二章【腐れ縁の幼馴染】第四話
鍋パーティーの翌日。霧雨が空を覆い尽くして、サバンナのような湿気と、秋ごろのような寒気が条杉高校の生徒らを襲った。
綾と雅俊はその日、一言も話すことなく。また目を合わせることもなく、一限から六限まで、そして放課後を迎えた。
雅俊は話しかけてはいけないと思っており、綾はどんな言葉をかけたらいいのかわからず、お互い時間が過ぎてしまった。
しかし綾が教室を去っていくと、雅俊はたいそうゲッソリした顔をしており、やれやれと顕人は肩を竦めた。
「このノートのページに書いてある通りにきてくれ」
「成瀬。これ何処の何を書いてるんだ?』
「地図で書いてみた方が伝わるかと思ったが……じゃあナメクジが貼ってある教室にきてくれ」
(ナメクジが貼ってある教室……?ナメクジのクラスなんてあったか……?)
もうこの地図が既にナメクジのようにニョロニョロしていたのだが、別々のルートで旧校舎に入った雅俊は、一見ふざけたようなポスターが貼られている教室の前に立った。
「異様な雰囲気がするな……これもやっぱり成瀬の……」
実は雅俊は人よりは霊感が強かった。霊だけでなく、その地の持つパワーであったり、オーラというものも感じやすい。
そのため、顕人が転校して教壇に立ったあの日。その重圧に何よりも面食らったのは雅俊だった。
しかしながら当然周囲にそんなことを話しても『オカルト系?』と変な意味で勘繰られるだけなので、綾くらいにしか言う相手はいなかったのだが。
「よ。竜胆」
「お前それ……!」
旧校舎の電灯が薄暗くチカチカと点滅する。黄色信号のように、この先は危険な領域だと、そう警告する様に。
黒い制服に身を隠し、暗闇の続く廊下から現れたのは顕人だった。
その手には"赤本"を手にして。
「いいか、花幡にはこの事を言うなよ。あいつは俺が最恐の御神体の末裔だって言ったところで、動じない奴だ」
「それって清水の家にあったはずの……!何をするつもりなんだ!?」
「まあ見てろ。俺はな、こういう強力な縁を結ぶものがあれば、より強い力を発揮できる。それに……言いづらかったけどな。誰だってな!お前と花幡の縁は切れりゃしないって一目瞭然なんだよ!」
「ななな、なんでそうなるんだよ!?ただの家がすぐそばで幼稚園の頃から一緒に通っててた、たまたま同じ高校にも通えただけのどこが!」
「もう条件揃い過ぎてるだろうが!……それにな。そんな頸動脈みてぇな縁を切ったらそれこそ、反動で何が起こるかわからない。やっぱり危険すぎる」
「成瀬……」
「そもそもお前がなんであいつと縁を切りたがってるのかは分からない。ただ、分からないなりに、考えた。それを今からやる。……まあそれにこの前の鍋、ほとんどお前が払ってくれたしな」
「まあ全部払ったのは君たちが無一文だったからだけどな!?」
「節約術の閃きも得たことだしな」
「誰かに奢ってもらう事は節約術とは言わないだろ!」
教室内に入ると、おどろおどろしい雰囲気に圧倒されながら、竜胆は促されるままに顕人の背後に座った。
そして前回の様に顕人は座布団に正座をすると、親指の絆創膏を剥がした。そして――
「おいおい、血出さないといけないのか!?それなら僕の血を……!」
「悪ぃな。お前の血じゃ縁切りの願いは叶えられない。叶えられるのは、俺のこの、先祖代々呪われて呪った非業の血だ……!」
親指の腹を薄く切ると、その細い傷口から滴る血が、硯の墨汁と混ぜ合わさる。
立派な馬の筆で半紙を用意し、写経とともに唱え始める。
集中を少しでも乱せば、どのような結末を迎えるか分からない。この難業を、顕人は易々と。しかもこの旧校舎の分社で、やり遂げてしまう。まさに"天才"だった。
「竜胆。お前のための、その縁」
数時間にわたってそれは続く。決まって夜を迎え、蝋燭の灯りだけが連なる言葉を照らし、時間は刻一刻と過ぎていく。
竜胆はその間、さまざまな記憶を思い返しながら、確かにこの分社を渦巻く結界内で沸き起こる竜巻の様な神力を、鳥肌が立つほどに感じていた。
そしてようやくその儀が終わりを迎える。深夜の、街でさえ寝静まった頃。
一息置いてから、顕人は筆を置いた。
「俺が、ご利益をもって、断ち切らせてもらう」
パン、と大きく手を叩く音が、何処までも響く。
それは天に届くほどの熱量と憎悪で、願いは聞き届かれた。
***
「おーい、お前さ……お前…………綾ッ!」
三度目の掛け声で、綾はようやく観念して振り向いた。まるで何年にもわたる、日数で言うなら千日を超える、かけがえのない時代を共に過ごしてきた。
そんな幼馴染の声に、咄嗟に反応しない様にする。という方が、綾には難しかった。
「なによ。まーちゃんは私と縁切りたいんでしょ」
「それはさ、その……」
「でも、私が結んであげる」
「……え?」
「靴紐だってさ、解けたら結ぶでしょ。何度でも、何度でも。だから私は、まーちゃんとの縁は切りたくないし、放っておけない。だから結び直すの。何しようとしてるか分からないんだから!」
「そっか。……こんがらがっても、また、結べるかな」
「……うん、結べるよ!私たちだってそうやってきたよ!」
あの日の公園の下。
桜の絨毯の上は少しふかふかで、沈んで、やんわりと。わたあめみたいだ。
桃色を透かした影がそよ風に揺れると、綾の髪が小河のようにさらさらと春を流れる。
ブランコで遊ぶ子供の声らが、鳩が群れとなって自由へ飛び立ち、蛹から孵化する蝶々が。
この公園には、幸せの産声が溢れている。
「よー、お姫さん。と、俺のことが大嫌いなりんどー君」
「清水……」
「いやいや、まあ、聞いてよ。俺は今絶好調なんだ。それはもう、生まれてからの記憶を失ってもいいくらいにはなー」
「それってどういうことだ?なにか……あったのか?」
「んー?まあ大したことでもないかなー、みかん食堂の子供らと競馬で全員大金かけたら当たってよー、もうすげえんだわ」
「未成年を競馬に連れていくなよ!?」
「しかもパチンコも大当たりしか出ないのよ、これはなんつーか。そうねー、"お金に困らなくなった"ってカンジ?」
「おかねに……困らなくなった……」
「んー。ほら、人間って結局はさ、努力とか根性とかでどうにもならない、親ガチャってあるっしょ。初めから決まってるもんなのよ、ある程度はさ。でもそのーなんつーのかな?そーいう昔からのしがらみが無くなったってコト」
「それってもしかしてさ……ねえ、もしかして!!」
綾は雅俊の方を勢いよく振り向いた。雅俊はため息をつきながら、目を逸らして首をかいた。
「まー……その。良かったな。あと僕は謝っておくことがもう一つ増えた……」
「おー懐かしいなコレ。よく見つけたねん」
「この赤本から始まったんだよな、僕たち。……僕はずっとさ、清水、君を見てから誰かを支えたいって。誰かのために自分を犠牲にしてでも、助けるべきだって、そう思いながら生きてきた」
「真面目だなぁ、あー、竜胆くんは変わらんね。ま、俺も変わらずあのガキらを助ける事には、変わり無いんだけどねん」
「ハハ、お前も相変わらずだな。大したやつだよ、ほんとに」
「今度桜の下でパーっとやりましょーや。そこのお姫さんと、前一緒にいた幸薄な青年君と一緒にさー」
「……ああ、そうだな!だから綾、お前もその。これからも、いっしょにな……ここまで僕が言わなくても分かるだろ?」
「えーわかんないな〜。ちゃんと言ってよ!」
「しょうがないな。お前は……俺の、腐れ縁の幼馴染だよ」
「…………えええええ!?」
笑い声がこだまして、桜の蕾がゆっくりと花ひらいた。
***
死なないでくれ。逝かないでくれ。
戻りたい、帰りたい。
『顕人、あなたは私達が見守っているからね』
『嘘だ!!こんな事、嘘っぱちだ!どうして嘘偽りに、奴らは本気になるのですかッ!ただ僕は一緒にお母様と、お父様も、みんなで一緒に……!!』
『……ごめんね、顕人。世界がただ、あなたの味方であれば良いと、何度思った事か……』
『……この子を頼みます。私たちは陽動として――』
『お母様、どこへ行かれるのですか、お母様ッ!?』
『大丈夫よ、顕人』
フラッシュバックする。今はもう居ない、両親が生きているような心地がして。
『また、会いましょう』
――そんな悪夢を見るたびに、顕人は魘される。自分を大層、憎みたくなる。
信じたくない筈なのに。縋ってしまうのは。
「――おい、テメェあのビルにいたよな。あのゴミ野郎の知り合いだよなあ?」
"東京湾に沈めてやろうか"なんて。そう、登下校の途中に突如車に乗せられ、海を渡る橋の上で、簀巻きにされて。
まさか本当に実現する日が来るとは、顕人は微塵も予測してはいなかった。
「探偵ぶってるやつが『私のお命だけはぁ〜!』っつってお前の居場所を暴いてくれたぜ。ガハハハ!」
「……探偵が事件を増やしてどうすんだ……グッ」
「おとなしくしてりゃあ死ねるぜ?喚いても死ぬ。どつらにせよお前はしめえだ!」
なんてふざけた死に方だ。顕人は笑いすら込み上げてきた。
陽気な海は、体温をあっという間に奪ってしまうほど寒いものだった。
――顕人は、人と人の縁を切ることはあれど、"人と運命"の縁を切った事はなかった。
清水に産まれた時からつながっていた『貧乏』との縁を断ち切ったのだ。そうすることで、雅俊が抱えていた本来の願いを叶えたのである。
しかしながらその所業は非常に強力な神業であり、同時にリスクも同じほどはらんでいた。"貧乏神"という言葉があるように、貧乏という運命を引き剥がすのは、非常に困難な事なのである。
その結末がこれか、と。顕人は大海の中で、静かに目を閉じる。
ここは静かだ。己を糾弾する者も、排除しようとする者も、誰もいない。
覚悟を決め、意識が薄れゆく中。
――二度と目覚めたことに、顕人は大層驚いた。
「ゲホゲホッ!ここは、何処だ……?」
肺にはいった海水を吐き出しながら、そして、己の右腕の痛みに顔を歪めた。
周囲の状況への把握が追いつくと、自分はそのまま海を流れて港に引っ張ってこられたのだと。横になった体で、傍を素早く移動する小さなカニを視線で追い、その人影に気づく。
見上げてから、さらに顕人は信じられないと、瞳孔を大きく見開いた。
「黒田、先生――」
"無言"。その薄青い唇は開く事はなく。
それは、遠くで船の汽笛が鳴り響く正午にて。
何故、この場所にいるのだろうか?
そんな問いを投げかける間もなく。救いの手を差し伸べた黒田は、ただ、その場を離れたのだった。




