通訳をやめた日
夕方のキッチンには、いつも同じ音がある。
換気扇の低い唸りと、まな板の上で包丁が当たる、乾いた音。
それに、少し遅れて、フライパンの中で油が弾く音が混じる。
直子はキャベツを刻みながら、次にやることを頭の中で並べていた。
味噌汁の火加減、洗濯物のこと、明日の朝の段取り。
ひとつ思い出すと、また別のことが浮かぶ。
そういうことを考えているとき、浩一は決まって、急に話しかけてくる。
「さっきの件、あれでいいよね」
背後から、少し間延びした声がした。
直子は振り返らずに、包丁を動かし続ける。
――さっきの件。
頭の中で、今日一日の出来事をざっとなぞる。
朝のゴミ出し、昼過ぎに来た宅配便、午後に送った義母へのLINE。
夕方、電話で話していた会社の何かかもしれないし、週末の予定のことかもしれない。
「……うん」
少し間を置いて、そう返事をした。
間違っていたとしても、あとで修正すればいい。
これまで、ずっとそうしてきた。
浩一はそれ以上何も言わなかった。
リビングのソファに座る気配がして、テレビの音が少し大きくなる。
直子は胸の奥で、小さく息を吐いた。
正解だったのかどうかは、分からない。でも、今のところ問題は起きていない。それでいい。
キャベツをボウルに移し、次は人参を取り出す。
包丁の切れ味が少し落ちてきた気がして、研がなければ、と思う。
そんな些細なことの方が、頭に残る。
浩一と結婚して二十年近くになる。
彼は昔から、こういう話し方をする人だった。
主語がなく、説明がなく、結論だけが急に放り込まれる。
最初の頃は、よく聞き返していた。
「どの話?」
「何のこと?」
そのたびに、浩一は面倒そうな顔をして、「さっき言ったじゃん」とか、「普通わかるでしょ」と言った。
その顔を見るのが、だんだん嫌になった。
だから直子は、彼の言葉の足りない部分を、無意識に埋めるようになった。
努力ではなく、いつの間にか身についていた癖だった。
夕食の準備をしながら、浩一の言葉を頭の中で組み立て直す。
これはたぶん、こういう意味。
さっきの、というのは、あの話。
これでいいよね、というのは、反対はしない、ということ。
そうやって解釈してきたおかげで、家の中は大きな波風も立たずに済んできた。
少なくとも、直子はそう思っていた。
フライパンに調味料を入れると、甘い匂いが立ちのぼる。
換気扇の音が少し強くなる。
浩一がまた言った。
「あとさ、あれも頼むから」
今度は、はっきりとした目的語がなかった。
直子の手が、一瞬止まる。
――あれ、とは。
聞き返せばいい。
たったそれだけのことだ。
分からないなら、分からないと言えばいい。
でも、口は動かなかった。
「うん、分かった」
そう答えながら、直子は自分でも不思議な気がした。
何を頼まれたのか、分からないまま返事をしている。
それなのに、体はもう、次の段取りを考え始めている。
どこかで、これまでと同じだ、と思った。
同時に、ほんのわずか、違う感覚もあった。
――最近、当たりがつかない。
浩一の話が、以前よりも曖昧になったわけではない。
むしろ、昔から変わらない。
変わったのは、自分の方なのかもしれない。
キャベツの山を見下ろしながら、直子はふと、そんなことを考えた。
理由は分からない。
ただ、少しだけ、疲れている。
それでも、今日の夕飯は、いつも通りだ。
皿を並べ、味噌汁を温め直し、ご飯をよそう。
浩一が何を頼んだのかは、まだ思い出せない。
でも、きっと、そのうち分かる。
いつも、そうだった。
直子は、そう思うことで、包丁を洗った。
---
それは、特別な日の出来事ではなかった。
雨も降っていなかったし、誰かの誕生日でもなかった。
ただの平日の夜で、食卓にはいつもと同じ皿が並んでいた。
浩一が箸を置き、テレビから目を離さずに言った。
「それ、もうやっといてくれた?」
直子は味噌汁の椀を持ったまま、動きを止めた。
それ、という言葉が、湯気の向こうで曖昧に揺れた。
――それ。
洗濯機の予約かもしれない。
週末の買い出しかもしれない。
先週、話題に出た何かの支払いのことかもしれない。
これまでなら、どれかを選び取って動いていた。
間違っていたら、そのときに修正すればいい。
そうやって、この家は回ってきた。
けれど、その夜は違った。
「……どれ?」
自分の声が、思っていたよりも低く聞こえた。
直子は、それだけ言って、椀をテーブルに置いた。
浩一が一瞬、黙った。
テレビの中で、誰かが笑う声がした。
「え?」
振り向いた浩一の顔には、驚きというより、戸惑いが浮かんでいた。
直子は、その表情を見て、なぜか安心した。
少なくとも、怒ってはいない。
「だから、それって何?」
言葉にすると、少しだけ胸がざわついた。
責めているつもりはなかった。ただ、確認したかっただけだ。
浩一は眉を寄せたまま、少し考えるように視線を泳がせた。
「……ほら、あれだよ。さっき言ってたやつ」
さっき。
直子の中で、時間が巻き戻る。
夕方のキッチン、換気扇の音、包丁の感触。
「さっき、って?」
問い返した瞬間、空気が変わった。
浩一の口元が、わずかに歪む。
「なんで分かんないの?」
声は荒くなかった。
責める調子でもなかった。
ただ、当然のことを確認するような言い方だった。
直子は、言葉を探した。
説明しようとすれば、いくらでもできる。
四六時中一緒にいるわけじゃないこと。
同じものを見ているわけじゃないこと。
でも、どれも口に出す気にはならなかった。
「……分からないから」
それだけ言うと、浩一は小さく舌打ちをした。
不機嫌というより、面倒くさそうな音だった。
「まあいいや。あとでいい」
そう言って、再びテレビに視線を戻す。
それで会話は終わった。
何も決裂しなかったし、謝罪もなかった。
ただ、何かが宙に浮いたままになった。
食後、直子は洗い物をしながら、蛇口の水音を聞いていた。
いつもと同じ流れ。
いつもと同じ手順。
なのに、頭の中だけが、落ち着かなかった。
――今の、何だったんだろう。
これまで、こういう場面は何度もあった。
そのたびに、直子が埋めてきた。
聞き返さず、考え、動いてきた。
でも今夜は、埋めなかった。
埋めなかったというより、埋められなかった。
正解が、見えなかった。
スポンジを握る指に、少し力が入る。
泡が、いつもより早く消えていく。
浩一は悪気がない。
昔から、そういう人だ。
思いついたことを、そのまま口にする。
説明は後回しで、必要だと思っていない。
それを知っているからこそ、直子はやってきた。
察して、整えて、形にしてきた。
でも、ふと思った。
――私は、いつまでそれをやるんだろう。
問いは、答えを求めるものではなかった。
ただ、胸の奥に沈んでいった。
浩一はリビングでくつろいでいる。
テレビの音は相変わらず大きい。
家は、いつも通りに回っている。
なのに、直子の中では、
小さな歯車が、確実にずれていた。
それを戻そうとする気は、もう起きなかった。
—
浩一は、自分が何か変なことを言ったとは思っていなかった。
それ、という言い方は、いつもしている。
これまで、問題になったことはない。
直子はだいたい察して、先に動いてくれていた。
だから、あのときも同じだと思った。
「どれ?」
そう聞き返された瞬間、頭の中が一拍遅れた。
どれ、と言われても、説明するほどのことではない気がした。
さっきの話の流れで、分かるはずのことだった。
――分からないのか。
そう思ったとき、胸の奥に、軽い苛立ちが生まれた。
怒りというほどではない。
ただ、拍子抜けに近い感覚だった。
なんで、今さら。
結婚して、もう長い。
直子は要領がいい。
自分がいちいち言わなくても、話をまとめてくれる人だった。
それが、今日は止まった。
浩一は、説明しようとしなかった。
しなかったというより、必要性を感じなかった。
言葉にしなくても通じていたものを、今さら言い直すのが、妙に気恥ずかしかった。
「なんで分かんないの?」
口に出した瞬間、少しだけ後悔した。
でも、引き返すほどのことでもないと思った。
まあいい。
あとでいい。
そう言って話を切り上げたのは、逃げたかったからではない。
本当に、急ぎではなかったし、深刻な話でもなかった。
テレビを見ながら、浩一は考えた。
直子は、最近、少し変だ。
前みたいに、話がすぐ片づかない。
まあ、疲れているだけだろう。
そう思うことにして、浩一はテレビに視線を戻した。
自分が悪いとは、あまり思わなかった。
かといって、直子を責めたいわけでもなかった。
ただ、面倒だった。
今まで通りでよかったのに。
そう思いながら、浩一はチャンネルを変えた。
それ以上、考えることはしなかった。
—
翌朝、直子はいつも通りの時間に起きた。
目覚ましが鳴る前に目が覚めたのも、特別なことではない。
台所に立ち、湯を沸かし、味噌汁を作る。
冷蔵庫を開けて、昨日の残りを確認する。
手順は体に染みついていて、考えなくても動けた。
変わったのは、頭の使い方だった。
浩一が起きてきて、新聞を取りに行く。
その背中を見ながら、直子は何も考えなかった。
今日の機嫌。
昨日のやり取りの続き。
そういうものを、自然に先読みしなくなっていた。
「今日、あれどうなってる?」
浩一が、洗面所に向かいながら言った。
直子は、箸を並べる手を止めなかった。
どれのことだろう、とは思った。
でも、そこから先に進まなかった。
「何のこと?」
声は、静かだった。
自分でも驚くほど、感情が乗っていない。
浩一は少しだけ立ち止まり、振り返った。
「だから、あれだよ」
以前なら、ここで頭が動き出していた。
候補を並べ、確率の高いものを選び、仮の答えを用意する。
間違っていたら、修正する覚悟も含めて。
でも、その工程が、今は立ち上がらない。
「分からない」
それだけ言うと、直子は箸を持ち、席に着いた。
浩一は何か言いかけて、やめた。
歯磨き粉の匂いが、洗面所から漂ってくる。
朝食は、静かだった。
テレビはついていたが、内容は頭に入らない。
味噌汁の味は、いつもと同じだった。
直子は、自分が冷たい人間になったような気がした。
でも、罪悪感はなかった。
むしろ、どこかで肩の力が抜けていた。
日中、パート先でレジに立ちながら、ふと考えた。
今まで、自分は何をしていたのだろう。
頼まれてもいないことを引き受けていた。
それを、やめただけだ。
帰宅して、洗濯物を取り込み、夕飯の支度をする。
浩一はいつもの時間に帰ってきて、同じようにソファに座る。
「今日さ、あの話だけど」
直子は、包丁を置いた。
「どの話?」
浩一は、短く息を吐いた。
苛立ちというより、困惑に近い。
「もういい」
そう言って、話を切った。
その背中を見ながら、直子は思った。
補わないというのは、相手を突き放すことではない。
ただ、相手の仕事を、相手に返すだけだ。
夜、布団に入ってからも、眠りは浅くならなかった。
考えごとは、確かに増えた。
でも、消耗は減っていた。
浩一の言葉は、相変わらず曖昧だ。
家の中の空気も、少しだけ重くなった。
それでも、直子は、元に戻そうとは思わなかった。
彼の言葉を拾いに行く気が、どうしても起きなかった。
その決意は、声に出すほどのものではなく、
ただ、毎日の選択の中に、静かに埋め込まれていった。
—
気がつくと、家の中で交わされる言葉が、必要最低限になっていた。
「おはよう」
「いってきます」
「おかえり」
それ以上は、なくても困らなかった。
浩一は相変わらず、決まった時間に起き、決まった時間に出かける。
直子も、同じように朝の支度をし、パートに出る。
生活の骨組みは、何も変わっていない。
変わったのは、隙間だった。
以前は、隙間に言葉が流れ込んでいた。
意味のない会話。
途中で終わる話。
説明されない前提。
それを、直子が埋めていた。
今は、埋めない。
ある夜、浩一がテレビを見ながら言った。
「これさ……」
直子は返事をしなかった。
流しの水音が、言葉の代わりに部屋を満たした。
浩一は続きを言わず、そのままテレビに視線を戻した。
直子は、洗い物を続けながら思った。
こんなふうに、いくつの言葉が消えていったのだろう。
「これさ」
「あれだけど」
「さっきの」
以前なら、それらは途中で拾い上げられ、形にされていた。
今は、床に落ちたままになっている。
拾わないと、消える。
それだけのことだった。
浩一は、少しずつ話さなくなった。
正確には、話しかけても、返ってこないことが増えた。
それを、直子のせいだとは、たぶん思っていない。
ただ、「前と違う」と感じているだけだ。
直子は、以前より静かになった自分を、嫌いではなかった。
気を回さない。
先を読まない。
誤解を未然に防ごうとしない。
夕飯のあと、浩一は自分の部屋に入ることが多くなった。
直子も、無理に同じ空間にいようとはしなかった。
それぞれが、別々の音を立てて暮らしている。
ある晩、直子は布団に入りながら、思った。
この沈黙は、破綻なのだろうか。
でも、何をもって破綻と言うのだろう。
殴り合いも、罵声も、別れ話もない。
ただ、言葉が減っただけだ。
浩一の曖昧な言葉を、もう一度拾いに行く気が、どうしても起きなかった。
沈黙は、冷たい壁ではなかった。
むしろ、何も要求されない空間だった。
直子は、その静けさの中で、何も求められない夜を過ごした。
—
その夜も、特別なことは何もなかった。
夕飯は、冷蔵庫にあるもので済ませた。
浩一はテレビをつけ、直子は黙って箸を動かす。
味付けがどうだったか、どちらも口にしなかった。
食後、浩一が珍しく口を開いた。
「さっきの件だけどさ」
直子は、湯呑みを流しに置いた。
胸の奥で、何かが動く気配はなかった。
「何の話?」
問い返した声は、驚くほど穏やかだった。
浩一は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせた。
「だから……まあ、いいや」
その言い方が、決定的だった。
以前なら、直子はそこで拾っていた。
「何?」と重ねて聞き、思い当たる候補を並べ、話を形にしていた。
でも、その夜は違った。
「うん」
それだけ言って、流しに向かった。
浩一は、何か言われるのを待っていたようだった。
でも、直子は振り返らなかった。
水道の音が、やけに大きく響いた。
浩一は、少しだけ不機嫌そうにソファに座り直した。
リモコンを持ち、チャンネルを変える。
画面が切り替わるたび、部屋の空気が薄くなる。
直子は、その背中を見て、視線を流しに戻した。
怒りはなかった。
悲しみも、思ったほどではなかった。
ただ、「補わない」という選択が、元に戻れないところまで来たと分かった。
浩一は、自分の言葉が途中で消えていく理由を、考えなかった。
直子が拾わなくなった理由も、深くは考えない。
いつも通りでいたかっただけなのだ。
でも、「いつも通り」は、もう成立していなかった。
その夜、布団に入っても、直子は眠れなかった。
頭の中で反省会を開くこともなかった。
言い過ぎたかもしれない。
冷たかったかもしれない。
そういう思考が、もう出てこない。
代わりに浮かんだのは、奇妙な静けさだった。
明日からも、この家で暮らす。
洗濯をして、食事を作って、仕事に行く。
たぶん、何も変わらない。
でも、もう通訳はしない。
翻訳もしない。
察することもない。
それをやめた自分を、責める気はなかった。
この夜に起きたのは、別れでも決裂でもなかった。
ただ、浩一の言葉が、途中で消えていくようになっただけだ。
直子は、目を閉じた。
隣で、浩一の寝息が聞こえる。
その音が、ひどく遠く感じられた。
—
季節が変わったことに、直子はカレンダーではなく、洗濯物で気づいた。
厚手のセーターが減り、代わりに薄いシャツが増えた。
それだけのことだった。
浩一との生活は、続いている。
同じ家に住み、同じ冷蔵庫を使い、同じ時間帯に眠る。
外から見れば、何も変わっていない夫婦だ。
ただ、日常の質が、まるで違った。
会話は、用件だけになった。
「ゴミ出し」
「鍵」
「明日いない」
それ以上は、増えないし、減りもしない。
沈黙はもう、異常ではなかった。
直子は、浩一の機嫌を測らなくなった。
顔色を読むことも、声の調子を気にすることもない。
代わりに、自分の予定を優先するようになった。
パートの帰りに寄るスーパーを変えた。
帰宅時間も、少し遅くした。
理由を説明する必要がないことが、思った以上に楽だった。
ある日、浩一が言った。
「最近、忙しい?」
直子は少し考えてから答えた。
「普通」
それ以上、話は広がらなかった。
浩一はうなずき、テレビに視線を戻した。
その横顔を見て、直子は思った。
この人は、今も自分が何かを失ったとは思っていない。
ただ、家の中が静かになったと感じているだけだ。
直子は、それ以上考えなかった。
理解されなくてもいい。
説明しなくてもいい。
夜、布団に入ると、浩一は先に眠る。
直子は天井を見ながら、これからのことを考える。
離婚という言葉は、まだ浮かばなかった。
以前のように、夜のあとで反省会を開くことはなくなった。
直子は、自分が静かに一人になっていくのを感じていた。
誰かを見捨てたわけでも、逃げたわけでもない。
ただ、役割を降りただけだ。
朝が来る。
目覚ましが鳴る。
同じ家で、同じ一日が始まる。




