盗んだのは貴女でしょう? 亡き母の図案帳が、全てを証明します
「リーゼル嬢、君との婚約は破棄する」
侯爵家の広間に、フィリベルト様の声が響いた。周囲の視線が私に集まる。好奇、嘲笑、そして憐憫。
「オルテンシアの衣装図案を盗んだ女など、侯爵家の妻にはできない」
隣に立つオルテンシア嬢が、ハンカチで目元を押さえている。震える肩。か細い声。完璧な被害者の姿だった。
「リーゼル様……私、信じていたのに……」
彼女の瞳には涙が光っていた。その涙が本物なら、どれほど良かっただろう。
私は何も言わなかった。言ったところで、フィリベルト様の目にはオルテンシア嬢しか映っていない。三年の婚約期間で、それだけは嫌というほど理解していた。
「弁明はないのか」
フィリベルト様が眉をひそめる。
「ございません」
私は静かに答えた。
「そう……か。ならば、この話はこれで終わりだ」
呆気ないほど簡単に、三年が終わった。踵を返す。背中に視線が刺さる。それでも振り返らない。
胸元に手を当てる。ドレスの内側、肌に近い場所に、小さな革表紙の帳面がある。母が遺してくれた、刺繍図案帳。私の全てが詰まった、たった一冊。
広間を出る直前、ふと視線を感じた。壁際に立つ、黒髪の男性。社交嫌いで有名なヴェルナー公爵だった。なぜこんな場所にいるのだろう。そう思う間もなく、私は扉の向こうへ歩き出した。
屋敷の外に出ると、初夏の風が頬を撫でた。
「やっと静かになりましたわ」
私は誰にともなく呟いた。涙は出なかった。悲しみより先に、安堵がある。
あの人の隣にいるのは、息が詰まるようだった。いつもオルテンシア嬢の話。オルテンシア嬢の笑顔。オルテンシア嬢の才能。私がどれだけ刺繍を縫っても、料理を覚えても、フィリベルト様の目には映らなかった。
「……お母様」
図案帳を取り出し、表紙を撫でる。母は刺繍の名手だった。貴族の間でも評判で、王妃様からも称賛を受けたことがある。私が継いだのは、その技術と、この図案帳だけ。
だからこそ許せない。オルテンシア嬢が社交界で披露した「自作」の刺繍。あの図案は、母のものだ。十年前、まだ母が生きていた頃に描かれた、花と蝶の連続模様。私は知っている。この帳面の三十二頁目に、全く同じ図案があることを。
けれど声を上げなかった。証拠を見せても、フィリベルト様は信じないだろう。オルテンシア嬢が泣けば、それで終わりだ。私一人では、彼女に勝てない。それを認めるのは悔しかったが、事実だった。
「帰りましょう」
実家に戻れば、父が待っている。子爵家は裕福ではないけれど、私の居場所はある。そう思って馬車を探した時だった。
「その図案帳」
低い声が、背後から聞こえた。振り返ると、黒髪の男性が立っていた。先ほど広間の壁際にいた、ヴェルナー公爵。
「……公爵様?」
「五年前、王城の庭園で見た」
彼は私をまっすぐ見つめていた。冷徹と噂される碧眼が、なぜか温度を持っているように感じる。
「白い花と青い蝶の刺繍を縫っていた女性がいた。あの図案だな」
息が止まった。五年前。母が亡くなった年。私は喪失感を紛らわせるように、母の図案を縫い続けていた。王城の庭園で刺繍をしていたのは、母の命日だった。一人で静かに針を動かしていたあの日を、まさか誰かが覚えているとは。
「覚えて……いらっしゃるのですか」
「忘れるものか」
公爵は一歩近づいた。
「あの刺繍を見た時から、俺は君を探していた」
心臓が跳ねる。意味がわからない。社交嫌いの公爵が、私を? 五年も?
「今、あの図案を『自作』だと言い張っている女がいるな」
公爵の声が低くなった。怒り。それも、静かで深い怒りだった。
「あれは盗作だ。俺は知っている」
「……公爵様」
「三日後、王妃主催の園遊会がある」
彼は懐から封筒を取り出した。蝋で封じられた、公爵家の紋章。
「俺と来い。君の名誉は、俺が取り戻す」
差し出された封筒を、私は呆然と見つめた。断る理由がなかった。いや、断りたくなかった。この人となら、オルテンシア嬢に勝てるかもしれない。初めてそう思えた。
「……よろしくお願いいたします」
私は封筒を受け取った。公爵の目が、わずかに和らいだ気がした。
公爵邸は、想像していたよりも静かだった。
「客人を迎えるのは久しぶりでしてな」
白髪の執事、グスタフが茶を運んでくる。私は応接間の椅子に座り、まだ夢の中にいるような気分だった。
窓から差し込む午後の光が、磨き上げられた調度品を照らしている。華美ではないが、一つ一つが上質だと分かる。主の趣味を反映した、落ち着いた空間だった。
「公爵様」
「ヴェルナーでいい」
「では、ヴェルナー様。なぜ私を助けてくださるのですか」
彼は向かいの椅子に深く腰掛け、組んだ足の上で指を絡めた。しばらく黙っていた。考えているのか、言葉を選んでいるのか。
「俺は嘘が嫌いだ」
「それだけ、ですか」
「それだけではない」
碧眼がまっすぐ私を射抜く。
「君の刺繍が好きだ。五年前から、ずっと」
熱が頬に上る。視線を逸らそうとしたが、彼の目が離してくれなかった。
「図案帳を見せてくれ」
「……はい」
私は胸元から帳面を取り出し、彼に渡した。ヴェルナー様は丁寧に頁をめくった。母が描いた花々、蝶、鳥、幾何学模様。一頁ごとに、彼の目が真剣さを増していく。
三十二頁目で手を止めた。
「これだ」
花と蝶の連続模様。母が十年前に描いた図案。そして、オルテンシア嬢が『自作』として発表したものと全く同じ絵。
「日付がある」
ヴェルナー様が頁の隅を指さした。母の字で、「××年五月」と書かれている。オルテンシア嬢が社交界デビューする三年前だ。
「これが証拠になる」
「でも、オルテンシア嬢は伯爵家の令嬢です。私は子爵家。身分が……」
「身分など関係ない」
ヴェルナー様は帳面を閉じ、私に返した。
「王妃は真実を好む。嘘つきを、何より嫌う」
「王妃様が……」
「園遊会で、全てを明らかにする。君は俺の隣にいればいい」
彼の声は静かだったが、有無を言わせぬ力があった。隣にいればいい。その言葉が、胸の奥で温かく響いた。
翌朝、私はヴェルナー様の書斎に呼ばれた。
「図案帳を改めて確認したい」
机の上に帳面を広げ、ヴェルナー様と二人で頁をめくる。母の図案は全部で五十以上あった。花、蝶、鳥、星、月。どれも繊細で、見ているだけで心が和む。
「君の母上は、本当に才能があったのだな」
「はい。私などとても及びません」
「そうは思わない」
ヴェルナー様が私を見た。
「五年前、君が縫っていた刺繍を見た。図案をそのまま写すのではなく、君なりの解釈が入っていた」
「……お気づきでしたか」
「当然だ。だから惹かれた」
また頬が熱くなる。この人は、いつもこう突然に核心を突いてくる。
「三十三頁目を見せてくれ」
「はい」
頁をめくると、花と蝶の発展形があった。三十二頁目の続きとして母が描いた、より複雑で美しい図案。
「これは、誰にも見せていないか」
「はい。母が亡くなってから、私しか……」
言いかけて、止まった。半年前の記憶が蘇る。オルテンシア嬢がフィリベルト様の屋敷を訪ねてきた時。私は刺繍をしていた。
「どうした」
「思い出しました。半年前、オルテンシア嬢が部屋に来たことがあります。私は刺繍をしていて、図案帳を開いたままでした」
「見られたか」
「……おそらく」
ヴェルナー様の目が鋭くなった。
「なるほど。それで今回の事件か」
「え?」
「君の母上の図案を盗んで『自作』と偽った。それが成功したから、次の図案も盗もうとしている」
背筋が冷たくなった。オルテンシア嬢は、母の図案を最初から狙っていた。私から全てを奪うために。
二日目の朝、グスタフが慌ただしく応接間に入ってきた。
「旦那様、困ったことになりました」
「何だ」
「オルテンシア嬢が、明日の園遊会で『新作の刺繍』を披露すると触れ回っているようです」
私の心臓が冷たくなった。先手を打たれた。彼女は私が証拠を持っていることに気づいたのかもしれない。
「新作、だと」
ヴェルナー様の眉が寄る。
「はい。なんでも、『以前発表した図案の続編』だとか」
「続編……」
私は図案帳を握りしめた。三十三頁目。母が描いた発展形。もしオルテンシア嬢がこれを「自作」として発表したら。
「盗む気だ」
ヴェルナー様が低く唸った。
「どこかで見たのだろう。君の図案帳を」
「はい、半年前に……」
「ならば、封じる」
ヴェルナー様は立ち上がり、窓辺に歩いた。背中が大きい。頼もしい、と思った。
「日付だ」
彼は振り返った。
「君の母上の図案には、全て日付が入っている。あの女が何を出そうと、日付で潰せる」
「でも、オルテンシア嬢が『私が先に描いた』と言い張ったら……」
「言い張れるものか」
ヴェルナー様は薄く笑った。冷徹と言われる顔に浮かぶ笑みは、意外なほど温かかった。
「俺は五年前から君を見ていた。証人になれる」
胸の奥が熱くなった。五年。彼は五年もの間、私のことを覚えていてくれた。探していてくれた。
「グスタフ」
「はい、旦那様」
「明日、リーゼル嬢は俺の同伴で園遊会に出る。正装を用意しろ」
「畏まりました」
執事が下がった後、ヴェルナー様は私の前に戻ってきた。
「怖いか」
「……少しだけ」
「そうか」
彼の大きな手が、私の手に重なった。温かい。硬い剣だこがある。公爵でありながら、剣を握る人なのだ。
「俺がいる。何も心配するな」
温かい。フィリベルト様に触れられた時とは、全く違う温度だった。
二日目の夜、私は与えられた部屋で刺繍をしていた。母の図案を縫うと、心が落ち着く。明日への不安を、針の動きが和らげてくれる。
「まだ起きていたか」
扉が叩かれ、ヴェルナー様が顔を出した。
「はい。少し眠れなくて……」
「そうか」
彼は部屋に入り、私の手元を見た。
「三十二頁目の図案だな」
「はい。明日、ドレスに縫いつけようと思って」
「……見せてくれ」
ヴェルナー様は私の隣に座った。近い。肩が触れそうな距離だ。
「五年前と同じだ」
「え?」
「いや、違うな。より繊細になっている」
彼の目が私の刺繍を見つめている。真剣な目だ。
「君は母上を超えるかもしれない」
「そんな……」
「謙遜するな。俺は本当のことしか言わない」
針を動かす手が止まった。母を超える。そんなこと、考えたこともなかった。母の技術を守ることで精一杯で、自分の刺繍を見つめる余裕がなかった。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
ヴェルナー様は立ち上がった。
「明日に備えて休め。俺は、君の隣にいる」
彼が去った後、胸の奥がじんわりと温かかった。
園遊会の朝、私は鏡の前に立っていた。
淡い藤色のドレス。裾と袖口に、母の図案で刺繍を施した。昨夜のうちに仕上げた、自分で縫った衣装。
「お似合いです、リーゼル様」
侍女が微笑む。公爵邸から借りた侍女だが、もう二日で親しくなった。
「ありがとう」
扉が叩かれる。
「準備はいいか」
ヴェルナー様の声だった。扉を開けると、彼が立っていた。黒の礼服に、公爵家の紋章。冷たい美貌が、一瞬だけ緩んだ。
「綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
「行くぞ。俺の隣を歩け」
差し出された腕に、私は手を添えた。力強くて、温かい腕だった。
王妃主催の園遊会は、毎年この時期に開かれる。貴族が一堂に会する、社交界最大の催し。
私たちが会場に入ると、空気が変わった。
「ヴェルナー公爵……?」
「あの社交嫌いが、同伴者を連れている」
「隣の女性は誰だ」
「婚約破棄された子爵令嬢では……」
囁き声が飛び交う。私は背筋を伸ばし、前を向いた。怖くない。隣にヴェルナー様がいる。
「噂されているな」
ヴェルナー様が低く言った。
「気にするな。すぐに黙らせる」
会場の中央、噴水の前に人だかりができていた。その中心に、オルテンシア嬢がいた。純白のドレスに、金糸の刺繍。そして隣には、フィリベルト様。
「皆様、ご覧ください」
オルテンシア嬢が高らかに声を上げた。
「私の新作でございます。『花蝶の舞』の続編、『花蝶の夢』」
彼女が広げた布に、私は息を呑んだ。母の図案。三十三頁目の、発展形。見事に再現されている。
「なんと美しい」
「オルテンシア嬢は天才だ」
称賛の声が上がる。オルテンシア嬢は優雅に微笑み、フィリベルト様を見上げた。
「あなたのために縫いましたの」
「ああ、素晴らしい」
フィリベルト様が彼女の手を取る。絵に描いたような幸福な光景。
けれど私の胸に、怒りはなかった。代わりにあるのは、静かな確信。これで終わりだ、オルテンシア嬢。
「行くぞ」
ヴェルナー様が私の手を引いた。人混みを割って、中央へ進む。
「ヴェルナー公爵」
フィリベルト様が眉をひそめた。
「珍しいな、園遊会に来るとは。そして……リーゼル嬢? なぜ君がここに」
「俺が連れてきた」
ヴェルナー様が冷たく言い放った。
「そして、この場で明らかにすることがある」
「何を……」
「オルテンシア嬢」
彼の視線が、白いドレスの令嬢を射抜いた。
「その刺繍図案、いつ描いた」
オルテンシア嬢の顔が、一瞬だけ強張った。けれどすぐに笑顔を作り、首を傾げる。
「三ヶ月前ですわ。前作の続きとして、心を込めて描きました」
「嘘だな」
ヴェルナー様は私の手を離し、一歩前に出た。
「その図案は、十年前に描かれたものだ」
会場がざわめく。オルテンシア嬢の目が泳いだ。
「な、何を仰っているの。私は三ヶ月前に……」
「リーゼル」
ヴェルナー様が振り返った。
「見せてやれ」
私は頷き、胸元から図案帳を取り出した。
「これは、亡き母の遺品です」
三十三頁目を開く。花と蝶の発展形。オルテンシア嬢が『新作』と称した図案と、寸分違わぬ絵。
「頁の隅をご覧ください。日付があります」
「××年五月……」
誰かが読み上げた。
「十年前ではないか」
「オルテンシア嬢がデビューする七年も前だ」
囁きが波紋のように広がる。オルテンシア嬢の顔から血の気が引いた。
「そ、それは偽造よ! リーゼルが私を陥れようとして……」
「偽造ではない」
凛とした声が、人混みを割って響いた。紫紺のドレスに、王冠の小さな飾り。王妃様だった。
「その帳面を見せなさい、リーゼル嬢」
「は、はい」
私は跪き、図案帳を差し出した。王妃様はゆっくりと頁をめくり、目を細めた。
「懐かしいわね」
「王妃様?」
「この筆跡、私は知っています。十五年前、私のドレスを縫ってくれた女性のもの。リーゼル嬢、貴女の母上でしょう」
「……はい」
「素晴らしい刺繍だった。今でも大切にしているわ」
王妃様は帳面を閉じ、オルテンシア嬢を見た。
「オルテンシア嬢。貴女の『自作』の刺繍、私も見覚えがあったの。けれど、どこで見たか思い出せなかった」
「そ、それは……」
「今、思い出しました。十五年前のドレスに、同じ図案があった」
会場が静まり返った。王妃様の言葉は、絶対だ。覆せる者など、この国にはいない。
「オルテンシア嬢。貴女は盗作を行い、なおかつ被害者を『盗人』呼ばわりした」
「違います、私は……」
「証拠は揃っています。日付も、証人も」
ヴェルナー様が冷たく言い放った。
「五年前、俺は王城の庭園でリーゼル嬢がこの図案を縫っているのを見た。貴女がデビューする二年前だ」
「そんな……」
オルテンシア嬢の膝が折れた。真っ白な顔で、地面に座り込む。あれほど完璧だった被害者の仮面が、今は見る影もない。
「フィリベルト様、助けて……」
縋るような目でフィリベルト様を見上げる。けれど彼は、一歩後ろに下がった。
「俺は……知らなかった」
「嘘、私たち婚約するはずだったのに……」
「婚約など、していない」
フィリベルト様の声は冷たかった。この期に及んで、彼は自分を守ることしか考えていない。三年の婚約を簡単に捨てた人だ。当然だろう。
「……そうでしたの」
オルテンシア嬢が笑った。壊れたような、歪んだ笑み。
「リーゼルの婚約を破棄させたのは、私よ。彼女から全てを奪えば、貴方が私を見てくれると思ったから」
会場にどよめきが走った。
「でも、無駄だったのね。貴方は最初から、私のことなど……」
「オルテンシア嬢」
王妃様の声が遮った。
「貴女には然るべき処分が下されるでしょう。連れて行きなさい」
近衛兵が進み出て、オルテンシア嬢を立ち上がらせた。彼女は一度だけ私を見た。憎しみと、諦めが混ざった目だった。
「……リーゼル」
「はい」
「貴女の刺繍は、本当に綺麗だった」
それだけ言って、彼女は連れて行かれた。
園遊会は続いていたが、私の周りだけ静かだった。
「リーゼル嬢」
王妃様が微笑んだ。
「母上の技術を継いでいるのね。いつか、私にもドレスを縫ってくれるかしら」
「もちろんでございます」
「楽しみにしているわ」
王妃様が去ると、フィリベルト様が近づいてきた。
「リーゼル嬢、その……」
「何でしょうか」
私は彼を見上げた。かつて三年も慕った人。けれど今は、何も感じない。不思議なほど、心が凪いでいた。
「俺は知らなかったんだ。オルテンシアが、そんなことをしていたなんて」
「そうですか」
「だから、その……婚約を……」
「お断りします」
私は静かに言った。
「私は貴方と信頼関係を築けません。三年かけても、貴方は私を見てくださらなかった」
「リーゼル……」
「それに」
私は隣を見上げた。ヴェルナー様が立っている。碧眼が、優しく私を見下ろしていた。
「私には、五年も待っていてくださった方がいますので」
フィリベルト様の顔が歪んだ。けれど私はもう、彼を見なかった。三年間、ずっと彼の方を向いていた。もう振り返る必要はない。
「ヴェルナー様」
「ああ」
「ありがとうございました。おかげで、名誉を取り戻せました」
「礼を言うのは俺の方だ」
彼は私の手を取った。大きくて、温かい手だ。
「五年待った甲斐があった」
「……私のような者で、よろしいのですか」
「君以外にいない」
ヴェルナー様は私の手を引き、王妃様の方へ歩き出した。
「王妃様」
「あら、ヴェルナー公爵。まだ何か?」
「この女性を、我が公爵家に迎えたい。お許しをいただけますか」
会場が再びざわめいた。私は目を見開いた。
「ヴェルナー様、これは……」
「俺は待つのが得意ではない」
彼は私を見下ろした。
「五年待った。もう十分だろう」
「……はい」
気づけば、涙が頬を伝っていた。悲しみではない。喜びだ。温かい涙だった。
「王妃様、お許しを」
王妃様は穏やかに微笑んだ。
「許すも何も、貴方たちが決めることよ。けれど、素敵な組み合わせだと思うわ」
「ありがとうございます」
ヴェルナー様は私の涙を指で拭った。硬い指先が、優しく頬に触れる。
「泣くな」
「申し訳ありません……」
「嬉し涙なら、許す」
彼の唇が、私の額に触れた。会場のどよめきは、もう聞こえなかった。この人の温もりだけが、世界の全てだった。
それから三ヶ月後、私はヴェルナー公爵夫人になった。
オルテンシア嬢は社交界から追放され、実家の伯爵家も没落したと聞いた。盗作と誣告の罪は重い。フィリベルト様は別の令嬢と婚約したらしい。どうでもいいことだった。
今、私の隣には、いつもヴェルナー様がいる。
「リーゼル」
「はい」
「また刺繍をしているな」
「王妃様のドレスを縫っているんです」
「そうか」
彼は私の後ろに立ち、肩を抱いた。温かい腕が、私を包む。
「綺麗だ」
「ありがとうございます」
「刺繍もだが、君のことだ」
耳元で囁かれ、顔が熱くなった。
「ヴェルナー様……」
「ヴェルナーでいい。もう夫婦だろう」
「では……ヴェルナー」
彼の腕に力が込められた。
「君を見つけられて、よかった」
「私も……貴方に出会えて、幸せです」
窓の外では、春の風が花を揺らしていた。母の図案帳は、今も私の宝物。けれどそれ以上の宝物が、今は隣にいる。
彼の手を握り返す。温かい。この温もりを、私はもう離さない。
新しい朝日が、二人の未来を照らしていた。
お読みいただきありがとうございました。
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