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第3話「初任務の失敗と教訓」

 ――失敗は、音を立てずにやって来る。

 それに気づくのは、音が残ったあとだ。


 ◆


 二つ目の依頼は、掲示板の左下、角が少し焼けた紙に挟まっていた。

 〈外れ村の家畜荒らし・追い払い〉――報酬は低いが、初心者向けの目印が押されている。


「夜間作業。昨日までの雨で足場は悪い。匂いで寄ってくるタイプだったら、柵の作りで“斜めの力”に弱いところから破られる。行く?」


 背後から声をかけてきたミーナは、いつもの事務の速度で助言を並べる。私は依頼票を外套の内側へ滑らせ、短く頷いた。


「行く。戻りの余裕は昨日より長めに」


「いい心がけ。……肩、まだ疼くでしょ?」


「歩けば温まる」


「温まっても無理はしない。『戻る道を、出発のときに半分作っておく』――忘れないで」


 ミーナは薄い笑いを目尻に置いて、別の冒険者の罰金処理へ戻っていった。私は石筆で手帳に今日の要点を書き込み、腰の刈り取り袋の片方に綿包帯を詰め直した。捻挫の少年を背負った昨日の帰り道が、まだ掌の内側に重く残っている。


 外へ出ると、レーヴの空は薄い錫色。風は湿りを運び、土は音を吸っていた。北の畦道を辿り、麦畑と放牧地の間を抜ける。鳥の羽音が一度だけ頭上で弾け、すぐに静けさが戻る。外れ村は、二つの小流れが出会う盆地に寄り添っていた。乾いた靴が、ぬかるみで重くなる。


 村長の家は柵の内側にあり、軒先で干し草の匂いが濃かった。年季の入った皺が額の上に整列している男が、扉口から私を睨む。


「ギルドからか。女か」


「女です。リス。依頼の件で話を。足跡と糞を見たい」


「……ついてこい」


 短いやり取りの中にも、余計なもの――不信、疲労、経済――が混ざる。私はそれに名前をつけず、足跡を見ることに集中した。


 柵の外、泥の表面に歯のような刳り痕。幅は広く、間隔はまだ狭い。若い個体が、全力の突進でない歩幅で歩いた跡だ。糞は半端に固く、未消化の穀粒が混じる。群れではなく、単独の若い魔猪。鼻先で柵の弱いところを探り、勢いに乗ると角度で割るタイプ。


「単独。若い。匂いに敏感。鼻を潰せば退く。火に弱い」


 私が淡々と述べると、村長は鼻で笑った。


「前の冒険者も、似たことを言った」


「似たこと、じゃなくて“同じこと”を“同じ手順で”やると失敗する。今夜は風下に香辛料を撒いて鼻を潰す。火は柵の内側で焚く。火の照り返しで影の出方が変わるから、突進の角度を外へ押し返せる。突っ込みそうな弱い杭は、今のうちに外へ向けて斜めに打ち直して。三本だけでいい」


 村長は観察するように私の目を見る。視線の重さは、交渉ではなく生き残りの重さだ。


「材料はある。若いのを二人つける」


「頼む。杭の頭はこの向きで。斜めの力は斜めで受ける」


 柵の補強は夕暮れまでに終え、私は香辛料と油壺、火口を確認した。背中の短剣を一度抜いて、鞘鳴りの具合を見る。肩の痛みは、刃を振る筋に薄く引っかかる。意味のある痛みだ、と自分に言い聞かせる。


 ◆


 夜は、湿った衣を広げるように村を覆った。

 焚き火の熱が柵の内側に揺れ、風下へ撒いた香辛料が鼻の奥を刺す。私は火から半歩下がり、木の柄で灰を整えた。若い二人――腕の良い農夫の動きで、火の機嫌を読むのが早い――に合図を教える。片手を上げて横に水平――後退。縦に切る――装填。指二本――香辛料追加。四本――位置入れ替え。


「怖くなったら、息を数えて。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く」


「覚えられねえ」


「怖くなってからでも、四は数えられる。四までは、数えられる」


 彼らは笑った。笑いは緊張を薄くする。緊張が消えるのは危ない。薄くなるくらいがちょうどいい。


 風向きが少し変わる。草が揺れ、匂いが戻ってくる。私が指を二本上げると、若者の一人が香辛料の袋を小さく振って撒く。火が赤く縮み、また広がる。闇の向こう、柵の陰に重い影が動いた。


 来る。


 私は姿勢を下げ、視線を柵の枠線に合わせる。相手がどの角度から、どの高さで、どの速度で侵入しようとしているか――影の速度が、火の照り返しのゆらぎで想像できる。


 鼻息。湿った土を押す足音。湿り気のある呼気。


 私は香辛料の袋をもう一つ、風に乗せるように放った。粉が夜に解け、見えない壁を作る。影が一度止まり、鼻を振る。怯む。退く。計画通り――のはずだった。


 突進の角度が、半歩、違った。


 影は急に右へ重心を移し、柵の柱と柱の間に斜めの力で楔を打ち込む。私はとっさに「後退」の合図を出し、近くの少年――さっきまで強がっていた方の――を庇って押し倒した。次の瞬間、衝撃が肩を叩き、世界が横にずれた。


 柵が割れ、音が割れる。火がはぜ、香辛料の粉が舞い上がる。魔猪の目が火の照り返しに一瞬だけ白く光り、私は残ったもう一袋を、ほとんど反射で鼻先に叩きつけた。若者の片方が火の矢を放ち、炎が夜の縁を焼く。魔猪は怯み、踵を返して森の暗がりに消えた。


 ――納屋の壁が、沈んだ音を立てて崩れた。


 私は地面に手をつき、肩の痛みが骨ではないことを確かめ、すぐに立ち上がった。火が広がっていないかを確認し、若者の足を見た。擦り傷、出血少量。息は速いが、恐怖の速度だ。治る。


 村長が走ってきて、崩れた壁と私の方とを交互に見た。言葉は、ため息になって出た。


「……次は、うまくやってくれ」


 私は頷いた。反論はなかった。反論は、火に油だ。今夜は油が多すぎる。


 ◆


 夜明け前の空は、青でも黒でもなく、湿った灰色だった。私は肩に布を巻き、村の若者たちと一緒に納屋の片付けを始めた。割れた板、飛び散った藁、折れた杭。どれもが、ここに生活があることの証拠だ。


 明るくなると同時に、私は柵の補修に移った。杭の打ち方を変える。垂直ではなく、外側へ向けて斜め。突進の力を受け流す角度。結束の道具が足りないところは、古布を煮て編み直し、繊維の向きを合わせて結ぶ。若者の腕は強い。方向だけ正せば、同じ力が役に立つ。


「ここで受けると割れる。ここで受けると、逃がせる。力は逃がすと消える」


 私が言うと、若者は実際に体重をかけてみて、目で納得し、手で覚えた。何度か試して、杭は新しい角度で土に喰いついた。汗に混じる土の匂いが、少しだけ軽くなる。


 村長が、崩れた壁の前で立ち止まって、もう一度ため息を落とした。私はその隣に並び、崩れた縁の木目を指でなぞった。


「次は、うまくやります」


 と、私は言った。それは約束ではない。約束は、自然を相手にするときには傲慢だ。けれど、手順を変えることはできる。準備を変えることはできる。合図を増やすことはできる。


「……頼む」


 ため息の重さは、少しだけ軽くなっていた。


 ◆


 ギルドに戻った私は、報告書の欄に淡々と事実を記した。

 〈対象:単独若年魔猪。方法:香辛料、内側火。結果:追い払い成功/納屋損壊。負傷:軽〉


 ミーナが報告を受け取り、判を押し、袋を滑らせる。いつもの動作。だが、声色はいつもより低かった。


「報酬は半分。修繕に回る。……肩は?」


「動く。痛みは、境界の合図」


「合図は紙にも残して。手順の『どこ』を変えるのか、今日のうちに考えて」


 ミーナは一拍置き、周囲を一度だけ見回してから、声を落とした。


「もう一つ。王都から視察が来る。騎士団。危険依頼の募集がかかるかもしれない」


「視察……?」


「いつも通りのやつ。でも今回は“目が速い”って噂。リス、あなたの名はあなただけのもの。守って」


 彼女の目が、ほんの少しだけ揺れた。私に心配をかけたくない者の、揺れだった。


「名は守る。ありがとう、ミーナ」


「うん。――それと、納屋のこと。あなたが背負う必要のない重さまで、背負わない。背負い方を間違えると、次が遅れる」


「背負い方は、これから覚える」


 私が微笑むと、ミーナの口元も、それと同じ角度で上がった。


 ◆


 宿に戻る前に、私は小さな道具屋に寄った。木工職人の余仕事を扱う店で、壁に細い杭と縄、手頃な角材が吊るされている。店主は寡黙で、こちらの用途を二つ聞いただけで、必要な材と長さを手元に集め始めた。


「柵の受けに使う。斜めで受けて逃がす」


「なら、芯の詰まったやつだ。春材は柔い。秋材を混ぜる。繊維の向きを合わせて、割りを先に入れとけ」


 私は必要量を買って、背に括りつけた。道具の重みは、明日の作戦の重みだ。重いほど、明日は軽くなる。


 “山猫亭”に戻ると、主人は顎で井戸の方を示し、湯桶を二つ出してくれた。肩を温め、軽くほぐす。湯気の向こうで、昼の出来事が少しずつ輪郭を崩す。それを帳面に整えておく。崩れる前に、線で支える。


 ・対象:単独若年魔猪。

 ・予測:鼻に強い→香辛料+火(内側)。

 ・誤差:突進角度半歩ズレ→柵破損。

 ・対応:香辛料追加→退散。

 ・損害:納屋壁一部。

 ・学び:角度読み/柵の受け方向/合図の数。

 ・変更案:火位置半歩内→「照り返し」再検討。香辛料の撒き方を「層」にする。合図を“光”に一つ置く。

 ・準備:薄氷の閃光の訓練。鏑矢一本追加。

 ・言葉:『失敗は二度目を減らすためにある』


 私は石筆でその文を縁取り、もう一度声に出した。

「失敗は二度目を減らすためにある」


 声にすると、肩の痛みがようやく意味を持つ。意味があれば、前に出られる。


 ◆


 翌朝、私は再び外れ村へ向かった。約束でなく、習慣として。補修の続きがある。若者たちは既に起きており、昨夜の怖さが熟れて、作業の素早さに変わっていた。私は杭の頭にあらかじめ切れ込みを入れ、紐の通し方を変え、結び目の向きを統一させる。


「杭の頭をこう割っておくと、縄が逃げない。逃げない縄は、力を逃がす」


「逆じゃねえの?」


「逃げるのは縄じゃなくて力。縄は留め具。留め具が逃げると、力を受け止める場所がなくなる」


 彼らは何度か首をかしげ、やがて手の中で納得した。人は、自分の手に通った理屈だけを、長く覚える。


 柵がひとわたり終わったところで、私は若者たちに“合図”の練習を頼んだ。

 声、旗、矢、光。

 声は近距離用。旗は風に弱い。矢は一度きり。光は、最短で届く。


 氷の符で空気中の湿りを薄く掬い、指先で弾く。光が瞬き、点が空気に刺さるように一瞬だけ浮かぶ。一定間隔で三つ。

「――これが『下がれ』。二つは『装填』。四つは『場所替え』」


 若者たちは目を丸くして、真似しようとするが、もちろんうまくは出ない。魔力は訓練と体質の両方だ。できる者がやる。それだけだ。


 村長が遠巻きに見ていて、近づいてきた。


「昨日の……悪かったな」


「悪いのは、角度の読みです」


「そうか」


 彼はそれ以上を言わず、ポケットから干した果実を二つ出して差し出した。私はそれを受け取り、若者と半分ずつにして口に入れた。甘さは一瞬、胃に落ちると力になる。力は、逃がせば、残る。


 ◆


 戻る道で、私は足を止めた。

 王都の方角から、青いものが近づいてくる気配がする――風や土の匂いではない。秩序の歩幅だ。視線の弾道が一本に揃い、無駄が少ない。騎士団の歩き方。


 ギルドに入ると、空気が少しだけ緊張していた。ミーナはいつもの手際で冒険者を捌きながら、青い外套の一団に書類の束を渡している。先頭の男がさらりと目を走らせ、一枚を残して他を部下へ渡した。


「視察項目は三つ。討伐の連携、搬送の導線、情報の伝達」


 淡々とした声。私は掲示板の端に立ち、依頼票を見ているふりをしながら耳を傾けた。

 危険依頼の募集――と、ミーナが小声で言っていた。

 何が来る?


 ミーナが業務の笑顔のまま、こちらに目線だけを寄越した。

「リス、今日の報告を」


 私は一歩進み出て、報告書を差し出した。ミーナが黙って受け取り、判を押す。その間、青い外套の先頭――近衛騎士団長代理、アルバートが、一瞬だけこちらを見る。彼は目で人を測らない。歩き方で測る。私が半歩下がり、カウンターの邪魔をしない位置を取ると、彼の視線はそこに留まらず流れていった。


 報告が終わり、私は振り向く。

 掲示板の右上に、新しい紙が一枚、音もなく貼られていた。

 〈渓谷・群れゴブリン討伐〉――必要人数多。危険。報酬、相応。


 紙の端に、ミーナの小さな印がある。

 私は石筆を胸に押し当て、呼吸を四つ吸って、四つ止めて、四つ吐いた。


 ――“退路”の設計図を、またひとつ増やす時だ。


 ◆


 その日の夕暮れ、私は宿のテーブルで、薄い板に手順の見取り図を描いた。

 柵、杭、斜めの力。

 火の照り返し、香辛料の層、風向きの変化。

 合図の数、届く距離、届かない距離。

「失敗は二度目を減らすためにある」という文を、図の余白にもう一度書く。


 肩の痛みはまだそこにある。

 だが、痛みは境界を教える。

 境界を知って、歩き方を変える。

 歩き方が変わると、見える景色が変わる。

 景色が変われば、選べる道が増える。


 窓の外で、レーヴの夜が始まった。

 王都よりも静かな闇。

 音の少ない街の呼吸が、背中に回ってくる。


 私は湯気の立つスープを両手で抱え、熱で掌を満たしながら、声に出さずに言う。


 ――怒りで歩かない。

 ――希望で歩く。

 ――退路は、最初の一歩から作る。


 そして、ページを閉じた。

 次のページには、まだ何も書かれていない。

 それは、失敗の余白であり、教訓の余白であり、明日の図面の余白だ。


 余白は、恐れではない。

 書ける場所だ。

 書ける場所がある限り、人は前に進める。

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