囁きの詩 ≪約束の月≫
星の輝きを消し去ってしまうほどの、眩い満月の夜。
ベッドの中の君の頬を風が擽る。
ほら、まどろみの中から君を呼ぶ声がする。
瞼を開けて、顔を上げて。
最初に君の瞳に映るのは、大きな満月を背にした人影。
微笑む赤い唇。
月光が、開け放たれたバルコニーから射し込む。
風が、引かれたカーテンをはためかす。
美しい、象牙で作られたような顔の少年。
銀の髪、白い肌。この世界のものではない服装。
「貴方は誰?」
君は怯えもせず、どこか嬉しそうにさえ訊ねる。
君は知っている。少年が人でないことを。
「僕は月の精霊」
赤い唇がゆっくり動く。
芳香が君の鼻を擽る。
君は精霊の訪れを待っていた。
まるで、幼い頃の約束であるかのように。
その存在を、訝しがることもせず。
差し出された白い手に、君は夢見心地の想いで己が手を重ねる。
疑うこともなく。
「君を、月夜の散歩に連れて行ってあげる」
握られた手を引かれ、片方の手で腰を抱かれ、君の身体はふわりと空に浮かぶ。
空に星はない。
あるのは、大きな満月だけ。
まるで、大地を覆い尽くそうとするほどの月光を放ちながら。
君はまるでその背に翼があるかのように、精霊の手に引かれながら空を翔ける。
夜着の裾を翻し、楽しそうに、まるで夢のように。
疲れたら、大樹の枝に腰掛けて、精霊にその身を委ねる。
精霊の柔らかな銀髪が再び君の頬を擽る。
君の薔薇の蕾のような唇が小さく囁く。
「素敵な夜・・・。私、貴方をずっと待っていたように思うの」
弾んだ声が夜空に響く。華奢な指が、彼の頬をそっと撫でる。
赤い唇に、指先が触れる。
君はすでに少女で無く。
無垢の魂はすでに無く。
「貴方は本当に月の精霊なのね」
誘うように濡れた君の瞳。甘えるように薄く開く唇。
純潔の君が淫らにいざなう。
まるで、月の魔法にかかったように。
精霊は、赤い唇の端を吊り上げる。
「そうだよ。僕は月の精霊」
誘う君の腕を掴み、乱暴に君の唇を奪う。
そのとき、君はようやく夢から醒める。
冷たい唇の感触に。
掴まれた腕はまるで氷に覆われたかのように。
振り解こうとしても、精霊の指が食い込むように握り締める。
声にならない悲鳴を上げても、精霊は君を冷たく笑う。
「・・・但し、『裏』だけどね」
少し大きく開かれた口許から見えるのは、月光に照らされた白い牙。
赤い舌。
君は恐怖に怯える。
顔が引き攣る。
醜いまでに。
「いや・・・、来ないで・・・・・・」
枝の上を後退る君に精霊は白い腕を伸ばし、君の細い首を掴む。
「ひっ・・・」
「さぁ、僕は君を迎えに来たんだよ。僕の花嫁にするために」
君はやっと真実を知る。
君の瞳いっぱいに、満月が映る。
その光景を遮るように、精霊の背中から2枚の翼が広がる。
漆黒の闇のような羽を舞い散らして。
「・・・あ・・・あぁ・・・」
遠のく意識の中で、首筋に2本の牙が突きたてられるのを感じながら。
君の身体は力無く落ちていった。
永遠に夢の中で。
君は悪魔の花嫁に選ばれた。
精霊は銀の髪を靡かせて、黒い翼を空いっぱいに広げ羽ばたく。
その腕に白い顔の君を抱いて。
大きな、血のように赤い満月を背にして。
<了>