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第4話「魔物討伐、見知らぬ背中と共闘」

 ――戦いの空気には、色がある。

 朝は薄い灰、昼は乾いた白、そして薄暮は必ず、血の前触れのように紫がかる。


 ◆


 掲示板の右上に、新しい紙が音もなく貼られたのは、昼の終わりだった。

 〈渓谷・群れゴブリン討伐/必要人数 多/危険〉――報酬は相応、死傷の備考に赤い線。低ランクの札ではない。だが、人数不足のため参加可、と末尾に小さくある。


「行くの?」


 背後でミーナが問う。仕事の声だが、眼差しは人の温度だった。


「行く。後方で」


「後方は退路と搬送、指示の翻訳。目が要る。――足、速いんだっけ?」


「“必要な時に”は」


 ミーナは板に走り書きして、私の登録に付帯する注意欄へ“後方担当として配属可”の印を付け足した。


「なら、隊長に『後ろの支点に使え』って伝えておく。……リス」


「なに?」


「“誰も見ない仕事ほど、後で効く”。忘れないで」


「忘れない」


 私は頷き、腰の道具を再確認する。短剣、刃こぼれなし。石筆、二本。鏑矢、一本。簡易担架の布、圧縮包帯、油壺、香草。氷の符に使う薄刃の鉄板と、風向きを読む羽片。合図用の氷閃を指で弾いて、点が空気に刺さる感覚を確かめる。


 集合時間は薄暮。場所はレーヴ北東のリシェル渓谷。

 “行ってらっしゃい”とミーナが言い、私は扉を押し開けた。


 ◆


 渓谷へ向かう道は、山の肋骨をなぞるように細く、両脇に低い黒松が並んでいた。薄日が葉先で砕け、岩肌の影が長く伸びる。空気は乾いているのに、土の奥に湿りが潜む。そういう日が、いちばん音を吸う。


 集合地点には、既に十数人が集まっていた。前衛の盾持ちと剣士、槍兵が八。中衛の弓手二と魔術師二。後方の担架持ち三。そして、補充枠の雑多な冒険者が数人。私は自分より若い顔と、疲れの深い顔を数え、端に立って風向きを見た。


「担当を割る。前は盾二枚、槍二。斜面側は滑るからロープで補助。後方は退路と搬送、負傷者の遮蔽。合図は声じゃ届かん。旗も風に逃げる。鏑矢の音を一に、氷閃を二に、火花三で指示を統一する」


 前に立った隊長は、頬に古い傷のある大柄な男だった。声が短く、余計な音を含まない。私は手を挙げる。


「後方の“支点”を務めます。合図の反復、搬送の流れ、遮蔽の補強、私に回してください」


 隊長は私を一瞥し、顎を小さく上げた。


「足、速いか?」


「必要な時に」


「ならやれる」


 “必要な時に”。それは自慢ではない。訓練で作った“可”。私は薄く息を吸い、手の中に収まる景色の範囲を広げた。前衛の靴の減り方、弓手の肘の傷跡、魔術師の詠唱癖。今日の布陣の“弱い縫い目”が、ぼんやり見えてくる。


「行くぞ」


 隊長の短い合図で、私たちは渓谷の縁に散った。


 ◆


 リシェル渓谷は、古い川が千年かけて削った切り傷のような地形だ。両壁は鈍い灰色の岩、ところどころにほら穿うがたれ、そこから冷気が漏れている。最下段は細い流れで、濡れた石に苔が張り付く。

 ゴブリンの巣は、崖の三分の一ほどの高さにぽっかり空いた巣穴。その手前に獣道が、蜘蛛の糸みたいに複数走っている。


「薄暮に出る。奴らは暗さを味方にする」


 隊長の声が冷気の層を切った。前衛は盾を上げ、中衛は矢と呪文の準備を始める。私は後方に布を広げ、担架の骨組みを確認。滑落リスクの高い地点にロープを多めに回す。弓手のひとり――日焼けの浅い青年――が、さっそく膝に手を当てて深呼吸していた。


「緊張で震えるのは、筋肉が“待機”してる証拠。悪くない。息を四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く」


「四、四、四……了解」


 私は彼の足元に薄い氷膜を少しだけ張った。泥の滑りを抑え、膝の動きを制御する程度。視線が合い、青年が礼を言う。


 薄暮が進む。紫が深く、岩の影が長い。巣穴の奥で、短い舌打ちのような音が連なった。ゴブリンの声だ。

 鏑矢が鳴る――甲高い尾翼音が渓谷に広がり、合図が一斉に起動する。前衛の盾が半歩出る。魔術師の詠唱が、音にならない音で空気を震わせる。私は後方で、弓手の射線と詠唱者の遮蔽を氷幕で補強した。


 ゴブリンが、出た。

 崖沿いの獣道から、背丈ほどの小鬼が雪崩のように吐き出される。前の列は粗末な木楯、後ろの列は骨の槍、さらに奥に石投げ。口から黄色い涎を垂らし、目だけが光っている。


「押すぞ!」


 盾と槍がぶつかり、音が岩に跳ね返る。前衛が押し込まれそうな瞬間、中衛の火矢が走り、前列の木楯に火花が散る。魔術師が短く声を放ち、足元の石が盛り上がって段差を作る。ゴブリンの前列が躓き、隊の流れが一瞬止まる。


「今!」


 私は後方で“二つ”の氷閃を弾いた。

 詠唱の隙を最短に。

 弓手の青年が私の合図に重ねるように矢を放ち、詠唱者の前に射線の“網”を張る。石の投げ手の腕から力が抜け、矢が“意志”だけを切り落とすように肩に刺さった。


 右の斜面、石が崩れ、担架の導線に障害。私は即座に“三つ”の火花を短く走らせ、後方の搬送組に導線の変更を指示。ロープを張り直し、負傷者一名――前衛の盾兵――を担架に乗せて下げる。

 脚を射られた弓手を引き寄せ、私は彼の膝下を確認した。矢は貫通、出血は浅い。氷で痛覚を鈍らせ、包帯で留め、弾を抜くタイミングを魔術師の詠唱に合わせる。

「今」

 詠唱の頭と尻の間に、私たちの動きを縫い込む。


 前線は押し引きを繰り返す。

 押し切れない。

 押し返されない。

 膠着の渦。

 数は向こうが上。こちらは質で綱を張る。だが、綱はいつか切れる。

 空気が重く、矢の風切りが濁り始めた。


 ――その時だった。


 斜面の上から、青い外套がひとつ、風のように降りてきた。

 長身。背の線が一本の刃のようにまっすぐで、足の置き方に躊躇がない。剣は抜かれているが、抜かれていないみたいに静かだ。


「下がって隙を作れ」


 声は短く、余計な音がない。

 彼が通過したあとの空気が、目に見えるように軽くなる。

 前衛が半歩退き、敵とこちらの間に、薄い、しかし確かな“間”が生まれた。


 青い外套の騎士は、その“間”にスッと踏み込み、最短の手順で一体の腕を落とし、次の体の膝を断ち、三体目の喉を刃の背で打った。血の飛沫は最小限。動きは無駄がない。

「そっち」

 低く短い指示が、前衛の槍の角度を半呼吸だけ変えさせ、槍先が二体を串のように貫く。

「そこ、空く」

 騎士は視線だけで告げ、私は“二つ”の氷閃を弾いた。弓手が一斉にそこへ矢を送り、崩れた列が崩れきる。


 すべてが、“間”で動いている。

 騎士は剣で殺しているのではない。

 “間違い”を作っているのだ。

 敵の配置に小さな“間”を置く。こちらの配置に大きな“間”を置く。そのために、こちらへ要求するのはたった一つ――「下がって隙を作れ」。


 私は後方で、合図の翻訳を続けた。

 氷の幕で矢を滑らせ、詠唱の隙を最短に詰め、倒れた者の搬送を渋滞させない。騎士の動きに合わせ、こちらの呼吸も短く速くなる。

 負傷は出る。だが、致命は出ない。

 前に倒れる者は、後ろへ引かれる。

 後ろに下がる者は、前に押し戻されない。

 退路が、常に“開いている”。


 渓谷に夜が降りるのと、戦いの終わりは、ほとんど同時だった。

 最後の一体が喉を鳴らして崖下へ転がり、風が冷たさを取り戻す。

 しばらくは誰も声を出さず、皆が自分の呼吸の音を確かめた。


「死人、ゼロ」


 担架係の一人が、かすれた声で言った。

 隊長が頷き、盾の表を手の甲で叩く。

「よし、戻る。搬送優先、足元見る!」


 私は氷の幕を解き、弓手の青年の膝の包帯を巻き直した。彼は笑って、歯を見せた。緊張の笑いではない。生き延びた笑いだ。


 青い外套の騎士は、いつの間にか剣を納めていた。

 私は背中越しに小さく礼を言った。


「助かりました」


 騎士は振り返らない。

 ただ、刃のような背中の線をほんのわずか柔らげて、渓谷の縁を滑るように去っていった。

 名は名乗らない。

 名を置く暇があれば、次の“間”を見る男だ。


 ◆


 戻り道は、行きよりも明るかった。

 怪我人の息は整い、担架のきしみも規則正しくなる。私は最後尾で、足跡の乱れがないかを時折振り返って確認した。振り返るのは後ろのため。前のために振り返る者は、必ず誰かを見落とす。


 ギルドに着くと、ざわめきが昼よりも濃かった。討伐隊の帰還を誰もが待っている。受付前の列が自然と割れ、私たちは中へ通される。

 ミーナは数を数え、顔を見て、指で“ゼロ”を作った。私は頷いた。

「死人ゼロ」

 その言葉だけで、酒場の奥の誰かが小さく拍手した。拍手は広がりはしない。だが、空気のどこかに、静かに吸い込まれた。


「報告書」


 私は隊長と共に事実を記し、負傷の内訳、消費した資材、合図の効果、搬送の導線の所見を簡潔に書いた。ミーナが素早く目を通し、「後方支点:有効」と赤で記す。


 その時、背後から薄い笑いが落ちてきた。

「新人のくせに“無難”にやったもんだ」


 振り向かなくても、口角の上がり方でわかる。酒場に常駐する“賞味期限の長い皮肉”だ。

「死人ゼロ」を“無難”と呼ぶ人間の、軽さ。

 私は報告書をミーナに渡し、皮肉の方ではなく、搬送係の若者の方へ顔を向けた。


「担架、早かった。導線、良かった」


「本当か?」


「本当。“担ぐ手”が揃ってた。速度は揃いの結果。揃いは、次も作れる」


 若者は照れ笑いして、肩を竦めた。皮肉の男は黙り、酒を飲んだ。

 ミーナが私と目を合わせ、目尻だけで笑う。


「“無難”は、最高の褒め言葉よ、ここでは」


「知ってる」


 “無難”――むずかしきをくす。

 難を、無にする。

 それが後方の仕事の名前だ。


 ◆


 夜。

 “山猫亭”の部屋で、私は湯を沸かし、乾燥スープをひとかけら落とした。湯気が指先に絡み、昼の血の匂いを遠くへ押しやった。

 帳面を開く。

 石筆は、戦いのあとでも、滑らかに走る。


 ・渓谷討伐:群れゴブリン。

 ・配置:前衛盾槍、中衛弓術・魔術、後方搬送・遮蔽・翻訳。

 ・合図:鏑矢1/氷閃2/火花3。

 ・観測:薄暮の“間”は紫。音を吸う。

 ・前線:押し引きの膠着。

 ・後方:遮蔽氷幕→矢滑り○、詠唱隙最短○。搬送導線、詰まりなし。

 ・負傷:貫通矢(軽)。熱傷(軽)。捻挫(軽)。致命なし。

 ・介入:青外套の騎士。指示「下がって隙を作れ」。

 ・解析:剣=殺す道具ではなく“間違い”を作る道具。

 ・教訓:隙は“作る”もの。退路は“開け続ける”もの。

 ・言葉:“無難”は最高の褒め言葉。

 ・次案:光合図のバリエーション追加。搬送の“折り返し地点”を明確化。氷幕の厚みを薄層×複層へ。


 石筆の先が止まる。

 思いがけず、心の奥で何かが動いた。

 青い外套の背中。

 剣の軌跡ではなく、足さばきのリズム。

 短い言葉で、空気を変える能力。

 ――名を、私はまだ知らない。

 名を知らないことは、軽さではない。

 “仕事だけが残る”という、重さだ。


 窓を開けると、レーヴの夜風が入ってきた。

 王都に比べ、やはり静かだ。

 静けさは、今日の手順を明日の筋肉に変える時間をくれる。


 私はスープを飲み干し、椅子にもたれた。

 肩の筋が、心地よく重い。

 戦いの重さは、意味のある疲れに変わる時に、初めて体に馴染む。


 ――退路を守る役は、誰にも見えずに、尊い。

 今日も、それをやれた。

 明日も、やる。


 ◆


 翌朝、ギルドに顔を出すと、噂が既に街を回っていた。


「青外套の騎士、見たか?」「剣が風みたいだった」「死人ゼロだとよ」「後ろがちゃんとしてたんだろ」


 噂は、真実の縁を少しだけ誇張する。

 私はカウンターに寄り、ミーナへ“昨日の余白”を渡した。見取り図の端に追記した、合図と導線の改良案。

 ミーナはそれを目で読み、口では別の冒険者へ罰金を告げ、手では判を押す。その器用さを私は少し羨ましく思う。


「採用。後方チームに回す。リス、後ろが薄いときは呼ぶ」


「呼ばれる前に、いる」


「頼もしい」


 ミーナは、少しだけ声を落とす。


「昨夜の騎士、名前が上がってる。近衛の代理、アルバート。王都から来てる視察の中心」


「……覚える」


 名前は、私の仕事には直接は関係ない。

 けれど、“次の一歩の準備”には関係がある。

 名前のある背中と、名前のない背中。

 どちらも、戦場で同じ重さを背負う。


 掲示板の端に、新しい紙がまた一枚。

 〈護衛依頼:補給隊、国境方面〉

 “退路”を必要とする仕事は、いつだって途切れない。


 私は石筆を胸に戻し、外套の襟を立てた。

 今日も、音の少ない街の闇が、私を受け入れるだろう。

 剣ではなく、合図で。

 名ではなく、手順で。

 怒りではなく、次の一歩の希いで。


 ――行こう。

 “見えない仕事”の続きへ。

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