十三章「鎧」
空間を覆っていたゆらぎのようなものが無くなった。無くなって初めて気が付くような、ほんのわずかなゆらぎだ。僕はまた歩き出した。さっきの〈月の女〉たちは、もう現れる気配はない。
すぐそこの角を折れると、目の前に黒くぬらぬらした扉が現れた。固く閉ざされ、真鍮の鎖で封じられている。両脇から監視カメラがこちらを見下ろし、じっとした静寂に緊張感が走っていた。もっとも、僕に緊張感という概念を感じることはできない。ただ、それを知識として知っているだけだ。
「おや――」ドアノブの辺りに、細い穴のあいたデバイスが取りつけられている。注意深く視線をめぐらし、罠が仕掛けられていないことを確認してそっと触れる。穴は全部で六つ。そのうちひとつの穴の中に、緑色のカードキーが突っ込まれていた。引き抜いてみると、ちょうど、僕がそれまで拾って来たものと同じ大きさ――「F」と書かれている。
恐らく、アリスが先行して拾っていたものだろう。あるいは、あっちの僕か。ともかく、これで手元にあるカードキーは四枚になった。
あと二枚――画廊のようなこのフロアには、何百枚の絵が飾られている。恐らく、この扉からフロアの外に出られるのだろう。力尽くで開こう、なんて選択は、そう――ナンセンスだ。壁に飾られた絵を、一枚一枚視界に納めるたびに、僕のネットから一致する画像が瞬時にピックアップされ、詳細なディテールが表示される。タイトル、発表年、作者、その経歴……ここにある絵は、恐らくすべて贋作のレプリカだ。
「ここだ」
そうした情報が一切表示されない――つまり、僕のネットにも含まれていない情報として飾られている絵画は、あるいは絵画ではないのだ。海水をバケツで掬い取り、泥や、廃棄物と一緒に煮詰めたらこんな色になるだろう、というような――複雑で暗黒な緑と赤と紫とに縁どられた黒。額縁に納められたそれは、まるでその向こう側に別の空間が広がっているかのような臨場感を醸し出していた。
というか、実際繋がっているようだ。手を伸ばすと、明らかに壁を突き抜けて別の空間に出ることができる。額の内側に手を引っかけ、身体を持ちあげる、足を差し込み、腰をもたれさせて、そのまま着地する。
一瞬、視界にノイズが走る。目の前には、さっきまでとは違う画廊が広がっていた。絨毯は、王室の青で上品に飾られている。壁にかかった絵の数々は肖像画が大半を占め、そこに描かれた瞳がじっとこちらを射抜いている。
描かれている人間は様々だ。デューラー、ゴッホ、マリー・アントワネット……中には、まるで見たことの無い人間が描かれたものもある。美術史に残らないような、マイナーな作品群か、あるいは、さびれた田舎に暮らす老人が手慰みに書いたものか。
突き当たりに十字路があり、その先には白く硬い扉が鎮座している。角を右に折れると、そこは袋小路になっていた。そこに鎮座しているのは絵画ではなく、ガラスで厳重に封じられた日本の甲冑だった。黒く重厚に光り、赤く縁どられている。兜には金色の三日月を戴き、ぎらぎら威圧的に輝いていた。
足元には、二振りの日本刀が飾られている。長いものと、短いもの――金の装飾が映える黒塗りの鞘に納められ、わずかに湾曲したその刀身を必死に隠している。
思わず、見入ってしまうほどの美しさだった。幾星霜の昔、こんなにも美しいものを身に着け、土と血と油で汚していたなんて、とても考えられなかった。よく見ると、鎧を着ているのは、黒く塗られたマネキンだった。兜を被る顔は、鬼のような形相に彫られている。
振り返る。反対側の通路には、同じようにガラスで封じられたケースの中に、銀色に光り輝く西洋の鎧――右手には巨大な槍を、左手には紋章の埋め込まれた、白く輝く盾を握りしめてそこに鎮座している。中心には、青と白で塗られた盾の意匠。それをぐるりと取り囲むのは、赤い鱗の翼を広げた竜。女がひとり、天に掲げるように左手で竜の首の下を撫で、右手には長い草刈り鎌を握る。
見たことの無い紋章だった。
武士の鎧と騎士の鎧は、通路を挟んで向かい合っている。明らかに、意味のある配置だ。
武士の鎧をじっと見る。ガラスにそっと手を伸ばし、指先が触れようとしたところで、不可視の何かが僕の手を止めた。触ってはいけない――じっと目を凝らすと、ガラスの表面に、油の膜が浮かんでいるような円形の模様が広がっていた。じわり、じわりと拡散し、舐めるように同心円状の波紋を浮かべている。
右手を伸ばし、暗号を装填する。ガラスに向かって打ち込むと、薄氷の砕けるような音がして着弾した暗号が弾けて消えた。相当に強固な結界によって阻まれているようだ――見ると、兜を被った黒い鬼が、その黒く塗りつぶされた瞳を真っ赤に光らせて、こちらを見ていた。ガタガタと、鎧が軋みをあげて震えた。
「触るな、ってこと?」
今度は、向かい合う騎士の鎧に近付いた。不用意に触ってしまう前に、よく目を凝らす――複雑に砕け散ったダイヤモンドをかき集めたような、ざらめついた輝き。試しに暗号を打ち込んでも、効果は得られなかった。鎧がガタガタと震え、右手に構えた槍が振り下ろされそうなほど、殺気を感じた。
ただ、やみくもにアプローチしても駄目なのだ。ヒントを探さなくては。
「ヒントを探す――」
自分の足で、まるで、人間みたいに――ああ、ほんとうに義体ってやつは不便だ! つくづく、制約のもうけられた今の自分を不憫に思う。ネットに接続し、このフロアのドメインを掌握できれば、それで解決するというのに。
ネットは広大な空間であり、一冊の本であり、どこまでも広がる地球のミニチュア・モデアルであり――自分はその中に均等に偏在化され、どこにでもいて、どこにもいない状態になる。ページをめくったり、右手をはじいて地球儀をくるり、回したりする必要もない。だってそんなことをしなくても、自分はどこにでもいて、どんな場所にも認識を存在させられる。
しかし、真に自由になるために、僕は今の不自由を受け入れなくてはならないのだ。
画廊に戻り、肖像画たちに全方向から見守られながら、別の手がかりを探す。しかし、ただ探すだけでは、恐らく駄目なのだ。
義体には、作り物の目があり、耳があり、鼻がある。人工皮膚の接触情報は脳に電気信号となって伝わり、身体を撫でる微妙な空気の流れを感知する。僕の広大なネットに、指向性を持たせるのだ――ソニアはどんな風に、この『宮殿』を攻略していったのか。
目を凝らす。耳を澄ませる。通路の真ん中で立ち止まり、かすかな気配にも敏感に反応できるように――義体との同調が、高まっていくのを感じる。からっぽの、作り物の人形に、自分のネットが充満していくように。
「これか」
ひとつの肖像画の前に自然と立ち止まった。周りよりひとまわり小さな額に納められた、小ぢんまりとした装い。その中には、緑色の景色を背景に微笑む、ひとりの女性が描かれていた。
「アスカ――」こんな絵が残されていたとは。僕が知っているアスカとは違って、柔和で優しそうな、ひとりの母親としての姿がそこに描き出されていた。
いま、誰に向かって微笑んでいるのだろうか。
右手をかざし、暗号を向ける。表情は曇らない。たちまちに絵にはノイズが走って、白煙を上げながらばらばらに砕け散り、フロアの空間の一部となって融けていった。絵の裏には四角い穴のようなものがあけられ、そこにはオルゴールのような真鍮の小箱が置かれていた。
開くと、そこには青紫色のカードキーが収められていた。「F」と書かれている。
あと一枚。




