第154話 シュライザの弱さ
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シュライザが、至龍王の収まっていた整備台を見上げ、僅かな渋面を作っていた。
掌に食い込む爪の痛みが、自分の感情が平静でない事を理解させる。
しかし、何を思っているのか、誰にも分からない。
その瞳には怒りと憂いと、様々な情念がうっすらと彩っていた。
当人でさえ、自身の心境を掴みかねているのだ。分かった気になって、声を掛けられる方がよほど不気味に感じてしまうからか、何人であろうと不用意に声をかけることを憚られる、他人を拒絶するような気配を撒き散らしていた。
第三者が、その姿だけを見たのであれば、至龍王を駆り出撃して行った大和の安否を心配しているようにも映る。それ故に彼女に気を使い、その行為を妨げないように平時よりもさらに一歩引いて、視界に入らないよう配慮していた。
だからその瞳に、確かに黒い物が宿っていたことに気付いた者はいない。
ここにいる人間の中で聡い者や、彼女に近しく親しい者、もしかして上野悦子ならば、その色の意味に気付いたかもしれない。だが彼女は心労が祟り――いや、龍騎士としての使命から解放されて、気が弛んだ反動なのかもしれないが――体調を崩してしまったために今は静養している。
まるで世界に取り残されたように、舞台劇の暗転した独白の場面のように、ただ一人を底に残し、周囲から人の気配が消えて行った。
まるで時が止まったかのように、シュライザは動かない。
周りで作業をする者たちが出す雑音も、届いていないような錯覚に陥るほど、そこは静謐に包まれていた。
シュライザ以外誰も居ない空間、シュライザだけの世界。
そう思うと、僅かに満たされるべきではない独占欲が満たされ、心に喜悦が走る。
彼女の為に切り取られ、取り置かれた時間。
まるで宝石箱を飽きることなく見つめている無垢な少女のように、自分だけが満たされている。
そんな素敵な時間。
・・・そのはずだった。
そこに一つの異分子が生じる、邪悪とも取れる気配が生まれた。
「お迎えに上がりましたよ・・・お嬢さん」
そこには悪い魔法使いが居た。
「・・・」
怒気が生まれる。降って湧いた異物に反応し、焔のように仄暗い喜悦を燃料に燃え盛り、逆巻く。一瞬で煉獄へ変貌したかのような錯覚を抱かせる。だが悪い魔法使いは、その役どころを損なうことなく平然とそれを受け流す。
「そう言う呼び方嫌いだね!」
「この籠は貴女には相応しくないようですな」
シュライザの文句はサラリと受け流し、感想を零し要求を重ねた。
「やはり我らの園に来ていただくのが、何より宜しいかと」
激情が溢れだし、表情筋を刺激する。
「この窮屈な国で・・・いえ、世界では、貴女様のような強大な力の落ち主は、さぞ住みにくいでしょう。我々の下へ来ていただければ、存分に羽を伸ばせる住処を・・・楽園をご用意いたしましょう」
スティルを攫い、自分すらかどわかそうとする意志に、殺意が芽生える。
そう、例えば・・・その代わりにスティルを帰すと宣うようであればまだ可愛げがあろうが、その素振りすらない。己の行動が正しいものであると、信奉している人間らしい、実に傲慢な振舞いに見えた。
そして、さも自分の為に腐心しているのだと言う、恩着せがましい態度が、シュライザの逆鱗に触れる。
「・・・まさか、この騒ぎは」
「ええ、ここで騒がれても煩いので・・・席を外してもらいました」
この度の陽動は、大和をこの場から遠ざけるためだけに行ったと言うのだ。費用対効果を考えてしまうと、馬鹿ではないかと脳味噌を開いて見たくなるほど、莫大な投資を行っていることになる。それだけの価値が自分にあると暗に示しているのだが、返ってシュライザは機嫌を悪くしていった。
「人の主君を勝手に・・・」
「彼が主君? 魔王でも、勇者ですらない只の子供がですか?」
声に嘲弄の色が混じる。
「そうよ。だからこそ。勇者でも魔王でもない只の人だから」
「ははっは! 只の人に何を執心しておられるのか。あんなただの子供、その身に余る力を得てしまっただけの何の覚悟も理想もない、そこら辺の一般人と何ら変わらない、ただの子供じゃないですか。ええ彼が、もし彼が魔王として世界を律するのであれば喜んで従いましょう。勇者として民を導くのであれば越えられるべき障害として立ち塞がりましょう」
それぐらいの覚悟は持っていると、僅かに自負を滲ませる笑みを浮かべる。
「ただ、只の人に、その程度の取るに足らない存在に、貴女が執心する価値など見出せませんね」
つまり、前回魔王機関を襲撃した大和に対する意趣返し、つまりやられたからやり返すと言った、舐められない為の行動ではないと嘲り交じりに宣言した。
この悪い魔法使い・・・ルゴノゾールにとって大和は、完全に眼中にない。
確かに前回の出来事も、結局は大和が暴走して何の成果も上げられず、ただ逃亡しただけだ。ハイラをどうにか奪取したとはいえ、然したる痛手になっていない。
そして逃走の為にシュライザの能力を暴露する結果となり、こうして策を弄して出向かれてしまうと言う結果に陥っている。
そういう意味で、まだこの襲来が、魔王機関が舐められないための仕返しであると宣言された方が、可愛げもあると言う物だ。
本来なら魔王機関はそうやって売られた喧嘩を高値で買い取り、それ以上の損害を売り手に返してきたのだ。それぐらいの心意気が無ければ、何十年と言う経過の中で、功名心の高い無謀な連中に潰されているはずだからだ。報復を徹底することで、手を出したら拙い、目を付けられたら破滅するとまで知ら締める事で、無用な抗争を削減できる。
畏怖を抱かせることで、抑止力としてきたのだ。
今回もそうであった方が、まだマシだった。
取るに足らない、無価値な存在。
その評価が、不快だった。
自分が認めた者を、誰もが認めない。
子供が路傍で小奇麗な石ころを拾い上げ、これを一生の宝物にしようと心に決め、有頂天になっている所へ、それを大人がゴミだと評するようなものだ。価値が無いどころか、有害であると断ずるのだ。
虚無感と言うのだろう。
心に灯った暖かい者が、昏く冷めきり、色も手触りも失せ、存在そのものが欠落していく。
かと言って、存分に評価されても、シュライザの機嫌は悪化しただろう。
もしもスティルなら、誰も彼も気付かない原石を見出したと、喜悦を浮かべていたかもしれないが、そんな彼女を攫った魔王機関に評されること自体が不快だった。
否定も肯定も、何もかもが不快に感じた。
この男の吐く言葉の全てが、存在そのものが、シュライザにとって不快なモノに成り変わって行く。
そしてルゴノゾールにとっては、大和と言う少年の存在はまさに罪悪でしかなかった。
取るに足らない、真面に相手をする価値はないが、迂闊に手を出せば火傷では済まないかもしれない損害を出す。まして手にした暴力は強大であることは認めざるを得ず、子供特有の独善的な正義感は利用することも出来ず、結果として利用価値もなく、ただひたすらに邪魔な存在として認識していた。
ルゴノゾールには生涯を費やす思想と情熱は有ったが、理想に届かせるには力不足であることを自覚していた。現在彼は魔王機関の魔王代行の地位にいるが、その地位すら自分には過ぎた者だと認識していた。
彼の才覚からすれば、首魁の脇を固める参謀の一人くらいが身の丈に合っていると自覚していたのだ。
しかし、彼に有った特別な才能と幸運に巡り合わせ・・・魔術の才能、入手した幽咒機、そして魔王オノザドルブの封印核、それらを手にしてしまったから組織の首魁に成らざるを得なかった。
彼も元々は、魔王機関の創設運営陣・・・つまりは前大戦の英雄達に強い憧れを抱いており、反対に世界の表面上の正義の不甲斐なさに辟易していた。醜聞を気にするあまり、一人の悪人を殺すことを躊躇い、一万人もの無辜の民に被害を出す、そんな為体ばかりを繰り返されていては、表面上の世界で軍人になろうとか、警官になろうとか言う子供心に抱いていた正義感は完全に腐ってしまった。
彼とて、人間の感性を持っている。
肉親や恋人が危害を受ければ、それに対し怒りを抱くし心配もする。
同じ種族であるとか、国民であるとか、同士であるとか、共通項が多ければ多い程、近しいと感じ親近感を抱く。逆に遠ければ遠い程、どうでも良い存在に成り果てて行く。
遠方に住む異種族異民族の死など、映画の中での死の演出と何ら変わらない。そんな連中が何人死のうと、母親の指に棘が刺さることに比べたら、比較の意味がない程価値が違うのだ。
そして、彼は真面目過ぎた。
糞の付く、ダメな方の。融通の利かない真面目さを持っていた。
その感性を持ってすると、能力を持つ人間がその能力を生かさないのは怠惰であるという認識に成る。
世界を救える力があるなら、世界を救わなければならない。力は正しく使ってこそ意味がある。腐り切った世界に嫌気がさし、このまま滅びる事を望んでいても、救える力があるなら救うべきだと。
つまり、世界を救わない勇者は悪であり、世界を支配しない魔王は罪である。
その力と資格を持ちながらも只人で、路傍の石ころの一つあろうとする大和は、ルドノゾールの感性から言わせれば罪悪でしかないのだ。そして蹴り飛ばそうにもその石ころは、大き過ぎ、重過ぎる。
認める事などできはしないのだ。
「身の程と言う物を弁えるべきです」
高貴な者には、相応しい振る舞いと言う物がある。下賎に塗れていていいはずがない。
「貴女もいったい何時まで、愚かな人間どもに利用され続けるおつもりか?」
その言葉がシュライザの逆鱗に触れたのか、見えない手で羽虫を叩いたように、悪い魔法使いはびしゃりと潰れる。
床が死骸によって汚れることに、今更忌避感を抱いて眉根を歪めた。ゆっくりと威厳を滲ませ、成れの果てを青い瞳が睥睨する。
しかし、そこに死骸は無かった。
――幻影魔法!?
霞のように消えてしまっていた。
シュライザがそう思い至ったのは別に不思議な事ではない。現在は科学が台頭し、魔法が常識の隅へ追いやられてしまったが、それでもまだ息づいている。まして、元よりそちら寄りの彼女が気付かない筈もない。もっともこの驚きの元は現代社会に毒され過ぎて、魔法という物へ対する意識が疎かに成っていた過失であろう。
僅かな存在の残滓が、砂埃のように視界の端に捕えられた。
――しぶとい。
それはゆっくりと存在感を増すと、人の形に纏まる。
「私は利用されているつもりは・・・」
「おやおや、自覚はありませんか・・・そうですか。そう言う風に刷り込まれましたか?」
「何を言っているの?」
「奇麗事を並べて、貴女を良いように扱っている連中は、ここに溢れているでしょう?」
怒りを買い、さらに侮辱で上塗りをする。
敬愛する先生と、その望みを叶えようと考えを巡らせた博士、そしてシュライザにとっては可愛い妹分であるスティル。確かに彼らには利用されていたのかもしれないが、それは相互的な物だ。納得の上で利用しあう、いや共生、協力していたのだ。互いに得た物を客観的に評価しただけでは、そう言う答えになるのかもしれない。
だが、主観的には決して一方的な関係だったとは思っていない。
頼られる一方で、頼っているのだ。少なくともシュライザにとって半分以上・・・六割くらいは頼っているつもりだった。
そもそも出発点の観測が逆なのだ。
シュライザを利用するために便宜を図っていたのではなく、シュライザが利用したのでその見返りとして手伝いをしていたのだ。
「この・・・言わせておけば!」
「そもそも何故、彼方のような方がこのような墓穴に居るのですか? 捕らわれている・・・ようにはお見受けしませんが? そうなると精神的な・・・何か弱みを握られて従わされているのですか?」
ルゴノゾールは、シュライザの逆鱗に無遠慮に触れる。それこそ撫でまわすほどの執拗さが、細やかな願望すら穢して行く。何より、話の根幹から勘違いしている所が腹立たしい。
「私が脅迫されていると言うの?」
「その通りです。貴女ほどのお方が、こんな狭苦しい場所に閉じ籠るなど、それ以外に考えられません」
それはある意味で的を射ていた。
――アレの恐ろしさも知らないで!
シュライザにとって聖墓は、恐れるアレから身を隠す砦として選んだ塒なのだ。それを閉じ籠められたなどと言う。
――私は好きでここに籠っているのに・・・。
この悪い魔法使いは、閉じ籠められた不遇の鳥などと宣う。それが酷く不快だった。
好き好んでやっている事を、それをやらされていて可哀そうなどと、見下され憐れまれて、喜ぶ人は居ないだろう。それで喜べるのは、喜んだ振りをしなければならないほど、屈折した生活を強いられた人だけだろう。
ここに閉じ籠っているのはアレに見つかることを恐れて隠れるためだが、シュライザ本人は恐れて隠れている等とは認めないだろう。見つからない良い場所を見つけたので、のんびり羽を伸ばしていると自尊心すら誑かしてきていたのに。
そんな事情など何も知らない男に、嘘を吐いてまで誤魔化していた本心を晒される。
アレの存在を知らないからこそ、怖さを知らない少年に縋っていた自分の弱さを、生き汚さを白日の下に晒されてしまう。
自身の弱みにより、聖墓から出られないと言う事実を、本人が目を逸らしてきた真実を言い当てられてしまった。
辱めを受けたことに対する怒りが、一瞬で限界を突破した。
意を決し、息を飲む。
眩い光の収束が、シュライザの口内で瞬間的に結実した。
「消し飛べ!」
世界は、真っ白に染まり上がり、轟音が聖墓を揺らした。




