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第8話「巨大魔獣、国境線を喰う」

 ――山は、古いものほど眠りが浅い。

 そして、古いものほど、目覚め方を覚えている。


 ◆


 最初の報せは、商隊からの途切れが二つ続いたときだった。

 北の関所の帳場には、その日の朝だけで三つの印が赤く押されている。予定時刻、未着。予定路、未通過。予定品目、未受領。

 関所の書記は紙の端を指で撫でながら、紙の皺を増やさないようにため息を薄く吐く。

「道が消えるのは、大抵“人”のせいだが、たまに“地形”のせいで起きる」

 門番は槍の柄に額を当て、じわりと汗を滲ませた。

「今回は匂いが違う。風が重い」


 詰所のベンチで水を飲んでいた私は、耳だけでその会話を拾った。土の匂いは確かにいつもと違う。乾いた上に、奥の層が湿っている。春先の泥でも雨上がりでもない、古い湿りだ。

 古い湿りは、古いものが動いた跡にしか漂わない。


 昼前、ギルドに戻ると、広間の空気が半歩沈んでいた。

 掲示板の真ん中に、赤い札。

 〈緊急:国境線山脈・通称スパイン峰帯における“交易路消失”の可能性。原因調査→討伐準備〉

 その下に、ミーナの小さな印。

「来たわね」


「来た」


 私の声は自分でも驚くほど静かだった。

 ミーナは判を押す手を止めずに、囁くように続ける。

「“古いの”が起きた。近衛は北へ出立。ギルドは合同編成。後ろは“班”で動くわ。あなたに回ってきてる――後衛連絡班の隊長」


「……隊長」

 胸の奥で小さな音がした。緊張というより、役割の重さが骨に載った音。

「合図、搬送、導線、翻訳。全部の“間”を繋ぐ役」


「あなたが紙にして残してきた“無難”が、こういう日に使われるの。嫌い?」


「好きよ」


「いい返事」

 ミーナは赤札の脇に、薄い紙束を滑らせた。

 〈連絡班標準手順(暫定)/作成:リス〉

 自分の字が、今の自分へ手順を渡してくる。

 足裏の“触合”、光の“氷閃”、音の“鏑矢”。

 “迷いを潰す合図”と“迷いを預ける合図”。

 搬送の折り返し点の標準距離。

 詠唱隙の最短化のための前後連絡。

 すべてが、今日のためにある。


「総指揮は?」


「近衛騎士団長代理、アルバート。現地で編成を再調整するわ」


「了解」


「……それと、これ」


 ミーナが卓の下から黙って出したのは、青灰色の布。

 軽く、丈夫で、風をはらみすぎない織り方。

「連絡班の“旗”。あなたの班の色」


 私はそれを受け取り、胸元の結び方を確かめた。

 旗は道具だ。

 道具は、人を助ける。

 助けるためには、邪魔にならない結び方が必要だ。


 ◆


 集合地点は、レーヴから北東へ半日、山脈の前縁にある古い砦跡だった。

 かつて国境を押し合っていた時代の、石を積んだだけの“重さ”が残っている。

 砦の上に立つと、北へ連なる峰が背骨のように見えた。スパイン――“背”。

 風は冷たいのに、鼻の奥に生臭い匂いが少しだけ混ざる。

 瘴気の予感。

 古い魔獣は、匂いで己の場所を描く。


 広場では、すでに各班が自分の道具と人員の最終確認に入っていた。

 前線の槍盾。機動の軽歩兵。封印班の術者たち。搬送の担架。医療班。

 そして、そのすべての“間”を走る連絡班。

 班員は十名。うち五名は私がギルドで育ててきた“後ろを見れる目”を持つ若者たちだ。

 足が速い。

 目が広い。

 声が短い。

 それだけでいい。あとは“無難”が鍛える。


「隊長」


 最年少の少年――レーヴの丘で捻挫していた彼が、いつの間にか背が伸び、私の前で真っすぐ立った。

「指示を」


「“四つ”だけ覚えて」


 私が指を立てると、少年の顔が少しだけ緊張をほどいた。

「止まれ」「進め」「戻れ」「預けろ」

「“預けろ”?」


「迷いを預ける場所を決める。私が“預かる”。迷いを抱えたまま走ると、合図が歪む」


 少年は強く頷いた。

 “預ける”は、弱さの告白ではない。

 仕事の分担だ。


 砦跡の中央で、青い外套が一枚、風を味方にするように立った。

 アルバートだ。

 彼の声は、空気に必要なだけ線を引く。

「作戦は単純。主力が正面。機動は側面から攪乱。封印班が止めを刺す。――ただし、相手は“古い”。知恵を持つ。馬を狂わせ、瘴気で魔法陣を乱す。合図は声で届かないと心得よ。旗、矢、氷、土。使えるものを使え」


 視線が一度だけこちらに“置かれた”。

「後衛連絡班、隊長はリス。現場の“言葉”を繋げ。詠唱の頭と尻を最短で縫え。退路を切らすな」


「はい」


 声は短く返す。

 “はい”は、責任の合図だ。


 ◆


 スパイン峰帯は、まさに背骨のように稜線が連なり、その間の谷は深く、狭く、風は巻いて“意思”を持っているように吹いた。

 古い魔獣は、谷の底の“古河ふるかわ”の流れに沿って現れたと斥候が告げる。

 古河は百年に一度しか表に出ない地下水脈で、出るときは“土地の記憶”を連れてくる。

 土地の記憶は、古いものの嗅覚を呼び覚ます。


 最初の咆哮は、斥候が戻る少し前に谷を満たした。

 耳に直接響くのではない。胸の内側の空洞を叩く音。

 馬の目が白くなり、鼻から白い泡。歯が音を立てて噛み合わされ、前脚が折れそうなほど震える。

 私は馬の首を両手で挟み、耳の後ろを軽く叩き、足元に薄い氷膜の“触合”を貼った。

 足が喋る。

 “ここは踏める”。

 馬は、その言葉だけは理解する。


「連絡、始め!」


 私の合図旗が、青灰色の布を短く打つ。

 各班の旗手がそれに呼応し、鏑矢の音が風に混ざった。

 氷の閃光が薄く、一定間隔で谷に点在する。

 “ここ”“ここ”“ここ”。

 退路は最初に、半分作っておく。


 前衛が谷底へ降りる。槍の穂先が、湿った光を反射する。

 機動の軽歩兵が斜面を滑るように走る。

 封印班の術者は息を整えながら、詠唱の“頭”を舌の裏で転がすように準備する。

 私はその間に、搬送の折り返し点を二箇所に設定し、障害になる倒木に薄い氷を噛ませ、担架の“曲がり角”を滑らせる準備をした。


 谷の奥――黒い影が、地形そのものから剥がれるように姿を現した。

 牛のような胴体、獅子のような肩、甲羅を思わせる背。

 目は、穴だ。光を吸う。

 口は、裂け目だ。谷の音を飲む。

 古い魔獣――文書にある名では“喰境じきょう”。

 “境を喰うもの”。

 土地の線を踏み越えるのではない。線そのものを食べて、土地の意味を曖昧にする。


「押すぞ!」


 前衛の隊長が叫ぶ。

 盾と槍が波に対する消波ブロックのように機能し、列が崩れない。

 機動の小隊が側面から岩を落とし、喰境の注意を横へ引く。

 封印班が陣を組み、詠唱の初動が始まる――その瞬間、喰境が口を開いた。


 谷に響く咆哮は、音であり、風であり、“記憶”だった。

 土地の記憶が、ここを“道ではない場所”に塗り替えていく。

 馬の前脚がすくみ、術者の舌がもつれ、魔法陣の線がわずかに歪む。

 瘴気が黒い霧のように地表を這う。

 “合図が届かない”。


「旗、二――! 鏑、三――!」


 私の喉が勝手に動いた。

 旗が翻り、鏑矢が短い間隔で二度、三度、風を裂く。

 氷閃が印を打つ。“ここ”“ここ”“ここ”。

 詠唱者の前に薄い氷幕を張り、瘴気の層の厚みを“薄く”変える。

 瘴気は湿りを奪う。

 ならば、湿りを先に薄く配る。

 空気の層を重ねるように、氷膜を重ねる。

 厚く一枚より、薄く三枚。

 音は届かなくても、“触れ”は届く。

 足の裏に、手のひらに、頬の皮膚に、冷たさが意味を伝える。


「搬送、折り返し“一”に変更! 医療、位置“二”! 機動、側面“左”から“右”へ!」


 連絡班の若者たちが、合図旗と鏑矢と氷閃をもって谷の両側へ走る。

 私は“迷いを預ける場所”を自分の胸に一度引き取り、一斉に返す。

 返す先は、各班の“理解の速い者”へ。

 理解の速い者は、迷いを感情で処理しない。手順で受け取る。


 前線は押し引きを繰り返し、喰境の前脚が泥を掬って投げるように動く。

 甲羅の縁は堅く、刃は弾かれる。

 槍は肉に入っても、裂け目の向き一つで意味を失う。

 “知恵”とは、攻撃の意味をずらす力だ。


 その時、封印班の陣の一角が、ふっと色を失った。

 瘴気の一塊が、術者の足元で渦を作る。

 術者の唇が一音、遅れた。

 遅れは“間”だ。

 間は割り込まれる。


「預けろ――!」


 私の旗が高く上がり、氷閃が連続する。

 合図は“決める”だけではない。

 “決めない”ための合図が、陣を救う。

 詠唱を一拍“預け”、呼吸を整え、次の“頭”へ。

 その一拍の遅れが、“間に合う側”に寄る差になる。


 喰境がわずかに向きを変えた。

 側面“右”が甘い。

 機動が滑る。

 その瞬間、背後の岩陰から青い外套が一つ、風よりも薄く抜けた。

 アルバートだ。

 剣は抜かれているのに、抜かれていないみたいに静かだ。

 彼は“喰境を斬る”のではない。

 喰境の“選択を斬る”。


 喰境の前脚が踏み出す“候補”のうち、一番危険な角度だけを剣の背で“叩く”。

 力は殺さない。

 選択を殺す。

 剣が戻ると、喰境の体の重心が半歩ズレる。

 ズレたところに、前衛の槍の列が“意味を持って”入る。

 槍は、ただ刺さるのではない。“逃げ道の方向”を指して刺さる。

 逃げ道を喰わせるのだ。

 喰境は“境を喰う”。

 ならば、“あえて喰わせる”境界を、こちらが用意する。


 封印班の詠唱が一段階、深い音を持つ。

 谷の風が、その音につられて“音階”を持ち始めたように聞こえる。

 瘴気が薄いところで裂け、濃いところで膨らみ、動きは複雑だが、規則の種を含んでいる。

 私はその規則の芽に氷膜の紐をかけ、引っ張る。

「今!」


 合図旗が打ち、鏑矢が鳴り、氷閃が点滅する。

 連絡班は、詠唱の“頭”と“尻”を最短で縫う糸。

 詠唱の“頭”が遅れないように、前にいる者の呼吸を合わせる。

 “尻”がほどけないように、後ろの者の手を添える。

 “退路”は、前進の裏側だ。

 前進が成り立つのは、退路が開いているときだけ。


 喰境の尾が鞭のように回り、崖の一角が崩れた。

 機動の一人が足を取られ、大きくバランスを崩す。

 私は“触合・止まれ”を斜面に仕込み、彼の足の裏へ“見えない言葉”を置く。

 彼は滑りかけた足を微修正し、膝をつき、呼吸を吐く。

 救助の縄がすぐに降り、搬送の折り返し“一”へ引く。


 前線の一角で、刃が鈍った。

 青い外套が“戻る間”を作ろうとしたその瞬間、彼の脚に瘴気が一筋、噛みついた。

 薄いが鋭い傷。

 血ではなく、力が漏れる。

 彼は半歩、引いた。

 “間”が、空いた。


 私はためらわなかった。

 旗を背に差し込み、前へ出る。

 視界に喰境の肩が広がる。

 瘴気の層の厚み、流れ、匂い、温度――すべてが“触れる距離”で立ち上がる。

 私は氷膜を幾重にも重ね、瘴気の“通り道”だけを薄くする。

 瘴気は“湿りの差”へ流れる。

 差を、こちらで作る。

 “氷の幕で矢を滑らせる”のと同じ理屈だ。

 瘴気の“厚い川”を“薄い溝”に変える。

 その溝の上を、封印班の詠唱が渡る道にする。


「頭、今――!」


 詠唱が乗る。

 重い言葉が、薄い溝に“重さの橋”を渡すように通る。

 私は呼吸を四つ吸って、四つ止めて、四つ吐いた。

 重さが両肩に来る。

 受ける。

 持つ。

 持っている間だけ、世界が静かになる。

 静まった間に、封印班の“最後の言葉”が谷に落ちた。


 大地が震えた。

 喰境の体が大きく波打ち、背の甲羅に細かな亀裂が走る。

 目の穴が一瞬、光を反射する“目”に戻り、また穴になる。

 咆哮は音から風に変わり、風から“ただの空気”に変わった。

 瘴気の匂いが薄れ、谷の石の匂いが戻る。


「止めろ!」


 前衛の隊長の声が、高く、短く、正確に落ちる。

 槍が合奏のように一斉に音を持ち、喰境の“逃げ”を“逃がす方向”へ押しやる。

 逃がす先は、封印陣の中心。

 逃げようとする行為そのものを封じに行く。

 喰境の体が、詠唱の“言葉”に絡め取られ、重力の向きが変わったみたいに沈んだ。


 沈黙。


 谷の風が、ただの風になった。

 足元の泥が、ただの泥になった。

 兵の肩が一斉に下がり、担架が音を立てずに置かれ、術者が座り込んで空を仰ぐ。

 誰も、声を上げない。

 最初の勝利はいつだって、歓喜より先に“安堵”として訪れる。

 生きた。

 それだけを、身体の中で囁く。


 私は膝に両手を置き、肩の奥の細い筋の震えを待った。

 震えは、すぐに止まる。

 アルバートは瘴気の傷に布を巻き、立っていた。

 剣はまだ、抜かれていないみたいに静かだ。


「助かった」


 彼は短く言った。

「君が“間”を繋いだ。――封印は、通った」


「合図は、届いた」


「届かせた、が正しい」

 彼はわずかに口角を上げた。

「退路、切らさなかった」


「あなたが“選択”を切った」


 彼はそれ以上は言わない。

 余計な感傷は、現場の空気を重くする。

 私たちは重さを持っている。

 だから、足は軽くなければならない。


 ◆


 日が山の端から顔を出すと、谷の底に薄い金が差し込んだ。

 封印陣の中心で、喰境は石に似た重さを持ち、苔がすぐに張り付きそうな静けさをまとっている。

 封印班がそれぞれの符を回収し、術者の一人が地に手を当て、土の温度を確認する。

「熱は引いた。地は“地”に戻った」


 搬送班は負傷者を順に運び出し、医療班が瘴気の残滓の処置を黙々と進める。

 連絡班は“終わりの合図”を谷の各所に打ち、折り返し点の印を消し、氷膜の薄い層を割って土へ戻す。

 “戻る道”を、片付ける。


 砦跡に戻ると、既に湯が沸いていた。

 大鍋の中で、塩と乾燥肉と根菜が一緒に柔らかくなる匂い。

 レオンじいの乾燥スープの言葉が、湯気の向こうで笑う。

「温かいものが、心の鎧になる」


 私の班の若者たちは、カップを両手で抱えて、指先の震えが消えるのを嬉しそうに見せ合っている。

 生きて戻ったことは、経験の最大の教師だ。

 死者がいないことは、奇跡ではない。

 “無難”の積み上げの結果だ。

 だが、その“無難”を今日この場で重ねるために、昨日までの誰かの“無難”が必要だった。

 連なっている。

 誰の名も、いらない。


「隊長」


 最年少の少年が、カップを握りしめたまま近づいた。

「“預ける”って、効くんですね。途中、足が震えたけど、預けたら走れた」


「“預ける”は弱さの言葉じゃない。手順の言葉」


「はい!」


 彼は背筋を伸ばし、走って仲間のところへ戻る。

 背中が、昨日より広い。

 広い背中は、街を軽くする。


 アルバートが鍋の前を通り、隊長たちに短く言葉を落としていく。

 彼の脚に巻かれた布は新しい。瘴気の残滓は、彼の血に長居しない。

 彼は私の前で立ち止まり、視線を“置いた”。

 必要な時間だけ。


「君の班は効いた。――“触合”は足で届く。よくやった」


「紙に残します。『封印時の瘴気薄層化と“触合”の併用について』」


「残せ。次の者が、無駄に死なないために」


 彼はそれだけを言い、去ろうとして、半歩だけ止まった。

「王都は噂が速い。今日のことは、いくつもの形になって回る。――気を付けて」


「気を付けます」


 同じ言葉を、何度も言う。

 そのたびに、骨の中に刻まれる。

 “気を付ける”は、具体の手順だ。

 筆跡、立ち方、言葉、匂い、色。

 迷いを預ける場所。

 合図を増やす余地。

 退路の半分。


 ◆


 砦の外れで、私は石に腰を下ろし、帳面を膝に乗せた。

 石筆は戦場の後でも、滑らかに走る。

 “熱いうちに”が、現場の鉄則だ。


 ・対象:古き魔獣“喰境”。境界を喰い、土地の意味を曖昧化。

 ・敵性能力:咆哮=“記憶”を動員→馬狂乱/術者舌もつれ。瘴気=湿りの差へ流入→陣乱れ。

 ・味方配置:主力正面/機動側面/封印班中央背後。

 ・連絡:旗・鏑・氷閃・触合の併用。音届かず→“触れ”で補完。

 ・搬送:折返(一)(二)設定→渋滞なし。担架曲がり角=氷膜薄層で滑走。

 ・封印支援:瘴気薄層化(薄×複層)→詠唱“頭”“尻”の縫合短縮。

 ・介入:アルバート=“選択を斬る”。敵の最危角のみ殺し→隊の“意味”を通す。

 ・事故:機動一滑落寸前→触合“止”で回避。

 ・負傷:軽中多数。致命なし。瘴気傷=局所処置。

 ・教訓:合図は“決める”だけでなく“預ける”が必要。退路は前進の裏側。

 ・言葉:勝利は歓喜より先に安堵。安堵は“次の手順を紙に落とす時間”。


 書き終えた頃、山の向こうに朝日が顔を上げきった。

 光は斜面を少しずつ撫で、谷の陰に残った薄い冷たさを退かせる。

 空は高く、鳥の影は強すぎない。

 今日の街は、少しだけ軽い。

 それでいい。

 それがいい。


 私は帳面を閉じ、青灰色の旗を畳んだ。

 布は軽い。

 軽い布で、重いものを繋いだ。

 繋いだものは、いつか他の誰かがまた繋ぐだろう。


 “山猫亭”の湯気と、ミーナの判の音と、レオンじいの言葉と、王都の灯――それらは今日ここにはない。

 けれど、ここにある“安堵”の温度は、それらと同じ系統だ。

 人の手の温度。

 温かいものが、心の鎧になる。


 私は立ち上がり、足袋の底で土の硬さを確かめてから、砦の坂を下り始めた。

 合図旗は胸に。

 鏑矢は腰に。

 石筆は指に。

 “戻る道”は、いつでも半分できている。

 残りの半分は、歩きながら作ればいい。


 風が背中を押した。

 怒りではなく、次の一歩への希いで。

 名ではなく、手順で。

 剣ではなく、合図で。


 ――古い魔獣は沈み、朝日が山を越えた。

 街はいつもの音に戻っていく。

 その音を“無難”で支える者たちの、名もなき働きが、今日もまた、誰かの息を深くする。


 そして、その深い息のひとつが、遠く王都の灯の下で、誰かの決断を静かに軽くする。

 それはきっと、いつか私にも戻ってくる。

 戻ってくる円環の中で、人は生きる。

 円環は、退路と同じ形をしている。

 最初の一歩で半分作り、最後の一歩で完成する。


 私はその輪の中に、今日も小さな印を打つ。

 “ここ”。

 “ここ”。

 “ここ”。


 ――間に合う側へ。

 すべてを、少しずつ、寄せていくために。

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