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契約結婚が終わる日

作者: ゼン

 


 期間限定の結婚の始まりは、式どころか顔合わせも省いた、寝室での「はじめまして」だった。




「これは、第一王女殿下からの求婚を断る為の三年間限定の契約結婚だ」


 本日、夫になった男、ウィリアム・キャメロン侯爵(二十五)の言葉に、私ことユマ・ペネ──改め、ユマ・キャメロン(十九)はこっくりと頷く。


「心得ております」


 普通なら、甘くて幸せな(ひと)(とき)を想像する場面だろうが、私たちの場合は違う。甘さは、砂糖一粒すら見当たらない。


 壁には金糸で縁取られた刺繍のタペストリーが飾られ、窓辺の花瓶には朝摘みの白薔薇が活けてある。

 カーテンは手織りのシルク、床には東方産の絨毯。暖炉の前には、純銀製の薪置きがさりげなく据えられている。

 どこを見ても、裕福であることを隠すどころか、誇る気満々の造り。

 ここに比べれば、私の実家の私室なんて、干し草と釘でできた物置小屋のようなもの。


 そんな寝室の片隅で、まるで契約書の読み合わせのような会話は続く。


「子どもを作る気はない。跡取りは離縁後に養子を取る」

「承知いたしました」


 新婚初夜がこんな感じでいいのか?

 正直、自分でもちょっと思う。

 でも、まあ仕方ないか。この状況じゃ、むしろこれが自然な流れなのかもしれないなあ、とも思う。


 ウィリアム様が十代の頃、父親が早世し、彼は若干二十歳にも満たぬうちに爵位を継ぐこととなった。

 それでも彼は若さを感じさせない落ち着きと責任感で家を支え、侯爵家をさらに繁栄させたと言われている。

 加えて彼は第一近衛隊の副隊長という要職についていて、剣の腕前は騎士たちの間でも「模擬戦をして完敗しない者はいない」と噂されるほど。

 おまけに、学生時代は学問でも優秀だったらしく、卒業時には『王立アカデミー最優秀生徒』として表彰までされたとか。


 そんな輝かしい経歴と才能を持つ男は、見る者を圧倒する端正な顔の持ち主でもある。

 その美貌に惹かれて送られてくる恋文が毎日のように山積みになり、屋敷の一角には『キャメロン侯爵家恋文タワー』なるものまで存在するのだから、もう別世界すぎて言葉も出ない。


 天はこの男に何物与えるつもりだ。二物どころじゃない。三物、四物、いや五物くらいある(一つくらい私に寄越しなさい)。


 そんな完璧超人の妻に選ばれた私といえば──


 運動全般が怪しくて、女学生時代の体育では、ちゃんと走っていたのに「歩いてるの?」と真顔で聞かれるレベル。

 勉学の方も……まあまあ、それなりに……? 上から数えたほうが早い、とは言えなかったけど。たぶん、やればできたはずだ。

 で、肝心の顔面偏差値だけど、自分で言うのもなんだけど、死んだ祖父母から「天使ちゃん」って呼ばれていたくらいだし、そこそこ…………すみません。あれは、愛ゆえの錯覚です。


 ──お分かりいただけただろう。 

 比べるのもおこがましいが、彼と私は雲泥の差である。


 私が選ばれた理由は、当然、『私だから選ばれた』のではない。誰もが正しく察する通り、『都合が良かった』からだ。


 ウィリアム様によると、彼に恋した第一王女殿下のアプローチを断るには、もう『既婚者である』という事実が一番手っ取り早いそうだ。

 王族にとっても、既婚者なら諦めさせやすいらしい。王女殿下の気持ちを抑える口実として、国王たちが使えるからだろう。

 それが、私との契約結婚に至った理由だ。


 つまり、『美麗な第一王女様に求婚されるほどの男が、どうしてわざわざ私を選ぶのか?』という疑問のアンサーは、彼が私に一目惚れしたから──なんて、おとぎ話のような展開ではなく、合理的判断というわけだ。


 残念ながら私には灰かぶりのような儚げな美しさもなければ、足長おじさん的なパトロンもいないのだ。


 ……と言う話は、さておき。


 こうして話がまとまった背景には、私にものっぴきならない事情があったりする。


 私の実家は今にも崩れそうなほどの貧乏子爵家で、財政は破綻寸前。

 次代子爵の兄は身重の妻を抱え、両親も苦しい生活の中でなんとかやり繰りしている状態。

 そこへ『援助』という名の葱を背負った鴨……ではなく、救いの手が差し伸べられたら、断る選択肢なんてあるはずがない。

 だから私は、ウィリアム様の条件を全て呑むことにした。


 三年間だけ契約妻として彼に協力し、侯爵夫人としての務めを果たす。

 それが、この結婚の全てである。


 もしも、鴨葱が好色爺だったとしても話は受け……るのかは、即答できないけど……。

 いやいや、そもそも『もしも』の話は投げないでいただける?


「君がこの結婚をどう利用しても、俺は構わない。金も小遣いの範囲でなら好きに使っていいし、子供を作らないのなら秘密の恋人とやらも作ってもいい。ただし一つだけ覚えておいてくれ」


 秘密の恋人なんか作らんがな。

 と、思いながらも、私は神妙な顔で「はい」と頷く。


「俺に恋をするな。もし万が一、感情が契約を越えることがあれば、その時点で君の家族への援助は打ち切る」


 彼の声は冷たく、契約書の最終条項を読み上げるような無機質な響きがあった。


 けれど、そんなのは予想済み。


 そもそも合理性の塊みたいなこの男が、突然「愛してる」だのなんだの言い出したら逆に怖いし、物語によくいる『おもしれー女』的ヒロインを張れる自信なんて私にはない。


 彼が私に愛の言葉を囁くとしたら、それは壺でも売りつける為の詐欺トークと同じ類いに違いない。


 私は絶対に壺は買わない!


 そんなお金があるなら、生まれてくる甥か姪に惜しみなく貢ぎたい。


 だから、私はガッカリなんてせずに、「承知しております」とキリッと答える。


 それにしても、顔のいい男ときたら自尊心が、お高い。私も美女に生まれていたらこんな物言いをする人間だったのだろうか? と思ったり思わなかったり。


 おっと、話が脱線したので戻そう。


 すなわち、この結婚に愛情なんて不要だし、初めから期待なんてしていない。

 私はただ、三年間、家族の為にこの役目をまっとうするだけ。


 彼は短く「それじゃあ、お休み」とだけ言い、部屋を出て行った。


「おやすみなさいませ」


 形式的に返した私の声が部屋に響き、静寂に包まれる。


 残された私は、広すぎる部屋で「我、ここぞ!」と主張するキングサイズのふわもちベッドに、思いきり「むんっ!」と飛び込んだ。




 ◇◇◇




 そうして、あっという間に三年経った。



 ウィリアム様との仲は『良好』と言って間違いないだろう。少なくとも、契約夫婦としては充分に。


 実は、彼と私は趣味が合った。

 本や音楽の好みが一致していて、毎週土曜の夜には、忙しくても必ず二人だけの読書会を開いていた。


 普通の夫婦といっても通じるくらいの仲の良さ……と言いたいところだけど、『普通の夫婦』なんて甘い響きは、私たちには似合わない。契約夫婦にそんな幻想は似合わないのだ。

 さしずめ、ヲタク仲間という表現が正しいことだろう。

 それでも、二人で過ごした時間が楽しかったのは事実。


 例えば、本屋巡りで『今月の目玉』をどちらが先に見つけるか競争した時、私がたまたま一歩先に見つけたら、彼が悔しそうな顔をして「負けた」とムスッとしたのを見て、思わず笑ってしまったり。

 あの時の彼の侯爵家の当主らしからぬその表情が、なんとも面白かった。


 そうそう、読書会中に熱論を交わしたこともある。

 とある小説を巡り、彼は「主人公は愛の為に犠牲を払った悲劇のヒーローだ」と主張したけれど、私は「ただの構ってちゃんにしか見えません」と譲らず、気づけば朝日が差し込んでいた。

 彼が「君の解釈は独特だな」と笑い、その顔を見て私も笑った。


 契約の話を最後に聞いたのは、結婚して半年ほど経った頃だったし、それきり一度も、その話題が出たことはない。気を使ってくれたのだと思う。

 彼はクールビューティー系の氷属性系の美男だけど、見た目から得る印象よりもずっとずっと優しいのだ。


 契約で繋がれただけの冷たい関係ではなかった……と、思いたい。

 思うだけなら、自由だし、いいよね?


 とはいえ、契約は契約。約束ごとは守らなければならない。


 私は、この日の為に少しずつ準備を進めてきた。

 まずは隣町の診療所の受付係の面接(住み込み可)を入れた。

 この結果がダメでも、別の面接を受けるつもりだ。


 一人で生きていく為の道を探す。それが今の私にできる精一杯のことだから。


 援助のおかげで実家は立て直せたし、もう私は必要ない。兄夫婦がいる今、私は家族の足を引っ張るどころか邪魔になる可能性すらある。義姉は再びの妊娠で、今度は双子だという。そんな時に出戻りの小姑が押しかけるなんて、迷惑極まりない。

 いや、家族仲はいいのだ。……いいはずだ。義姉とも良好な関係だし、私のことを「うまちゃ」と呼ぶ甥は世界で一番可愛い。


 が。親しき仲にも礼儀あり。


 ここは潔く出戻りは回避しておくべきだろう。


 それに、もう一つ大きな理由がある。

 第一王女殿下が、隣国から来た王子に恋をして、正式に婚約したのだ。

 おかげでウィリアム様に向けられていた矢印は、すっかり別の的に逸れてくれた。既婚者という盾も、もう役目を終えたことになる。


 だから、私は今日、キャメロン侯爵家を出る。


 しかし、何も言わずにいなくなるのはやはり失礼にあたる。だから、挨拶くらいはしようと思ったのだが、問題がある。

 それは、彼が忙しすぎて全然会えないこと。

 第一王女殿下の婚約者が隣国から来るという一大事で、王宮中が大忙しらしい。警備計画の見直しが難航しているそうで、彼もその対応に追われている為、ここしばらくほとんど顔を合わせていない。


 最後に彼と顔を合わせたのは、数日前の土曜夜だった。

 疲れ切った彼は、読書会の途中で寝落ちしてしまった。

 椅子に背を預けたままスヤスヤ眠る姿がなんだか可愛らしくて、私は毛布をかけてあげたのだけど……──そこで事件が起きた。


 事件ですとも!


 だって、寝惚けた彼がいきなり私にキスしてきたのだから!


 一瞬、私は頭が真っ白になった。


 何が起きたのか理解するのに数秒かかったけど、理解した瞬間、脳内が大混乱した。

 あの合理性の塊みたいな彼が、私にキスなんてするはずがないからだ。

 ……いやいや、きっと寝惚けてただけだ。間違いない。そうじゃなきゃ説明がつかない。

 そうだ、あれは『間違い』だ。きっと疲れすぎていたのだろう。

 寝落ちして、無意識のうちにそんなことをしたに違いない。理屈ではそう分かっている。

 でも、ほんの一瞬「もしや……」なんて期待しかけた自分が情けない。


 忘れよう。忘れるべきだ。

 そう、思い出として心の引き出しにしまっておこう。


 そんな複雑な気持ちを抱えつつ、私は荷物をまとめた。裏口には隣町行きの馬車が準備してあるし、彼への挨拶用に軽食も用意済み。

 挨拶したら即出発! という準備万端な計画に、我ながら少し感心してしまう。


 そうして王宮へ向かう私は、ちょっとだけ……いや、正直に言うと、かなり憂うつだ。


 だって、契約終了の挨拶なんて、どう切り出せばいいの? 彼は、私に何を言うの?

 ……それとも、きっと彼のことだから、あっさり「ご苦労」とでも言うんだろうか。ああ、言いそう。


 そんなことを考えているうちに、馬車の揺れがやけに大きく感じられてきた。


 それでいて、私の頭の片隅には、ほっぺたに触れるあの感覚が居座り続けている。

 忘れようとすればするほど、あの温もりが勝手に蘇ってくるのだから厄介極まりない。ぐぬぬ。


 ふと、窓の外に目をやる。

 広がる街並みを見つめながら、これで本当に最後なんだと思うと、胸がぎゅっとした。


 読書会や本屋巡り、オペラの記憶。そんな何気ない日々が、もう戻らないのだと思うと、不意に涙腺が緩みそうになる。


「はあ……」


 泣かずに、上手くお礼を伝えられるようにしなくては。


 私は自分にそう言い聞かせ、頬を軽く叩く。


 泣かない。絶対に泣かない。


 あっさりした別れがきっと私たちらしいし、それが一番いいはずだ。


 そう思っているはずなのに、胸の奥がどうしようもなくざわついている。


 このまま去ってしまったら、もう二度と彼と本を読みながら笑うことも、他愛もない会話を交わすこともない。

 それが堪らなく悲しくて、寂しい。


 私は、この想いを抱いたまま生きていけるだろうか。


 ◇


 馬車が王宮の裏門に到着し、顔なじみの衛兵に名乗ると、あっさり通してくれた。


「あ、いつもの差し入れですね?」

「ええ」


 案内もそこそこに、私はいつものように軽食の入った籠を抱えて兵舎のほうへ歩いていく。


 そうして、ウィリアム様の同僚たちに差し入れを渡していると、遠くからウィリアム様が駆け寄ってきた。


「ユマ!」


 周りの同僚たちはその声に反応して揶揄うような口笛を吹き、冗談めかして冷やかすと、散り散りに消えていった。


「お疲れ様でございます。差し入れを持って参りました。じゃがいもとひき肉の香草パイと、マーマレードジャムのパイです」

「ありがとう、嬉しいよ。そろそろ食べたいと思っていたんだ」


 変わらない優しい口調。

 それでも、どこか浮ついて聞こえるのは気のせいだろうか──なんて。気のせいに決まってる。


「でも……すみません、作り過ぎてしまいました。……余ってしまうかもしれません」


 今日で作るのが最後になるかと思うと、つい気合が入りすぎてしまい、量はいつもの倍になってしまった。


 貴族の妻が料理するなんて本来ならおかしいけれど、私は三年間それを許されてきた。それも、彼が優しいおかげだ。


「余るものか。皆も、君の焼くパイが好きなんだ。ああ、そうだ。落ち着いたら観劇に行こうか。ユマが好きな脚本家の喜劇なんだ」

「え? あの……」


 突然の提案に、私は一瞬言葉を失う。


 この人は……今、自分が何を言っているか分かっているのだろうか。


「ん?」

 彼が首を傾げる。


「観劇は……難しい、かと……」

「難しい? どうして?」

 ますます首を傾げる仕草の彼から目を逸らす。

「……今日が結婚して三年目だからです」

 おずおずとそう告げると、彼の目が見開いた。

「あっ、今日は三年目か……。そうだった、結婚記念日だったな。すまない、今日はディナーには間に合わなそうなんだ。来週、絶対に埋め合わせをするから」

「え?」

「え?」

「あの、三年目は、契約期間終了ということです、よね? 離縁ですよね?」

「は?」

「ですから、契約の期限が来ましたので、お別れに参りました。本日、侯爵家を出ていきます。三年間お世話に──」

「は?」

「え?」


 あれ、この反応。もしかしなくても本気で忘れてた?


「……あの、もしかして……契約のこと、もう……忘れてましたか?」


 彼は数秒間、私の言葉が頭に入ってこないような顔をしている。


「い、いや、忘れてたんじゃない……でも、俺は、もう必要ないって、君もそうだろうって──そう思ってたから……」

「……え?」


 私が混乱しながら次の言葉を探していると、彼がぽつりと尋ねる。


「……君は、俺と離縁したいのか?」

「離縁したいのは旦那様のほうですよね?」

「したくない」

「え?」


 私はますます混乱した。

 ここ数分で、「え?」の使用回数が自己新記録を更新している気がする。


 そんな私を前に、彼がかすれた声で「ユマ……」と名前を呼んだ。泣きそうな声である。


「だ、旦那様?」

「頼む。今日、絶対家に帰るから、君も屋敷にいてくれ……! 頼む!」


 その声には、冷静さのかけらもなかった。私は驚きつつも、思わず「……はい」と頷いてしまった。



 こうして私はお屋敷に戻ることになったのである。



 帰宅すると、既に使用人たちにはお別れの挨拶をしてしまったというのに、彼らは盛大に大歓迎してくれた。


 ……なぜだ。


 理由はさっぱり分からない。


 だけど、やけに明るい顔の彼らを見ていると、何だか私も恥ずかしくて「ただいま戻りました」と言うしかなかったのである。


 ◇


 ウィリアム様は、ディナーの時間より早く帰宅した。


 どうやら無理をして早退してきたらしいが、詳しい理由は語ろうとしない。


 その姿に妙な緊張感を覚えた私は、話を切り出すことにした。


「旦那様……いえ、キャメロン侯爵様」

「『旦那様』がいい」


 ムスッとした表情に少し戸惑いながらも、私は本題を切り出す。


「契約では、この結婚は三年というお話でしたよね?」


 私たちの契約結婚の期間が三年だった理由には、ちゃんとした背景がある。

 貴族社会では、跡取りが生まれなかった場合、三年を区切りに離婚や、愛人を持つことが暗黙の了解として認められている。それを見越しての三年。

 合理的な話だと私も理解していたし、結婚当初は納得していたはずだった。


「……更新したい」

「更新?」

「そうだ」

「……と、なると旦那様は愛人を持たれるおつもりですか?」

「っ、そんなもの持たない! 俺は──」

「ですが、跡取りの問題もございますでしょう?」


 そう言うと、彼は少し震えた声で私の名前を呼んだ──「ユマ……っ!」


「は、はい」


 突然、大声を上げた彼に驚き、私は少し後ずさった。

 すると彼はガバッと頭を下げるではないか。


「俺は君と別れたくない!」

「え?」


 顔を上げた彼の目には、驚くほど真剣な光が宿っていた。

 まるで、心の底からの訴えをそのまま瞳に宿しているかのようだった。


「君を愛してるんだ!」

「まあまあ、嘘はやめてくださいな」

「嘘じゃない! 君と一緒にいるのが楽しくて……気づいたら、結婚して半年も経たないうちに、もう好きになってた! でも言えなかった。それに、君も楽しそうだったから……このまま契約のことを忘れてくれたらって……」


 その言葉に、ただただ驚く。


 驚くついでに、右頬をつねってみる。


「あ、痛い」


 左頬もつねるが……やっぱり痛い。


 ──どうやら私は『おもしれー女』枠だったようだ。


「ユマ」


 彼が私の手を取る。

 力は強すぎず、それでいて離したくないという気持ちが伝わってくる。


「お願いだ、離れないでくれ。契約なんてどうでもいい。俺は、君を本当に心から愛してるんだ!」


 その言葉に、私は困惑する。


「つ──」

「つ?」

「つ、壺を売る気ですね?」

「? 壺? 何の話だ?」

「恋心につけこんで高額な壺を買わせる『恋壺商法』です」

「……それは、つまり、君は俺に恋心を持ってくれているのか!?」


「ノ、ノーコメントで」

 ──言ってから「はい」と言っているのと同じだと気づく私は大馬鹿者である。


「なんだ、それなら問題ないじゃないか!」


 彼が叫んだこのタイミングで、私は『準備』について思い出した。


「あ、面接」

 空気の読めないところのある私の呟きに、彼が即座に反応する。

「……面接?」


 彼の表情が、さっきまでとは明らかに違っていた。どこか緊張したような──いや、焦っているような顔をしている。


「ええ、これから一人で生きていく為に、ちゃんと働ける場所を探さないといけない、と思いまして、面接のアポイントを取っております」

「何の仕事だ?」

「診療所の受付係です」


 その言葉を聞いた瞬間、彼は眉間に皺を寄せ、ため息をついた。


「受付係なんて危険すぎる。求婚者が列をなすに決まってる」

「まさか。私に限ってそんなはず──」

「君は自分がどれだけ魅力的なのか分かってない。その面接は、俺が話をつけよう。謝罪し、断ってくる。いいね?」


 私は思わず黙り込んだ。

 けれど、その言葉の真意を考える前に、彼がまた口を開く。


「いや、それよりも……今さらだけど、これだけははっきりさせておきたい」


 私の目を真っ直ぐに見つめながら、彼は言葉を続けた。


「これから先も、ずっとここにいてくれ。俺には、君が必要だ」


 彼の言葉に、私は即答しなかった。

 代わりに、淡々と、言葉を並べる。


「『子どもを作る気はない』『養子を取る』──キャメロン侯爵様は、そう仰っていましたね、一番最初に」

「……それは、すまない。……本当に申し訳ない……」

「『秘密の恋人を作ってもいい』、『俺に恋をしたら援助は打ち切る』とも仰いましたね? あれは、全部『契約』の条項でした」


 彼の喉が動いた。

 けれど言葉は返ってこない。

 その沈黙を見つめながら、私は続ける。


「キャメロン侯爵様?」

「その呼び方は嫌だ! 離縁も嫌だ!!」


 子供のような言い方に、笑いそうになる。

 甘いかもしれないが、私はこの男が可愛くてしょうがない。

 そもそも怒りはないのだ。


「分かりましたから、落ち着いてくださいな」

「……」


 可愛いと思った時点で、この恋は沼である。


 実は、もうだいぶ前から私は浮かれていたりする。


「では、確認します。私は跡取りを産んでもいい相手になったということですか? 契約ではない、妻と母になってもいいのですか?」


 一拍の沈黙ののち、彼の顔がぱあっと明るくなる。

 けれどその頬には、涙の光がかすかににじんでいた。可愛すぎる。


「ユマ……! ああ、そうだ。……君と、家族になりたい。君との家族も持ちたい!」


 次の瞬間、がばっと抱きしめられた私は、勢いに負けて変な声が出た。


「んがっ」


 でも、その腕の温かさと、震える背中を感じたとき、ようやく私も気づいた──この人もずっと怖かったのだ、私を失うことが。


「……分かりました。私、あなたと生きます。夫婦として、これから先もずっと」

「ユマ……!」


 その言葉を聞いた彼の顔が、子どものようにパァッと、ほころぶ。


 やれやれ。

 なんて顔するんだ、この完璧超人は。



 ──とまあ、これにて、一件落着である。




 ◇◇◇




 その後、私たちはどうなったのか。それはあまり詳しく語る必要もないだろう。


 でもちょっと話したいのでお付き合いしていただきたい。



 子どもは五人。私が産んだのに、全員、彼にそっくりである。

 特に一番目と二番目は寝相まで似ていて、並んで寝ていると、どっちがどっちだかわからない。


 子育ては毎日が大騒ぎ。だが、私は貴族であり、侯爵夫人である。騒ぎを統率するのは乳母と侍女と教育係の仕事。

 というわけで、私は主に『週に一度、パイを焼くこと』と『子どもたちへのおやつの許可』と『夫の制御』を担当している。


 ウィリアム様は、昔の契約条件を完璧に忘れている。

「恋をするな」と言っていた本人が、今では「好きだ」を日に三回は言ってくるし、どこで覚えたのか「今日も綺麗だ」などとナチュラルに言ってくる。


 一度、「これは何かの詐欺ですか?」と質問したら、「詐欺ではない」と涙目で返された。

 今でも時々、壺を売られる夢を見ると言ったら彼は何と言うだろう? ……いや、泣いちゃうので言わないでおこう。


 さてさて、五人の子どもたちは元気に育ち、今日も今日とて、屋敷の廊下を誰かしらが制圧している。


 内二人は騎士を目指し、一人は本を抱えてうろつき、一人は台所の菓子棚に異常な執着を見せている。

 末っ子はまだ何者でもないが、紅一点ということで男衆に猫可愛がりされており、早くも『自分は選ばれし存在』と思い始めていそうなので、勘違いさせないよう、ただいま対策を思案中だ。


 当初の契約──三年で終わるはずだった仮初の夫婦関係は、今では完全に形を変えている。

 跡取りは「養子を取る」と言っていた彼が、今では「もっと増やしてもいいかもな」などと言い出す始末である。止めているのは私だ。


 家の中には、騒々しい声と笑い声が絶えない日々がある。


 ……まあ、つまり、私は今、とても幸せだ。


 ※念の為、言っておくけれど、壺は売りつけられてない。




【完】

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