表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

第6話「王都に走る名もなき英雄譚」

 ――噂には脚がある。

 しかも、王都へ向かう脚は、田舎道を走る荷車よりも、衛兵の馬よりも、ずっと軽くて速い。


 ◆


 渓谷での討伐から三日。

 レーヴを発って南へ向かう商人の馬車の幌の下で、革袋の酒が一度まわるたび、話は同じところへ戻ってきた。


「聞いたか、渓谷の件。死人ゼロだとよ」

「それがすげえのはわかるが、誰の手柄だ?」

「“名もない女冒険者”が支点になったってさ。後ろを仕切ったんだと」


「名もない、ねえ」

 馭者の老人が鼻を鳴らす。

「名がなくちゃ、足ぁ止めらんねえ。だが、戻る道ってやつは名がなくても作れる。昔、隊を率いてた頃にな、後ろの“無名の一人”に何度も助けられた。名前は覚えちゃいねえが、足は覚えてる」


 幌の外、道の両脇に麦の青さが揺れる。

 商人はそれぞれの町でそれぞれの版を聞き、王都へ向けて噂の綴じ目を固くした。

 こうして「名もなき英雄譚」は、車輪の刻む溝に沿って王都へ運ばれていった。


 ◆


 王都北門の詰所。

 昼交代の鐘が一度鳴り、槍の穂先に油が差される。門番の若い兵が、頬杖をついている相方へ囁く。


「渓谷の話、聞いた?」

「どれの?」

「“女の冒険者”が合図で隊をまとめたってやつ」

「また合図か。合図はよ、偉そうに言うほど簡単じゃねえ。伝わらない合図ほど役に立たねえもんはない」


 詰所の隅、賄いの鍋をかき混ぜる老兵が笑う。

「伝わらねえ合図は“合図ですらない”。――だが、伝わったら、“声より遠くまで行く”。わしの若い頃にもな、ひとり、奇妙な奴がいた。喋りは少ねえのに、動きで全部わからせる。あいつの“無言”は、誰よりもよく聞こえた」


 若い兵は、門の外を眺めた。

 遠くに小さく見えるレーヴの屋根の連なりの上を、ひとつ風が渡っていく。

 噂は、風の形をしている。


 ◆


 王宮の一角――厚い絨毯の上で、靴音は音にならない。

 昼下がりの陽が窓の格子を横に割り、壁に金の縞を作っている。

 王太子アルノルトは書類の束に目を走らせ、途中で手を止めた。無意識に、指先で机の縁を二度叩く癖が出る。


「殿下、渓谷討伐の報告書の写しです」


 侍従の青年が恭しく差し出す。

 上に乗っているのはギルドの標準様式、下には近衛の補足。

 アルノルトは最初の行を読む前に、目だけで下の補足に落とした。

 “死人ゼロ”。

 “後方支点”。

 “合図の翻訳”。


 ふ、と鼻で笑う。

「合図の翻訳? 詩人の言葉か」


 青年は目を伏せたまま、声を整える。

「現場の用語です。『前線の“動き”を後方の“言葉”に翻訳し、後方の“言葉”を前線の“動き”に戻す』――そういう意味で」


 アルノルトは指先で紙の角を少しだけ曲げ、戻した。

「誰がやった?」


「名もない女性の冒険者、と」


 そこで、アルノルトの指が止まった。

 否定の笑みが、口の端でひきつる。

「まさか、な」


 彼は乾いた笑い声を出すような表情を作りながら、声は出さなかった。

 騎士団長代理アルバートの名も補足にある。

 “王都の騎士は剣だけではない”――そういう書き方が、丁寧に、しかし情のない筆致で添えられている。アルノルトは紙を置いた。


「殿下?」


 侍従が伺う。

「続けろ。――それと、詰所の噂は拾っておけ。拾わなくてよい噂も、拾っておくことがある」


「は」


 侍従が下がると、幕の向こうから柔らかな香料の匂いが近づいた。

 妹リーナが、やや速い足取りで現れる。

 薄い桃色のドレス。唇は同じ色で、目元の化粧は“弱さ”を丁寧に演出している。


「お兄様、渓谷の件って、そんなに大ごとなの? ただのゴブリン退治でしょう? 簡単な冒険を大げさに言って、英雄ごっこね」


「簡単なら、死人は出ないはずだが」


 アルノルトが細い笑みを作ると、リーナは拗ねたように頬をふくらませた。

「だって……ああいう“現場”の話って、すぐ誇張されるじゃない。名もない女が隊を救った? どこにでもいるじゃない、そういうお話」


「どこにでもいる“そういうお話”に、どこにでもいない“そういう人間”が混ざることがある」


 姉――イリス――の横顔が一瞬、脳裏に浮かんだ。

 窓辺で読み物をしているときの、眉間の皺の寄せ方。

 舞踏会で笑うときの、角度の低い笑い。

 怒鳴らずに、人を止める術を知っていた人。


 リーナは兄の表情の一瞬の翳りを見逃さない。

 軽い笑いを、薄い刃に変えるのは得意だ。

「まさか、イリス姉様が――」


「口を慎め」


 アルノルトの声は静かだったが、廊下にまで届く硬さがあった。

 リーナは肩をすくめ、目を伏せる。

「ごめんなさい。……お兄様は、まだ“気にしている”のね」


「気にする、などという言葉は宮廷にはない」

 アルノルトは書類を取り、その一番上を別の束に移した。

「あるのは“影響”だ。――影響は、早いうちに見ておくに越したことはない」


 扉の陰に立っていた老侍従長は、顔を動かさなかった。

 王子の声にも、妹の棘にも、何も反応しない。

 ただ、静かに呼吸し、静かに覚える。

 “名もなき英雄譚”は、王宮の壁にも届いた。

 さて、壁はどちらへ傾くか。


 ◆


 レーヴでは、同じ日の朝、ギルドの掲示板の前に人の輪ができていた。

 〈護衛:療院→北門〉

 〈修繕:北の橋桁/水嵩注意〉

 〈採取:湿地苔/転倒多発〉

 〈伴走:負傷者搬送/長距離〉

 〈討伐:峡谷外縁の狼〉


 紙の端に、ミーナの小さな印が押されている。

 私は一枚ずつ目を通し、二歩引いて全体の“匂い”を嗅ぐ。

 “派手”は狼と峡谷だ。

 “重要”は橋と療院。

 “人手が足りない”のは伴走と湿地苔。

 ――私が行くべきは、こっち。


「選んだ?」


 ミーナが、いつもの事務の速度で質問を置く。

 私は三枚の紙を掲げる。

「修繕、伴走、湿地苔」


「了解。……ほら、噂の余波」


 カウンターの端で、小金持ち風の商人が“討伐”の紙を突きながらこちらを見ている。

「あんたが渓谷で“支点”になったって娘か。名は?」


「リス」


「ふうん。じゃあこっち――狼もやってくれよ。報酬、弾む」


 ミーナが視線だけで“やめておきなさい”と告げているのがわかる。

 私は短く礼をして、紙を戻す。


「今回は、別の仕事を選びます」


「名が売れるぞ?」


「名で橋は立たないので」


 商人は肩をすくめ、鼻で笑い、去っていった。

 ミーナはこっそり親指を上げ、すぐに事務顔に戻る。


「伴走の相手は療院の長。負傷者十。距離二里。途中に段差あり。滑落の危険は小。転倒の危険は大。修繕は北の橋桁。昨夜の雨で浮いている。湿地苔は……濡れる。すごく」


「濡れるのは、乾けばいい」


「そう! そういう心だ!」


 ミーナは元気よく判を押し、道具袋の補充票を滑らせた。

 私は圧縮包帯と滑り止め、携帯担架の布、補強縄、木釘を受け取る。

 鏑矢は今日は要らない。

 石筆は二本。

 羽根ペンは――しまっておく。


 ◆


 療院の裏庭は、朝の陽がまだ優しかった。

 木陰に並べられた担架、片端に座る老人、片脚を失った男、腕を吊った女、顔色の悪い少年。

 療院長のグレンが短く説明する。

「冬の名残で体力が落ちてる。だが、家に帰れば回復が早い。街道の段差で転ぶな。転んでも、無理に起こすな。呼吸を整えるまで待て」


「合図は?」


「声を短く。『止まれ』『よし』『上げる』『下ろす』だけでいい」


 私は頷き、担架を担ぐ若い見習い二人の肩に手を置き、足裏の感覚を確かめる“触合”の小さな印を仕込む。

 足で伝わる“止まれ”と“踏め”。

 視線が合い、見習いが不思議そうに笑った。

「足が喋るみたいだ」


「足はいつも喋ってる。ただ、聞く耳がないだけ」


 二里の道は、平坦に見えて平坦ではない。

 石畳は町を離れるとすぐ土に変わり、土は雨上がりの湿りを抱いている。

 段差のたびに「止まれ」。

 呼吸の乱れを見て「下ろす」。

 肩に乗った重みは、人の重みだ。

 重みは、言葉を軽くする。


 途中、少年が涙を溢し、顔を背けた。

「置いていってくれ」

 私は頭を横に振る。

「置いていくのは、道だ」

「道?」

「道は、置いていくほど“戻れる”。今、置いている。君が歩けるようになったら、今日置いた道を、自分の足で戻ればいい」


 少年は涙の途中で笑い、肩の力を抜いた。

 見習いの足が、触合“止まれ”を踏み、揺れが伝わる。

 “足で喋る”言葉は、誰にでも届く。


 北門の手前で詰所の兵が道を空け、担架がひとつずつ中へ吸い込まれていく。

 息が揃っていた。

 揃いは、美しい。

 美しい揃いは、人を生かす。


 帰り道、療院長が言った。

「名は要らない仕事だ」

「ええ」

「だが、名のない仕事ほど、人はよく見ている。――ありがとう」


 私は礼を言い、療院を後にした。

 空は少し高く、洗濯物の白がまぶしい。


 ◆


 午後は北の橋桁。

 昨夜の雨で一部が浮き、馬車の轍が斜めに刻まれている。

 橋の下を流れる浅い川は、昼を飲んでいる音がする。

 私は職人たちと一緒に木釘を打ち、桁を噛み合わせ、縄で補強した。

「斜めの力は斜めで受ける」

 若い職人が首を傾げる。

「斜めで受けると、流れる?」

「流していい。受け止めると折れる。流すと、逃げる。逃げる力は“消える”」


 彼は試して、目で理解し、手で覚えた。

 覚えた手は強い。

 強い手が増えると、橋は長持ちする。


 夕方、私は湿地へ向かった。

 苔は滑る。

 靴は沈む。

 腰袋は重くなる。

 でも、やる。

 “地味”は、街の背骨だ。

 背骨が折れた街は、どんな名声でも立て直せない。


 苔を袋に詰め、腰を伸ばす。

 遠く――王都の方向へ目をやる。

 夕陽の向こうに、まだ小さく、しかし確かに、灯の群れが揺れているように見えた。

 空気が澄んだ日だけに見える“遠い灯”。

 過去の声は、その灯の方角から聞こえる。

 “戻ってきてくれるなら、すべてを水に流そう”

 “あなたの年月を?”

 ――振り返るな。

 そう言い聞かせるのでもない。

 “今は、こっちを向く”――それだけだ。


 ◆


 夜。

 “山猫亭”の窓辺に椅子を引き寄せ、私は湯気の立つカップを両手で包んだ。

 湯気は誰にでも平等だが、受け取る手の温度は人それぞれだ。

 今日の湯気は、橋桁の木の匂いを連れてくる。

 湿地の土の匂いも混ざっている。

 療院の薬草の粉の匂いも、少し。


 帳面を開く。


 ・伴走:二里。停止→担架下ろし→呼吸整え→上げる。足裏合図=有効。

 ・橋桁:斜め受け→流し→応力分散。若手の吸収早。

 ・湿地:滑り多。苔採取→乾燥保管。

 ・学び:“人手が足りない”の裏には、“人の気力が足りない”が潜む。足りないのは腕だけではない。

 ・噂:商人/詰所/王都方面へ。

 ・心構え:名声は派手さで稼げるが、信頼は地味さで積む。

 ・合図:触合=現場に浸透の余地。

 ・注意:王都の灯=過去の呼び声。今は振り返らない。


 書き終えると、窓の外に目をやった。

 王都の灯は、遠く微かに揺れている。

 あの灯の下で、王子がどんな顔をしているか――想像はできる。

 けれど、それは想像のままでいい。

 今、ここで私が触れているのは、“今日の街”。

 名のない手。

 名のない足。

 名のない汗。

 それらに名前をつけるのは、いつも“遅れて”やって来る。


 ◆


 王宮の夜。

 アルノルトは執務室の窓を少しだけ開け、外の空気を吸った。

 王都は静かではない。

 騒音のひとつひとつに階級があり、匂いがあり、意地があり、縁がある。

 彼は机に置いた紙の端を指で抑え、目だけを滑らせる。


「殿下」


 老侍従長が一歩、進み出た。

「噂、拾ってまいりました。『女の冒険者』『後ろを仕切った』『死人ゼロ』『近衛の代理が剣で“間”を作った』――以上が主要です。名は出ておりません」


「出ていないほうが、動く」

 アルノルトは独り言に近い声で言った。

「名が出ると、狙われる。名が出ないうちは、噂が“街の栄養”になる」


 侍従長は、表情を動かさない。

「殿下は、噂を好まれませんでしたな」


「憎むほど嫌ってはいない。だが、信用はしない」

 アルノルトはペンを指の間で回し、止めた。

「信用するのは、現場だ。――近衛の代理は?」


「渓谷の翌日、レーヴのギルドにて報告。後方の『支点』を評価。名は明かさせず、助言のみ」


「“余計な感傷はない”」

 アルノルトは笑った。

「やりそうだ」


 侍従長が、わずかに沈黙してから続ける。

「殿下。申し上げづらいことですが――“イリス様では”との憶測が、市井のごく一部で出ております」


 紙の音が、小さく部屋に落ちた。

 アルノルトは目を閉じ、一度だけ浅く息を吐いた。

「まさか、と言いたいところだが」

 彼は目を開く。

「『まさか』は王宮でいちばん信用ならない言葉だ。――いい。噂は噂のままにしておけ。こちらから追えば、噂は“主語”を得る。主語を与えるのは、政治の言葉だ」


「は」


 侍従長は下がった。

 アルノルトは窓の外の灯を見た。

 灯は、遠く微かに揺れている。

 その微かな揺れのひとつが、誰かの“戻る道”であるかもしれないことを、彼は知っている。


 ◆


 翌日。

 ギルドの扉を押すと、ミーナが指で“こっち”と小さく合図した。

「依頼、増えた。……『名もなき英雄譚』の尾ひれつきで」


 カウンターの前に、三人の代表者が並んでいた。

 水路組合の親方、孤児院の主任、旅籠の主。

 “派手さ”はないが、それぞれ“崩れると街が崩れる”場所だ。


 親方が帽子を胸に押し当てる。

「北の水路、詰まりがちでよ。人手はいるが、道具もいる。人の段取りを組める奴が一人要る」

 孤児院の主任が続ける。

「子らの医療の伴走。薬はあるけど、人手がない」

 旅籠の主が頭を掻く。

「荷車の出入りの路地が悪くてな。石を入れて平らにしたいが、道順の管理が……」


 私の答えは、決まっていた。

「やります。――三つとも」


「三つ!」

 旅籠の主が目を剥く。

 ミーナは肩をすくめる。

「彼女は“時間の配分”がうまい。無理はしない。場所を重ねる」


 私は三つの地図を受け取り、順路の矢印を自分で引いた。

 水路→孤児院→旅籠→ギルド仮置き所。

 時間は午前の長い影と午後の短い影で切る。

 “戻る道”を最初に半分作る。


 水路は、泥の匂いと藻の匂いで鼻が慣れる前に作業が始まった。

 詰まりを取る。

 杭を打つ。

 人を配置する。

「斜めの力は斜めで受ける」

「受けてから逃がす、だろ」

「そう」

 親方はうなる。

「それ、前の工事の時に誰かが言ってたな」

「街は、言葉でも支えられている」


 孤児院では、子らの手を握る。

 手は、小さい。

 小さい手は、汗がすぐに冷える。

 温める。

 待つ。

 歩く。

 歌を一つ、短く。

 “止まれ・よし・上げる・下ろす”――子どもでも覚えられる四語で。


 旅籠では、荷車の順番を“足で”管理した。

 触合“止まれ”の簡易版を石畳に薄く仕込み、交差点の“迷い”を減らす。

「足が喋る!」

 女将が笑い、荷車の馭者が目を丸くした。

 “足で喋る”町――悪くない。


 夕方、ギルドに戻ると、また噂の波が来ていた。

「王都の門で話題だってさ」「名もない女が町を軽くしている」「近衛も一目置いてるらしい」


 ミーナが袋を滑らせる。

「はい、報酬。少なめ。でも、重め」

「重め?」

「街に効く。――それと、手紙」


 差し出された封は、公爵家の紋。

 胸の奥に、冷たい指が一本、すっと置かれた気がした。

 封は開けない。

 今は、開けない。

 私は封を丁寧に畳み、腰袋の奥に入れた。


「開けないの?」


「今は、こっちを向く」


 ミーナはそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、カウンターの端に“温かいミルク”を置いた。

 湯気は、誰にでも平等だ。


 ◆


 王都の酒場。

「名もなき英雄譚」は今夜も新しい脚を得た。

 語り部の若者が、リュートを爪弾きながら、声を低く上げる。


「渓谷に吹いた風は、剣の色。

 風の合図に、人は動く。

 後ろに一人、名もなき者。

 前に一人、剣の者。

 間にあるのは――“戻る道”。」


 客の一人が鼻で笑い、別の一人が杯を掲げる。

「名もないのがいいじゃないか。名がついた途端に、誰かが踏みにじる」


 王都は複雑で、まっすぐではない。

 噂は、誰かを救い、誰かを傷つけ、誰かの“明日”を少しだけ軽くする。

 それでも、街は回る。

 誰かが“無難”を積み上げる限り。


 ◆


 夜更け。

 “山猫亭”の窓辺の灯が小さくなる。

 私は封を取り出し、表だけを撫で、また戻した。

 窓の外、遠くの王都の灯が、やはり微かに揺れている。

 過去は呼ぶ。

 でも、今は振り返らない。


 帳面の最後の行に、短い文を足す。


 《名声は飾り。信頼は筋肉。

 筋肉は、毎日、地味に鍛える。》


 カップの底に残った温かさを掌に移し、私は灯を落とした。

 明日も、地味に鍛える。

 戻る道を、最初の一歩から。

 “名もなき英雄譚”は、私のものでなくていい。

 ただ、街が少しでも軽くなるなら――それでいい。


 ◆


 王宮の夜も、同じように更けていく。

 アルノルトは窓を閉め、灯を一つ消した。

 遠くで、犬が二度吠えた。

 彼は耳を澄まし、静かに言った。


「戻る道は、誰のためでも、街のためだ」


 侍従長はやはり表情を動かさず、静かに頷いた。

 噂の脚は、今日も王都を走る。

 その脚の先に、名もない背中がひとつ、またひとつ増える。

 ――それが、王都を軽くしている。

 それを、知っている者は知っている。

 知らない者は、知らないまま生きていく。


 どちらであっても、街は回る。

 誰かが“無難”を積み上げるかぎり。


 そして、その“無難”に、ほんの少しだけ、風の色が混じった。

 渓谷で見た、剣の色に似た風――合図の届く、戻る道の風。


 夜は静かに、次の朝のための余白を増やしていく。

 余白は、恐れではない。

 書ける場所だ。

 明日、また書くための。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ