序章「アリスの宮殿」
呼び鈴を鳴らすと、アリスは快く扉を開いてくれた。
「いらっしゃい」彼女は想像していたときと違って髪が黒かった。肌が白くて、膝の後ろくらいまで毛先が伸びていた。フリルのついたワンピースのスカートが、扉の開閉で生じる風に揺れていた。清潔な、氷人形みたいな少女だった。
「来てくれてありがとう、ソニア」
「大きな家ね」
エントランスホールは温かみのあるペールホワイトの壁で、曲線を帯びたドーム状になっていた。白色灯が灯り、床は朱色、肌色のタイルが敷き詰められている。ドームの中心を貫くように太くて立派な柱がそびえ立ち、周囲には緑色の鉢植えが規則的に並べられていた。
私は手に持った小さな鞄が、妙にみすぼらしく思えて少しうつむいた。アリスの家は、三メートルくらいある高くて黒い金属質な門に閉ざされた、レトロな宮殿のような見た目をしていた。
「ソニアです」門の脇に据え付けられた、一角獣を模した像の首のあたりに取り付けられたインターカムに声紋を入力すると、ぎぎぎっと錆びついた音を立てて門が開いた。広く、整備された石畳の道が数十メートル延びている。両脇には微妙に左右非対称な植木と、よく整えられた花壇。アリスはひとり暮らしだが、視界の端をちらっと、メイドの姿をしたガイノイドが歩いていく。
建物に近付くたび、その姿が変わる。質感の変わらない石畳が不気味に思えるほどだった。最初は白い煉瓦造りのように見えた外壁は、よく見るとガラスのような半透明の物質で形作られていて、手に触れられるほど近付いてみると、更に大理石のように光沢のある、てらてらした冷たい質感を返してきた。おそるおそる触ってみると、思っていたよりもずっと軽い質感が指先を走った。
アリスは慣れない表情をしながら、私をリビングへ案内してくれた。この家は三階建てで、玄関が二階にある。正面に、水晶のように地面が透けて見えるなだらかな階段があって、踏みしめるたびに電気がその中を駆け回るように、回路状の光が浮かぶ。扉は木製で、ちょっと埃をかぶって色褪せていた。アリスは、あまり家から出ない生活をしているようだった。
リビングに通されると、紺色のバルコニーへつながる水色の階段が目についた。中心には艶消し黒の円卓と、それを取りかこむ半円のクリーム色のソファ、向かい合う木目調の壁には薄型の投射型ディスプレイが浮かび、延々と滝から水が流れ落ちる映像が、サイレントで流れ続けていた。
「適当に座って。コーヒーでいいかしら」アリスはどこか浮足立っている。
「私、普段はコーヒー、あんまり飲まないから分からなくて」
「いいよ。お任せします」
ソファのど真ん中に坐り、ぐるりと部屋を見回す。天井には、シャンデリア――のようにきらきら光る撹拌機が、くるくると回っている。その周囲には手すりのついたギャラリー。このリビングは吹き抜けになっているようで、壁沿いのタラップから中二階のバルコニーへ向かうと、そこからさらにのぼっていけるようだ。窓は高く、大きく、外の太陽の光を取り入れている。空調の音は聞こえないが、部屋はひんやり心地よい涼しさを保っていた。上着を脱いで畳み、膝の上に置くと、それを見計らったようにアリスがコーヒーを持ってやってきた。お盆には砂糖とコーヒーフレッシュが乗せてある。
「改めて」アリスは慣れない手つきで砂糖を入れると、かちゃかちゃ、と音を立てながらかきまぜた。「今日は来てくれてありがとう。遠い所を、わざわざ」
「ううん――素敵な家だね」
「『宮殿』っていうの」コーヒーをすすりながら、「この家の名前。父さんの友人が設計したんだって。父さんと母さんの新婚祝いだ、って」
「こんなに広い家に、ひとりで暮らしてるんでしょ」
「このリビングに来たのも、随分久しぶり。しばらく掃除してなかったら、凄く大変だった」
「わざわざありがとう」
アリスは目を細めて微笑んだ。どきっとするくらい、可愛らしかった。アリスとは、仮想空間上のコミュニティで偶然出会った。それがきっかけで文通相手になり、きょうの日が訪れた。会いたいと先に言い出したのはアリスの方だが、じゃあアリスの家に行ってみたいと私が言ったときは流石に驚いていたようだった。視線で促され、コーヒーを飲む。インスタントだったけれど、部屋の雰囲気のためか、いつも飲んでいるものより格段に美味しかった。
「家の名前って?」
「見る?」とアリスが空間をタッチすると、ホロ・ウィンドウが広がり、ドキュメントが開いた。手渡されたその表紙には、乱雑な字でpalaceと書かれていた。開くと、そこには事細かに記された、この家の設計図が何百ページにもわたって記されていた。
「これ、このリビング?」
「そうそう。ここが玄関ホールで、ここが……私の部屋、かな」
「宮殿みたいだと思ってたら、本当に『宮殿』なんだね」
冗談めかして言うとアリスはちょっとむくれて、
「不便だよ。大きいだけで」
「家が広いと、楽そう。ひとつの部屋に飽きたら、別の部屋を模様替えして使ったり、家の中を歩き回るだけで、退屈もまぎれそうだし」
「こんなところ、歩き回るだけで目が回りそう」
「自分の家なのに?」
「良く分からないの」アリスは私の隣に腰を下ろして、細い指先で設計図のドキュメントをスクロールし始めた。「もともとこの家に住む予定だったのは、私と父さん、それに母さんだけだったのに――たった親子三人暮らすのに、この家は広すぎるし、大きすぎる。私でも行ったことの無い部屋が、まだまだたくさんある」
「どんな部屋があるの?」
設計図をめくっていくと、中ほどのページに全体の見取図があった。地上三階、地下一階、屋上へと続く階段が二階の最東の部屋から伸びているらしい。建物のちょうど中央に、地下から地上までを貫いている太く巨大な柱が突き刺さり――ちょうど玄関ホールで見たあれのことだろう――、全部で十七部屋。各階に四部屋ずつ、二階だけはエントランスホールが加わって五部屋。廊下というものはない。部屋と部屋が扉で直接区切られていて、それぞれの部屋から階段が上下に伸びたり、繋がったりしている。
「ここに暮らしてしばらく経つけど、まだ、見たこともない部屋がある」
アリスの言葉に私は耳を疑った。「どうして?」
「入れないの――ううん、見つけられない。どうやっても扉が見つからない、見つけても鍵がかかっていて入れなかったりするの。玄関と、私の部屋、それからこのリビング」
指先でホロ・ウィンドウをタップすると、次々に赤い色が浮かんで、部屋が染められていく。まるで水彩画のように、じわっと色が広がっていくのが、美しかった。空白のままの部屋がいくつもあるので、そこを指先で軽く触れてみても、なんともならない。
「この家を探検してほしいの」アリスはふいに切り出した。「私と一緒に。家には何もないけど、この『宮殿』には分からないことがいくつもあるから」
肩がすくまる。
「そういうことだったのね」
「私はこの家に住んでいるけど、そういうことには疎いから」
「分かった。いいよ」
コーヒーを飲み干してソーサーに置くと、軽い感触と共に乾いた陶器の音がする。こめかみの辺りを指で叩くと、浮かび上がったホロ・ウィンドウで数字がめまぐるしく回転する。視界にいくつもの情報が流れ込んできて、ステンドグラス越しの光のように奇妙なパターンを見せた。アリスは私の様子を、少し不安げそうな笑顔でのぞき込んでいた。
「借りるね」設計図の書かれたドキュメントを手に取り、食パンのように口に運ぶ。頭の中に膨大な情報が流れ込んできて、ほんとうにものを食べているわけじゃないのにもどしてしまいそうになる。気のせいだと必死に言い聞かせて、飲み込むと、瞬時にいくつもの見取図が、網膜を走り去っていく。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ」私は深呼吸をして、「情報酔い――ものすごい量の設計図だね。それに、構造は単純なのに複雑で――いくつも重なって、微鉛結晶みたい……」
会話をしているうちに情報の密度と、その異質さにもだいぶ慣れてきた。アリスの手が私の肩に置かれると、それがスイッチになって一気に視界に映るあらゆる虚実が、鮮明に輪郭を帯びた。情報は眼球の中に溶けて、風景と一体化した。空に浮かぶ雲のような、自然なデータへと私の中で変化したのだ。
「もう一杯、コーヒー、貰っていいかな」私の顔を見るとアリスはぎょっとした。「ちょっと休憩したら、早速探検に出かけよう」
「大丈夫? 顔色が悪い」
「逆だよ、顔色が良くなったの」
「でも真っ青よ。それに、目がちょっと腫れぼったくなってる気がする」
「そうなったように見えるだけ」
新しい情報を取り入れるたび、私の姿は少しずつ変化していく。人間が食べ物によって太ったり、血行が促進されたりするようなものだ。アリスは私のカップとソーサーを持って立ち上がり、台所の方へ消えていった。目を閉じてじっと落ち着くと、脳の後ろの方でぐるぐる情報が回る。それら一つ一つに、もう一度目を通しながら、この『宮殿』の構造をかみ砕き、情報に神経を通す。
アリスが持って来たコーヒーを、ごっと口に含むと、きりきり苦かった。
短編のつもりが予想以上に楽しくなってしまったので、短期集中連載作品とさせていただきます。
今までとは随分毛色が変わりますが、お楽しみいただければと思います。