第4話 龍帝国にて
森を抜けた瞬間、ひんやりとした空気がふっと軽くなる。数日の旅の果て、視界の先に現れたのは、木々とはまったく違う色の世界だった。
「わぁ……」
赤茶色のレンガで組まれた家々。龍の紋様が刻まれた看板。露店には金や緑、紫の“魔の森素材”がずらりと並び、客引きの声と鍋の音が賑やかに交差している。
どこか異国めいた香辛料の匂いが風に乗って流れ、マールの鼻をくすぐった。
(……ひろい……ひとが、たくさん……)
マールは思わずレグルスの外套の端をつまむ。初めて見る光景ばかりで、胸がざわざわする。でも、そのざわめきは怖さよりも不思議な期待のようなものだった。
「ここがリヴィア龍帝国の外郭都市のひとつ、“カルデサック(袋小路の意)”だ」
レグルスが簡潔に説明すると、アッポロが胸を張って続けた。
「傭兵が多いのは、俺たち龍人の国は武力が生命線だからだ」
「まぁ、レグルス隊長みたいに異常に強いやつは滅多にいないっすけどね」
「おい、フリッツ。お前、それ褒めてるのか?」
とレグルスが呆れた声を出し、マールはくすっと小さく笑った。
ドクペインが補足するように言う。
「傭兵は、軍とは違って自由に動ける専門集団です。ギルドを通して依頼を受けて、魔獣討伐や素材回収、護衛なんかをこなすんですよ。ほら、あそこにギルドがあります」
指差した先には、黒い石造りの建物。扉の上には亜竜の頭部とみられる剥製が飾られている。マールは目を丸くして呟いた。
「……す、すごい……」
その一言に、レグルス隊の三人がなぜか少し得意げになった。
◆
ギルド内部には活気が満ちていた。
依頼票を食い入るように見つめる傭兵、素材袋を抱えて値段交渉する商人、受付前で口論を始める者までいて、騒がしさと熱気が渦を巻いている。マールは圧倒され、思わずレグルスの背中にぴとりと隠れた。
「どもどもー、戻ってきたっすよ!」
いつも通り軽い調子のフリッツが受付の女性に声をかける。
「レグルス隊の皆さん、おかえりなさい。今回のポイズンフロッグ討伐はどうでしたか?」
受付嬢の問いに、レグルスはわずかに顔を曇らせた。ポイズンフロッグ──毒性の強い魔獣の討伐依頼を受けていたはずだったが。
「それがだな……あの毒ガエルを主食にしている“蛇神ヒュドラ”に見つかってしまってな。撤退せざるを得なかった」
言葉を選びつつ、どう取り繕っても結果は同じだった。女性は書類に目を落とし、申し訳なさそうに眉を寄せる。
「……残念ですが、未達成扱いとなります。報酬はゼロです」
周囲の喧騒が嘘のように、そこだけ静まり返る。反論の余地はない。レグルスたちも沈黙するしかなかった。
「お、おう……まぁ、たまにはそんなこともあるっすよ!」
フリッツが無理に明るく場を和ませようとするが──。
「今月の生活費、その依頼報酬をあてにしていたこと、忘れてませんよね? 拠点の家賃はどうするんです?」
ドクペインの一言が、心臓にぐさりと刺さった。
レグルスの眉がぴくりと動く。
アッポロはポタリと汗を落とした。
「……………………」
隊員三人の顔が同時に青くなり、マールも思わずきゅっと口を引き結ぶ。
あぁ~、また大家の婆ちゃんにどやされるっすよ……とフリッツが小声で呟く声が聞こえ、マールは目をぱちぱちさせた。
こうして、街に帰還したばかりのレグルス隊に、早くも“家賃問題”という現実がのしかかるのだった。
◆
レグルス隊の拠点──といえば聞こえはいいが、実際は街外れにある年季の入った“ボロ宿”だ。木の板壁はところどころ剥げ、扉は軋み、風が吹けば窓が鳴く。だが、彼らにとっては落ち着く「帰る場所」だった。
……しかし今日は、その玄関で鬼が待ち構えていた。
「アンタたち、また滞納する気かいッ!!!」
箒を逆手に持ち、鬼神のような形相で仁王立ちするのは宿の大家──ハンナ婆さんだ。ショートカットの白髪を逆立て、背は小さいが怒気はでかい。マールは思わずレグルスの背後に隠れ、ギルドにあった竜の剥製より恐ろしいと内心で考えていた。
レグルスですら「……すまん、ハンナ殿」と肩を落とし、小さくなる。アッポロ、フリッツ、ドクペインの三人も一列に並び、子どもが説教される姿勢で正座していた。
「いい歳した男どもが、毎回毎回! 生活費を討伐報酬に賭けてどうするんだい! あんたたち、脳みそまで筋肉なのかい!」
「す、すみません……」
一番脳筋そうなアッポロがでかい図体を縮こまらせた。
その横でフリッツがぼそり。
「悪いことした子どもが、お母さんに怒られてるみたいっすよね?」
その何気ない一言に、マールの肩がぴくりと揺れた。
「……おかあさん、いなかったから……わからない……。怒る怖い女の人は、いっぱいいたけど……」
ぽつりと落とされた声は、淡くて、小さくて──けれど胸に刺さった。
レグルス隊の大人たちは全員、息を呑んで黙り込む。怒っていたはずのハンナ婆さんまで、驚いたように目を瞬いた。
「……なんだい、その子は」
ようやくマールの存在に気づいたハンナ婆さんは、次の瞬間には豹変していた。
「まぁぁ~~~! なんて可愛い子! こんな小さな子を、むさくるしい男どもが世話もせず何やってんだい!!」
「あ、いや、その……!」
レグルスが言い訳しようとしたが、聞く耳を持たない。
「まずは風呂! それから温かいお茶! お菓子もあるよ! おいで、坊や!」
マールはきょとんとしながらも、手を引かれるまま屋内へ連れて行かれた。
◆
湯気の立つ浴室から、しばらくしてふわふわに温まったマールが戻ってきた。髪は梳かされ、借り物の清潔な服に着替え、頬はうっすら桜色だ。
テーブルの上には湯気の立つお茶と菓子。マールはちょこんと座ると、向かいに居るハンナ婆さんを見上げた。
「ほら、たくさんあるからお食べ」
(コクンッ)
もぐっ……ばくっ、ばくばくっ……!
と、小動物のように菓子をむさぼり始めた。
「お、おい……」
レグルスが若干引き気味の声を漏らす。
「好きにさせておやり。あぁ、可哀想に。こんなガリガリに痩せちまって……」
ハンナ婆さんは優しく微笑むと、レグルスに鋭い視線を向けた。
「この子に男の恰好をさせてたのも……きっと事情があるんだろ?」
「……あ、あぁ」
耳元でコソコソと言われたレグルスは一瞬だけ目を伏せる。
「まさかアンタ……どこかで女作って産ませた子じゃ……?」
「なっ!?」
レグルスの顔が真っ赤に染まる。同時に「ないないない!」と全力で首を横に振った。
「なぁんてね。堅物のアンタがそんなことするわけないさね」
ハンナ婆さんは愉快そうに笑い、マールの頭をそっと撫でた。
「でもね、この子は……守ってあげなきゃダメだよ。あんたたちが、ちゃんとね」
そう優しく言い切ったハンナ婆さんの袖が、くいくいと小さく引っ張られた。
「ん?」
視線を落とすと──そこには、ちょこんと立つマール。両手をお椀のように丸めて、その上に赤く艶めく小さな実をそっと載せている。
毒牙のような模様が入った、魔の森特産の“コブラ苺”だ。
「……お礼、です」
たどたどしく言いながら差し出される、小さな手。その所作があまりにも健気で、ハンナ婆さんは思わず胸を押さえた。
「な、なんていい子なんだい……! もらっていいのかい?」
マールはこくんとうなずく。
ハンナ婆さんは感動したように目尻を下げ、そっと齧った──。
「……っ!? な、なんだいこれ……とんでもなく美味しいよ……!」
老人とは思えないほど目を見開き、震える声をあげた。まるで若返るような甘酸っぱさと濃い魔力が舌を満たす。
「驚くだろう。この子が魔の森で採取したんだ」
レグルスが誇らしげでもあり、複雑でもある声音で言った。
「ま、魔の森!? でも、あそこは毒で……」
ハンナ婆さんが再び目を丸くする。
「心配無用。マールがきちんと解毒しました」
ドクペインが淡々と答えた。
その瞬間──ハンナ婆さんの瞳に、別の“光”が宿った。そう、商人の目だ。
「ちなみにコレ、まだあるかい?」
「あ、あぁ。道中で何回も採取していたからな」
「これは……高値で売れるよ!!」
「「「「えっ」」」」
◆
そうして少量ながら、“安全なコブラ苺”がハンナ婆さんによって市場へ出品された。
結果──。
瞬く間に話題沸騰。
魔力回復効果が極めて高く、しかも猛毒種なのに安全という希少性。貴族や魔導師たちが驚き、争うように買い求め、売り場は小さな混乱すら起きた。
売り上げは当然、レグルス隊にも分配され──
「こ、こんなに……!」
アッポロが震え上がるほどの金額。
「家賃が払えるっす! これで食費を削らなくて済む……!」
フリッツが涙ぐむ。
「け、研究費が……半年我慢してた本が買える……!」
ドクペインはなぜか一番興奮していた。
そんな中、レグルスだけは複雑な顔をしていた。
「……子どもを利用しているようで、胸が痛む」
その呟きに、隊員たちは一瞬で反応した。
「隊長」
フリッツがきっぱり言った。
「マールはもうウチの子です。利用とか、そんな話じゃないっす」
「なにがあっても、守る」
アッポロが拳を握る。
「そういうことです」
ドクペインも静かにうなずいた。
レグルスはゆっくりと視線をマールへ向ける。
「お前は……それでもいいのか?」
「――?」
「マールが行きたい場所が見つかるまで、俺たちと一緒に居るか?」
マールは、彼らの言葉の意味を完全に理解できてはいなかった。
けれど──
「おいしいごはん、食べれるなら、よろこんで」
ふっと柔らかい笑みを浮かべるマール。彼女は胸の奥がふわりとほどけるような、不思議な温度を感じていた。
(なんでかな、この人たちと一緒だと、あったかい……)
それは、生まれて初めて“家族”に触れた幼子のような、小さな、小さな呟きだった。




