十五章「映写室」
がちゃん、と重たい音が聞こえた。それは、下手側の非常口からだった。その時、私はちょうど、K-7席にある最後の通風孔のスイッチを押したところだった。これで十四個、全ての色相暗号を回収したというところで、その音は聞こえてきたのだ。
扉に向かうと、そこにはアリスの姿があった。右腕が内部から爆ぜるように吹き飛んでいて、人工筋肉とチタン製の骨がむき出しになっている。肘から先は完全にはがれて、痛々しい断面をさらけ出していた。
「アリス!」
「残念だけど、アリスじゃないよ」アリスの声でそう言いながら、笑う。「勘違いしないでくれ――僕が没入したとき、既にアリスはここにいなかった。あっちの僕が電脳体を強引にログアウトしたんだ」
「……、あっちの僕?」
クァーラトはおどけて肩をすくめてみせた。
「僕のネットは、もはや僕自身でも認識できない範囲にまで広がっている――僕を中心に、偏在化した中で発生した、僕とは別のクァーラトのことだ」
「それじゃあ、アリスはどこにいるの」
「それは僕にも分からない」
「あなたがやったことなんでしょう!」
「その辺の説明は、今は省こう。ここから出ることが先決だ」
クァーラトは、外側から解錠された扉を見た。わずかに覗く隙間から、真っ黒な空間が見て取れる。
「あの階段を通ってきた――『宮殿』の最上階に直通している。この階段の他に出口はなかった。最上階には、だだっ広い画廊のような場所があって、アリスはそこに迷い込んでいたようだ」
クァーラトが左腕をかざす。何か、丸いものを包み込むような形――やがてそこに星型正多面体の、奇妙な青いマトリクスが浮かび上がった。無言のうちに促され、それを手に取る。そこには、クァーラトがそれまで見聞きしてきたもの――画廊のような場所に飛ばされ、アリスの義体に入り、カードキーを集めて回り――その経験値が、私の電脳に情報として流れ込んでくる。
どうやら、あの階段をのぼって行っても、袋小路になっているだけで、出口にはたどり着けないということだ。ということは――
「もちろん、そっちも上手くやったんだろう。ソニア?」
「なんとか、ね」
スクリーンの下のコンソール・デバイスを開く。十四個、全ての通風孔を見つけ出し、赤いランプを点灯させ、十四のカラーコードを回収した。「0」「0」「F」「F」「F」「F」の六つの文字を組み合わせて作ることのできる、十五個の組み合わせ。最後のひとつは――
「『0FFFF0』」
エンターキーを叩くと、スクリーンが、やや緑がかったシアンに染まる。のっぺりしたその画面がいきなり中央から二つに割れ、物々しい駆動音を立てて左右に開いた。その中心に、黒く塗られた小さな扉が配されている――新たな扉は、スクリーンの裏にあったのだ。
ようやく、この劇場から脱出することができるのだ――膝から抜けるように崩れ落ちた。暗号屋として長く、ネットの海を渡り歩いてきたが、ここまで生身の身体を動かしたのは初めてと言ってもいい。
「情けないな、ソニア」クァーラトが残った左手を私に差し出しながら、「いっそこれを機に義体化でもしたらどうだい?」
「ちょっと、考えたほうがいいかもね」
けれどクァーラトの手は借りずに自分で立ち上がる。クァーラトは、やれやれ、と言った風に笑っていた。私は深く深呼吸をして、割れたスクリーンの間にある扉に歩み寄った。上手側の非常口は、閉ざされたまま――クァーラトの入ってきた下手側と同じように、外側から開かなければならない。いま出られる場所は、この扉しかない。
銀色の、質素なドアノブに手をかけ、それを捻る。扉を開くと、コンクリートで覆われた倉庫のような場所があった。冷たい空気が流れ、蛍光灯が寒々しく灯っている。『宮殿』の配置図を見る限り、ここが地下の西端に位置する場所だ。
「さて、どうする?」
クァーラトはまだ、アリスの義体に入ったままでいる。
「そのままついてくるつもり?」
「物理的な身体があった方が、何かと都合がいい。僕はいくら壊れても、すぐに離脱できるからね――そう、嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないか」
無視して、ぐるりと周囲を見渡した。高い天井――堆く積み上げられたパイプ椅子と、木でできた長机。相当レトロな、三角形のデスクトップ・コンピュータ。黒く塗られた舞台照明用の器材。スピーカー、マイク、アンプ、ミキサー……いろいろなものが、雑多に、しかし整然と並べられていた。
扉の両脇には、ここからさらに地下へ伸びる階段があった。
「地下二階――なんて、あるの?」
脳内の『宮殿』の配置図を再度確認する――地下階の構造を特に念入りに――やはり地下階なんてものはない。だが、類似する配置になっているものを見つけた。
「通気口――」
この階段の先にある通路は、通気口になっている。むしろ、もともとあった通気口に、階段を後から据え付けたもののようだった。配管図に置き換えてみると――この通気口の先は劇場と隣接する、明らかに不自然な空間に繋がっていた。配電図を重ねると、それぞれの情報の色が折り重なって調和する――この向こうにあるのは、あの映写室だ。
階段を下り、クァーラトも後からついてくる。通路はとても狭く、人がひとり通るのでやっと。私でも、少し腰をかがめないと進んでいけない。おまけに真っ暗だ。だが、通路の奥から淡い光が注いでいるのを見てちょっぴりほっとした。
歩きながら私は、クァーラトから同期された彼の記憶を追いかけていた。その記憶は、アリスの義体に入り込んで、目を開くところから始まる。そして、階段を下り、劇場の扉を外から開放するところで終わっている。
「クァーラト。あなたは何者なの?」後ろは振り返らずに私は聞いた。「――いや、質問が悪い。あなたは一体、どういう存在なの?」
「それは、君が一番わかっているはずだよ。ソニア」
アリスの声で喋られることが、異様に気味悪く感じた。
「じゃあ、また質問を変える。あなたは、人間なの?」
「今の僕にそれを聞くのかい? それは、アリスは人間かと聞いているようなものだ」
「質問に答えて。『はい』か『いいえ』よ」
「『いいえ』」
意外にもあっさり、クァーラトは答えた。通路の向こうの光源から、涼ず風がやんわりと流れ込んでくる。
「この世界に、純粋な人間など存在しない。そう言う意味では、僕は人間ではない。だが、人間とはネットに接続し、自己を常に拡張し続ける知的生命体だと定義すれば、それは『はい』だ――僕には身体も脳もない。こうして義体に入らなければ、実体を持つことも出来ない。だが、それは人間ではないこととイコールではない」
「分かった。聞きたいことは聞けたから」
「非道いよ、ソニア。どうやら本当に僕のことを覚えていないみたいだ」
四つん這いで歩きながら、私はもう一度、自分の記憶を辿った。私が暗号屋として電脳世界を駆け回っていたころ――知り合った人々、私を追い詰めた人、私を雇った人、私と戦ったいくつもの障壁。その中に、クァーラトの名前は、影も形もない。
「本当に覚えていないんだね」
「勝手に記憶を読まないで」
「注意散漫になるなよ、ソニア。すんなり電脳に侵入されるようじゃ、本気で回電死するぞ」
分かっている。
そんなこと、言われなくたって。クァーラトの声は笑っているように朗らかだった。
○
狭い通路をくぐり抜けたとき、耳を打つガラガラという車輪のから回る音で意識が急に高揚するのを感じた。身を起こすと、そこは黒い壁に囲まれた狭い部屋だった。正面の窓からは、さっきまで私が散々駆け回った劇場が見下ろせる。
小さな部屋の中央には、天井から人間が生えているような、奇怪な機械が鎮座していた。映写機を回すのは黒くて細い、金属の腕。胴から下は完全に天井に埋まっていた。金属で作られた骨格標本を真っ黒に炭化させ、そこに無理やり瞳や神経組織を埋め込んだらこうなるだろうというシルエットだった。目は赤く虚ろに光っていて、映写機をガラガラ回し続けている。フィルムはとっくに擦り切れて、白いスクリーンには何も映っていない。
この部屋には、別の部屋に繋がる扉がなかった。ただの袋小路――壁一面には木のフィルム棚が所狭しと並べられ、奇妙な圧迫感を演出していた。
「これは、行き止まりか?」
「ううん――きっと手がかりがあるはず」私には、確信めいたものがあった。「暗号屋の勘」
ガラガラと映写機を回し続ける黒い人形は、こちらを見ることもなく、文字通り機械的にその動作を続けている。見逃さなかった――その首筋は、やけに有機的な脊髄が露出していた。そのうなじの辺りから、プラグが伸びている。
「ここから『宮殿』のドメインに侵入できるかも」
プラグを指で掴み引っ張りだすと、人形は動きを止めた。からからと、虚しい空転の音だけが響いていた。
アリスの顔をしたクァーラトが、まるでアリスみたいに、私を心配するような顔でこちらを見ていた。私はかぶりをふる。
「私の身体を保護っていて」
「僕も一緒に行こうか?」
「だめ――自分の目で確かめたいの」
「僕が信用できない。そういう意味かな」
「半分正解」肩をすくめるクァーラトに、私の声は自然に笑っていた。「もう半分をこれから持ってくる。この『宮殿』を攻略するのは、私の役目でしょう?」
髪を掻き上げ、首の後ろのソケットにプラグを差し込む。視界がじんわりと明滅し、赤く染まる。その赤は、彗星が流れてやがて消えていくように収斂し、消えていく。闇に染まる私の世界を縁どるように、青や緑の炎が浮かび上がる。情報の風が渦を巻き、何重もの世界が折り重なって、私を感電させる。
――――没入、開始。




