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第1話「夜会の破談、妹の笑み」

 ――春分の夜、王都は灯の海だった。


 城下の大通りから王城の舞踏の間まで、枝先に白金の花を灯したような燭台が連なり、磨かれた床は星空を裏返したみたいに光っていた。楽師が奏でる序曲は、春先の川のきらめきを音に変えたものだ、といつか母が言っていたのを思い出す。


 その真ん中で、私の婚約は終わった。


「ここに、公爵令嬢イリス・アーデンとの婚約を解消する」


 王太子アルノルトが、涼しい顔のまま言葉を落としたとたん、舞踏の間の空気がひとつ大きく波打った。待ってましたとばかりの小声と、抑えきれない驚嘆と、飴の包み紙みたいにカサリと音のする好奇心。肩口まで届く金の髪が揺れ、宝石が音もなく光を散らす。


「殿下、まさか――」


 父の声は低く抑えられていた。白髪の混じりはじめたこめかみが、血管の鼓動をひそかに訴える。だが公爵として、彼は怒りを飲んだ。王家と争えば、波紋は家臣、領民、借り受け中の職人にまで広がる。父はそれを知っている。


「アーデン公爵。これは国家の将来のための賢明な判断だ。彼女には、王太子妃としての気質が――」


 王太子の言葉が続くより早く、別の声が割って入った。涙声で、しかしよく通る、民衆が好む物語のヒロインが使うような声音で。


「どうか……どうか、殿下のお心をお疑いにならないで。罪深いのは私です。私は男爵家のつまらぬ娘。けれど、殿下は私を……」


 男爵令嬢リーナ。私の「妹」だ。血は繋がっていない。父の遠い縁戚で、幼い頃から一緒に教育を受けてきた。彼女は潤んだ瞳をうつむかせて、震える指で胸元のペンダントを押さえた。そのしぐさの全てが、誰かに庇護されることを前提に出来上がっている。


 庇護、という言葉ほど、この場に似合う飾りはない。庇護は与える者が美徳を得、受ける者が安堵の物語を与え、眺める者が涙で心を洗う、いちばん安上がりの慈善劇だ。舞踏の間は、既に舞台に変わっていた。


 母は私の手を握った。細くて温かい指先。幼い頃、熱を出した夜に額を撫でてくれたのと同じ手。私は母の手を握り返し、ゆっくりと息を吐いた。


「殿下。ご判断は承りました」


 口を開いた自分の声が、思いがけず澄んでいたことに、私自身が驚いた。王太子の瞳がわずかに動いた。彼は私が泣き崩れると思っていたのか、激情で詰め寄ると思っていたのか。どちらでもない現実に、言葉をひとつ落とした。


「イリス……」


「公の場において、王家の決定に私個人の感情を重ねるつもりはございません。公爵家は王家の臣。父の判断に従います」


「イリス姉様……」と、リーナが絹を引き裂くように小さく呼んだ。濡れた睫毛の陰で、口角がほんのわずか、見えない角度で上がったことに、私は気づいた。妹の笑み。誰にも気づかれないほどの、小さな勝利の印。


 私はその笑みを胸の一番奥にしまって、鍵をかけた。


 ――今、怒りを抱えてはいけない。


 怒りは、家を燃やす火と同じだ。焔は美しく、温かく、強い。けれど、薪を選ばない。使用人も、納屋も、古い葡萄棚も焼いてしまう。父の背中、母の指先、厨房の人々の笑い声。守るべき縁は燃やせない。


 だから、私は決めた。屋敷を出る。


 王太子の視線が私を射抜く。彼の周りには、見えない針で織られた幕がある。幕の向こうから人を見て、人に見られず、ほつれを人に直させる幕。私は、その幕から踏み出す。


 夜会の終わりの合図が高らかに鳴り、舞踏の間に桜の花弁の紙吹雪が降った。春分の祝祭。誰もが春を祝う。私も祝おう。自分にとっての春を。


 ◆


 深夜。屋敷の裏庭にある小さな練兵場。子どもの頃、父に剣を習い、教師に姿勢を直され、兄たちの背中を追って走り、転んで、泣いて、笑った場所。石畳の隙間からは春草が顔を出し、砂は冬の湿りをまだ少し残している。


 私は短剣を抜いた。王家から贈られた装飾の多い剣は置いてきた。飾りは戦場で重い。残すべき相手は、煌びやかな城ではなく、目の前の一歩だから。


 低く構える。前足の拇指球で地面を押し、後足で支え、足の裏に重心を落とす。肩の力を抜く。呼吸は、長く吸って、短く吐いて、もう一度長く吸う。夜気が鎖骨の下を通って肺の奥に落ちる。


 一度、振る。


 空気が切り分けられて、音にならない音を立てた。刃は、私の腕の延長――ではなく、背骨の延長。腰の回転が刃の角度を決める。肘で押すな、背で押せ。父の声が背中から聞こえる。私はそれに従い、足を入れ替え、もう一度振る。三度、四度。汗が額に滲む。冷たい夜気が皮膚を撫でて、目の奥が冴える。


 大丈夫。感覚は、まだ私の中に残っている。


 短剣を鞘に納め、私は夜空を仰いだ。薄雲のむこうに、春の星座が滲んでいる。かつて学者が星の運行に意味を見たように、人もまた、自分の運命に意味を見出したいのだろう。けれど、星に名前をつけたのも、人の側だ。名前は、重くも軽くもなる。明日の朝、私は自分に別の名前を与える。


「お嬢様」


 声に振り返ると、練兵場の入り口に、厨房長のレオンじいが立っていた。背を曲げ、白い髭を顎にためて、火の番の匂いを纏っている。彼はどんな冬でも、厨房に春の匂いを連れてきた人だ。バターの泡立つ音と、骨の湯気と、パンの焼ける匂いと。


「こんな夜更けに、何をしていらっしゃるのかと思えば……いや、見ればわかりますな」


「何も言わないで、レオン。私は、明日、屋敷を出るつもり」


「知っております」


「知ってるの?」


「わしの耳は、若い頃よりも役に立ちますでな。皿の鳴る音で客の気分がわかる。階段の踏む音で、お嬢様の顔がわかる。これは、明日出ていく人の音だ」


「ずいぶん具体的な耳ね」


「年寄りの耳は、何十年分のスープの泡の音を聞いていますから」


 レオンじいは歩み寄り、私の手を両手で包んだ。その掌は、火の近くで長年働いた人の手だ。固く、しかし温かい。彼は小さな包みを差し出した。


「乾燥スープです。肉も野菜も、少しずつ。水さえあれば、どこでも湯気が立つ。温かいものが、心の鎧になります。忘れないで」


「……ありがとう」


「それと、お嬢様」


「なに?」


「怒りで歩くと、足がいつの間にか同じ場所を回っております。希望で歩くと、道が勝手に分かれていく。年寄りの言うことは信用なりませんが、それでも言わせてくださいな」


「信用するわ。今夜ぐらいは」


 レオンじいは微笑んで頭を下げた。私は包みを抱え、練兵場を後にした。石畳の端に、幼い頃に躓いて膝を破った跡がまだ残っていた。人の傷は皮膚の上では消えても、場所は覚えている。


 ◆


 朝。白いカーテン越しの光が、部屋の中に薄く積もっていく。私は机の上の小物を極力置いていくことにした。贈り物の多くは、もう私のものではない。王家の印がついたもの、社交の場で必要だったもの。宝石箱は空にした。代わりに、旅装、丈夫な靴、短剣、針と糸、小さな油壺、紐、コンパス、帳面、使い慣れた羽根ペン。それから――レオンじいのスープ。


 部屋の扉を開けると、廊下に父と母が立っていた。父は既に外套を着ており、母はスカーフで髪をまとめている。父は一歩、私に近寄って、何かを言おうとして唇を噛んだ。


「父様」


「イリス」


 呼び合うだけで、喉の奥が熱くなるのは卑怯だ。私は背筋を伸ばし、父に向かって深く頭を下げた。


「王家と争う気持ちがないのではありません。争えば、敗者は領地でも王家でもない。名もなき人々です。私は、彼らに石を投げられたくありません」


「わかっている」


 父は私の肩に手を置いた。その手は、幼い頃に初めて馬に乗った日、落ちかけた私を支えた手だ。重いが、押しつけない。支えるだけの手。


「お前は賢い。賢いということは、傷つきやすいということだ。それでも、お前は自分で選ぶのだろう」


「はい」


「ならば、父としてはただ願うしかない。選んだ先で、お前が笑うことを」


 母が一歩、前に出た。彼女は私の頬を両手で挟み、額に唇を落とした。


「あなたはわたしの娘。どこへ行っても、それは変わらないわ」


「うん」


「必要なときに帰っていらっしゃい。家は、帰るためにあるのだから」


「うん」


 涙が喉まで来て、そこで止まった。泣いたら、揺れる。揺れたら、足が遅くなる。私は涙を喉に戻し、もう一度頷いた。


 玄関では、使用人たちが目を赤くして並んでいた。侍女頭のエミーが、布袋をそっと差し出す。


「少しばかりの銅貨と、針と糸、それと、護符です。神官様にいただいたもの」


「ありがとう、エミー」


 馬丁の少年が、庭の隅で嗚咽をこらえながら鼻をすすっているのが見えた。私は彼に歩み寄り、肩に手を置いた。


「お嬢さ――失礼、イリス様。俺、もっと乗りやすい馬にしてやれたのに。昨日の白は気難しくて」


「昨日の白は、私に似ていたから、ちょうどよかったわ」


 少年は一瞬、わからないようにしてから、泣き笑いのような顔になった。人は、似ているものを嫌うのだ。だから、私も自分の頑固さを嫌ってしまうことがある。けれど、その頑固さがなければ、今日という日も選べなかった。


「行ってまいります」


 門扉が開き、朝の光が溢れ込んだ。私は外に出た。背中に、家の空気が吸い込まれていく気配を感じた。門が閉まる音は、驚くほど静かだった。


 ◆


 王都の北門へ向かう道は、春の洗濯物の匂いに満ちていた。青い空に白い雲が薄く伸び、街角ごとにパンと果物の匂いが混ざり合う。昨日まで私に優雅さを演出していた香油の匂いは、朝の風に剥がれ落ちて、どこかへ消えた。踵の低い靴は実に歩きやすい。すれ違う人々が彼らの用事に忙しく、私に向ける視線は短い。街は、名もなき人の用事で回っている。


 北門の手前で、私は一度立ち止まって振り返った。王都は大きい。すべての窓に物語があり、すべての路地に誰かの息遣いがある。私はそのすべてを背にして、門をくぐった。見送る兵士は、私の顔を知らない。彼らにとって私は、ただの旅人にすぎない。


 名を伏せることは、軽くなることだ。肩書きは重さだ。重さは人を支えるが、沈めもする。今日の私は軽く、そして、どこか頼りない。頼りなさは、足を速くする。


 門を出てしばらく歩くと、沿道に屋台がいくつか出ていて、焼いた魚と粗末なパンを売っていた。私は銅貨を二枚出して、魚とパンを受け取った。魚は塩辛く、パンは少し固い。レオンじいのスープを想像したら、笑いが喉の奥で弾けた。今夜、宿に着いたら、これを湯に溶かそう。湯気は、体だけでなく、心を温める。温かいものが、心の鎧になる。


 最初の目的地は王都から馬で半日の町、レーヴ。冒険者ギルドがあり、行き交う人の多い町。無名でいられるなら、無名を選ぶ。けれど、ただの匿名ではなく、自分で選んだ名前で。


「リス」


 口の中で、新しい名を試した。イリスから冠を外し、尖りを丸くした音。舌の先に残るのは、自分で決めたという小さな甘さ。私は足を速めた。


 ◆


 午を過ぎた頃、街道沿いに小川が現れた。岸には柔らかな草が揺れ、遠くの林からは鳥の声が刺繍のように重ねられて聞こえる。私はそこで一息入れることにした。水で顔を洗い、パンをかじる。塩気は相変わらず、しかし腹は心得ている。腹が静かなら、人は冷静でいられる。


 ふと、草むらの向こうで、低く掠れた声がした。


「……助け、て」


 草をかき分けると、少年がいた。まだ背丈は私の肩ほど。質素な革鎧が泥で汚れ、右足首を押さえている。捻挫だ。足首は腫れ、靴紐が食い込んでいる。彼の隣に転がる小さな背嚢の口からは、採取したばかりの薬草が覗いていた。


「動かないで。足を見せて」


「だ、誰」


「通りすがり」


 私は靴紐を解き、足首を慎重に押さえた。痛がる声が上がるが、触れるべき場所と触れてはいけない場所はわかる。私は周囲の枝を三本選び、布で固定し、副木を作った。氷の符を指先で描いて、薄い氷膜を腫れの周りに作る。彼の呼吸が落ち着く。


「歩ける?」


「む、無理」


「背負うから」


「え……」


「しゃべると痛いから、黙ってて」


 少年を背負って立ち上がると、筋肉が合理的な重みを確認した。重くはない。重みには意味がある。私は、ゆっくりと街道に戻り、近くの駐屯所に向かった。そこで事情を説明すると、兵士が驚くほど手早く少年の仲間を探してくれた。ほどなくして、駆けてきた二人組が何度も頭を下げる。


「ありがとう! 本当にありがとう!」


「こいつ、慌てると足元見ないんだ。助かった」


「次からは見なさい」


「は、はい!」


 私は少年を引き渡し、兵士から簡単な礼を受けた。貨幣でなく、手書きの通行補助証。夕方以降の門の出入りに役立つやつ。貨幣は善意を買うには足りないことが多い。けれど、善意は時に、別の形で返ってくる。私はそれを懐に入れ、再び歩き出した。


 ◆


 レーヴの町は、夕暮れの色を集めていた。赤銅色の屋根が連なり、煙突からの煙が細く上空に線を引く。町の中心には大きな掲示板があり、紙片が風にめくれてぱたぱたと立てる音がする。冒険者ギルドの二重扉を押すと、暖気とざわめきが押し返してきた。


「ようこそ、レーヴ冒険者ギルドへ。初めて?」


 カウンターの奥で、栗色の髪をまとめた女性が笑った。瞳は働き者の色。肩書きにひるまない、現場の人間の瞳。


「ええ。登録をお願いしたいの」


「了解。名前は?」


 私は一瞬だけ、深呼吸をした。胸の内側が静まるのを待つ。


「リス」


「姓は?」


「……なし」


「了解。身元保証の代わりに、基礎能力の計測と簡単な試験、それから保証金が必要ね。保証金は、最低限の道具と、万が一の保険に回すから、あなたへの投げ縄でもある。準備は大丈夫?」


「大丈夫」


 私は布袋から銅貨を出し、カウンターに置いた。書類に名前を書き込むと、彼女――胸元の名札には「ミーナ」とあった――が目を細めた。


「字がきれい」


「そう?」


「うん。筆跡って、結構人生を語るのよ」


 彼女は冗談めかしてウィンクし、私を奥の計測室へ案内した。そこで私は、握力や敏捷、簡単な魔力適性の計測を受けた。計測器の魔石が干渉音を立て、板に数字が浮かぶ。


「魔力は中の上。氷属性に僅かに偏り。剣の構えは、反復の癖がきれい。体の線が無駄じゃない。……ふむ。退路の確保や、後衛の護衛の適正が高いわ。何より、目がよく現場を見てる」


「目?」


「人はね、自分の役割を見るときは胸を張るの。でも、全体を見るときは少し肩が落ちる。あなた、今、少し肩が落ちてた。状況を見てる時の癖。悪くない癖よ」


 ミーナは薄い板に私の能力の概略を記した。そこに「特記:退路の構築に向く」と書き込むのが見えた。


「初依頼は薬草採取が無難。北の丘に生える青花草。日暮れ前に戻るなら、今からでも受けられるけど……どうする?」


「受けるわ」


「じゃ、これ依頼票。地図はここ。道は簡単だけど、油断は簡単に人を転ばせる。日暮れが早いから、戻りは余裕を持って」


 私は頷き、依頼票を懐にしまってギルドを出た。空はすでに茜色で、丘の上に羊雲が並んでいる。歩幅を少し広げ、足の裏で地面の硬さを測りながら進む。草の匂いが濃くなり、虫の声が増えていく。


 丘の斜面に青花草が点々と咲いていた。花弁は薄く、触れると壊れそうで、けれど茎は案外と強い。私は丁寧に根元から摘み、湿った布で包んだ。背中に、今日一日の重さが静かに積もっていく。


 帰り道、小雨が降り出した。空から落ちる水は、埃を沈め、匂いを濃くする。私は外套の帽子をかぶり、足を速める。道の小さな窪みに溜まった水が、星のように空を映す。星を踏むのは、少しだけ気持ちが良かった。


 ギルドに戻ると、受付は忙しさの山場を越えたところだった。私は依頼品を提出した。ミーナが手際よく確認し、判を押し、報酬を渡す。


「少し遅れたから、減額ね。……でも、よく戻った」


「遅れたのは、道で転んだから」


「道はいつもそこにあるけど、足はいつも同じじゃない。初日は、それだけで十分」


 カウンターの端で、昼間の少年の仲間らしい二人がこちらを見て、目礼した。善意は貨幣にならない。だけど、目礼は、人の背を押す。私は胸の奥で小さく頷いた。


 宿のベッドは硬い。しかし、身体は硬さを知っている。柔らかい羽根布団よりも、眠りは深い。外は雨音が規則正しく、屋根を叩く。私はレオンじいのスープを湯に落とし、湯気を吸い込み、湯飲みを両手で抱えた。


「温かいものが、心の鎧になる」


 呟いて、目を閉じた。怒りはもう、湯気の向こう側に薄れていく。背を押しているのは、怒りではない。次の一歩への希いだ。


 ◆


 ――夜会の破談は、翌日には街角の噂話になっていた。


「公爵令嬢は冷酷で、王子は情に厚いらしい」


「いや、逆だ。公爵令嬢は自ら身を引いたって」


「妹君が涙を流したんだと。可憐だった、って衛兵の従弟が」


「涙は何にでも似合うのよ。真実にも嘘にも」


 ギルドの片隅で、私は温いミルクを飲みながら、その断片を聞いた。噂は尾ひれをつける。私はそのどれにも当事者だ。けれど、どれにも関わらない。私が関われるのは、自分の選ぶ仕事、自分の選ぶ一歩だけ。


「リス」


 ミーナが声をかけた。彼女の手には新しい依頼票。


「外れ村で家畜荒らし。低ランクだけど、夜だし、危険はゼロじゃない。行く?」


「行くわ」


「戻りは、朝方かもね。気をつけて。……それと」


 ミーナは一瞬言いよどみ、私の目をまっすぐ見た。


「王都から視察が来るって話がある。騎士団がギルドの連携を見に。余計な噂に巻き込まれないようにしなさい」


「巻き込まれるほどの名はないわ」


「名はあるものだけじゃない。ないこともまた、見られるの」


 私は笑って頷いた。ミーナは仕事の女だ。彼女の忠告は、私の身の丈に合っている。


 ギルドを出ると、空気はまだ湿っていた。外れ村への道は、昨夜の雨でぬかるんでいる。私は足を低く運び、泥の吸い寄せる音を避けて歩いた。村の柵は古く、昼間に見ただけでも弱い場所がいくつもある。私は村長と話し、足跡を見て、糞の性状を調べ、魔猪の単独だと推理した。


 夜。私は柵の内側で火を焚き、風下に香辛料を撒いた。鼻を潰し、目を刺す匂い。魔猪の影が柵の向こうで揺れ、重い鼻息が聞こえる。狙いは悪くない。だが、突進の角度は、読み違えた。


 柵が割れた。私は反射で子どもを押し倒して庇い、肩に衝撃を受けた。骨は大丈夫。筋が悲鳴を上げる。私は短剣に手をかけ、吠える。声は人にも動物にも効く。魔猪が一瞬怯んだ隙に、私は香辛料をさらに投げ、村人が用意した火の矢が空を裂いた。魔猪は退いた。納屋は壊れた。


 翌朝、私は無償で柵の補修を手伝った。杭の打ち方を変え、弱い場所の構造を直し、若者にやり方を教えた。失敗は胸に刺さる。しかし、刺さった棘は抜かない。刺さったまま、歩き方を変える。そうすれば、次に足を切らない。


「次はうまくやってくれ」


 村長はため息とともに言った。私は頷いた。ため息は罵声よりも重い。でも、重いものは、運べば筋肉になる。


 町へ戻る途中、空は薄い青に変わっていった。朝は、毎日、新しい。人の噂も、毎日、新しい。ギルドの扉を押すと、昨日とは違うざわめきがあった。


「騎士団だ」


 誰かが囁いた。私が視線を向けると、青い外套を纏った長身の騎士がカウンターに立っていた。昨日、渓谷で見た背中――ではない。今日が初めてだ。けれど、彼の背中には「退路」がない。前へ進む者の背中。片手で扉を開け、もう片手で人を押し上げる背中。


「現場で後衛の連携が崩れたが、ある冒険者が支点になった」


 と、彼は淡々と述べた。ギルドの人間がざわめく。名を問われ、彼は私を見た。瞳は静かだ。


「彼女だ」


 私は会釈した。彼の名は、アルバート。王都近衛騎士団長代理。 rumor はすぐに形を持つ。私はその形をうなずきで受け止めた。


 彼は私に近づき、小さく言った。


「君の足は速い。退路の確保に向いている。次からは合図を一つ増やせ」


「了解しました」


「王都は噂が速い。気をつけて」


「はい」


 それだけ言って、彼は去った。彼が通った後、空気が少し軽くなった。人は、背中で空気を変える。肩書きではなく、歩き方で。


 私は肩を回し、まだ残る痛みを確かめた。痛みは意味を持つ。意味を持つ痛みは、歩くのを止めさせない。


 宿に戻ると、窓辺に朝の光が差していた。私は羽根ペンを取り、帳面を開いた。今日の失敗、今日の選択、今日の一歩。文字は静かに、紙の上を歩いた。


 ――怒りで書くと、筆が尖る。希望で書くと、行が伸びやかになる。私は希望で書こう。怒りは燃料だが、燃やしすぎると視界を曇らせる。視界の澄んだ者だけが、退路を作れる。


 ペン先が止まる。窓の外で、子どもが笑う声がする。私はその声に、ほんの少し救われた。


 明日も歩く。名のない者として。選んだ名で。温かいスープを懐に入れて。


 ――最初の一歩は、もう終わった。次の一歩へ。

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