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第5話「騎士団長という人」

 ――翌日の朝は、空気がやけに澄んでいた。

 雨でも風でもなく、街そのものが一つ大きく息を吐いて、肺の隅々まで新しい空気を入れ替えたような清潔さ。レーヴの鐘が最初の音を落とすと、店の扉が連鎖的に開き、パンの湯気と鍛冶の煤と人の声が、広場の石畳に薄い膜を作った。


 私は“山猫亭”の卓で、手の甲に残っていた擦り傷に薄く油を擦り込み、肩の可動域を確かめた。痛みは線として残り、動かすごとに位置を教えてくれる。意味のある痛みだ。意味を知った痛みは、作業の邪魔にならない。


 石筆と帳面を腰袋にしまい、外套の襟を整えて外へ出る。

 冒険者ギルドの二重扉の手前から、いつもと少し違う気配が漂っていた。音の密度が高い。ひそひそ声が同じ方向へ吸い寄せられていく。


「近衛が来るらしい」「昨日の渓谷の件だ」「死人ゼロだってよ」


 扉を押すと、ざわめきは一瞬吸い込まれ、すぐに戻ってきた。カウンターの奥では、ミーナがいつもの速度で判を押し、袋を滑らせ、叱るべきを叱り、笑うべきを笑っている。背後の会議室の扉は開かれており、長机の左右に席が作られ、ギルド持ちの書記官がインク壺と紙を並べていた。


「リス」


 ミーナと目が合う。彼女は顎だけで会議室の方を示し、こちらへ書類を一枚滑らせた。

 〈渓谷討伐 報告確認会〉――参加者の欄に、私の名が小さく追記されている。


「後方支点の当人は席に」とミーナ。

「了解」と私。


 会議室へ入ると、湿度が一段低かった。暖炉は消され、窓が半分開け放たれ、薄い朝風が紙の角を揺らす。長机の片側にはギルド側の担当者と隊長、もう片側には青い外套の一団が座っていた。昨日、渓谷の“間”に風のように降りてきた背中も、そこにある。


 背を伸ばしているのに、座っている他の誰よりも低く見えるのは何故だろう、と一瞬思う。姿勢に無駄がないせいだ。余白がない。立つ・座る・聞く・言う――それぞれの行為が各々の最短距離で、そこに居座る空気を薄くしている。


「始めます」


 ギルド側の書記官が合図をし、隊長が事実から話した。

「群れゴブリン。出巣は薄暮。崖に沿った獣道からの連続波。前衛押し返し、中衛火矢・礫・術。後方搬送・遮蔽。負傷軽傷・致命ゼロ」


 書記官が紙に数と用語を写す。青い外套の先頭が、短く頷いた。彼――名はまだ知らない――が机上の地図に指を置き、描かれた渓谷の線を一度、なぞる。

「この地点で後衛の連携が崩れたと聞く」


 隊長がわずかに顎を動かす。

「崩れた、というより“薄くなった”。搬送と遮蔽の導線が、石崩れで一瞬交差しかけた」


「誰が、支点になった?」


 隊長は迷いなく、私を見る代わりに、親指で私の方を示した。それは狩り場で遠くの獲物を示すのと同じ、無駄のない仕草だった。青い外套の瞳が一度だけこちらへ向き、色は変わらない。


「詳細を」


 私は席の端から一歩だけ前へ出て、地図に近い位置に立った。

「搬送導線が崩れかけた時点で、火花“三”を短く走らせて後方の導線を切り替えました。同時に氷幕で詠唱線を保護し、弓手の射線の“網”を詠唱者の前に再形成。搬送は峰側の斜面へ半歩移したので、滑落リスクの高い地点にロープを増やし、担架の“折り返し”を一段手前に置きました。詠唱の“隙”は、氷閃“二”の合図で最短化」


 書記官のペンが急ぐ音。青い外套の先頭は、同じ速度で呼吸をしていた。

「結果として?」


「倒れた者は前に溜まらず、後衛に渋滞が起きなかった。前の圧が一定より高くならなかったので、押し返されることも押し切ることもなく、膠着を維持。――そこへ、あなたが入った」


 場の空気が僅かに緩む。青い外套の口元がほとんど見えない角度で動いた。笑った、のかもしれない。けれど、それは表情というより“把握”の動きだ。


「現場で後衛の連携が崩れかけたが、ある冒険者が支点になった」


 青い外套――彼が、昨日の戦闘の要点を淡々と繰り返す。

「名を」


 書記官が問う前に、彼は私を一瞥した。

「彼女だ」


 驚きが会議室の外の廊下まで漏れたのがわかった。

 扉の向こうで待機していた者たちが、静かに息を吸う気配。ギルドの空気は噂に強く、感情の波形が速い。


「名前は?」

「リス」


 私が名乗ると、誰かが小さく咳払いをした。

 青い外套は続けない。

 私の名を反芻することも、どこの出かを問うこともしなかった。


「君の足は速い。退路の確保に向いている。次からは合図を一つ増やせ」


「……一つ?」


「“迷いを潰す”合図だ。前は敵、後ろは退路、どちらにも出せる合図。たとえば――」


 彼は机上の空に親指の腹で短くなぞるようにして、氷閃に似た“空気の印”を描く仕草をした。実際に光は出ない。だが、その短い動きは、私の背骨を一本、鳴らした。

 “迷いを潰す合図”。

 確かに、昨日の渓谷には、それが一つ足りなかった。


「王都は噂が速い。気を付けて」


 最後に付け加えた言葉は、助言というより、確認に近かった。私は頷く。

「気を付けます」


 会議室はそのまま実務に移り、消費材の補填、負傷者の手当の段取り、次の警戒線の張り方へと話題が流れていく。私は退室のタイミングを見計らい、会釈して部屋を出た。


 扉が閉まる寸前、ギルドの奥で誰かが囁いた。

「近衛騎士団長代理、アルバートだ」

 その名が、人々の舌の上で形を持ち始める。

 “アルバート”。

 名前を知ったからといって、彼の背中の重さは変わらない。だが、私の中の地図に、小さな印が増えた。


 ◆


 広間に戻ると、噂はすでに稼働していた。

「アルバートらしい」「次期公爵家の有力候補だ」「昨日の新人だってよ」「どこの家の娘だ」


 “どこの家の娘”――その言葉は背中へ刺さる。肩書は重さだ。重さは時に人を支え、時に沈める。私は深く息を吐き、視線を掲示板の端へ移した。

 〈護衛:補給隊・国境方面〉

 〈搬送補助:療院→北門〉

 〈採取:谷間の苔/湿度高〉


 ミーナがカウンター越しに視線で呼び、私は近づいた。

「お疲れ、支点さん」


「支点は、柱ほど立派じゃない」


「柱は目立って割れるけど、支点は静かに効く。……はい、報酬。渓谷の分の追加手当」


 袋は重くない。だが、彼女の指先はいつもよりゆっくりだった。

「ねえ、噂の速さについては私も同意見。王都ほどじゃなくても、ここでもすぐ回る。『名』を守るって昨日も言ったけど、今日からはもう少しだけ、慎重に。言動、筆跡、立ち方。――“似ている者”は記憶に残る」


「了解」


「それと、“合図を一つ増やせ”って言ってたでしょ。具体の案、考えてる?」


「“迷いを潰す合図”。氷閃は届くけれど、光は時に“恐れ”を増幅させる。恐れは視界を狭める。迷いを減らすには、逆に“間”を広げる合図が必要かもしれない。音じゃなく、“触れ”に近い合図。地面を使う」


「地面?」


 私は石筆を取り出し、カウンターの端の古い板に、小さく図を描いた。

 薄い氷膜を点在させ、踏むと“鳴らない震え”が足裏に伝わる印。足場の安全を“触覚”で知らせる。視覚の奪い合いを避ける。“ここは踏める・ここは踏むな”を、足で伝える。


 ミーナは目を細め、面白がる顔で頷いた。

「いい。現場で試して、戻ったら“手順書”に追記して。後ろをやる新人は、そういうのがあると助かる」


「書く。――書き過ぎると、剣より重くなるかもしれないけど」


「重い紙は、重い剣よりマシ。剣は落としたら誰かを傷つけるけど、紙は落としても足を止めるだけ」


 ミーナは人を助ける言葉の重さを知っている。私は頷いて、報酬と新しい依頼を受け取り、広間を離れた。


 ◆


 昼下がりのレーヴは、いつもより人が高揚していた。

 誰もが何かを語り、語られたものはすぐに他人の口に移る。噂が血流のように街路を巡り、夕方には全員の頬に同じ熱を浮かばせるのだろう。


 市場の隅で、昨日の弓手の青年が仲間に脚をいじられていた。包帯は私が朝、巻き直したものだ。彼は器用に片脚で立ってみせ、仲間が笑う。

「生きたな」

「生きました」

 言葉は短くて良い。長い言葉ほど、実感は薄くなる。


 私は道具屋へ寄り、薄板と細縄、金属片を買い足した。氷膜印の“触覚合図”を試すには、基準の板がいる。地面がどれだけ柔らかくても、所定の“鳴らない震え”を作れるように。

 店主は寡黙だが、こちらの用途を一度聞けば余計な質問をしない。彼は道具の“返ってくる頻度”で客の運を見ているのだと、勝手に思っている。

 返ってこない道具は、どこかで折れた。

 返ってくる道具は、使い方が“まだある”。


 “山猫亭”に戻る途中、細い路地で少女がひとり、桶の水をこぼして泣いていた。手の甲に擦り傷。桶は小さすぎて、肩で支えないと傾く。

「肩で持つと、重心が安定する」

「かた?」

 私はやって見せ、少女は目を丸くし、真似をして、少しだけ笑った。

 “退路”は戦場だけにあるのではない。生きる場所全部にある。


 ◆


 夕方、ギルドの広間に再び足を運ぶと、会議室から人が吐き出されるところだった。青い外套の一団が縦列で出てくる。剣の柄は各々の腰で静かに光り、靴音は石畳の上で音楽の八分音符ほど正確に刻まれる。


 先頭の男――アルバートが、一歩だけ遅れて出てきた。彼は視線を動かすのではなく“置く”。必要な場所に必要な時間だけ。私はその置かれた視線の端に触れた気がして、軽く頭を下げた。


「助言、ありがとう」


「合図は、増やせ」


「“触れて伝える合図”を考えています。足裏で受け取る小さな震え。視界を奪い合わない印」


「現場で試せ。――紙に残せ。残さなければ、次の者が“無駄に死ぬ”」


 彼は言葉を選ばない。遠回しにかっこつけない。必要なことだけが、その都度ぴたりと落ちる。

 私は頷いた。

「紙に残します」


 彼はそれ以上何も言わず、私の脇を通り過ぎようとして、半歩だけ立ち止まった。

「王都は噂が速い。気を付けて」


 午前中と同じ言葉。だが、声音は少しだけ変わっていた。乾いた注意ではなく、範囲と重さを測った者の、共通語としての忠告。王都は“噂”だけで回る場所ではない。噂を回す人々の“生活”で回る場所だ。噂を利用する者、噂に溺れる者、噂から身を守る者。

 私はその重さを、言葉の端で受け取った。


「はい。気を付けます」


 彼は頷き、扉へ向かった。青い外套の裾が、風ではなく歩幅の作る微風でわずかに揺れる。

 名はアルバート。

 近衛騎士団長代理。

 次期公爵家の有力候補――らしい。

 “らしい”の尾びれは噂の道具で、彼自身の動きには付着していない。


 ◆


 夜。

 “山猫亭”の小さな机に薄板を置き、私は“触覚合図”の試作を始めた。薄氷の膜を作ると、踏圧の変化で“鳴らない震え”が微細に生じる。問題は安定性と、他の音との干渉。

 私はいくつかのパターンを記し、帳面に仮称を振った。


 ・触合一しょくごういち:踏め、の印。

 ・触合二:止まれ、の印。

 ・触合三:左へ、の印。

 ・触合四:折り返せ、の印。

 ・触合零:危険、の印(踏むと消える)。


 小さな部屋の床で一人、裸足で踏んでは確かめ、踏んでは確かめる。馬鹿げている、と笑う者もいるだろう。でも、“後ろ”は馬鹿げた繰り返しに救われる。

 やがて、足裏に伝わる震えが、脳ではなく骨盤で理解できるくらいまで“印”が馴染んだ。


 湯を沸かし、レオンじいの乾燥スープをひとかけら落とす。

 湯気は誰にでも平等に立ち上る。

「温かいものが、心の鎧になる」

 低く呟いてから、石筆を手に取る。


 ――“王都は噂が速い。気を付けて”。

 この言葉を、手順に翻訳する。

 噂は情報だ。情報は道具だ。道具は取り扱いを誤ると人を傷つける。

 ならば、“名”の取り扱い説明書を自分に書く。


 ・本名を零さないこと。

 ・筆跡――公爵家の書法の“止め・はね・はらい”は使わない。

 ・立ち方――社交の重心は落とし過ぎる。現場では、一段高く。

 ・言葉――貴族語の敬称は避ける。現場の“短い言葉”。

 ・“似ているもの”を避ける。香油、金具、色。


 紙は重いが、目に見える重さなら、いつでも置ける。


 ◆


 翌朝。

 ギルドの扉を押すと、昨日とは違うざわめきがあった。

「補給護衛、決まった」「国境へ細い道だ」「道が荒れているらしい」


 掲示板の前で、私は新しい依頼票を抜き取る。

 〈護衛:補給隊/国境方面/危険〉

 募集人数は少なめ。後方担当の枠は一つ。

 私はミーナに紙を渡し、登録簿に名を書いた。


「行くのね」


「行く。触覚の合図、試せる」


「指示書、昨日の夜に読んだよ。『触合一〜四』。名前、地味でいい」


「地味は最高の褒め言葉」


 ミーナは小さく笑い、真顔に戻る。

「護衛は“持続”の戦闘。退路は“切らさない”のが仕事。リス、戻ってきたら、合図の効き目を全部書いて。足の裏で受け取る印は、若い子に向いてる」


「もちろん」


 出立の隊列に並ぶ。

 補給の馬車二台、護衛の前衛五、中衛四、後方三。私は最後尾の右。靴底に薄膜の“触合”を仕込んだ足を、軽く鳴らして確かめる。

 前を見れば、朝日に薄く輝く鎧。

 後ろを見れば、レーヴの屋根が連なる。

 そのどちらにも、私の仕事はある。


 ふと、視界の端を青い外套が横切った。

 アルバートが、隊列から少し離れた道の縁を歩いていた。彼は私を見るでも、見ないでもなく、ただ視線を“置いた”。必要な位置に、必要な時間だけ。


「行ってきます」


 声に出してみる。

 彼は立ち止まらない。

 ただ一言。

「合図を一つ、増やせ」


 同じ言葉が、三度目にして、ようやく骨の髄へ入っていく。

 増やすのは合図だけではない。

 “次の一歩”の数そのものだ。


 私は頷き、踵を返した。

 退路は、今日も最初の一歩から作る。

 噂は、風のように街を抜ける。

 だが、私が歩くのは風の道ではない。

 “戻る道”だ。


 ――護衛の旗が上がり、車輪が回り始めた。

 石畳に刻まれる轍は、やがて土の道に変わり、緩い丘をいくつも越えるだろう。

 そこで試す“触合”は、うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。

 けれど、試さないよりは、次の誰かが“無駄に死ぬ”確率が、わずかでも減る。


 それで十分だ。

 それが後方の、支点の、私の仕事だから。


 ◆


 補給護衛の帰還は、三日後になった。

 道は荒れていたが、退路は切らさなかった。

 “触合”は、思っていた以上に効いた。視界を奪う砂塵の中でも、足裏の“小さな震え”は迷いを削った。

 ミーナのカウンターに紙を置くと、彼女は最初の行を読むだけで、安堵の色に目を細めた。


「書いて。全部。熱いうちに」


「今、書く」


 私は石筆を走らせる。

 言葉が手順に変わり、手順が“図面”に変わる。

 その紙は、誰かの“明日”の足場になる。


 書きながら、私は思い出していた。

 報告会の朝、アルバートが言ったあの一言の、硬さと温度。

「王都は噂が速い。気を付けて」


 彼が見ているのは、戦場だけではない。

 噂の速さが壊すものも、守るものも、両方を見ている。

 “次期公爵家の有力候補”――らしい――という尾びれより前にある“仕事の骨”。

 それだけは、噂ではなく、現場で触れた事実だ。


 私は最後の一文を書き足し、石筆を置いた。


 《退路を守る者の仕事は、誰にも見えないところで街を軽くする。

 無難――難を無にする。それは誉れである。》


 ミーナが紙を受け取り、赤い印を押す。

「おかえり、“支点”。次の依頼、出てるよ」


「行く」


「ねえ、リス」


「なに?」


「あなたが“戻る道”を作ってるって噂、王都にも届くかもね」


 私は笑った。

「噂は速い。気を付ける」


「そうだった」


 二人で少し笑い合ってから、私は掲示板の前に立った。

 新しい紙片が、風に揺れていた。

 手順は増える。

 合図も増える。

 退路は、どこへでも、繋げられる。


 ――名を捨てたのではない。

 名を、自分で選び直したのだ。

 その名で、今日も歩く。

 支えるべきを支え、戻るべきを戻し、進むべきを進ませる。

 “無難”を積み上げて、街を少しだけ、軽くする。


 私の内側で、剣ではない何かが、静かに鞘に収まった気がした。

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