十二章「アルノルフィニ夫妻の肖像」
さて――十字路の中心で立ち止まる。ようやくこの義体の操作にも慣れてきた。やけにノイズが多く、末端神経系までバグに犯されていた。それらを全て修復するのは、まあまあ骨の折れる作業ではあった。
この義体の頭の中に詰め込まれているのは、実に細かく細分化され、もはや四次元的に組み上げられた疑似電脳――つまり、生体の脳味噌ではない。僕がここに入り込む前にこの義体を操縦していた何者かは、既に跡形もなく消失している。よほど乱暴にログアウトしたのだろう、あちこちのデータが巻き添えを食って、乱雑に傷ついている。
「……、あっちの僕か」右手を握り、また開く。身体の中心から、末端へ向けて、バグを追い出していくように。「上手くやったようだな。この義体に入っていた電脳体を引き出して、汚染される前に隔離したっていうところかな」
視界が一度、ばちっと電気が弾けるように暗転し、また開けた。それまでとは見えるものが、まったく違っているようだった。視覚情報ひとつひとつの、純度と彩度が違う。得られるものは、良質であればあるほど、よい。
「さて」
義体のバグ修復、進度一〇〇。義体掌握、完了。
「ソニアのためにも、ここから出ないとね」
アリスはこの、画廊のようなフロアを随分と歩き回っていたようだ。十字路の中心には、緑青のうかぶ巨大な六分儀がそびえ立っている。軽く触れると、それは錆びついた耳障りな音を立てて、首をもたげた。矢が示している方向は行き止まり。そこには、ガラスケースに入った、飴色のプラスチック・カードのようなものが飾られていた。近付いて、触れてみようと右手を伸ばすと、僕の内側にある何かがそれを止めた。
目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。次に目を開けると、透明だったはずのガラスには、いくつもの黒い煤のようなノイズが混じって見えた。
「あっちの僕は、これにやられたのか」
まるで高圧電流の走り回る金属の網だ。ただ触っただけで身体じゅうに棘のような電流を打ち込み、めちゃめちゃに焼き切ってしまう――実際、この義体は焼き切られてしまったようだ。駆動中枢に大きな損害は出ていないが、左前腕部はじめ七か所の駆動系における致命的な損傷。もっとも物理的な損害ではないので、僕の処理能力で補うことができている。
右手に意識を集中する。意思をもって触れれば――ガラスにわだかまっていたノイズをすり抜けて、砂が解け落ちるように崩壊していく。飴色の板を右手に掴み、引っこ抜く。ガラス越しでは琥珀のような色をしていたそれは、うっすらと視覚阻害ホロがかけられていた――解除すると、生々しい黄色がむき出しになった。細かく刻みつけられた、傷のような線状の紋様と、「F」の文字。
「なるほど」服のポケットに入っていた、薄い桃色の板。こちらには「0」と書かれている――「この部屋と、あの劇場は、どこかで繋がっているようだね」
ここが『宮殿』の何階にあるのか、僕には知りえない。それを知っているアリスは、この義体から消失している。恐らく、あっちの僕と一緒に行動しているのだろう。
手がかりが少なすぎる。
やれやれだ。足を使って、歩き回るしかないようだ。
疑似電脳の中には、このフロアを移動した形跡はほとんど残っていない。逆に、ほんの少しなら残っている。アリスはこのフロアで、恐らくこのカードキーを集めるために、あちこちを移動していたのだろう。
ちょっと歩き回れば分かることだ――このフロアのドメインに侵入できない。歩き回っているように見えて、実は歩き回ってはいない。物理的には不可能な通路の組み替えが行われている。ついさっきまで通ってきたはずの場所が、ふと振り返ると袋小路の行き止まりになっていたりするような。
この電脳に介入した何者かが、そのように認識を操作したのだ。操作された側すら気が付かないほど、巧妙に、そして精密に。それは、カードキーを封じていたガラスに結界を仕込み、この義体を破壊しようとした人間と同一だろう。
角を折れると、その先には行き止まりしかない。その先には、赤茶色の額に飾られた、一枚の絵が飾られている。視界にそれを捉えると、瞬時に僕のネットから、一致する画像がピックアップされる。『アルノルフィニ夫妻の肖像』――ひと組の夫婦が、仲睦まじく手を取り合って寄り添っている。そのふたりの中心に描かれた円形の鏡の中には、画面には映り込まない人々の様子が、緻密に書き込まれている。
けれど、そこに描かれているものは、僕の記録とは相違があった。鏡に映り込んでいたのは、それを覗き込むアリスの顔。そして、その背後にぬっと、浮かび上がる、白い服をまとった長身の女。
振り返ると、アリスよりも二回りも三回りも大きな背をした女が、そこに佇んでいた。まるで浮かんでいるかのように静かに立ち、手には巨大な草刈り鎌を握りしめている。長い前髪に隠れた瞳は、じっとこちらを睨みつけている。
さっきソニアを襲っていたものと、同一のデザインだ。この『宮殿』全体に配備されているセキュリティ――ゆったりと、こちらに近付いてくる。
ふいに、何かに弾かれたように右腕が伸びた。
「しまった」
ついつい、義体に入って活動していることを失念してしまう――ふだんの僕は、物理的制約を無視して活動する、ネットの走狗だからだ。今にも襲い掛かって来そうな女に向かって、右手の指先を伸ばす。僕の内から出でた暗号が、指先から女の身体に命中する――胸の辺りから炎を巻き上げ、花火のように吹き飛びながら、身体が灰と塵になって崩れていった。
通路の曲がり角の奥から、それは次々に現れる。みな、一様な姿をして、こちらに草刈り鎌の刃を構えていた。僕の背中には、夫婦の肖像の絵だけが飾られている。懐にはプラスチックのような、半透明のカードキーが二枚だけ。
僕はアリスの足を動かして、草刈り鎌を構える〈月の女〉たちに歩み寄る。右手で虫を払うようにすると、本を燃やすように、ぶすぶすと口や目や耳から煙をあげて崩れ落ちていく。左手の甲で撫でるように払うと、女の身体に何十本もの切り傷が浮かんで、細かな塵に変わっていく。
女の姿は、フロア中にあふれていた。まったく、足の踏み場もないほどに密集している。義体同調。視線誘導コマンドに暗号を入力――視界の中に入った女が、次々に火を噴いて燃えていき、崩れて灰になっていく。画廊は一瞬で火の海に変わっていく。しかし、炎はあくまで電脳が見せる視覚効果に過ぎない――物理的な熱量は、いっさい持たないのだ。
「こんな回りくどい方法で――」角を曲がり、女たちが燃えるさまをありありと目にし続けるのにも、だんだん飽きてきた。「僕を潰せると思ったら、大間違いだ」
「そうでしょうね」
声は正面から聞こえた。燃えあがる女たちの炎の隙間を縫うように、その女は現れた。他の〈月の女〉たちよりも、ひと回り小さいながら、女性としては充分に高い背。手には草刈り鎌を握り、その顔立ちは東洋人のものだ。瞳は茶色で、髪は黒く、それまでの女たちとは違った色を持っている。
「ずいぶん暴れ回ってくれるじゃない。ここは私の『宮殿』よ」
「だれだ?」
「こっちの台詞ね――クァーラト」
女の表情は穏やかだ。襲い掛かってくる様子もない。ただじっと、そこに立ちはだかって僕の行く手をふさいでいる。
「ソニア・シャオリンから切断しなさい」
「どうして彼女をつけ狙う?」
「ソニア・シャオリン――彼女を、お嬢様に近付けるわけにはいかない。あなたも同様よ。この『宮殿』の外に出ることは許されない。お嬢様を永遠に守るために、この『宮殿』は建造されたのだから」
義眼の中に浮かぶコマンドが、何重にも女を捉える。しかし、暗号は通っていない――女は平然とそこに佇んでいる。視界の中にいるはずの女は、淡い光のようなもので輪郭がぼかされ、照準を合わせることができない。こちらからの攻撃をひとつひとつ認識し、羽虫を叩きつぶすようにアクセスを遮断している。
何者だ?
「大人しく戻りなさい、クァーラト。あなたが元いた位置に」
「冗談じゃないね」
右手を構え、女に掲げる。視界の中に、白く燃え盛る炎のような奔流が見えた。彼女は一瞬、はっとしたような表情でこちらに草刈り鎌を向けるが、それよりも早く暗号が着弾する。バンっと、はじけるような音と共に彼女の体を覆っていた光の輪郭が、ノイズに巻かれて消えていく。
「この……!」
「悪いけど、先を急がなくちゃならないんだ」その場に倒れ伏す彼女に、左手を向けた。「君は一体誰なんだ? どうして僕らの邪魔をするのか――どこから僕らを見ているのか――とても興味がある。けれど、今は先約があるんだ。それをこなしてから、ゆっくり調べさせてもらうとしよう」
女の頭を左手で掴み、力を籠める――頭蓋骨が握り潰され、眼球がはじけ飛んだ。首なしになった女の身体は、海に落とした砂の人形のようにざらめいて、崩れ落ちていく。その心臓の辺りから、からんと何かが落ちた。くすんだ青――いや、ほとんど灰色のようなカードキーだ。「F」と書かれたそれを懐にしまい込み、僕はまたアリスの足を使って歩き出した。
あと三枚。
「元いた位置に戻る、だって――――?」
冗談じゃない。僕は、二度とそうならないために、わざわざこうして、活動領域に枷をはめてまで動いているのだ。ソニア・シャオリンという、ひとりの少女のために。




