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盗んだのは貴女でしょう? 亡き母の図案帳が、全てを証明します

作者: 夢見叶
掲載日:2026/01/25

「リーゼル嬢、君との婚約は破棄する」

 侯爵家の広間に、フィリベルト様の声が響いた。周囲の視線が私に集まる。好奇、嘲笑、そして憐憫。

「オルテンシアの衣装図案を盗んだ女など、侯爵家の妻にはできない」

 隣に立つオルテンシア嬢が、ハンカチで目元を押さえている。震える肩。か細い声。完璧な被害者の姿だった。

「リーゼル様……私、信じていたのに……」

 彼女の瞳には涙が光っていた。その涙が本物なら、どれほど良かっただろう。

 私は何も言わなかった。言ったところで、フィリベルト様の目にはオルテンシア嬢しか映っていない。三年の婚約期間で、それだけは嫌というほど理解していた。

「弁明はないのか」

 フィリベルト様が眉をひそめる。

「ございません」

 私は静かに答えた。

「そう……か。ならば、この話はこれで終わりだ」

 呆気ないほど簡単に、三年が終わった。踵を返す。背中に視線が刺さる。それでも振り返らない。

 胸元に手を当てる。ドレスの内側、肌に近い場所に、小さな革表紙の帳面がある。母が遺してくれた、刺繍図案帳。私の全てが詰まった、たった一冊。

 広間を出る直前、ふと視線を感じた。壁際に立つ、黒髪の男性。社交嫌いで有名なヴェルナー公爵だった。なぜこんな場所にいるのだろう。そう思う間もなく、私は扉の向こうへ歩き出した。


 屋敷の外に出ると、初夏の風が頬を撫でた。

「やっと静かになりましたわ」

 私は誰にともなく呟いた。涙は出なかった。悲しみより先に、安堵がある。

 あの人の隣にいるのは、息が詰まるようだった。いつもオルテンシア嬢の話。オルテンシア嬢の笑顔。オルテンシア嬢の才能。私がどれだけ刺繍を縫っても、料理を覚えても、フィリベルト様の目には映らなかった。

「……お母様」

 図案帳を取り出し、表紙を撫でる。母は刺繍の名手だった。貴族の間でも評判で、王妃様からも称賛を受けたことがある。私が継いだのは、その技術と、この図案帳だけ。

 だからこそ許せない。オルテンシア嬢が社交界で披露した「自作」の刺繍。あの図案は、母のものだ。十年前、まだ母が生きていた頃に描かれた、花と蝶の連続模様。私は知っている。この帳面の三十二頁目に、全く同じ図案があることを。

 けれど声を上げなかった。証拠を見せても、フィリベルト様は信じないだろう。オルテンシア嬢が泣けば、それで終わりだ。私一人では、彼女に勝てない。それを認めるのは悔しかったが、事実だった。

「帰りましょう」

 実家に戻れば、父が待っている。子爵家は裕福ではないけれど、私の居場所はある。そう思って馬車を探した時だった。

「その図案帳」

 低い声が、背後から聞こえた。振り返ると、黒髪の男性が立っていた。先ほど広間の壁際にいた、ヴェルナー公爵。

「……公爵様?」

「五年前、王城の庭園で見た」

 彼は私をまっすぐ見つめていた。冷徹と噂される碧眼が、なぜか温度を持っているように感じる。

「白い花と青い蝶の刺繍を縫っていた女性がいた。あの図案だな」

 息が止まった。五年前。母が亡くなった年。私は喪失感を紛らわせるように、母の図案を縫い続けていた。王城の庭園で刺繍をしていたのは、母の命日だった。一人で静かに針を動かしていたあの日を、まさか誰かが覚えているとは。

「覚えて……いらっしゃるのですか」

「忘れるものか」

 公爵は一歩近づいた。

「あの刺繍を見た時から、俺は君を探していた」

 心臓が跳ねる。意味がわからない。社交嫌いの公爵が、私を? 五年も?

「今、あの図案を『自作』だと言い張っている女がいるな」

 公爵の声が低くなった。怒り。それも、静かで深い怒りだった。

「あれは盗作だ。俺は知っている」

「……公爵様」

「三日後、王妃主催の園遊会がある」

 彼は懐から封筒を取り出した。蝋で封じられた、公爵家の紋章。

「俺と来い。君の名誉は、俺が取り戻す」

 差し出された封筒を、私は呆然と見つめた。断る理由がなかった。いや、断りたくなかった。この人となら、オルテンシア嬢に勝てるかもしれない。初めてそう思えた。

「……よろしくお願いいたします」

 私は封筒を受け取った。公爵の目が、わずかに和らいだ気がした。


 公爵邸は、想像していたよりも静かだった。

「客人を迎えるのは久しぶりでしてな」

 白髪の執事、グスタフが茶を運んでくる。私は応接間の椅子に座り、まだ夢の中にいるような気分だった。

 窓から差し込む午後の光が、磨き上げられた調度品を照らしている。華美ではないが、一つ一つが上質だと分かる。主の趣味を反映した、落ち着いた空間だった。

「公爵様」

「ヴェルナーでいい」

「では、ヴェルナー様。なぜ私を助けてくださるのですか」

 彼は向かいの椅子に深く腰掛け、組んだ足の上で指を絡めた。しばらく黙っていた。考えているのか、言葉を選んでいるのか。

「俺は嘘が嫌いだ」

「それだけ、ですか」

「それだけではない」

 碧眼がまっすぐ私を射抜く。

「君の刺繍が好きだ。五年前から、ずっと」

 熱が頬に上る。視線を逸らそうとしたが、彼の目が離してくれなかった。

「図案帳を見せてくれ」

「……はい」

 私は胸元から帳面を取り出し、彼に渡した。ヴェルナー様は丁寧に頁をめくった。母が描いた花々、蝶、鳥、幾何学模様。一頁ごとに、彼の目が真剣さを増していく。

 三十二頁目で手を止めた。

「これだ」

 花と蝶の連続模様。母が十年前に描いた図案。そして、オルテンシア嬢が『自作』として発表したものと全く同じ絵。

「日付がある」

 ヴェルナー様が頁の隅を指さした。母の字で、「××年五月」と書かれている。オルテンシア嬢が社交界デビューする三年前だ。

「これが証拠になる」

「でも、オルテンシア嬢は伯爵家の令嬢です。私は子爵家。身分が……」

「身分など関係ない」

 ヴェルナー様は帳面を閉じ、私に返した。

「王妃は真実を好む。嘘つきを、何より嫌う」

「王妃様が……」

「園遊会で、全てを明らかにする。君は俺の隣にいればいい」

 彼の声は静かだったが、有無を言わせぬ力があった。隣にいればいい。その言葉が、胸の奥で温かく響いた。


 翌朝、私はヴェルナー様の書斎に呼ばれた。

「図案帳を改めて確認したい」

 机の上に帳面を広げ、ヴェルナー様と二人で頁をめくる。母の図案は全部で五十以上あった。花、蝶、鳥、星、月。どれも繊細で、見ているだけで心が和む。

「君の母上は、本当に才能があったのだな」

「はい。私などとても及びません」

「そうは思わない」

 ヴェルナー様が私を見た。

「五年前、君が縫っていた刺繍を見た。図案をそのまま写すのではなく、君なりの解釈が入っていた」

「……お気づきでしたか」

「当然だ。だから惹かれた」

 また頬が熱くなる。この人は、いつもこう突然に核心を突いてくる。

「三十三頁目を見せてくれ」

「はい」

 頁をめくると、花と蝶の発展形があった。三十二頁目の続きとして母が描いた、より複雑で美しい図案。

「これは、誰にも見せていないか」

「はい。母が亡くなってから、私しか……」

 言いかけて、止まった。半年前の記憶が蘇る。オルテンシア嬢がフィリベルト様の屋敷を訪ねてきた時。私は刺繍をしていた。

「どうした」

「思い出しました。半年前、オルテンシア嬢が部屋に来たことがあります。私は刺繍をしていて、図案帳を開いたままでした」

「見られたか」

「……おそらく」

 ヴェルナー様の目が鋭くなった。

「なるほど。それで今回の事件か」

「え?」

「君の母上の図案を盗んで『自作』と偽った。それが成功したから、次の図案も盗もうとしている」

 背筋が冷たくなった。オルテンシア嬢は、母の図案を最初から狙っていた。私から全てを奪うために。


 二日目の朝、グスタフが慌ただしく応接間に入ってきた。

「旦那様、困ったことになりました」

「何だ」

「オルテンシア嬢が、明日の園遊会で『新作の刺繍』を披露すると触れ回っているようです」

 私の心臓が冷たくなった。先手を打たれた。彼女は私が証拠を持っていることに気づいたのかもしれない。

「新作、だと」

 ヴェルナー様の眉が寄る。

「はい。なんでも、『以前発表した図案の続編』だとか」

「続編……」

 私は図案帳を握りしめた。三十三頁目。母が描いた発展形。もしオルテンシア嬢がこれを「自作」として発表したら。

「盗む気だ」

 ヴェルナー様が低く唸った。

「どこかで見たのだろう。君の図案帳を」

「はい、半年前に……」

「ならば、封じる」

 ヴェルナー様は立ち上がり、窓辺に歩いた。背中が大きい。頼もしい、と思った。

「日付だ」

 彼は振り返った。

「君の母上の図案には、全て日付が入っている。あの女が何を出そうと、日付で潰せる」

「でも、オルテンシア嬢が『私が先に描いた』と言い張ったら……」

「言い張れるものか」

 ヴェルナー様は薄く笑った。冷徹と言われる顔に浮かぶ笑みは、意外なほど温かかった。

「俺は五年前から君を見ていた。証人になれる」

 胸の奥が熱くなった。五年。彼は五年もの間、私のことを覚えていてくれた。探していてくれた。

「グスタフ」

「はい、旦那様」

「明日、リーゼル嬢は俺の同伴で園遊会に出る。正装を用意しろ」

「畏まりました」

 執事が下がった後、ヴェルナー様は私の前に戻ってきた。

「怖いか」

「……少しだけ」

「そうか」

 彼の大きな手が、私の手に重なった。温かい。硬い剣だこがある。公爵でありながら、剣を握る人なのだ。

「俺がいる。何も心配するな」

 温かい。フィリベルト様に触れられた時とは、全く違う温度だった。


 二日目の夜、私は与えられた部屋で刺繍をしていた。母の図案を縫うと、心が落ち着く。明日への不安を、針の動きが和らげてくれる。

「まだ起きていたか」

 扉が叩かれ、ヴェルナー様が顔を出した。

「はい。少し眠れなくて……」

「そうか」

 彼は部屋に入り、私の手元を見た。

「三十二頁目の図案だな」

「はい。明日、ドレスに縫いつけようと思って」

「……見せてくれ」

 ヴェルナー様は私の隣に座った。近い。肩が触れそうな距離だ。

「五年前と同じだ」

「え?」

「いや、違うな。より繊細になっている」

 彼の目が私の刺繍を見つめている。真剣な目だ。

「君は母上を超えるかもしれない」

「そんな……」

「謙遜するな。俺は本当のことしか言わない」

 針を動かす手が止まった。母を超える。そんなこと、考えたこともなかった。母の技術を守ることで精一杯で、自分の刺繍を見つめる余裕がなかった。

「ありがとうございます」

「礼はいらない」

 ヴェルナー様は立ち上がった。

「明日に備えて休め。俺は、君の隣にいる」

 彼が去った後、胸の奥がじんわりと温かかった。


 園遊会の朝、私は鏡の前に立っていた。

 淡い藤色のドレス。裾と袖口に、母の図案で刺繍を施した。昨夜のうちに仕上げた、自分で縫った衣装。

「お似合いです、リーゼル様」

 侍女が微笑む。公爵邸から借りた侍女だが、もう二日で親しくなった。

「ありがとう」

 扉が叩かれる。

「準備はいいか」

 ヴェルナー様の声だった。扉を開けると、彼が立っていた。黒の礼服に、公爵家の紋章。冷たい美貌が、一瞬だけ緩んだ。

「綺麗だ」

「あ、ありがとうございます」

「行くぞ。俺の隣を歩け」

 差し出された腕に、私は手を添えた。力強くて、温かい腕だった。


 王妃主催の園遊会は、毎年この時期に開かれる。貴族が一堂に会する、社交界最大の催し。

 私たちが会場に入ると、空気が変わった。

「ヴェルナー公爵……?」

「あの社交嫌いが、同伴者を連れている」

「隣の女性は誰だ」

「婚約破棄された子爵令嬢では……」

 囁き声が飛び交う。私は背筋を伸ばし、前を向いた。怖くない。隣にヴェルナー様がいる。

「噂されているな」

 ヴェルナー様が低く言った。

「気にするな。すぐに黙らせる」

 会場の中央、噴水の前に人だかりができていた。その中心に、オルテンシア嬢がいた。純白のドレスに、金糸の刺繍。そして隣には、フィリベルト様。

「皆様、ご覧ください」

 オルテンシア嬢が高らかに声を上げた。

「私の新作でございます。『花蝶の舞』の続編、『花蝶の夢』」

 彼女が広げた布に、私は息を呑んだ。母の図案。三十三頁目の、発展形。見事に再現されている。

「なんと美しい」

「オルテンシア嬢は天才だ」

 称賛の声が上がる。オルテンシア嬢は優雅に微笑み、フィリベルト様を見上げた。

「あなたのために縫いましたの」

「ああ、素晴らしい」

 フィリベルト様が彼女の手を取る。絵に描いたような幸福な光景。

 けれど私の胸に、怒りはなかった。代わりにあるのは、静かな確信。これで終わりだ、オルテンシア嬢。

「行くぞ」

 ヴェルナー様が私の手を引いた。人混みを割って、中央へ進む。

「ヴェルナー公爵」

 フィリベルト様が眉をひそめた。

「珍しいな、園遊会に来るとは。そして……リーゼル嬢? なぜ君がここに」

「俺が連れてきた」

 ヴェルナー様が冷たく言い放った。

「そして、この場で明らかにすることがある」

「何を……」

「オルテンシア嬢」

 彼の視線が、白いドレスの令嬢を射抜いた。

「その刺繍図案、いつ描いた」

 オルテンシア嬢の顔が、一瞬だけ強張った。けれどすぐに笑顔を作り、首を傾げる。

「三ヶ月前ですわ。前作の続きとして、心を込めて描きました」

「嘘だな」

 ヴェルナー様は私の手を離し、一歩前に出た。

「その図案は、十年前に描かれたものだ」

 会場がざわめく。オルテンシア嬢の目が泳いだ。

「な、何を仰っているの。私は三ヶ月前に……」

「リーゼル」

 ヴェルナー様が振り返った。

「見せてやれ」

 私は頷き、胸元から図案帳を取り出した。

「これは、亡き母の遺品です」

 三十三頁目を開く。花と蝶の発展形。オルテンシア嬢が『新作』と称した図案と、寸分違わぬ絵。

「頁の隅をご覧ください。日付があります」

「××年五月……」

 誰かが読み上げた。

「十年前ではないか」

「オルテンシア嬢がデビューする七年も前だ」

 囁きが波紋のように広がる。オルテンシア嬢の顔から血の気が引いた。

「そ、それは偽造よ! リーゼルが私を陥れようとして……」

「偽造ではない」

 凛とした声が、人混みを割って響いた。紫紺のドレスに、王冠の小さな飾り。王妃様だった。

「その帳面を見せなさい、リーゼル嬢」

「は、はい」

 私は跪き、図案帳を差し出した。王妃様はゆっくりと頁をめくり、目を細めた。

「懐かしいわね」

「王妃様?」

「この筆跡、私は知っています。十五年前、私のドレスを縫ってくれた女性のもの。リーゼル嬢、貴女の母上でしょう」

「……はい」

「素晴らしい刺繍だった。今でも大切にしているわ」

 王妃様は帳面を閉じ、オルテンシア嬢を見た。

「オルテンシア嬢。貴女の『自作』の刺繍、私も見覚えがあったの。けれど、どこで見たか思い出せなかった」

「そ、それは……」

「今、思い出しました。十五年前のドレスに、同じ図案があった」

 会場が静まり返った。王妃様の言葉は、絶対だ。覆せる者など、この国にはいない。

「オルテンシア嬢。貴女は盗作を行い、なおかつ被害者を『盗人』呼ばわりした」

「違います、私は……」

「証拠は揃っています。日付も、証人も」

 ヴェルナー様が冷たく言い放った。

「五年前、俺は王城の庭園でリーゼル嬢がこの図案を縫っているのを見た。貴女がデビューする二年前だ」

「そんな……」

 オルテンシア嬢の膝が折れた。真っ白な顔で、地面に座り込む。あれほど完璧だった被害者の仮面が、今は見る影もない。

「フィリベルト様、助けて……」

 縋るような目でフィリベルト様を見上げる。けれど彼は、一歩後ろに下がった。

「俺は……知らなかった」

「嘘、私たち婚約するはずだったのに……」

「婚約など、していない」

 フィリベルト様の声は冷たかった。この期に及んで、彼は自分を守ることしか考えていない。三年の婚約を簡単に捨てた人だ。当然だろう。

「……そうでしたの」

 オルテンシア嬢が笑った。壊れたような、歪んだ笑み。

「リーゼルの婚約を破棄させたのは、私よ。彼女から全てを奪えば、貴方が私を見てくれると思ったから」

 会場にどよめきが走った。

「でも、無駄だったのね。貴方は最初から、私のことなど……」

「オルテンシア嬢」

 王妃様の声が遮った。

「貴女には然るべき処分が下されるでしょう。連れて行きなさい」

 近衛兵が進み出て、オルテンシア嬢を立ち上がらせた。彼女は一度だけ私を見た。憎しみと、諦めが混ざった目だった。

「……リーゼル」

「はい」

「貴女の刺繍は、本当に綺麗だった」

 それだけ言って、彼女は連れて行かれた。


 園遊会は続いていたが、私の周りだけ静かだった。

「リーゼル嬢」

 王妃様が微笑んだ。

「母上の技術を継いでいるのね。いつか、私にもドレスを縫ってくれるかしら」

「もちろんでございます」

「楽しみにしているわ」

 王妃様が去ると、フィリベルト様が近づいてきた。

「リーゼル嬢、その……」

「何でしょうか」

 私は彼を見上げた。かつて三年も慕った人。けれど今は、何も感じない。不思議なほど、心が凪いでいた。

「俺は知らなかったんだ。オルテンシアが、そんなことをしていたなんて」

「そうですか」

「だから、その……婚約を……」

「お断りします」

 私は静かに言った。

「私は貴方と信頼関係を築けません。三年かけても、貴方は私を見てくださらなかった」

「リーゼル……」

「それに」

 私は隣を見上げた。ヴェルナー様が立っている。碧眼が、優しく私を見下ろしていた。

「私には、五年も待っていてくださった方がいますので」

 フィリベルト様の顔が歪んだ。けれど私はもう、彼を見なかった。三年間、ずっと彼の方を向いていた。もう振り返る必要はない。

「ヴェルナー様」

「ああ」

「ありがとうございました。おかげで、名誉を取り戻せました」

「礼を言うのは俺の方だ」

 彼は私の手を取った。大きくて、温かい手だ。

「五年待った甲斐があった」

「……私のような者で、よろしいのですか」

「君以外にいない」

 ヴェルナー様は私の手を引き、王妃様の方へ歩き出した。

「王妃様」

「あら、ヴェルナー公爵。まだ何か?」

「この女性を、我が公爵家に迎えたい。お許しをいただけますか」

 会場が再びざわめいた。私は目を見開いた。

「ヴェルナー様、これは……」

「俺は待つのが得意ではない」

 彼は私を見下ろした。

「五年待った。もう十分だろう」

「……はい」

 気づけば、涙が頬を伝っていた。悲しみではない。喜びだ。温かい涙だった。

「王妃様、お許しを」

 王妃様は穏やかに微笑んだ。

「許すも何も、貴方たちが決めることよ。けれど、素敵な組み合わせだと思うわ」

「ありがとうございます」

 ヴェルナー様は私の涙を指で拭った。硬い指先が、優しく頬に触れる。

「泣くな」

「申し訳ありません……」

「嬉し涙なら、許す」

 彼の唇が、私の額に触れた。会場のどよめきは、もう聞こえなかった。この人の温もりだけが、世界の全てだった。


 それから三ヶ月後、私はヴェルナー公爵夫人になった。

 オルテンシア嬢は社交界から追放され、実家の伯爵家も没落したと聞いた。盗作と誣告の罪は重い。フィリベルト様は別の令嬢と婚約したらしい。どうでもいいことだった。

 今、私の隣には、いつもヴェルナー様がいる。

「リーゼル」

「はい」

「また刺繍をしているな」

「王妃様のドレスを縫っているんです」

「そうか」

 彼は私の後ろに立ち、肩を抱いた。温かい腕が、私を包む。

「綺麗だ」

「ありがとうございます」

「刺繍もだが、君のことだ」

 耳元で囁かれ、顔が熱くなった。

「ヴェルナー様……」

「ヴェルナーでいい。もう夫婦だろう」

「では……ヴェルナー」

 彼の腕に力が込められた。

「君を見つけられて、よかった」

「私も……貴方に出会えて、幸せです」

 窓の外では、春の風が花を揺らしていた。母の図案帳は、今も私の宝物。けれどそれ以上の宝物が、今は隣にいる。

 彼の手を握り返す。温かい。この温もりを、私はもう離さない。

 新しい朝日が、二人の未来を照らしていた。


お読みいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
オルテンシアのやった事は許されないが、見ただけで再現できる技量は凄いと思う。
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