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雪が溶け、花が咲く頃に

作者: 安西治

 寂れた駅前に高木信也は立っていた。

 長野の小さな町の駅には古びた看板の商店がいくつか佇んでいた。駅前の申し訳程度のロータリーにはタクシーが2台止まっていて、運転手があくびを漏らしていた。この町を去る人は多くても訪れる人は限られている、そんな感じの小さな町だった。

 高木はまだ寒さが残る町を去ろうとしていた。大き目のボストンバッグがその証拠だった。来月から叔父夫婦の家に居候して、その近くの公立高校に通うためだ。この町から乗り継ぎを重ね、都内のその高校まで二時間もかかって通学するよりは、遥かに合理的な判断だった。もっとも、その判断は信也の下したものではない。むしろ信也はそれを嫌っていた。大人同士が本人の意向を無視して頭ごなしに取り決めた進路を、信也は心の底から嫌っていた。だからといって代案があるわけでもない。

 駅で切符を買い、改札を抜けようとした時、後ろから声が聞こえた。

 「お兄ちゃん!」

 振り返ってみると、妹の幸恵が息を切らせながら駆け寄ってきたところだった。手には紙袋を持っていた。

 「これ・・・、叔父さん夫婦へのお土産だってお母さんが・・・」

 息を切らせ、前屈みになりながら幸恵が言った。

 「お土産って・・・、俺は叔父さんの家に行くだけで帰るわけじゃないぞ。お土産はおかしくないか?」

 「おかしくなんか無いよ。人の家にお邪魔になるのに手ぶらじゃ失礼だからってお母さんが言うから」

 「わかったよ。母さんからって言って渡せばいいんだろ?」

 「うん・・・。ねえ本当にいいの?」

 息が整ってきたのか、まっすぐ立って信也をさっきより高い視線でまっすぐ見つめながら幸恵が聞いた。

 「何が?」

 「だって離任式がまだ残ってるでしょ?」

 「どうでもいいよ」

 「よくないよ!」

 興味が無いといった口ぶりに幸恵が怒気をはらんだ声をあげた。

 「こうやって心機一転できるチャンスを与えてくれた大川先生が今年で別の学校に行っちゃうんだよ?お兄ちゃんがこういう風になったことに不満持ってるのはわかるけど、それでも先生だよ?ねえ、どうして?」

 「俺一人に責任を押し付けたのが気に入らないからだよ。決まってるだろ?」

 「和美の事ね・・・。」


 和美とは妹の小学校の頃からの親友で、また信也の好きな子でもあった。母子家庭でなおかつ過保護に育てられたせいもあり、内向的な彼女を物怖じしない幸恵は幸恵を家に連れてきた。信也と和美が意気投合したのは好きな漫画が一緒だったからだった。彼女が好きな漫画の話をしていた時、幸恵が困惑気味だったのとは対照的に、読み始めだったとはいえ知っていた信也がそれがきっかけで話しかけてきたのだ。最初はオドオドしていた和美も、やがて信也の真っ直ぐさに触れて徐々に心を開いていったのだった。

 そして二人はいつのまにか付き合い始めていた。

 それは周囲からみたら微笑ましいものだった。性の差異が顕著になり始めるこの時期の、友達とも恋人とも言える曖昧な距離感はなかなか縮まらず、微笑ましさはやがて周囲の苛立ちを生み始めていた。

 そんな時だった。あの事件が起きたのは。

 幼女連続誘拐殺人事件の犯人が逮捕され、その行動や嗜好がマスコミによって暴露されると、インドア趣味の人は一斉に嘲笑と警戒と侮蔑の対象となった。いわく、犯罪者予備軍。いわく、反社会的な変人。いわく、幼女愛好家。そしてその軽薄な悪意は微笑ましいはずの二人にも向けられた。

 内向的な性格であるが故に「やめて」と言えない和美の態度が、状況を悪化させていった。

 (ほらみろ、図星だから黙ってるぞこいつ)

 (言い返せないから、心にやましいことがあったんじゃねえの?)

 (犯罪起こさせないように、俺達できっちり教育して漫画から離れさせてやらないとな)

 魔女狩りというにはあまりに幼稚で脈絡のない論理に駆り立てられた同級生の言動が、和美から時折見せるはにかむような笑顔を奪っていった。学年が違うから、信也だっていつでも守りきれるわけじゃない。教師も見てみぬ振りをして彼女の訴えを無視しただけでなく、あろう事かマスコミのデタラメを鵜呑みにして曖昧な返答を繰り返すばかりであった。こうして信也の大人への不信感は募り、和美は徐々に信也にまで心を閉ざしつつあった。

 

 そして、あの日の出来事が起きてしまった。

 それは和美の下校を待って校門で待っていた信也が、男子数人の笑い声で振り返った時に見たものがすべての始まりになった。

 男子数人が和美の周りを取り囲みながらはやし立てていた光景だった。

 「お前、犯罪いつ起こすか教えてくれよ」

 「犯罪起こして家族に迷惑かけるなよ」

 「気持ち悪い趣味なんか、さっさと卒業しちゃえよ」

 口にされていた罵詈雑言を、和美は唇をかみ締めてこらえていた。本当はやめてといいたいに違いなかったが、そうすれば余計に無効は面白がる。これは明らかないじめだった。このマスコミが言いふらしたデタラメの影響が噂同様になくなったとしても、和美が責め苦から逃れられる保証はない。

 信也の体から血の気が引き、やがて激情が訪れた。

 「おいてめえら!俺の友達に何やってんだ!」

 信也は走り出し、男子の一人を殴りつけた。あっけにとられながらも一瞬で我に返り、信也を蹴る取り巻き。その足を掴み、引きずりおろす。相手の体に馬乗りになり、両手で殴り続ける。羽交い絞めにされ、罵声を浴びながら2・3発殴られる。羽交い絞めにしている相手の顔面を後頭部の頭突きでひるませる。顔に手をあててうずくまっているところを首に両手を回して腹に膝を数発。最後の一人はたじろぎながらも奇声をあげながらなぐりかかってくる。大振りの拳を受けてしまいながらも相手の頭を左脇で挟み、頭に腕を回す。折り曲げた右肘で相手の背中を数発。それで相手は泣き始めたので手を離した。

 それは人としてはごく当たり前の態度だった。ささやかながらも大切なものを踏みにじりあざ笑う者達への怒りと言ってもいい。そしてそれを誰一人として守ろうとしない大人達を含めた周囲に対する怒りをあらわにした目を、信也は集まっていた野次馬達に向けていた。やがてその視線は野次馬達にではなく、さっきとは正反対の優しげな目をうずくまっていた和美に向けていた。信也は和美に手を伸ばした。

 「大丈夫か?」

 次の瞬間、和美の手が信也の手を忌避するかのように払っていた。

 「いやっ!」

 絶叫にも近い悲鳴をあげながら和美が後ずさる。その瞳からは先ほどの忍耐の光が消え、代わりに純粋な恐怖が支配していた。

 「落ち着けって、あいつらもういないから。今日も一緒に帰ろうぜ。な?」

 振り払われながらも突きつけるように手を伸ばした。

 「怖い・・・。怖いよ信也君。」

 泣きながら信也を拒絶する和美。その不本意な態度に信也は立ち尽くす。やがて和美は立ち上がり、ゆっくりとその場を後にした。信也はそれを黙って見送るしかなかった。せっかく和美を守ったのに、せっかく和美の敵を追い払ったのに、どうして、どうして俺を怖がるんだよ?


 和美が転校してしまったと聞かされたのはその数日後だった。そしてそれは、和美に向けられた軽薄な悪意が信也に向けられるはじまりの日でもあったのだ。


 「でもね、お兄ちゃん」

 「なんだよ」

 「先生とお父さんとお母さんは必死で考えて、お兄ちゃんがちゃんと明るく過ごせるようにこういう風にしてくれたんだって、思ったことないの?」

 「ないね。俺や和美がつらい時に助けてくれなかった大人達が、俺一人を島流しにして平和を取り戻したってだけだろ?そんな奴の別れ際なんか、誰が見たがるものかよ」

 「でもそれじゃ先生がかわいそうだよ!」

 声を荒げて訴える幸恵の声に、信也は真っ向から立ち向かう。

 「かわいそうなのは和美だろ!」

 その一言で信也を見上げていた幸恵はうつむき始めていた。

 「なあ幸恵、一番辛い時に助けて欲しかったのは俺じゃねえよ。和美の方なんだよ。わかるか?俺は男だからいざとなったらこいつで立ち向かえばいいんだ」

 信也は「これ」と言いながら拳を握って誇示をした。

 「でも和美はどうだった?あいつ優しすぎるからやめての一言も言えなかったし、大人達はーーあいつの母親だって『人の噂も七十五日って言うじゃない。それまでの辛抱よ』って誤魔化してばかりだったじゃないかよ。今すぐ助けが欲しくて仕方が無かった奴にそういう態度をしたんだぞ、大人達は!」

 いまだなお消えることのない不信感を根底にした怒りを露わにしながら信也は答えていた。

 「だから俺は今からこの町を離れるけど、あっちへ行っても俺は誰も信じない。教師を信じない。同級生を信じない。叔父さん夫婦を信じない。そして・・・近づいてくる人は特に。信じたら負けだ。信じたら終わりだ。信じたら・・・見放されて笑われて押し付けられて最後に捨てられるってよくわかったから。だから俺は離任式には行かない。」

 「・・・そう」寂しげに幸恵がつぶやいた。それは反論する術を失った自分自身の無力さをかみ締めているようにも見えた。

 やがて電車の到着を告げるアナウンスが流れ始めた。

 「じゃあ、さっきの荷物、届けておけばいいんだな?」

 「うん、お願い」

 「わかった」

 そう言いながら振り返り、改札の向こう側に抜けようとする信也を和美は呼び止めようとした。でも何を言葉にして良いのかわからなかった。だからありふれた言葉を口にしていた。

 「向こうに行っても元気でね」

 信也はその声に振り返らなかった。その態度から信也の不信感に凝り固まった心を連想させ、寂しい気持ちになりかけた。だが信也は振り返らないまま、軽く手を振って応じた。そしてすぐにやってきた電車に信也は乗り込み一度も振り返らないままドアが閉まった。わずか数メートルだが、改札と電車のドアに阻まれた心の距離。それは今の信也の閉ざされた心のように思え、幸恵は思わず涙を流していた。

 「元気でね・・・。お兄ちゃん」

 さっきの言葉を涙ながらに呟きながら見送る。追いかけることはしなかった。信也の傷心を思えば、あまり近づきすぎると傷の深さに、それに何も出来ない自分が嫌になってしまうだろうから。

 長野のとある小さな町にはまだ寒さが残っていた。数日前には雪も降っていた。遠景の山々の頂上には雪が積もっていた。こっちの桜の開花はまだ先の話だろう。

 でも信也の向かう東京は、つい先日気象庁が開花宣言を出したばかりだった。こっちでは待ちぼうけるしかない桜の花が東京ではもう咲いていることを幸恵はうらやましがっていた。

 でも本当に咲いて欲しい花は桜なんかじゃなかった。

 他人への不信感で凝り固まってしまった信也の心は、いつ雪解けを迎え、いつ花が咲き、どんな花を咲かせるのか、妹として、兄の彼女の親友として、それを思わずにはいられなかった。

 信也の乗った電車は、まだつぼみすらつけていない桜並木の中をゆったりと走っていった。

 


 

 

 

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