第9話「家からの文、そして選択」
――勝利には、音が二つある。
ひとつは歓声。もうひとつは、湯気が立ち上るときの小さな吐息だ。
◆
国境の山脈で“喰境”が沈んだ翌日、王都は久々の安堵で息を深くした。
いつもは罵り合いの混じる朝市で、魚屋と八百屋が同時に「今日はよく売れる」と笑い、職人街の大扉は一斉に持ち上げられ、鍛冶場の槌音が規則正しく戻った。
音が規則に戻る――それは街の体温が平熱へ復する合図だ。
レーヴからの帰還隊は昼下がりの門をくぐり、護衛の旗が風を切ると、沿道の子らが跳ねた。
「死人ゼロ!」
誰かが叫ぶ。
「死人ゼロは、紙に残る数字じゃない。家の食卓に戻る人の数だ」
見習いの少年が肩で担ぎ直した担架の布を撫で、私の横でそう呟いた。
いい言葉だ、と心の中で頷く。
ギルドに戻ると、いつもの木の匂いに、スープの香りが少しだけ濃かった。
大鍋には根菜が沈み、塩気は控えめ、温度は高め。
「温かいものが、心の鎧になる」
レオンじいの声が、湯気の向こうから冗談めかして聞こえてくる気がした。
ミーナはいつもの速度で判を押し、紙を滑らせ、苛立つ者を笑わせ、嬉しがる者に水を勧める。
私がカウンターに近づくと、彼女は言葉より先に、封蝋の硬さを指で確かめる仕草をした。
公爵家の紋。
あの家に生まれた者しか知らない、微妙に深い彫り。
「来たのね」
「来た」
私は封を裏返した。
封蝋は割れていない。けれど、心のどこかに亀裂は入っている。
ミーナは余計なことを言わない。ただ、湯気の立つカップを私の手に押し付けた。
「熱いうちに、飲む。読むなら、座って。読まないなら、しまって。どっちでもいい」
「どっちでも、いい」
口にしてみる。
どっちでも、私が私でいられるなら――いい。
私は封を切らなかった。
代わりに、ギルドの“手順書置き棚”に新しく挟んだ自分の紙――〈封印支援時の瘴気薄層化と触合併用〉の草稿に、赤を入れ始めた。
手を動かすと、心の“待機”がほどける。
静かに集中が集まってくる。
紙に小さく追記を入れ、手順の矢印を一本だけ太くしてから、ようやく封に指をかけた。
剥く、というより、布から棘を一本抜くみたいに。
蝋が割れ、紙の繊維がわずかに鳴る。
父の筆だ、と第一行でわかった。
大きすぎず、小さすぎず、余白を置く。
その余白の多さが、今日はいつもより目立っている。
〈戻ってきてほしい。家は君を誇りに思う。
だが、家である前に、父でありたい〉
一文ごとに空白があり、空白ごとに、私の脈拍が一度、遅くなる。
手紙は続く。
〈王都は、君の働きで少しだけ軽くなった。
家の者たちは、君の名を“名もない誰か”として聞いている。
名がなくとも、家は誇れる。
名があっても、家は誇れる。
誇りは家の権利ではなく、君自身の権利だ。
……できることなら、母の歌の聞こえる朝に一度、戻ってきてほしい。
庭の桜は、今年は花が重い。枝を落とす前に、君に見てほしい〉
私は紙を胸に当てた。
布地越しに、昔の朝餉の匂いが立ち上がる気がする。
焼き立ての小麦パン、薄い蜂蜜、母の鼻歌。
春の桜の下で、風が粉砂糖をさらっていく、あの眩しさ。
胸の奥が、きゅう、と縮んだ。
靴底が、土を選んでからの年月は短い。
それでも、そこに“手順”が積み上がっている。
積み上がりは、すぐには崩れない。
「……どうする?」
ミーナの声は、机の角に似ていた。寄りかかれる硬さ。
私は封を畳み直し、丁寧に腰袋へ戻した。
「今は、しまう。返事は、手順のあとで」
「了解。じゃ、手順。依頼が三つ。ひとつは“水路の逆流”、ひとつは“北門の列の整理”、もうひとつは“療院の搬送”。どれも派手じゃない。どれも今日、効く」
「全部、いく」
迷っているときほど、手順は多い方がいい。
動いている間に、迷いは分解される。
分解された迷いは、手順に翻訳できる。
◆
午後、王都の北門は祝賀と帰還の人で溢れていた。
馬車が多い日ほど、人は自分の足の幅を正確に測れなくなる。
私は石畳に薄く“触合”の印を仕込み、足裏の“止まれ”と“進め”を分けた。
「足が喋るやつだ!」
馭者が笑い、門番の若い兵が真面目に頷く。
「これ、覚えた。……この前、あなたに肩を叩かれた兵です」
彼は顔を赤らめ、でも視線は逃げない。
「“戻る道は、恥ずかしさより前にある”」
「よく覚えてる」
列が整うと、王都の息がまた一つ、深くなる。
深い呼吸は、街を軽くする。
療院の搬送は三人。
一人は老人、一人は出産後の若い母親、一人は兵。
「止まれ」「よし」「上げる」「下ろす」。
四語の手順は、体力のない者ほど効く。
足が喋り、手が聞く。
帰路で、老人が私の袖をつついた。
「嬢さん、家はあるのかい」
「はい。街に」
「そうか。なら、食べ物はどこでも温かい」
「はい」
老人は笑い、皺の間に若い日の輪郭が一瞬戻った。
夕刻前、水路組合から呼びがかかった。
市場裏の逆流。
詰まりを取る、斜めに受ける、逃がす。
何度もやってきた手順が、今日も効く。
手順が効くと、心は自分の声を取り戻す。
◆
夜。
“山猫亭”の二階の窓から、王都の灯を眺める。
遠くで鳴る笛、近くで笑う声、皿の触れる音。
街は生きている。
生きている街は、誘惑も多い。
“戻ってきてくれるなら、すべてを水に流そう”という言葉も、街のどこかに潜む。
卓の上に手紙を置く。
父の余白は、責めない余白だった。
“戻ってきてほしい”のあとに、“戻らなければならない”とは書いていない。
“誇りに思う”のあとに、“家のために”とは続かない。
――家である前に、父でありたい。
私はこの数週間、ギルドで“家である前に仲間でありたい”人たちに囲まれていた。
ミーナは“働き手である前に人でありたい”受付嬢だ。
ブラムは“管理者である前に街を守りたい”ギルドマスターだ。
連絡班の若者は“兵である前に生きたい”少年少女だ。
扉が、二度、軽く叩かれた。
「どうぞ」
青い外套が、夜の明るさを邪魔しない影で部屋に入った。
アルバート。
彼は扉を閉める前に、廊下の気配を一度撫でてから、音を消す手順で閂を下ろした。
余計な音が、勝手に消えていく。
「君の選択を邪魔しに来たわけではない」
彼は最初にそう言った。
短い前置きほど、相手の足場を守る。
私は頷く。
「邪魔な言葉ほど、最初に取り除くのが丁寧ですね」
「丁寧は、現場で一番速い」
彼は窓辺に立ち、王都の灯を三つだけ数えた。
視線を“置く”。
必要な場所に、必要な時間だけ。
「君の働きは、家にも国にも届いた」
「……届きましたか」
「“名もない誰か”として。――それが、いい」
私は笑った。
笑いは、小さく。
「あの家から文が来ました」
「公爵家から」
「ええ」
私は腰袋から封を取り出し、机の上へ置き直した。
「父の筆は、いつもより余白が多い。空白が多い文は、読む人に“選ばせる”」
「いい文だ」
アルバートは紙を見ない。
文そのものより、文が作る“間”を読む人だ。
「戻るか?」
「……わかりません。今は、靴が土を選んでいる。
私が戻れば、家の中は楽になる。庭の桜はきれいだ。母の歌は、きっと変わらない。
戻らなければ、街は少しだけ軽い。――どちらも、正しい」
「二つの正しさは、最も扱いが難しい」
アルバートは窓から離れ、椅子に座らず、立ったまま“そこにいる”。
「だから、基準を置く。君の基準は?」
私は答えを急がない。
呼吸を四つ吸って、四つ止めて、四つ吐いた。
「“どっちでも、私が私でいられること”。
ギルドの仲間が言ってくれた言葉です」
「誰が」
「いろいろ」
私は笑った。
誰かひとりの名ではなく、複数の手の温度でできている言葉だ。
アルバートは頷き、静かに言葉を足した。
「君は現場で“無難”を積み上げる。難を無にする。
それは、家の中でも、街の中でも同じだ。
――ただ、王都は噂が速い。噂は“主語”を欲しがる。
主語を与えると、噂は政治に変わる」
「主語を与えないように、歩きます」
「その歩幅で」
彼はそれ以上、説得もしないし、慰めもしない。
青い外套の影は、部屋の四隅に余白を残した。
余白は、考えるための“退路”だ。
沈黙は、良い沈黙だった。
窓の外の音が、丁寧に部屋の内側を撫でていく。
私は封を開き、父の文を読み返し、折り目をなぞりながら言った。
「私は、冒険者です」
アルバートは頷いた。
「知っている」
「だから、“戻る道”を自分で作ります。
家へ戻る道も、街へ戻る道も。
どちらも半分ずつ作って、どちらかを選ぶとき、最後の半分を足せばいい」
「手順だ」
「手順です」
私は笑う。
「怒りではなく、次の一歩への希いで」
「君の言葉だ」
彼も、少しだけ笑った。
◆
アルバートが去ったあと、私は机に向かって、二通の紙を用意した。
一通は父へ。
一通はギルドの“手順書”へ。
父への文には、余白を多くした。
〈父上へ。
庭の桜を、今年は遠くから見ます。
枝を落とす前に、来年の枝の芽の位置を考えてください。
私は街で、今日も“無難”を積みます。
戻る道は、最初の一歩から作ります。
母上に、歌を。〉
ギルドの手順書には、具体を多くした。
・〈帰還直後に届く“家からの文”への対処手順(暫定)〉
—読まない自由を認める。読んだ場合、即答しない。
—返事は“手順の後”。戻る道を半分作ってから。
—噂への処置:主語を与えない。筆跡・立ち方・言葉・香りに注意。
—支援のお願い:受付は“温かい飲み物”を渡す。仲間は“どっちでもいい”の余白を渡す。
—合図:『決めるな』の印を自分へも使う。
書き終えてペン先を拭い、灯を落とす前に、私は指を四本立てた。
“止まれ”。
“見渡せ”。
“進め”。
“預けろ”。
合図は、他人のためだけではない。
自分に向けても、効く。
◆
翌朝。
王都は祝祭の続きで浮き、同時に、日常の仕事で沈む。
浮沈が同時に起こるのが、生きている街の姿だ。
ギルドでは、依頼票の角が昨日より少しだけ丸くなっていた。人の指で触られた分だけ、角は柔らかくなる。
「返事、出した?」
ミーナが水差しを置きながら聞く。
「出した。余白多め」
「いいね。私は『余白の受付嬢』と呼ばれたい」
「似合う」
「似合うでしょ」
笑い合ってから、彼女は真顔に戻る。
「依頼。
〈水路の堆積物除去〉
〈城壁外の小径整備〉
〈療院の長距離搬送――その先の村まで〉」
「三つ」
「三つ。……それと、噂の余波。あなたの“文”のこと、誰も知らない。でも、“何かあった”空気は嗅ぐ。
“嗅いだ空気”は、勝手に主語を作る。
だから、今日のあなたの“手順”は、いつもより少しだけ『見える』ほうがいい」
「見える、手順」
「そう。誰でも真似できる“普通”のやり方。
“特別な誰か”の手つきに見えないように」
私は頷き、石筆を握った。
普通に見える手順は、実は一番設計が難しい。
けれど、最も広く街に効く。
◆
午前。
水路の堆積物は、匂いで季節がわかる。
春の堆積は、冬の名残と雨の過剰。
私は若い職人たちに道具の向きを教え、握りの位置を一寸だけ下げさせ、重心を外側へ逃がす。
「斜めで受けて、流す」
「受け止めるな、逃がせ」
「そう。逃げた力は消える」
途中、ぼろ布で頬を拭いた男が、私の手元を見て首を傾げた。
「お嬢ちゃん、前にもどっかで教わったのか」
「はい。“街のどこか”で」
「“どこか”が、広がるといいな」
「広がります」
午後。
城壁外の小径は、祝賀の人出で薄く削れていた。
表面をならし、石粉を薄く撒き、雨の溝を浅い角度で刻む。
“誰でもできる手順”にして、紙に残す。
“普通”は連鎖する。
特別は、留まる。
夕刻。
療院の搬送は、村までの長距離。
担架の布は二重にし、折り返し点をいつもより手前に置く。
見習いに任せる工程を増やし、私は合図だけに徹する。
「止まれ」「よし」「上げる」「下ろす」
四語が、夕陽の中で皆の足並みを揃える。
村に着いたとき、患者の頬に赤みが戻っていた。
「家だ」
誰かが言った。
家――それは建物ではなく、温度のことだと私は思う。
帰り道、丘の上で一度だけ振り返る。
王都の灯は、遠く微かに揺れている。
手紙の余白の白さが、目の裏で静かに広がる。
◆
夜。
“山猫亭”の一階は人で賑わい、二階は静かだった。
机の上に父からの文を広げ、私は二度目の返事を書く。
〈父上へ。
庭の桜の枝を落とすなら、枝の跡が少し涙型に残るように。
来年、そこに芽がつきやすい。
……私は今、街の手順を“普通”にしています。
誰でもできるやり方にして、ここに残す。
それが出来たら、枝の切り口を見に、必ず戻ります。〉
封を閉じ、蝋を温め、紋を押す。
紋の重さを、私はもう“家の鎖”としては感じない。
“家への道標”として感じている。
道標は、持っていていい。
窓辺に立つと、涼しい風が頬を撫でた。
アルバートの影はない。
彼は、必要でないときに人の部屋を訪れない。
その節度が、彼の“剣”の一部だ。
私は小さく声に出す。
「私は、冒険者です」
言葉は、耳だけでなく、骨で響く。
骨に言い聞かせる。
“戻る道は、最初の一歩から作る”。
明日も、半分作る。
家へも、街へも。
◆
翌日。
王都の広場で、簡素な凱旋の儀が催された。
大げさなパレードではない。
詰所の兵が整列し、ギルドの旗が数本立ち、近衛の青い外套が風に揺れる。
ブラムが前に出て、短い言葉で場を締める。
「死人ゼロ。以上」
それだけで、十分だ。
人々は拍手を惜しまない。
拍手は空気を軽くする。
軽くなった空気は、次の働く人の肺に優しい。
私の名が呼ばれることはない。
“名もなき誰か”のまま、私は最後尾で“合図”の袋を抱えていた。
ミーナが横に来て、小声で言う。
「噂は速い。噂は忘れる。手順は遅い。手順は残る」
「いいこと言う」
「でしょ」
広場の片隅、青い外套の裾が少しだけ揺れた。
アルバートは視線を置かず、剣の柄にも触れず、ただ“そこにいる”。
いるだけで、退路が一つ、増える人がいる。
そういう人が総指揮であることに、私は静かに安堵する。
儀が終わると、人々はいつもの“日常”に戻った。
祝祭の後片付けは、祭りよりも街を軽くする。
私は箒を借り、広場の砂埃を掃いた。
「お嬢ちゃん、公爵家の手、柔らかいかと思ってた」
掃除好きの老婆が言う。
「固いよ。握り続けてるから」
「何を」
「石筆と箒。今日は箒」
老婆は笑い、歯の少ない口で「そうこなくちゃ」と呟いた。
◆
夜、机に向かい、〈“普通の手順”集〉の表紙に日付を書き込む。
“喰境”の封印、搬送の折返、触合の印、氷幕の薄層――それらの技術を、誰でも真似できる言葉と図に落とし込む。
特別な名は、どこにも書かない。
書くのは“やり方”だけだ。
最後に、余白の片隅に一行、私的な言葉を足す。
《名声は派手さで稼げるが、信頼は地味さで積む。
家へ戻る道も、街へ戻る道も、地味に積む。》
灯を落とす前、私は再び父の文に触れた。
温度が残っていた。
紙は温度を持つ。
持たせるのは、人の手だ。
遠く、母の鼻歌が聞こえた気がした。
風のせいだろう。
でも、たとえ風のせいでも、温かいものは温かい。
「おやすみなさい」
部屋の空気に向かって言う。
誰にでも、誰にも、言っている。
言葉は、骨に届く。
明日も、歩く。
私は、冒険者だ。
◆
――そして、明け方。
王都の屋根に最初の光が落ちる少し前、“山猫亭”の前に一台の馬車が止まった。
公爵家の紋はない。
荷台は空に近い。
馭者が降り、扉を叩く。
「リス――いや、イリス嬢。
公爵邸の庭師から預かり物です」
包みは軽かった。
開けると、中には一本の枝。
桜の若枝。
切り口は涙型。
父の文に、返事が添えられている。
〈切り口は、こうか。
次の春、ここに芽がつく。
……街の手順、読んだ。
“普通”が、家を守る。
“普通”が、君を守る。
父より〉
私は枝を抱いて、ほんの少し泣いた。
泣くのは、手順ではない。
でも、呼吸のひとつだ。
泣き終えたら、また歩く。
歩きながら、半分ずつ、戻る道を作る。
窓の外、王都の屋根が薄く光る。
街が目を覚ます。
私も、目を覚ます。
今日も、無難を積む。
今日も、退路を作る。
そして、いつか――庭の枝の切り口を見に、家へ戻る。
そのときも、私は冒険者だ。
家にいても、街にいても。
どっちでも、私が私でいられるように。
私は枝の切り口を指でなぞり、静かにうなずいた。
次の春の芽の位置が、指先に小さく約束の形を作った。
その約束は、噂より遅い。
だが、噂より長い。
遅く、長く、残る。
“普通”と同じだ。
私は外套を手に取り、扉を開けた。
朝の街へ。
半分できている戻る道の、残りの半分を、今日の一歩で継ぎ足すために。