いつにする?
『いつにする?』
窓枠を掴むエレノアの指先は、青白く透き通り、血の気が引いて冷え切っていた。
秋の午後。陽射しは淡い金色を帯びているのに、彼女の肌には少しの温もりも届かない。
ガラスの向こう、広大な公爵邸の庭園では、赤や橙に染まった木の葉がさーっと吹き抜けた一陣の風に攫われていた。
カラカラと乾いた音を立てて小さな渦を作り、敷かれた砂利道の上を転がっていく。まるで、かつてここを通った誰かの馬車の轍を追いかけて、無邪気にかけっこをしているかのように。
(……あんなふうに、どこか遠くへ吹き飛ばされてしまえたらいいのに)
エレノアは虚ろな瞳で、その踊る落ち葉をぼんやりと見つめていた。
半年が過ぎていた。
十歳のあの日から、王太子エリックの婚約者として選ばれ、彼女の人生のすべては「未来の王妃」になるためだけに捧げられた。
背筋を伸ばす歩き方、五カ国語の修得、各国の歴史と外交儀礼、領民を導くための冷徹なまでの判断力。友と無邪気に笑い合う時間も、好みのドレスをねだる我慢も、すべてエリックの隣に恥じぬ自分になるためだと信じていた。十年だ。十年の歳月を、彼女は自分の血肉を削るようにして走り抜けてきた。
それを、あの男は――。
『すまない、エレノア。僕は真実の愛を見つけてしまったんだ』
卒業記念の夜会。全貴族の視線が集まるシャンデリアの下で、エリックは平民出身の可憐な男爵令嬢の肩を抱き、悪びれもせずにそう言った。
『君は完璧すぎて、息が詰まる。僕が守ってやりたいのは、君じゃない』
たったひと言。
たった数秒の言葉で、彼女の十年間は跡形もなく粉砕された。
公爵家は抗議したが、王太子の頑なな意志と、男爵令嬢に味方する新興貴族の声に押され、婚約は正式に白紙となった。
「これから、何をすればいいの……?」
目的を奪われた人形。それが今の自分だった。
屋敷に戻って以来、エレノアは自室に閉じこもった。両親の心配する声も、侍女たちの泣き濡れた慰めも、分厚い鉛の壁の向こうで鳴っているようにしか聞こえなかった。誰とも口を利かず、運ばれてくる食事も喉を通らない。
生きている資格なんてない。
十年間信じてきた自分が偽物だったのなら、今の私はただの空っぽの抜け殻だ。
死にたい。朝が来るたびに、目覚めてしまったことに絶望し、夜になれば、このまま息が止まればいいと願った。胸の中は、太陽の光すら届かない永久凍土――凍てつくツンドラ地帯のように、白く冷たく凍りついていた。
「……お嬢様」
不意に、下の方から掠れた声がした。
一階のテラスへと続く庭の片隅。
熊手を手にした老庭師――エレノアが物心ついた頃からこの庭の土を弄り続けている、トマスが立っていた。
深く刻まれた皺だらけの顔を上げ、彼は静かにエレノアを見上げていた。
「おつらかったですね」
ただ、それだけだった。
「元気を出してください」でも、「あなたのせいではありません」でもない。
ただ、彼女がこの半年間、誰にも見せまいと胸の奥底に閉じ込めていた痛みを、丸ごと包み込むような静かな一言。
――ツン、と。
エレノアの凍てついた世界に、かすかな亀裂が入った。
ツンドラの雪原に、春の最初の一滴のような、あたたかな風がふわりと流れた気がした。
ぎゅっと固く閉ざされていた喉の奥から、言葉にならぬ熱い塊がせり上がってくる。エレノアは気づけば、何ヶ月ぶりかに自らの足で部屋を抜け出し、庭へと続く扉を開けていた。
カサリ、と落ち葉を踏む音がした。
薄いショールを肩に引っかけただけの彼女を、トマスは驚きもせず、ただ穏やかな眼差しで迎え入れた。
「トマス……私、もう……」
エレノアの声は掠れ、震えていた。
「もう、疲れてしまったの。生きている意味がわからないの。死んでしまいたいのよ……」
十年間、完璧であらねばならなかった公爵令嬢が、初めて人前で見せた崩れ落ちそうな弱音だった。両親には言えなかった。悲しませるのが怖かったから。だが、土と木々の匂いをまとったこの老人になら、吐き出すことができた。
トマスは持っていた熊手をそっと壁に立てかけると、深々と息を吐いた。
そして、荒れて節くれだった両手をエプロンで拭い、エレノアの目を真っ直ぐに見つめた。
「わかりました」
その声は、どこまでも静かで、少しの咎めもなかった。
「お嬢様は、十分に頑張りました。十年もの間、誰よりも重い荷物を背負い、誰よりも立派に歩んでこられた。もう、その荷を下ろしても誰も責めはしません。……あなたの望みを、かなえましょう」
エレノアは息を呑んだ。
止められるとばかり思っていた。命を粗末にするなと、叱られるとばかり思っていた。
トマスは穏やかな口調を崩さぬまま、静かに続けた。
「死ぬ日を、決めてください」
「え……?」
「いつがいいですか。来週ですか、それとも来月ですか。あるいは、春が来る前でしょうか」
エレノアは呆然とトマスの顔を見つめた。老人の瞳は、冷酷さなど微塵もなく、ただ深い泉のように澄んでいた。
「わ、私……そんな、具体的には……」
「ええ。ですから、日を決めるのです。人は、いつ終わるかわからない苦しみには耐えられませんが、終わりの日が決まっていれば、静かにその支度ができるものです。この老いぼれが、お嬢様の最期を誰にも邪魔されぬよう、綺麗に見届けて差し上げます。薬でも、眠るような毒でも、私が用意いたしましょう」
トマスはふっと優しく目を細め、足元の土を指さした。
「ですが、お嬢様。旅立ちの日を決める前に、一つだけお願いがございます。いま、この庭のチューリップの球根を植えねばならん時期なのです。私が腰を痛めておりましてな。死ぬ日までの間、少しだけ、この老いぼれの手伝いをしていただけませんか」
「……球根を?」
「ええ。土を掘り、球根を埋めるだけです。あなたが旅立つその日までに、綺麗に植え終えたいのです。……どうでしょう、お嬢様。『その日』は、雪が降る頃でよろしいですか?」
エレノアは乾いた唇を震わせた。
死ぬ日。
自分で選ぶ、終わりの日。
その約束が手に入った瞬間、不思議なことに、半年間彼女の首を絞め続けていた見えない縄が、ふっと緩んだような気がした。
「……ええ。わかったわ、トマス。雪が降る日……最初の雪が降ったら、私を終わらせて」
「承知いたしました。では、初雪の日をその日といたしましょう」
トマスは深く一礼し、小さなスコップをエレノアの手に握らせた。
ひんやりとした鉄の感触と、柄に残る木と土の温もり。
エレノアは促されるまま、生まれて初めてドレスの裾を土で汚しながら、花壇の前に膝をついた。
カサカサとした茶色い球根。まるで死んでいるかのように乾き、硬い塊。
「これを、尖った方を上にして、土の中へ深めに埋めるのです」
トマスに教えられるまま、エレノアは土を掘り、球根を置いた。黒い土の冷たさが、指先からじわりと伝わってくる。
「トマス。こんなに冷たい土の中に埋めてしまって、息が詰まらないのかしら」
ぽつりと零した問いに、老人は隣で土を均しながら微笑んだ。
「大丈夫ですよ。今はただ、じっと眠っているだけです。冬の厳しい寒さをたっぷりと吸い込まねば、春に花を咲かせる力が出ないのですから。寒ければ寒いほど、土の中で、あの子らは命を研ぎ澄ましているのです」
エレノアは黙って、球根の上にそっと土を被せた。
胸の奥のツンドラに、ぽたりと温かい雫が落ちた。
――初雪の日まで。
あとひと月か、ふた月か。
終わりが決まったその日から、エレノアの止まっていた時間は、奇妙なほど静かに、そして確かに動き始めたのだった。
◇◇◇
カサカサと鳴っていた乾いた落ち葉の季節は過ぎ去り、木々はすっかり葉を落として、灰色の枝先を刺すような冬の空へと伸ばしていた。
公爵邸の庭園には、朝ごとに白く鋭い霜が降りるようになった。
息を吐けば白く濁り、吐き出したそばから天へと昇って消えていく。
自室の扉を開け放ち、庭へ降りることが、いつの間にかエレノアの日課になっていた。
豪奢な絹のドレスは脱ぎ捨て、動きやすい厚手のウールの古着にエプロンを締め、革の手袋を嵌める。爪の間に黒い土が入り込んでも、以前のように眉をひそめることはなくなっていた。
「お嬢様、土の寄せ方が丁寧になりましたな。これなら霜柱が立っても、球根の根が痛むことはありません」
腰に手を当てて笑うトマスの声に、エレノアはふっと口元を緩めた。
「トマスに毎日のように手取り足取り教わったもの。これくらいできなくては、庭師見習い失格でしょう?」
「はっはっは、これは一本取られましたな。旦那様や奥様も、近頃のお嬢様のご様子を見て、少しずつ顔色を取り戻しておられますよ」
トマスの言葉に、エレノアは胸の奥がきゅっと疼くのを感じた。
両親は、娘が部屋から出て土に触れ始めたことを、生きる気力を取り戻した兆しだと信じて喜んでいる。温かいスープを作ってくれたり、柔らかなショールを肩にかけてくれたりする両親の優しさが、痛いほど身に染みた。
(ごめんなさい、お父様、お母様……)
エレノアはそっと目を伏せ、冷たい土を撫でた。
彼女が前を向いているように見えるのは、元気になったからではない。「終わりの日」が約束されているからだ。
苦しい日々の出口が確実にあると知っているからこそ、残された時間を穏やかに過ごせているに過ぎない。
初雪が降れば、すべてが終わる。
トマスが調合してくれるという、痛みのない眠るような毒を呷り、永遠の眠りにつく。
その日を迎えるための、身辺整理のような時間なのだ。
十一月も半ばを過ぎたある日、エレノアは花壇の片隅で、トマスが大事そうに枯れ草を敷き詰めているのを見つけた。
「トマス、これは?」
「ああ、これは春に芽吹く宿根草の布団ですよ。地上の葉はすっかり枯れ果てて死んだように見えますが、根はしっかりと土の底で眠っているのです。寒さから守ってやれば、春の光とともに、また青々とした葉を広げます」
「……死んだように見えても、生きているのね」
エレノアの呟きに、トマスは作業の手を止め、慈父のような眼差しを向けた。
「草木も人間も、同じです。どんなに冷たい風に晒されようと、雪の下でじっと息を潜めていれば、必ず土が温む時が来ます。その時に起き上がればよいのです。……焦って真冬に花を咲かせようとすれば、凍え死ぬしかありませんからな」
「私は……」
エレノアはぎゅっと自分の両腕を抱きしめた。
「私はもう、根まで腐ってしまった気がするの。王太子妃になることだけを教え込まれて、それを取り上げられたら、土の中に何一つ残っていないわ」
トマスは何も言わず、ただ優しく微笑んで、使い古された水差しに井戸水を汲みに行った。
その夜、急激に冷え込みが厳しくなった。
窓ガラスの端には氷の結晶がシダの葉のように張り付き、風の音が夜通し屋敷を揺らしていた。
ベッドに入ったエレノアは、寒さで何度も目を覚ました。
何かが胸騒ぎを立てていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより異様に白く、静まり返っている。
夜が明けた。
エレノアは跳ね起きるようにして窓辺に駆け寄り、分厚いドレープを勢いよく引いた。
「あ……」
息が止まった。
世界が、白一色に染まっていた。
屋敷の屋根も、遠くの並木道も、そして毎日手入れをしてきた広大な庭園も、すべてが降り積もった純白の雪に覆い隠されていた。
音のない世界。空からは今もなお、羽毛のような大きな雪片が、静かに、途切れることなく舞い降りている。
初雪だった。
「……今日なんだわ」
エレノアの心臓が、トクン、と大きく跳ねた。
恐怖はなかった。不思議なほどの静寂が、胸を満たしていた。
約束の日が来たのだ。この半年間、ずっと待ち望んでいたはずの、苦しみからの解放の朝。
エレノアは白いワンピースの上に黒い外套を羽織ると、足音を忍ばせて階段を降りた。
玄関の重い扉を押し開けると、冷涼な空気が肺腑を突き刺す。
誰も足を踏み入れていない新雪を踏みしめ、キュッ、キュッと音を立てながら、彼女は庭の奥へと進んだ。
温室の脇にある小さな道具小屋。
煙突から細い煙が立ち上っていた。
トマスが、待っているのだ。
扉に手をかけ、そっと押し開けた。
中には、薪ストーブのパチパチとはぜる音と、乾いたハーブの香りが満ちていた。
古びた木のテーブルの上には、二つの湯呑みと、小さな硝子の小瓶が置かれていた。小瓶の中には、澄んだ琥珀色の液体が入っている。
「……お待ちしておりました、お嬢様」
トマスは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
その顔には、いつもの穏やかな笑みはなく、静謐な厳しさが漂っていた。
「雪が……降ったわ、トマス」
エレノアはテーブルの前に進み出た。指先がわずかに震える。
「ええ。美しい初雪でございますな」
「約束を、果たしに来てくれたのね」
エレノアは硝子の小瓶を見つめた。
これさえ飲み干せば、エリックの裏切りも、十年間の喪失感も、両親への罪悪感も、すべて消えてなくなる。永遠の安らぎが手に入る。
トマスは小瓶を手に取り、温かい湯を注いだ陶器のカップに、その液体を静かに垂らした。
湯気とともに、どこか甘く、どこか香ばしい香りが立ち上る。
「これを召し上がれば、苦しむことはありません。少しずつ手足が温かくなり、深い眠りに落ちるように、すべてが終わります」
トマスはカップを両手で持ち、エレノアの前へと差し出した。
「さあ、お嬢様。……どうぞ」
エレノアは息を吸い込み、両手でカップを受け取った。
陶器越しに、じんわりとした温もりが掌に伝わってくる。冷え切っていた指先が、その熱を吸い込んでいく。
唇を近づける。
甘い香りが鼻腔をくすぐる。
あと一口。これを飲み干せば――。
そのとき、ふと、窓の外に目をやった。
雪に覆われた庭園。
昨日まで自分が土を盛り、枯草を敷いて守った、あの花壇があった。
(あそこには……)
エレノアの脳裏に、自分が泥だらけになって埋めた無数の球根たちの姿が鮮やかに蘇った。
あのか細く、乾いた茶色い塊。
いま、この分厚い雪の下で、あの冷たい土の中で、球根たちはじっと息を潜めている。
『寒ければ寒いほど、土の中で、あの子らは命を研ぎ澄ましているのです』
トマスの言葉が耳の奥で木霊した。
球根は、知っているのだ。
どんなに冬が長く、寒く、暗くとも、その先には必ず春が来ることを。
そして春が来れば、赤や黄色や紫の、まばゆいばかりの花を咲かせることを。
(私は……?)
エレノアの手が、ピタリと止まった。
(私は、花が咲くところを見ないまま、死ぬの……?)
自分が植えたのだ。ひとつひとつ、手を汚しながら、寒さに震えながら、春を祈って埋めたのだ。
誰のためでもない。エリック王太子の妻になるためでも、王家のためでもない。
エレノアという一人の人間が、自分の手で土を掘り、自分の手で命を託したのだ。
その花がどんな色で咲くのかも知らずに。
春の風に揺れる姿も見ずに。
私は、ここで終わってしまうのか?
「……お嬢様?」
トマスが静かに呼びかけた。
エレノアの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
カップの中の液体に、彼女の涙が波紋を作って溶けていく。
「トマス……」
声が震え、嗚咽へと変わった。
「私……私、見たいわ」
カップを握りしめたまま、エレノアはその場に泣き崩れた。
「あの球根たちが……春になって、雪が解けて、芽を出すところが見たい……! あんなに冷たい土の中で頑張っているあの子たちを置いて、私だけ死ぬなんてできない……! 春が見たいの、トマス……! 私、生きたい……!」
十年間、完璧な貴族令嬢として涙を禁じられてきた少女が、声を上げて泣きじゃくっていた。
それは、絶望の涙ではなかった。
凍りついていた心が完全に溶け出し、あたたかな血が全身を駆け巡り始めた、命の産声だった。
トマスはそっと膝をつき、エレノアの手からカップを取り上げた。
そして、愛おしそうに彼女の背中を撫でた。
「……それで、よろしゅうございます」
老庭師の声は、深く、温かかった。
「お嬢様。最初から、毒などここにはございませんよ」
「え……?」
エレノアが涙に濡れた顔を上げると、トマスはカップの中身を、自分の口へと運び、ゴクリと飲み干して見せた。
「ただの蜂蜜と、身体を温める生姜とカモミールの煎じ薬です。毒など、この老いぼれが愛するお嬢様に飲ませるはずがございません」
「トマス……あなた、最初から……」
「人は誰しも、逃げ場のない檻に入れられれば狂ってしまいます。死ぬ日を決めるということは、『その日までは生きる』という約束を結ぶこと。そして、生きている間に土に触れ、命の移ろいを見つめれば……人は自ずと、生きる力を取り戻すものなのです」
トマスは目尻に皺を寄せて、子供のように悪戯っぽく笑った。
「十年もの間、他人のための人生を生きてこられたのです。これからの人生は、誰のためでもない、お嬢様ご自身のために使いなさい。泥にまみれてもいい。不恰好でもいい。春になったら、あの花たちと一緒に、思い切り笑ってお咲きなさい」
エレノアは口元を押さえ、再び溢れ出す涙を止められなかった。
だが、その顔には、半年ぶりに柔らかな光が宿っていた。
小屋の扉を開けると、いつの間にか雪は止んでいた。
雲の切れ間から、まばゆい冬の朝陽が射し込み、庭一面の純白の雪を、まるでダイヤモンドを散りばめたようにキラキラと輝かせている。
エレノアは涙を拭い、深く、深く息を吸い込んだ。
冷たい空気が、心地よく胸を満たす。
雪の下には、春を待つ無数の命がある。
そして、彼女の胸の奥にもまた、二度と枯れることのない小さな芽が、確かに息づいていた。
◇◇◇
「さあ、お嬢様。少しばかり冷えますが、見せたいものがございます」
トマスは小屋の隅から小さな移植ごてを手に取ると、エレノアを促して外へと歩き出した。
雲間から差し込む朝の光が、降り積もったばかりの白雪を眩しく照らし返している。キュッ、キュッと二人の足音が並んで静かな庭に響いた。
辿り着いたのは、秋のあの日、エレノアが生まれて初めてドレスの裾を汚しながら、震える手で最初に球根を埋めたあの花壇の角だった。
トマスは手にしたこての先で、ふわりと積もった雪の上に、くるりと丸を描いた。
「ここを掘り起こしてみてください」
「ここを……? でも、せっかく植えたのに、傷つけてしまわないかしら」
「大丈夫ですよ。そっと、土を払うように掘ればよいのです。ご自分の手で確かめてごらんなさい」
エレノアは頷き、雪の上に膝をついた。
積もった柔らかな雪を手で払い除けると、その下から黒く湿った冷たい土が現れる。こてを差し入れ、トマスに教わった通り慎重に土を掻き分けた。
指先が冷たく痺れる。けれど、今の彼女にはその冷たささえ、自分が生きている証のように愛おしかった。
やがて、指先にコツンと硬い感触が当たった。
「あったわ……」
両手でそっと土ごとすくい上げる。
手のひらの上に現れたのは、秋の日に埋めた、あの乾いて小さかった茶色い球根だった。
エレノアは息を呑んだ。
球根の底から、生まれたての赤ん坊の産毛のように、白く瑞々しいひげ根が何本も、何本も力強く伸びていたのだ。黒い土をしっかりと抱き抱え、目に見えぬ大地深くへと手を伸ばそうとしている。
「まあ……根が出ているわ……!」
エレノアの瞳が驚きに見開かれた。
「地上はこんなにも凍てついて、真っ白な雪に閉ざされているのに……この子は、暗い土の中で、ちゃんと動いていたのね」
「ええ、そうですとも」
トマスは目を細め、愛おしそうにその白い根を見つめた。
「花も葉も見えねば、人は『何も起きていない』『終わってしまった』と思い込みます。ですがね、お嬢様。植物にとって一番大切なのは、見えないところで根を張るこの時間なのです。冷たい土を恐れず、暗闇を嘆かず、ただひたすらに生きるための根を伸ばす。これがあるからこそ、春に重たい大輪の花を支えられるのですよ」
トマスはエレノアの濡れた手の上に、自らの皺だらけの温かい手を重ねた。
「お嬢様のこの十年も、決して無駄などではありませんでした。あのような男に認められるためではなく、あなたがあなたとして美しく咲くために、見えないところで深く深く根を張っていた時間だったのです。土の中で蓄えた力は、誰にも奪えやしません」
エレノアの胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
無駄だったのだと、偽物だったのだと切り捨てていた十年間。
だが、あの苦しみも、学んできた日々の重みも、すべてはこの白いひげ根のように、自分という人間を支えるために根づいていたのだ。
「トマス……私、咲けるかしら。誰かのための花ではなく、私自身の花を」
「咲けないはずがございませんよ」
トマスは破顔した。
「私が保証いたします。この庭の誰よりも、気高く、美しい花が咲きますとも」
エレノアは涙を拭い、微笑んだ。
そして、命の塊を傷つけぬよう、そっと元の深さへと戻した。
柔らかな黒土を被せ、トマスと一緒に優しく手で押さえる。その上に、寒さを防ぐための雪の布団をふわりと戻してやった。
「おやすみなさい。春が来たら、また会いましょうね」
球根にそう語りかけたエレノアの声は、鈴を転がすように澄んでいた。
立ち上がった彼女の背筋は、かつて王太子妃教育で無理に伸ばされていたものとは違う、しなやかで力強い美しさに満ちていた。
頬を撫でる冬の風はまだ冷たい。
けれど、もうツンドラの寒さに凍えることはなかった。彼女の胸の内には、春を信じて根を張る、小さくも逞しい命の炎が灯っていたのだから。
◇◇◇
『いつにする?』――狂乱の春と金色の花
冬の重たい雪解け水が小川をせせらぎ、ぬるむ風が大地を撫でたとき、奇跡は庭の片隅から始まった。
灰色の土を突き破り、鮮やかな翡翠色の芽が一斉に顔を出した。
あの日、雪の下で白いひげ根を確かめた球根たちだ。
陽光を浴びてぐんぐんと背を伸ばし、やがてぷっくりと膨らんだ蕾をほころばせたその朝、エレノアは目を見張った。
庭一面を埋め尽くしたのは、ただのチューリップではなかった。
深く艶やかな真紅の花弁の縁に、炎のような黄金色の細い筋がくっきりと走り、まるで宝石の盃のように誇らしげに空を仰いでいたのだ。朝露を浴びてきらめくその姿は、息を呑むほどに気高く、妖艶ですらあった。
「……見事なものですな、お嬢様」
隣に立ったトマスが、目尻の皺を深くして感嘆の溜息を漏らした。
「ええ……本当に、なんて美しいのかしら。土の中でじっと耐えたからこそ、こんなにも鮮やかな色を抱いていたのね」
エレノアはそっと花弁に触れた。
王太子の隣で青白い顔をしていたかつての公爵令嬢は、そこにはいなかった。朝の光を浴びて輝く彼女の頬は、咲き誇る花と同じように瑞々しい朱が差していた。
だが、物語は「美しく咲いて終わり」では済まなかった。
かつて十年間、エレノアが王妃教育で叩き込まれたのは、単なる淑女の礼儀作法だけではない。領地経営、物価の変動、他国との貿易史、そして流通の構造――一国の経済を握るための高度な学問のすべてが、彼女の頭脳には完璧に根づいていたのだ。
(この美しさは、ただ愛でるだけのものではないわ)
エレノアの瞳に、知性の光が灯った。
彼女はトマスが長年培ってきた「土の知恵」と、自らが学んだ「交配の記録と選抜の理論」を掛け合わせた。日照時間、土壌の酸度、寒暖差のつけ方、そして異なる品種同士の花粉を筆先で掛け合わせる緻密な実験――。
二人は公爵領の一角に広大な試験農場を開き、来る日も来る日も品種改良に没頭した。
純白の花弁に紫の飛沫が散る『夜明けの星』。
ベルベットのような漆黒の奥に怪しい光を秘めた『黒曜石の杯』。
羽毛のように波打つ花弁を持つフリル咲き。
二人が生み出す新種の花々は、貴族たちの目を瞬く間に奪った。
夜会の一角に飾られた一輪のエレノアの花は、宝石よりも贅沢なステータスシンボルとして国中に知れ渡ったのである。
「一球でいい、我が家に譲ってくれ!」
「領地の鉱山の権利を半分渡しても構わない!」
最初は王都の貴族たちのお遊びだった。
しかし、噂は隣国へと広がり、やがて新興商人たち、富裕層、果ては一般の町人までもが巻き込まれていく。
球根はもはや花を愛でるためのものではなく、「持っていれば明日には十倍の値がつく魔法の資産」へと変貌を遂げたのだ。
一台の馬車、広大な屋敷、千頭の牛――それらが、たったひとつの珍しい斑入りの球根と引き換えに取引される狂乱。
人々は血眼になって市場に押し寄せ、紙切れ一枚の引換証に人生を賭けた。
後に歴史家たちが『チューリップ・バブル』と呼ぶ、空前絶後の経済熱狂の幕開けであった。
*
「お嬢様、いや、当代随一の園芸会総督様。またしても隣国の公爵から、白磁の壺入りの金貨が届きましたぞ」
作業小屋の丸太椅子に腰掛けたトマスが、呆れたように苦笑いしながら羊皮紙の手紙を放り出した。その足元には、数千枚の金貨が詰まった革袋が無造作に積まれている。
エレノアは作業着の袖をまくり、小さなピンセットで新しい球根の皮を剥きながら、ふっと冷ややかな笑みを漏らした。
「馬鹿げていますね、トマス。花は花、ただ土に還り、春に咲く命に過ぎないのに。人間というものは、珍しいというだけで、なぜこうも幻の価値に群がるのでしょう」
「左様で。ですがお嬢様のおかげで、公爵領の財政は王国で一番潤っております。飢える領民は一人もおらず、街道も水路もすべて黄金で敷き直したかのようです」
「ええ。ですが、この狂気は長くは続きませんわ」
エレノアは窓の外を見つめた。
どこまでも広がるチューリップ畑の向こう、王都へと続く街道には、一攫千金を夢見る商人の列が蟻のように連なっている。
「根のない植物が枯れるように、実体のない熱狂はいずれ弾けます。……もうすぐ、市場から資金を引き上げます。これ以上の球根の先物取引は禁止し、我が公爵家はすべて実物と現金に換え、領地の恒久的なインフラと農業基盤へと投資を回します」
冷徹で、完璧なまでの判断力。
それはかつて王太子エリックが「息が詰まる」と切り捨てた、エレノアの真の力そのものだった。
そのとき、屋敷の執事が青ざめた顔で庭へと駆け込んできた。
「お、お嬢様……! エリック元王太子殿下が、門前にて面会を求めておられます!」
「……エリックが?」
エレノアは作業の手を止め、眉を微かに寄せた。
噂には聞いていた。あの夜会で彼が選んだ男爵令嬢は、身の丈に合わぬ贅沢と浪費を繰り返し、エリックは彼女を喜ばせようとチューリップ取引の波に全財産を突っ込んだのだという。
庭の生垣の隙間から、みすぼらしい外套に身を包んだ男の姿が見えた。
かつて輝くばかりの金髪を誇っていた王子は、やつれ果て、借金取りに追われて見る影もなく憔悴していた。
『エレノア! 頼む、僕が悪かった!』
門越しに、エリックの悲痛な叫びが風に乗って聞こえてくる。
『君の聡明さを、僕は見誤っていたんだ! あの女とは別れた! 僕の隣にふさわしいのは君だけだ! 頼むから、僕にあの幻の黒い球根を……ひとつだけでいい、分けてくれ! 僕を助けてくれ!』
泥まみれの膝をつき、必死に手を伸ばす男。
かつて「守ってやりたいのは君じゃない」と、エレノアの十年間を踏みにじった男の成れの果てだった。
エレノアは静かに立ち上がり、トマスから手渡された上着を羽織った。
門前まで歩み寄ると、鉄格子の隙間からエリックを静かに見下ろした。その瞳には、恨みも、怒りも、もはや微塵の未練もなかった。ただ、道端の小石を見るような、どこまでも澄んだ無関心だけがあった。
「エリック様」
凛とした声が、冷たい風を裂いた。
「私はあの日、あなたにすべてを奪われ、死の淵に立ちました。けれど、土に触れ、命の根の深さを知ることで、ようやく自分自身の足で立つことができたのです」
「エ、エレノア……僕を愛してくれていただろう!? 十年も僕のために――」
「ええ。あの十年間で学んだ知識のすべては、いま、この地と領民を豊かにするために使っております。……あなたのために流す涙も、あなたに恵んで差し上げる球根も、ここには一粒たりともございません」
エレノアは背を向けた。
「お帰りください。足元を耕すことを忘れ、咲き誇る花の色だけに狂った方に、土の恵みは届きません」
「エレノア! エレノア――ッ!」
衛兵たちに引きずられていく哀れな男の絶叫は、風の音にかき消されていった。
エレノアの足取りに、迷いは一切なかった。
*
数年後、熱狂のバブルはエレノアの予測通りに音を立てて崩壊した。
一夜にして無一文になった貴族や商人が街に溢れる中、エレノアの治める公爵領だけは、盤石な富と豊かな農地を守り抜いて燦然と輝いていた。
春風が吹き抜ける午後。
色とりどりのチューリップが咲き乱れる広大な丘の上で、エレノアとトマスは並んで腰を下ろしていた。
「お嬢様。もう、死ぬ日を尋ねる必要はございませんな」
トマスが茶目っ気たっぷりに笑うと、エレノアは悪戯っぽく微笑み返した。
「ええ、トマス。まだまだ忙しいのですから。来年は、もっと丈夫で、冬の寒さに強い新しい百合咲きを試すのでしょう?」
「はっはっは、これは敵いませんな。まだまだ長生きせねばなりませぬ」
二人の笑い声が、青空高くへと溶けていく。
かつて凍てついたツンドラだったエレノアの心は、いまや世界で最も色鮮やかで、決して揺らぐことのない大輪の花園となっていた。




