意識暴走―insomnia―3
世界が終わる。眠れば、世界は終わってしまう。
自分の倒れこんだ地面が、生暖かくなっていくのが分かり、同時に心地良くもなっていく。
このまま瞼を閉じれれば、どんなに楽なのだろう、と思う。
何故、世界の為に自分がこんなにも苦しまなければならないのか。
薄っすらとした目の前の光景を、赤い液体が侵食し始める。
地面に落ちた一本の煙草の吸殻が飲み込まれていく。
それは、世界が真っ黒な文字に覆われていく風景に似ていた。
「……ちがう」
確かに似ていたが、真はある事に気が付いて、心中での発言を声に出して、否定してみせる。
『――――眠れ』
その声と共に、目の前の景色が真っ黒に包まれ、銃弾が腹を貫いた。
地面に倒れ、傷口から溢れ出す血液が、彼を中心として広がっていく。
そう。似ているのは、この光景だった。
地面に捨てられ、血に塗れた煙草の吸殻は、自分自身の姿と合致していた。
涙で目の前の視界が滲んでいく。
「眠るかよ……!」
文字で視界を包んだのは、銃で自分を撃ったのは、あの男で間違いないだろう。
その人物に良いように利用されている悔しさと同時に、思い出したかのように腹部の痛みが襲い掛かってくる。
痛みを感じるということは、まだ生きているということだが、身体を起き上がらせることはできない。
このまま、死んでしまうという可能性は大いにあるが、あの男がそう簡単に殺してくれるとも限らない。
ただ眠らせる為だけに、銃弾をぶち込んできたのかもしれない。
それならば、相手の思惑通りに、事は進んでいきそうだ。
身体は満足に動かせず、眠らないという意思とは裏腹に、瞼は重くなる。
ここで、全てが終わってしまうのか、と諦めかけていた、その時だった。
「……まことくん?」
眼鏡をかけた、白髪交じりの男性が自分に声を掛けてきた。
しかも名前を呼ばれたということは、知り合いなのだろうが、その顔までは確認することができない。
「だ……れ……?」
思っていた以上に、言葉を発することが難しくなっている、自分の状態に驚きを隠せない。
残された時間は限りなくゼロに近く、頼れるのは、自分の事を知っている、この男性だけだった。
自分を抱えている男性の顔に、自らの顔を近づける。
「エレ……ベータ……」
咄嗟に出てきた単語は、自分の持っている能力を最大限に活かすことのできる場所であった。
「エレベーター?」
男性から返された言葉に深く頷いた。
その場所に行きたいことを、じっと男性の顔を見つめる真剣な表情で、察することができたのか、男性は真を自らのコートで包み込んで、負ぶって歩き出す。
「さっきの銃声がまさか、君が撃たれたものだとは思いもしなかった……一体、君の身に何が起きているんだい? あの、世界を包んだ文字……君と関係してるのかい?」
男性の口調、声を聞いて、その正体が分かる。
学校の近くの喫茶店でいつも、コーヒーを飲んでいた、眼鏡をかけた、優しそうな男性。心理カウンセラーをしている、新山雄三だ。
彼の質問に答えようとはするのだが、上手く声が発せられない。
どうにかして言葉を紡ぎ出そうと、足掻いているうちに、新山は足を止めた。
顔を上げて、新山の立ち止まった先の景色を見る。
そこには、見慣れたエレベーターの扉が存在してた。
見慣れているというのは、何度もこの場所に来たことがあるか、同じエレベーターが使われているだけの場所なのか、の二択なのだが、多分、前者であろう。
そこは、新山の勤めている病院のようだった。
車いすの少女と共に通った、その場所は、真の学校から近いところにある。
「着いたよ、まことくん……ここで、どうすればいいんだい?」
此方に横顔を向けながら尋ねかけるが、答えられない事を察してか、すぐに前を向き直る。
その瞬間、二人を誘うかのようにエレベーターのドアが開いた。
何かを確認するように、もう一度、横顔を此方へと向けてくる新山を、じっと見つめ返した。
「おかしいな……ここらへん全部停電してるはずなんだけど……」
真を背負った状態で、恐る恐る、エレベーターの中へと足を踏み入れる。
彼の言う通り、中は電気もついておらず、勿論、窓などない為、真っ暗だった。
一歩一歩、ゆっくりと足を進め、背に乗せた真の身体が全部エレベーターの中に入った途端に、ドアが閉まる。
その音に振り返った新山は、真を床に下ろして、扉の方へと駆け寄った。
ドンドンドンとドアを叩き、横に引いて開けようとするが開かない。
自分の力では開けることは無理だと判断した彼は、再びドアを激しく叩き始めた。
「誰か――――」
大声で助けを呼ぼうとした時、すんなりと扉は開いて、脱出することができた。
何がどうなっているのか、訳も分からないまま、真を連れてエレベーターから出ようと振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。
「まことくん……どこ……?」
真の姿は、闇に消えてしまった。
◇
そこは、何もない、ただ真っ白な空間だった。
一度、訪れた事のあるその場所には、ある男の存在があった。
堀の深い顔立ちに、金髪で、透き通るような青い眼をした男は、その外見に似つかわしくない名を紹介してみせた。
「どうも、山下真くん。案外、来るのが早かったですね? 私はあのまま、ただ眠ってくれるものと思ってましたよ。そうしたら、ここに来ることもなく、目を覚ました時には、世界は終わっていたのに」
顔に似合わず、流暢な日本語を話す男、如月。
この場所は、彼の心の中だと言う。つまりは、何もない真っ白な心。全てを白紙に帰すことが、男の目的だ。
「でも、君がここに来た時点で、世界はまた、黒い文字に包まれていますよ」
「お前を殺せば、全部終わるのか?」
「終わる? 何がですか? 世界を壊してるのは、君自身なんですよ? 私を殺したとしても、世界は君が終わらせるのです」
どうして、こうなってしまったのか。
自分がいつの間にか、世界を滅ぼす存在になっている。
自覚はなく、ただ、自分の中に潜む何かが暴走している。
「計画の第二段階も、すぐに完了しそうです。そしたら、第三段階頑張ってくださいね?」
男の言う計画の第一段階は、自分の文字化けの能力の暴走。第二段階は、全ての文字の消去。そして、第三段階は、人の心への侵入。
人の中に存在する文字を全て消して、世界を白紙にしたいのだそうだ。
しかし、それは自分ではなく、他人である真に、全てをやらせようとしている。
「全部俺のせいにすんなよ……」
「……? 私はただ、自分ではできないから、君にやってもらわないといけないだけですよ?」
「自分の手を汚したくないんだろ……? だから、こんなにも心が真っ白なんだ」
身の潔白を示すように、この部屋の全てのものが真っ白だった、と真は思った。
それに対して、如月は眉をひそめた。
「私が自らの手を汚してない……ですか? では、古井新の乗った飛行機を墜落させたのは一体、誰?」
「お前は全てを操ってただけだ。人を利用するのは、得意か? 人を丸め込むのは、上手か? お前はただ、他人より優位でいたいだけなんだ」
何十人もの心の中を見て、救ってきた。
目の前の男も、その中の一人であることに変わりはなく、彼の心を暴こうと試みるが、如月は平然とした態度で言葉を返す。
「この部屋を見ただけで、私の全てを知った気でいるんですかね? でも、何をしようと、もう遅いですよ。世界は君がここに来たおかげで、終わる。完全に」
「……世界なんて、どうだっていい! 勝手に終わればいい。俺が終わらせてしまえばいい! 俺がやりたいのは、世界を救う事なんかじゃない……!」
心の中で、ウジャウジャと蠢いていた何かが、一つにまとまったような気がした。
「俺は、お前を救いたい……! お前を救うことで、自分自身を救いたい……!」
新山が前に一度言っていた。目の前に浮き出た文字は、自分自身の心を表すものだ、と。
その前兆から導かれるように人の心に干渉し、人を救った気でいた。
しかし、いつだって救われたかったのは、自分だ。
幼いころに母親と別れ、父親に捨てられ、伯父と思っていた人物に裏切られて、ズタズタのボロボロにされてしまった、悲劇の主人公気取りの、自分だ。
自分の事しか考えてない。自分だけが、かわいい。
それの何がいけないのか。誰しもが、追い込まれた状況の中では、自分以外の存在なんて、どうでもいいと思うだろう。
「私を救う……? どうやって? 救われる必要のない人間をどうやって救うのですか!?」
「……必要ないって思ってるのはお前だけだ。自分の都合で世界を壊そう、なんて奴が、助けが必要ないなんてありえない」
「だったら、救ってみてくださいよ? ご自慢の文字化けの能力で!」
如月のその言葉で、初めて、この空間で文字化けが行えない事に気がつく。
いつもは持ち歩いている本を、今は持っていないのだ。
「息巻いといて、本が無いと、何もできないんですね。本当は救う気なんてないんでしょう?」
「……だからさぁ! 俺は! 自分が救いたいんだよ!」
声を荒げる真は、堀の深い顔をした男の方に詰め寄って、胸倉を両手で掴む。
「そうだよ! お前なんてどうでもいい! でも、俺が、自分と向き合うには! こうするしかねえんだよ!」
如月の身体が、彼の腕の力で持ち上がるはずもなく、じっと、彼の無力な姿を見下ろす。
縋り付くものが、もうこの場所しかない真は、真っ白な部屋で唯一、意思疎通の測れる人間にしがみつくしかない。
こんなにも自分の事で、必死になったのは、初めてだった。他の人からのお願いを断ることもできずに、生きてきた彼にとって、自分をどうにかしようと必死になったのは。
そんな姿を、見下ろしていた如月は、幻滅するように溜息を吐いてみせた。
「自分が大事……それが、他人を蔑ろにし、争いのきっかけとなるんですよ」
諭すような言葉を口にするが、真の耳には届かない。
自分の事で手一杯なのに、他人の事なんて、気にしてられる余裕がない。
「もう……いいや……」
胸倉を掴んでいた手の力を抜き、頭を俯けながら、如月から離れる。
「お前がいなくなれば、全部終わる――――?」
前を向き直り、如月の方を睨みつけた瞬間、真の足元から大量の黒い、ウジャウジャしたものが溢れ出す。それは、真の半径一メートルの地面から湧き出て、膝下までで止まった。
自分の心の中であるはずの空間で、自分ではない人間が、自分の理解を超えた状況が目の前で繰り広げられていることに、如月はただ困惑する。
そして、考える暇もなく、真の足元にあった黒い文字が、真っ白い床一面に広がっていく。
「世界を……歴史を綴ってきたのが文字なら、文字を自由に操れる俺は、お前の存在だけを無くすことだってできる。そうだろ?」
「……それをやれば、君は人間ではなくなりますよ?」
「だから? こんな能力使える時点で、普通じゃないのは分かり切ってる。でも、これは人を救うための能力だと思ってた。思ってたのに、お前が言ったんだ。人を傷つけるための能力だって。だったら、その言葉通りに、使ってやるよ――――」
その瞬間、床一面の文字が一斉に、如月に向けて襲い掛かる。
自らを守るように両腕を体の前に持っていくが、黒い刃は三百六十度、あらゆる方向から飛んでくる。
それを防ぐ術などなく、無数の鋭い文字が身体を貫き、大量の血が噴き出す。
真っ白だった床が、如月の足元だけ、赤く染まった。
辛うじて立っている状態の如月が、真の方を見ると、大量の黒い文字が集まって、一つになってある形を成していた。
「お前はただの、世界をどうにかしようとして、できなかった、ちっぽけな存在にすぎない。その最期には、ちょうどいいだろ?」
真っ黒な巨大な右手が如月の身体を握り締めて、ゆっくりと持ち上げて、真の頭上にまで移動する。
「……やめ……て……」
「ありがとう、如月。お前のおかげで、俺は気付けた。この能力は、こんな風に使えばいいんだって。そして――――」
「――――さようなら」
次の瞬間には、血の雨が真の頭上から降り注いでいた。
その雨が止むまで、両手を広げて浴びた後、真っ赤に染まった自分の両手を見て、彼はゆっくりと、口元を歪めてみせた。
真っ黒の文字で壊された世界は元に戻り、一連の出来事は全ての人間の記憶から消えてしまった。
事件の前後で変わったことと言えば、一人の人間の存在が無くなったのと、一人の人間の考えが変わってしまったということ。
文字は、人を救う為のものではなく、人を傷つける為のもの。
 




