1.偽りの兄になった
「ほな、お兄さんが払ってくれるか?」
趣味の悪い、ワインレッドのワイシャツを着た男が独特のイントネーションで言った。僕は思わず数歩後ずさる。背中に冷たい壁が当たった。
「いや~それとこれとは話が違うって言うか……」
「違わへんがな。お兄さんはこの娘助けたいんやろ? けどこの娘なあ、わしらからだいぶこれ借りてんねん」
男が、人差し指と親指で丸を作る。OKサインを逆にしたような手だ。古今東西、菩薩像以外でこの手の形が持つ意味はひとつ。
「お、お金ですか……?」
「そや、女子供やからって流石に見過ごせへんねん」
男が、僕に詰め寄った。ああ、もう逃げられそうにないな。と僕の頭の冷静な部分が無慈悲に告げた。
獲物が諦めたのを見計らったかのように、男が再び口を開いた。
「せやから、お兄さんが払ってくれるか?」
* * *
その日、僕は浮かれていた。
そりゃ、誰だって初の給料日は喜ぶもんだろ? 高卒で町工場に就職して、一人暮らしを始めたばっかりの僕にとってはなおさらだった。
ちょっと気が大きくなってたんだ。だから、裏路地で男達に囲まれてる女の子を見て、助けようなんてヒーローじみたことを考えてしまった。
当然、僕はヒーローなんかじゃない。ただの高卒労働者で格闘技をやってたわけでもないし、中肉中背で背も体重も平均値。どこにでもいる普通の18歳の男だ。助けに行ったはずが、いつの間にか僕が男達に囲まれていて、しかも女の子が
「お兄ちゃん、助けて!」
とか言い出す始末。お前みたいな妹を持った覚えはない。
とまあそんなわけで、冒頭の会話につながる。ぶっちゃけ大ピンチだ。主に、財布的な意味で。
「い、いくらでしょう?」
金額を訊いた瞬間、男の顔がニヤリと笑みを作った。
「20万や」
「に、にじゅうまん……!?」
「なんや、ないんか?」
ない。と咄嗟に言えれば、逃げることが出来たかもしれなかった。女の子には気の毒だが、わざわざ後で大金を捨てにくるほど僕はお人好しじゃない。この場を切り抜ければ、あとは知らんぷりすればいい。
だけど、僕は返事に詰まってしまっていた。給料の14万、親と祖父母から貰った新生活祝いが3万ずつで合計20万ピッタリあることを考えてしまったのだ。
「……ありそうやな。財布出してもらおうか」
「いや、でも」
「はよ出さんと、こっちも手が出てまうで?」
男達が、一斉に殺気だった。
今まで経験したことのない威圧感に圧倒され、縮こまる。
「……お納めください」
僕は財布を丸ごと差し出した。だって仕方ないだろ? 勝てるわけないじゃんか。
全財産の入った財布と引き換えに、僕は女の子を助けたのだった。
取り立て屋とかヤクザとか、多分そういう部類の男達は、金を受け取るとすぐに去っていった。本当に金さえ回収できればなんでも良かったんだろう。
後に残されたのは、僕と女の子だけだ。
「……えっと……」
僕は戸惑う。女の子は改めて見ると、結構な美少女だったのだ。端正な顔立ちにパッチリ大きな目、桜色の唇はふっくらしている。腰まで伸びた髪は艶々で、癖もなく、茶色ぽい色をしていた。
こんな娘が、どうしてあんな奴らから借金なんかしてたんだろう。まあ、見た目は関係ないか。
「あのさ、まあ、頑張って」
なんだか気の毒になってきた僕は、それだけ言って裏路地を後にした。
「待って!」
後にしたんだけど。
大通りに出てから突然、後ろから大声で呼び止められた。
「待ってよお兄ちゃん!」
「やめろ! お前みたいな妹を持った覚えはない!」
って、なんだこの会話。なんでこんな公衆の面前で修羅場になってんだ!
「だって、お兄ちゃんの名前わかんないもん!」
そこに、女の子の追討ち。
周囲がざわついたのがわかった。
「お前、なに言ってんの!? 聞いてる人が混乱するからやめろって!」
「聞かせてるわけじゃないもん!」
「そうだけど……ああもう、そうだけど!」
「とにかく待ってよ!」
「さっきから一歩も動いてないから早く来なさい」
とてとてと、女の子が駆けてきた。隣に並ぶと、僕を見て、にへーと笑う。
「お兄ちゃん、お家どこ?」
「……その質問、そっくりそのまま返していい?」
「あなたの隣が、私の帰る場所です」
「お嬢さん、お家はどこですか?」
「スルーすんな!」
ドスッと女の子の肘鉄がみぞおちに入り、僕は腹部を押さえて呻いた。
「な、なにすんだ……恩人に対してひどすぎるだろ」
「ふん、乙女の純情を弄んだ罰だもん」
「なにが純情だよ……ビッチのくせに」
もう一発入りそうになったので、僕は体を捻った。ギリギリで躱す。
「ひっどーい! 私、ビッチなんかじゃないよ、処女だもん!」
「ば、ばか! こんなとこでなに大声で叫んでんだ!」
「あ、真っ赤になった。お兄ちゃん、意外と純情?」
「…………」
どうも、厄介なのに捕まったらしい。さっきの怖いおっさん達とは違うベクトルの面倒さに、ため息をつく。
とりあえず、訂正すべき点はきちんと訂正しておこう。
「直樹」
「え?」
「だから、お兄ちゃんじゃなくて、直樹。三野直樹だよ」
名乗ると、何故か女の子はひどく驚いたようだった。ポカンと僕を見つめて、それから俯いてしまった。
「……えと、木葉、神影木葉……です」
どうしたんだろう。なんか、急にしおらしくなったけど。
どうした? と訊いてみると、「何でもない」と答えて。でも、こっちが黙っていると、ぼそっと消え入りそうな声で続けた。
「その……、今更なんだけど、ごめんなさい」
「借金のこと?」
「うん」
本当に今更だな。冗談めかした会話から、真面目な自己紹介になったから、思い出したってとこだろうか。女の子……木葉は、さっきまでとはうって変わって暗い表情で申し訳なさそうに頭を垂れていた。
「ねえ、どうして怒ったりしないの?」
「どうしてって言われても……」
「さっきも、私が待ってって言ったら待っててくれるし、名前とか普通に教えてくれるし。騙して借金の肩代わりさせたような私に、なんでそんなに普通に接してくれるの?」
「…………」
言われてみれば、たしかに僕の行動はおかしいのかもな。
でも、僕はなってしまったことはしょうがないって思うし、もともと彼女を助けに行ったのは自分自身だ。だから、木葉に当たるのは筋違いだと思うわけで。つまり、理由は考え方の違い。
もし、それ以外の理由を強いてあげるなら……。
「木葉がかわいいからかな」
言った瞬間、木葉が半目でジトーっと睨んできた。
「……お兄ちゃん? 感動してた私が馬鹿みたいなんだけど」
「ごめん。でも、ほんとにそれくらいなんだよ。それと、お兄ちゃんはやめてくれ」
「真面目に訊いてるのに真剣に答えてくれないからだよ」
まったくもう……と呟いて、少し前を歩いていた木葉がくるっと振り返った。タンっと音を立てて彼女のスニーカーがアスファルトの地面を叩く。後ろ手を組んで、ちょっと上目遣い。
「なおき」
「な、なんだ?」
急に名前を呼ばれて、僕はたじろぐ。木葉がくすっと悪戯っぽい笑みを見せた。
「私と援助交際してくれない?」
小首を傾げる動作に合わせて、綺麗な髪が揺れた。