意識暴走―insomnia―2
何故、今ここに二人が一緒にいるのかなど、どうでもいいことだ。
そんな疑問よりも、勝っている感情が溢れ出して、心の全てを支配しようとする。
それを象徴するように、親と称される人物を睨みつけていた。
同時に、睨まれた方も、それが親を見る目か、と睨み返してくる。
黙った睨み合いが続く中、痺れを切らしたのは、倉崎博則だった。
「あ、安心したよ。外がこんなんなってる時にいないもんだからさぁ。何か事件に巻き込まれてるんじゃないかって。心配したんだぞ?」
暖かい倉崎の言葉も、今の彼には入ってこない。
それはもはや、身内の言葉ではなく、他人の言葉としてしか受け取れなくなっていた。
如月という、訳の分からない人物の言う事を、鵜吞みにしているわけではないが、頭に引っかかって、へばりついて、とれそうにない。
「お前の親父も、心配して来てくれたんだぞ?」
「余計な事を話すな」
反応したのは隣にいた男で、これ以上、無駄な口を叩かないように、目で威圧する。
それは、山下真を刺激しない為に行なった事ではあったが、既に火に油は注がれていた。
「父さんが……? 俺を……?」
「ハハッ」と声では笑ってみせるが、その目は全く笑っておらず、逆に先ほどよりも鋭い眼光が、二人に向けられていた。
「この男が、俺の心配なんてするわけないだろ!? 伯父さんだって知ってるじゃないか!? こいつは! 俺を……! 捨てたんだ!」
語気を強める彼の姿に、ビクッと少しだけ怯える様子を見せたのは、本当の伯父かもわからない存在。
「分かった。分かったから、落ち着いてくれ。な?」
牙を剥き出しにした動物を、宥めるように、真の気持ちを落ち着かせようとする。
一言でも言葉を違えば、人を殺しかねない、猛獣のような危うさが今の真にはあった。
その原因は、目の前の二つの存在。
自分を否定した父と、伯父ではないかもしれない男。
「落ち着いてるよ……おかしいのは伯父さんだ。なんで、そいつと一緒にいる? 俺が……これくらい取り乱すって分かってて、どうして、会わせようとする……? 前に言ってた、会わせたいヒトって、やっぱ、こいつのことだったんだ?」
「……そうだ。俺は、お前と……お前の父親との誤解を解きたかった……」
人に謝る時のような申し訳ない表情で、倉崎は一人の少年の方を見る。
だが、母の兄とも分からぬ存在の発言など、真には聞こえるはずもなく、鼻で笑う。
「他人が口を挟んでいいようなことじゃない。でしょ?」
「……ナニ言ってんだ?」
「伯父さんは、俺の本当の伯父さんじゃないって、そう言いたい」
望んでいた返答は、否定だった。
間違いだと、言ってほしかったのに、倉崎はただ、黙ったまま、目を見開いていた。
そこで気が付く。ああ、本当だったんだな、と。
何も言わないのは、肯定の動作と同じだ。
「誤解を解きたい? 他人には……あんたには無理に決まってるよ」
大切なモノが、地面に落ちて、粉々に砕け散ってしまったような気がした。
本当の父親のように接していた人物に、裏切られた。それは本当に?
「他人だからなんだよ……それで、お前と過ごした時間が無くなるわけじゃねえだろ? 本当の伯父じゃないからって、あっさり切れるもんじゃねえよ」
ゆっくりと、近づいてくる倉崎に、真の方は、足を徐々に退かせていく。
このまま、倉崎と触れ合ってしまえば、何もかもを受け入れなければならなくなる。それが無性に怖かった。
恐怖が、真と倉崎との距離を、縮めることを阻害する。
だから、彼はここから逃げ出すしかなかった。
「真! 待て!」
静止しようとする声も無視して、階段を駆け下りる。
必死に下りて、一階に辿り着くと、すぐさまマンションを出て、地上に足を着いた。
膝に手を置いて、肩で息をしながら、顔を上げる。
しかし、そこにはいつもの光景など存在し得なかった。
「……どうなって――――」
アスファルトの地面には大きな皹が入り、茶色い土が顔を出している。ビルの外壁は崩れ、道路に散乱し、割れた窓ガラスも大量に散らばっている。
地震が起きた後のような光景だが、そうじゃないと、真は口を開いて、すぐに気がついてしまった。
この状況を招いたのは、如月ではなく、まして、古井新でもない。電車に乗っていた時と同じ。
現実世界で、黒い文字を操って、世界を黒一色に染めようとしたのは――――
「――――俺自身……」
エレベーターの向こう側の世界、つまりは、如月の心の中で、如月に聞かされた話は、全て本当の事だった。
倉崎は自分の伯父ではなく、如月と繋がっていて、ずっと自分を騙していた、ということになる。
「何が、俺と過ごした時間が消えるわけじゃない、だよ……そんなの……嘘っぱちだろ……」
信じていた、頼りにしていたものが一気に崩れ落ちて、しがみ付くものもなく、どん底まで落ちていきそうな感覚に襲われる。
『現実世界に戻っても、決して眠ってはいけない。次に目を覚ました時には既に世界は終わっていた。なんて事になる』
如月の忠告を守らなければ、本当に世界が終わってしまうかもしれない。
整っていた息が、一気に過呼吸のように早くなっていく。
空気が自分の呼吸を阻害しようと、酸素だけを無くしているような気もしてくる。
それでも、この場から一秒でも早く離れようと、足を必死に動かした。
これからどこに行くかも分からないまま、ただひたすらに歩いた。
段々と、呼吸も通常どおりに戻り出して、視界もクリアになっていく。
同時に、その目が捉えたのは、学校に向かう際の手段として用いる、見慣れた電車の駅だった。
しかし、その外観は、いつもどおりとはいかず、壁が崩れ、電車も動いていそうにない。
無意識のうちに、学校へと向かおうとしていたのか。
そこに今の現状を打開する、なにかが存在しているのか。
確かに、彼を苦しめてきた、エレベーターの向こう側の世界が現れる原因は、いつだってその場所から始まっていた。
そこに赴けば、何かが変わるという確証はないが、何も変わらないとも思えない。
歩いてどのくらいかかるのかは分からないが、それでも行く価値はあるだろう。
自分の中に存在する違和感が、行く方向を定めて、無理やりに足を動かし始めた。
◇
それからずっと、結構長い距離を歩いていたような気もするが、一瞬で過ぎ去ってしまったという感覚もある。
まだ学校には着いていないが、多分近くまでは来ている。
如何せん、周りの景色のほとんどの物が壊されたり、無くなったりしている為、自分の中にある光景との差異が、確認することを邪魔している。
道中ではほとんど、一般人の姿を見かけることはなかった。
学生も、老人も、会社員も、主婦も、誰も見ていない。
空は明るく、朝か昼のどちらかの時間帯であることに間違いはないが、それなのに一般の人々を見ないというのは、明らかにおかしかった。
警察官や消防隊員、自衛隊の姿は所々見受けられ、そんな人たちには見つからないよう、神経をすり減らしながら歩いた。
学校の体育館などの避難場所にみんな避難していると思われる。
だとすると、このまま学校に出向くのは、人に出会ってしまうという意味では、非常に危険なのでは、と考えた。
大罪を犯した、犯罪者のような思考だが、今の自分はそれと変わりない。
眠ってしまえば、また世界を崩壊させかねない存在なのだから。
どうしようかと悩みながら、突っ立っていた時、一人の学生が視界に入った。
自分が向かっている学校の制服を着た男性。その姿をどこかで見た事があるような気がする。
いや、知らないわけがない。その男子学生は、自分と同じクラスの人間だ。
「……お前……山下真か?」
先に口を開いたのは男の方で、その尋ねかけに真は応えない。
「無視かよ……そりゃあそうだろうなぁ? 今回の事件、全部、お前の仕業なんだろ? なんたって、死人にできるわけがねえもんなー?」
死人という言葉に、引っ掛かりを覚えて、訝しげな表情で目の前の男を見る。
「なんだよ、知らねえの? 今日見つかったらしいぞ? あの倒壊した病院から――――古井新の死体がよ」
一瞬、目の前の男が何を言っているの理解できなかった。
あれは大分前の出来事のはずで、古井新の捜索も既に打ち切りとなっている。
未だに瓦礫の撤去作業が進められていることから、その途中で発見されたのか。
生きていると思っていた。電車が真っ黒な文字に襲われた時も、真っ先に彼の顔が浮かんだ。
『壊そう――――世界を』
その言葉を体現するべく、如月に唆されるままに、世界に復讐しようとしていると思っていた。
でも違う。如月は別の目的で、古井新を使った。
山下真に、世界を真っ黒に染めさせるために。
「なあ山下。お前を殺せば、俺は普通に戻れるか?」
普通を脅かす存在を古井新だと思っていた彼は、一度、自分を見逃した。
だが、その存在が自分だと分かれば、彼は躊躇なく自分を殺そうとするだろう。
普久原通。
誰よりも普通である事に拘る男。だが、彼は矛盾を抱えている。
普通を望んでいる彼自身が、文字化けの能力を使えるということ。
それを証明するように、彼は一冊の文庫本を持ち出して、本の中から文字だけを宙に浮きあがらせる。
「この能力……文字化けって言うらしいな。つまり、俺らは環境依存文字ってことだ。この世界の、この環境には合ってない人間なのか? 社会不適合者? なんでお前だけじゃなくて、俺までそのレッテルを張られてる?」
そんな事は自分が知るわけがない。
以前であれば、救おうとしたのかもしれないが、今はそんな気持ちにはなれなかった。救われたいのは自分の方なのだから。
普久原は、空中を漂う文字で、一本の刀の形を作り出す。
自らの日常を壊そうとするモノは、それがたとえヒトであっても、殺すことを厭わないのだろう。
自分もこれ以上、世界を壊したくはないので、黙って殺されるわけにはいかない。
いや、逆に自分が死ねば、世界は救われるのか?
そうであればいいが、生き残ってしまった時のリスクを考えれば、今は抵抗した方が良さそうだ。
そうこうしているうちに、左手に本、右手に黒い刀を携えた男が、此方に向かってくる。
普久原のように今、本を持っているわけではないので、文字化けの能力は使えない。か?
棒立ちのままの真に、文字で形作られた刀が振るわれる。
しかし、その刃が彼の肌を切り裂き、赤い液体を噴き出させることはなかった。
黒い刀と真が触れ合う前に、ウジャウジャとした大量の虫のようなものが、割って入って、刀を受け止めてみせる。
真の前で、壁のように立ちはだかるそれは、全て文字で作られていた。
「なんだよ……それ……」
普久原は数歩後ろに下がると、気味が悪いような表情をした後、すぐに納得したようで、その存在を睨みつける。
「そうやって、世界も壊そうとしたんだな……? ふざけんなよ。俺の日常を壊しやがって」
「お前の日常は、文字化けができる時点で壊れてるだろ?」
それは尤もなことではあったが、普久原を逆撫でする言葉でしかない。
これ以上、普久原を怒らせてもメリットなどないが、勝手に口から出てしまった。
怒らせたところで、戦況に何の影響もない。
有利なのは依然として、全ての文字を自由に操れる、真の方だ。
普久原もそうなる可能性があるのかもしれないが、その前に倒してしまえばいいだけの話だ。
真が冷静に分析している間にも、普久原は何度も刃を振るっていたが、真に届くことはなく、黒い文字によって完封されていた。
このまま時間をかけていても、自衛隊や警察官に駆けつけられて、厄介なことになると思った途端に、真の前に立ち塞がっていた文字たちが、一斉に、本を持った男子学生に襲い掛かった。
人一人が真っ黒に染まる光景をただ、ぼうっと見ていた真は、何事もなかったかのように学校に向けて歩き出す。
自分が狂っているのではない。狂っているのは、この世界だ。
文字化けという能力を使える人間がおかしいのではなく、それを認めない世界がおかしいだけだ。
そんな感情が脳裏に過ぎった時、ふと我に返って、動かしていた足を止めた。
「今……なに考えて……」
自分の中の怖いナニカが、自分を支配してしまいそうな感覚に陥る。
それは恐らく、勘違いなどではない。確かに、それは存在し、現実となって、目の前に現れる。
「……文字……?」
急に暗転した光景に、真っ黒い炭の文字を見た。
三百六十度、全てを文字に包まれて、何も見えなくなる。
同時に一発の銃声が聞こえ、暗闇の景色は一瞬にして、元に戻った。
気にせずに一歩足を踏み出そうとした時、その重さにびっくりした。
地に根をはったように動かせないのだ。
身体だけが前のめりになり、膝から崩れ落ちて、地面にうつ伏せになる。
「ダメだ……眠ったら……」
自分に言い聞かせるように呟くが、段々と瞼は重くなっていく。
「眠ったら……世界が終わるんだから……」




