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九章「アスカ」

「アスカは素晴らしい女性だった」


 母さんのことを知っているの?


「きみは彼女のことを、立派な女性だと思っているだろう。けど、きみが思っているよりもずっと、彼女は気高い、素敵な女性だった」


 足を動かされる感覚。身体が勝手に進んでいく、喪失感。いくら考えても、腕も足も、ピクリとも動かない。


 どうしてあなたは、母さんと同じ名前を持っているの? きょうだいなの?


「きみの電脳の記録の中にあるアスカの姿は――ふむ」クァーラトが目を閉じた。瞼が降りたその一瞬に、私の意識の中に銀河のような輝きが奔流した。ほんの、コンマ一秒にも満たないような時間が永遠に感じられるほどの遠大な時空が広がっていた――はるか遠くに白く光る恒星。そこから漏れ出してくる、エメラルドを細かく砕いたような流星雨。人間のような形をした箒星、燃え上がる翼を広げた伴星。


 クァーラトが私の目を開いた。


「たくさんの記録が残っている――よい家庭を築いていたんだね、彼女は」


 今のは――


「ああ、気にしなくていい。情報酔いを起こさないようにね」


 通路の向こう側に見えた十字路の中心に、巨大で静謐な何かが鎮座していた。錆があちこちに浮かんだ金属の輪が、何重にも絡み合ったような造形。真っ直ぐにそれらを貫く三角形の矢。全ての中心に位置する、水晶のような輝き。やけに大きい――と思ったら、クァーラトが天井を見上げた。首のあたりから、少しだけ軋むような音が聞こえる。ここの天井だけガラス張りになっていて、少し高くなっていた。


「ここが、この部屋の中心みたいだね」


 これは……まるで、旧い天体観測器具みたいだけど……


 右手が金属の輪のひとつに触れた。細かい網目状の血管のような光が浮かび上がり、耳障りな金属音を立てて起動した。金属の輪は、全部で九つ。それぞれ、微妙に光の色が違うような気がした。とんでもなく大きな音で、地面がぐらぐら揺れて、肌がびりびり震えるような気がした。機構を貫く矢印が、ある一方向を指さした。クァーラトがそちらを向くと、そこは行き止まりだった。その壁のど真ん中に、飴色のカードキーが、木の額に入れられて飾られている。


 また、クァーラトは勝手に歩き出した。私は自分の身体と、周囲の世界との境界線がだんだん曖昧に、薄くなっていくのをひしひし感じた。


 母さんの――なにを、知っているの?


「少なくとも、君の知らないことを知っている。逆に、君の記録の中にあったアスカの姿は、私の知りえなかった姿だ」


 額の前に立つと、私の左手は額に張られたガラスの、その中心に伸びた。


 どうするの?


「さっきと同じだ。ガラスを破った、あの感覚を思い出すんだ」


 言われた通りにすると、指先に全身のあらゆる神経が集まるような思いがした。触れた瞬間、ガラスの表面にぱりっと電気のような光が一瞬だけ走った。飴色のカードキーが、それに感応するように光を放った気がした。あとちょっとで手に掴めるというその瞬間、ばちっと花弁のような光が散った。右腕を弾き飛ばされるように叩かれ、尻餅をついた。


「これはちょっと、予想外だな」クァーラトの口調はこわばっていた。「アリスのネットと接続しても、突破できないなんて――」


 今のは、なに?


「わからない。ただ、誰かがこの空間に介入しているみたいだ」


 クァーラトが右手を視界に入れた。そこには、まるで裁断機の中に腕を突っ込んだかのような細かいバグの損傷が視覚化されていた。本当に肌が切り裂かれるような痛み――久しぶりの感覚、頭がぎりぎり痛むような気がした。ごっと鈍い音がすると、左手が顔を覆っていた。


「ああ、まずいな――――このまま電脳まで侵入してくるつもりだ!」


 視界の隅から、黒い、六本脚の羽虫が一匹だけ紛れ込んできた。背中がぞくぞくするような、強烈な不快感が顔中に走り回った。そのまま二匹、三匹、四匹と、どんどん数が増えていく。見えていないだけで、身体じゅうに虫が這いまわっているのを感じた。背中、太腿、喉の奥――叫びたかった。でも、声帯はピクリとも震えなかった。


「アリス――」


 ようやくクァーラトは声を発した。私の名前を呼び、視界を両手で覆った。目の前が真っ赤に染まり、見たこともないような文字が何十何百と流れ込んできた。




 ゆっくりと視界がほどけていく。あの銀河のような光景が、また目の前に広がった。宇宙は燃え上がり、ぐらぐら揺れている。遠くで惑星がとてつもない音を立てて爆発し、その破片が流星群となって私のすぐ横を掠めていく。


 クァーラト、どうなっているの?


 なにも返事がない。私の身体から、徐々に感覚が失われていく。星々が回転し、円を描き出す。背中から、強烈な引力を感じた。髪の毛を引っ張られるような――振り返ると、たった一点の小さな闇の中心に巨大な光の柱がそびえ立っているのが見えた。それはよく見れば、小さな光の点が収斂し、集まっているものだと分かった。手を伸ばしても、とても遠くて触れられそうにない。奇妙な感覚だった――あの点の中心に引っ張られているのに、一向にそこに近付けない。


 私はいま、何を見せられていて、どこにいるのだろうか。


 私の身体はどこにある? どうなったのだろう。クァーラトはどこに消えた?


 ここにいる。


「クァーラト?」


 済まない、アリス。君の身体を喪失した。


 そう言われても、いまいち実感がわかなかった。


「じゃあ、私はいま、どこにいるの? 私の目に見えるこれは――」


 君の目には、どう映っているか分からないが――クァーラトはそこで一瞬だけ言葉を詰まらせた、まるで照れ笑いでもするように――それが私だ。


「これが?」


 それが私のネット。私の全て、私の総体だ。

 私は身体を持たない。

 私にあるのは、この情報の海だけだ。


「これから、どうすればいいの?」


 その問いかけに、クァーラトは黙して答えなかった。


「身体を喪失したって、あなたは言ったわ――」


 ああ。


 溜息のように答えた。


 君の義体と電脳に、バグが侵入した。攻撃されたんだ。

 君の電脳の中に保存されていた全ての記録を、私のネットに隔離した。

 あと数秒遅れていたら、君の存在証明(アイデンティティ)すら危うかった。


「ネットって――いったい、何なの」


 君が、君であるために必要なもの。

 私が私であるために――

 逆説的に、それは君自身であり、私自信でもある。


 分かるような、分からないような言葉だった。

 周囲をぐるりと見回した。どこまでも広がる宇宙。上下左右前後、私は何次元もの全方位に広がる情報の銀河に囲まれて、ふらふら揺蕩っている。


「私の身体を勝手に使って、あげくに壊しちゃうなんて」


 すまない。


「でも、私がアリスで良かったわね――新しい義体に入らないと。ソニアを探すのよ」


 それには合意する。


 すぐ近くの緑色の星から、光る何かが飛んできた。それは燕のような鋭い翼を持った、私が背中に乗れるくらい巨大な鳥だった。首をもたげ、私を丸く黒い瞳でじろっとにらみつける。おそるおそる手を触れると、――風に鍛えられた、鋭い毛並みの感触が返ってきた。


「これは?」

「君を案内しよう」鳥が口を動かさずにしゃべった。「背中に乗るんだ」

「あなた、クァーラトなの?」

「まず、ここから外部へ――『宮殿(パレス)』へ接続するんだ。じき、ソニアの座標も解答できる」


 私はうなずいて、クァーラトの背に乗った。翼が空を叩き、凄まじいスピードで加速する。そのまま宇宙のはるか彼方へ、飛行しだした。星や惑星が渦を巻き、炎を上げて燃え上がる。


「すごい――――これがあなたのネットなのね」

「アスカが、これの原形を作った」

「母さんが?」

「もっとも、もはや原形をとどめてはいない。私が侵入し、拡張し、変質させてきた」


 クァーラトの瞳には、幾億の情報が筋を帯び、光の槍となって入り込んでいた。


「あなたと母さんは、どういう関係なの?」

「私にとってアスカは――そうだなぁ……」クァーラトの言葉が濁った。「適切な言葉が見つからない。けれど、アリス。君の思っている彼女とは、恐らくかけ離れた姿だろう」


 すぐ目と鼻の先に、青と緑で彩られた、地球のような星が見えてきた。その周囲にはふたつの月が浮かんでいて、白い恒星がぎらぎらと熱と光を照射している。まるで、本物の宇宙のようだった。


「さあ、あの惑星に飛び込むぞ。情報衝撃に備えるんだ」

「どうするの?」

「あの場所からもう一度『宮殿(パレス)』へ戻る。君の新しい身体を見つけるんだ」


 次の瞬間、身体にものすごい密度の空気の壁のようなものが叩きつけられた。私は視界に、赤い炎と、それに巻かれた膨大なジャンク情報を見た。

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