目の前を見ると、焼けた鎖が巻き付いたような女が、憎々しい目でこちらを見ていた。
「智天使――」彼女の額に手を当て、両のこめかみに指を食い込ませる。「と、あなたは名乗ったわね。どんな実を守っているのか、見せてもらう」
「やめろ」
呻くような声を上げる女をよそに、指先から暗号を流し込んで行く。手の先に力が篭り、めきめきと金属疲労の音がした。
「やめろ!」
「うるさい」手のひらが熱くなった。女の口が、だらりと垂れ下がる。「――やけに複雑なアルゴリズム……これを作ったのは、相当腕のある暗号屋……あるいは電脳技師」
私の中に、女の情報が流れ込んでくるのか――それとも、私が女に侵入りこんでいくのか、分からなくなる感覚。
「「アリスの痕跡はどこにある?」」
私の電脳体と、女の言葉がシンクロした。徐々に、一体になり始めている――右手首が女の頭の中にめり込んで、青白い不気味な光が脈動する。
「「智天使の座に侵入――」やめろ! 樹に触れるな!「この状況でまだ、自我を保っていられるなんて。相当な強度ね」やめろ! やめろ! やめろ! ソニア・シャオ「ここかな?」」
先の見えない指が何かを掴んだ。親指と人差し指でつまみ、ナッツを潰すように砕いた。わずかに残った女の身体がガタガタ震えた。私の身体が、どんどん変質していくことを感じる。血管に、生冷たい液体が注ぎ込まれていくように、私の身体が変わっていく。
「ちょうどいい、損傷した電脳体を継ぎ接ぎしよう。応急処置くらいにはなるかな」
もう、女の声は聞こえなかった。
私は目を閉じ、指先に神経を集中させた。心臓が、輝いているような感じがした。




