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口笛を吹き返したら、異世界で婚約破棄されてしまったんですが

都心のビルの谷間にある、小さな公園。

 夕方の風が、やさしく髪を揺らしていた。


 白石彩香──27歳。商社に勤めて5年目。仕事にも慣れ、後輩に指導する立場にもなり、最近ようやく「働くのって面白いかも」と思えるようになっていた。

 その日は早めに仕事を終え、公園のベンチでひと休みしていた。


「ふーふふ、ふーふー……♪」


 癖のように口笛を吹いた。何となく、気分がよかったのだ。


 すると、風にのって別の口笛が返ってきた。

 調子は少し外れていたけれど、楽しそうで、優しい音色だった。


 思わず笑って、吹き返す。まるで見知らぬ誰かと、風を通して会話しているようだった。


 その瞬間、まぶしい光が目の前に広がった。


「──え?」


 意識がぐにゃりと歪み、彩香の世界は、光の中へと溶けていった。


* * *


「お嬢様、お目覚めですか!」


 見知らぬ天井。見知らぬベッド。

 そして、見知らぬ世界。


 彩香は──いいえ、“シャルロット=アルセナール”は、侯爵家の娘として目を覚ました。


 長い金の巻き髪。真紅の瞳。わがままそうな顔。

 しかもこの世界での彼女は、「王太子の婚約者」であり、「性格の悪い悪役令嬢」だった。


(うわ……最悪のテンプレートじゃない)


 そう思ったその日の午後。

 予告通り、王宮にて婚約破棄を言い渡される。



* * *



 その日の午後、王宮の「薔薇の間」と呼ばれる謁見の広間にて、シャルロットは王太子アルベルトとの婚約について正式な返答を受けることになっていた。


 白と金の大理石に囲まれた広間。左右に並ぶ貴族たちは、口には出さずとも明らかに好奇の目を向けていた。


 ──何が始まるのか、みな分かっていた。


 シャルロットのドレスは完璧だった。背筋を伸ばし、頭を高く掲げ、いつも通りの令嬢としての振る舞いを保つ。


 でも、心の奥底では──


(こんな形で終わるのなら、どうして最初から……)


 シャルロット=アルセナール。侯爵令嬢として育てられ、王太子妃候補として選ばれたのは十歳のころ。

 ずっと「王子にふさわしい淑女であれ」と育てられてきた。笑い方、歩き方、言葉遣い。少しでもはしたないと思われれば、母に叱られた。


 その努力のすべてを、今日、切り捨てられるのだ。


 入室した王太子アルベルトは、涼しげな顔をしていた。

 彼の隣には、柔らかな栗色の髪を揺らす少女──男爵令嬢リディアがぴたりと寄り添っている。


(あの子……この数か月、彼のまわりに頻繁に現れるようになっていたわね)


 王太子の言葉は短く、はっきりとしたものだった。


「シャルロット=アルセナール嬢。君との婚約は、ここに破棄する」


 広間の空気が凍りついた。


 シャルロットは目を閉じ、息を吸う。


 予感していた言葉だった。けれど、実際に言われると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


(これまでのわたしの努力も、笑顔も、全部……この一言で終わらせるつもりなのね)


 でも、泣かない。

 泣いたら負けだ。わたしはもう、ただの“お飾り”ではない。


 静かに目を開き、口を開いた。


「理由を、うかがっても?」


 アルベルトは、少しだけ眉を寄せたが、答えた。


「君の振る舞いは、時に傲慢で、他者への思いやりに欠けていた。

王妃には清らかさと、慎み深さが求められる。リディア嬢のように、な」


 そのリディアは、すぐに顔を伏せ、小さく囁いた。


「わたくしは、ただ……殿下のおそばに仕える者として、誠実でありたかっただけです」


 上目遣い。わざとらしい口調。

 ──ああ、そう。演じてるのね、“清楚でやさしい私”を。


(私は……演じなかった。

必死だった。貴族の娘として、王妃になるために、ずっと努力してきたのに)


 心の中で叫びたかった。でも、シャルロットは唇を噛みしめ、気丈に笑った。


「承知いたしました。わたくしの至らぬ点の数々、深く反省いたします。

そして、殿下とリディア嬢のご多幸を、心よりお祈り申し上げます」


 そう言って、一礼する。


 その姿には、かつての“わがまま令嬢”の影はなかった。


 けれど、誰もそれには触れなかった。


 彼女が振り返ることなく広間を後にするとき、誰かが小さくつぶやく声が聞こえた。


「……まるで、別人のようだったな」


 でも、それが聞こえたかどうかもわからないほど、シャルロットの胸は張り裂けそうだった。


(あの努力は、あの時間は──全部、無駄だったの?)


 でも──そう、でも。


 涙を流す代わりに、彼女は拳を握った。



* * *




 王宮の広間を出た直後、シャルロットは深く息を吐いた。


 足元が少しふらついた。ドレスの裾が重い。視線の先は霞んでいた。

 でもそれを誰にも見せず、ただ静かに、侯爵家の馬車に乗り込んだ。


 胸の奥は、鉛のように重く沈んでいた。

 あの瞬間──


「シャルロット=アルセナール嬢。君との婚約は、破棄する」


 その言葉を聞いた瞬間、確かに何かが音を立てて崩れた。


 王妃になること。

 そのために積み重ねた作法、言葉、歩き方、笑い方。

 どれもこれも、ひとことで「いらない」と言われた。


(昔のわたしだったら、泣きわめいていたかもしれない)


 足を踏み鳴らし、物を投げ、召使いに怒鳴り散らしていた。

 そうして自分の無力さを誰かのせいにして、閉じこもってしまっていたはずだ。


 でも、今は違う。

 白石彩香として生きた記憶がある。

 社会人として、自分の立場や感情を整理しながら働いていたあの頃の記憶が、心の奥に根を張っている。


 怒りも、悔しさも、たしかにあった。

 でもその感情を「どう表現するか」は、自分で選べる。


(……泣くのは、部屋に帰ってからでいい)


 シャルロットは静かに、目を閉じた。


 馬車が侯爵家に戻るころには、陽がすっかり傾いていた。

 そのまま部屋に戻り、誰にも見られない場所でようやく、膝を抱えた。


 涙がこぼれた。静かに、止めようもなく。


(つらい……これが、現実。拒絶されるって、こんなにも空っぽになるのね)


 でも、それもまた生きている証だった。

 何も感じないふりは、もうしない。


(泣くだけ泣いたら、ちゃんと考える。私はどうしたいか)


 シャルロットは、少しずつ涙を拭いながら、枕をぎゅっと抱きしめた。


 翌朝、シャルロットはまだ寝間着のまま、鏡の前に立った。


 目は少し腫れていたが、顔立ちは変わらず整っていた。

 だがその瞳に、かつての“お嬢様然とした誇り高い光”はなかった。


 代わりにあったのは、静かな──そして少しだけ澄んだ決意。


(私は、前とは違う。前の私に足りなかったものを、彩香の記憶が教えてくれる)


 期待される令嬢ではなく、

 誰かの飾り物ではなく、

 “人の役に立つわたし”として、生きてみたい。


 そう思ったとき、ふとあの頃の自分が頭をよぎった。


──残業で疲れた同僚に、缶コーヒーを差し出した夜。

──「ありがとう、彩香ちゃんがいて助かった」と言われたときの、胸の奥のあたたかさ。


(あの気持ちが、恋しくなるなんて思わなかった。でも、思い出した今ならわかる)


 わたしが欲しいのは、称賛でも、贅沢でもない。

 “ちゃんと誰かのためにできた”と、自分で胸を張れること。


 数日後、ようやく廊下に出られるようになった。

 昔のシャルロットなら、誰とも顔を合わせず、怒りとプライドに縛られていただろう。


 でも今は、食堂で顔を合わせたメイドに、小さく微笑んでみせた。


「おはよう」


 たったそれだけの言葉に、相手が少し驚いて、でもすぐ笑みを返してくれた。


(ああ……わたし、ちゃんと生きてる)


 それが、再出発の朝だった。


* * *


 


 静養期間に入ってから、何日が過ぎただろう。

 朝も夜も同じような時間が流れていたが、その中で、シャルロットの中には少しずつ「決意の芽」が芽吹いていた。


(ずっと閉じこもっていたわたしが、こうしてまた朝に目を向けられるようになるなんて……)


 廊下に出て歩くと、執事やメイドたちがそっと視線を送ってくる。

 同情と、少しの不安と、でも確かに温かさの混じったまなざしだった。


 そのすべてを、シャルロットは正面から受け止めていた。


 前なら、そうした空気に苛立ちを感じていたはずだ。

 だけど今は、彩香として生きた時間が、彼女に教えてくれていた。


(人の気持ちって、目を合わせれば少し伝わるものなんだって)


 無視したり、叱ったりするだけじゃなく、ちゃんと受け取る。

 それだけで、ずいぶん世界は変わるものだと知った。


 そんなある日の午後。


 父の書斎から、声がかかった。


「シャルロット、入ってくるか?」


 彼の声は、どこか少しだけ緊張していた。

 きっと、娘がようやく立ち直り始めたことを感じ取っているのだろう。


 シャルロットは、ゆっくりと扉を開けた。


 広く整った書斎の中で、アルセナール侯爵は、いつものように背筋を伸ばして椅子に座っていた。

 けれど、娘を見るとすぐに椅子から立ち上がり、静かに笑った。


「顔色が戻ったな」


「ええ……まだちょっと寝不足ですけど、もう泣いてばかりじゃありません」


「泣いてもいいんだ。泣くことを許さないような家に、私はしたつもりはないよ」


 シャルロットは、思わず小さく笑った。


「でも、お父さまはきっと……昔のわたしなら、暴れて、引きこもって、全てを呪っていたと思っていらっしゃったでしょう?」


「……少しは、そう思っていた」


 彼は正直に答えた。


「だが、今のお前は違う。目の奥に……火が灯っているように見える」


 その言葉に、シャルロットの胸がふっと温かくなった。


(お父さまは、ちゃんと見てくれている)


「お父さま。わたし、もう王妃になることはありません。でも──」


 彼女は、まっすぐ父を見て言った。


「わたしは、誰かの役に立てる人間になりたいんです。

 誰かの支えになるものを、自分の手で生み出したい。

 それが、前の世界で……わたしが心から感じた生き方でした」


 アルセナール侯爵は、その言葉を受けてゆっくりと深くうなずいた。


「お前が選んだ道なら、どんな道でも応援しよう。

 貴族だからこうあるべき、などという考えは、私の中にはない。

 ──好きにしなさい、シャルロット」


 その言葉に、胸がいっぱいになった。


「……ありがとう、お父さま。わたし、もう一度ちゃんと歩いてみます」


 侯爵は、娘の手にそっと手を添えた。


「その手で何かを作れるなら、それは立派な誇りだ。お前の力を、信じているよ」


 シャルロットは、小さくうなずいた。


 もう“期待に応えるだけの娘”ではない。

 これからは、自分自身の道を、自分の足で進んでいく。



* * *



 春を過ぎたばかりのある朝、シャルロットは学園に復帰した。


 貴族子女が集う、王立レーヴェン学園。

 侯爵令嬢として、幼少の頃から学び続けてきた場所だ。

 本来なら、王妃候補として中心に立っていたはずだった──ほんの数ヶ月前までは。


 けれど、今の彼女にかつての居場所はなかった。


 正門をくぐった瞬間、空気が変わるのを感じた。


 さりげない視線。囁き声。歩くたびに、誰かが振り返り、扇子の陰で笑う。


「ほら、あれが……」

「婚約破棄された令嬢よ」

「でも当然よね、あんな性格じゃ」


 シャルロットは、背筋を伸ばして歩いた。

 頭を下げることはしない。ただ、表情を変えずに、前を向く。


(前のわたしなら、耐えられなかった)


 怒りにまかせて睨み返したかもしれない。涙を隠して走り去ったかもしれない。

 でも、今の彼女は違った。


(見られることも、噂されることも──“そういうもの”なのよね。きっと)


 それが、他人の感情のひとつの形。彩香としての記憶が、それを知っていた。


 中庭の片隅。午後の授業が終わったあと、シャルロットはベンチで本を読んでいた。


 けれど、遠くから聞こえる声に、耳が自然と向いてしまう。


「殿下、もう、そんなふうに……」

「ふふ、リディアの顔が赤い。可愛いな」

「んもう……、そんな、堂々とおっしゃられては困ります」


 聞き慣れた声──王太子アルベルト。そして、リディア。


 シャルロットは、視線を上げなかった。けれど、音でわかる。

 ふたりが、日だまりの石畳を歩きながら、親密に言葉を交わしているのが。


 笑い声。愛しげな呼び名。

 まるで、“自分は最初からいなかった”かのように、彼らの世界は完結していた。


(……まるで、あの数年間は幻だったみたい)


 喉の奥に、痛みが走る。


 でも、顔は上げなかった。


 痛みは、ある。今でもちゃんとある。

 それでも──それを見せることが、すべてじゃない。


(……わたしは、彼を取り戻したいわけじゃない)


 それだけは、心の底でわかっていた。


 ただ、あの頃の自分が、ひたむきに積み重ねたものまで“なかったこと”にされるようで、悔しかった。


(でも、わたしにはもう、別の道がある)


 ふと、本の中の一文が目に入った。

 「どんな暗闇も、手に持つ灯火があれば歩ける」


 シャルロットは、静かにページをめくった。


 彼女の灯火は、まだ小さい。

 でもそれは、誰の手からも奪われない、自分だけの光だ。



* * *



 その日、学園から戻ったシャルロットは、疲れた足を引きずるように屋敷の中を歩いていた。


 外見はいつも通り、姿勢も美しく、口元には笑みさえ浮かべていたかもしれない。

 けれど、胸の奥は砂のように乾いていた。


(あんなにも簡単に笑われる。あっけなく見捨てられる。……それが、現実)


 誰にも期待されていない。誰も、こちらを見ていない。

 それがこんなにも楽で、同時にこんなにも寂しいなんて──


 無意識に向かったのは、屋敷の裏手にある、使用人たちの台所だった。


「お嬢様……?」


 鍋を洗っていた料理人たちが、意外そうな顔をして手を止めた。


「ただの通りすがりよ。お邪魔ならすぐに戻るわ」


 シャルロットがそう言うと、一番年配の料理長が笑った。


「いえいえ、お嬢様が立ち寄ってくださるなんて光栄です。……ただ、お見せできるような華やかなものは何もありませんがね」


 大きな鉄鍋の中では、スープがグツグツと煮えていた。

 いい香りが漂っているが、焦げた匂いもわずかに混じっている。


「うーん……また底が焦げ付きましたか」


「火加減がむずかしくてねぇ。ずっと見てないとダメなんです。別の料理と両立すると、つい……」


 シャルロットはふと、鍋の中をのぞき込んだ。


 小さな泡がゆっくり浮かび上がっては、破裂して消えていく。

 その様子を眺めながら、彼女の脳裏に、ある映像がよみがえった。


──前の世界。自宅のキッチン。

──スイッチを押せば、勝手に火加減を調整してくれる「電気鍋」。

──煮込み料理も、カレーも、ほっとけば勝手にできた。


(あれが、あれば……)


 喉の奥で、何かがぱちりと弾けた。


(この世界には、火を使わずに温度を管理する術はない。でも──魔力がある。

ならば、魔力で“火加減”を制御できれば……)


 静かに、しかし確実に、心が熱くなっていく。


 これは、今のわたしだから思いつけたこと。

 シャルロット=アルセナールの魔力と、白石彩香の記憶、その両方があるわたしだから。


「……台所の火は、魔力石で温めているのよね?」


「ええ、魔力を込めた石を下に置いてます」


「だったら、その石に、温度を感知する装置をつけて、制御の符を重ねれば……」


 料理人たちがぽかんと彼女を見つめるなか、シャルロットは小さく笑った。


「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしていたの」


 そのときだった。

 初めて、自分の中に“自分だけの居場所”が灯った気がした。


(わたしにしか作れないものがある。……この世界に、役立つ何かを)


その夜、彼女はスケッチブックを取り出し、夢中で鍋の形を描きはじめた。

魔力の流れ、熱の伝導、調整機構。

どこまでも現実的に、どこまでも優しく──“誰にでも使える道具”を思い描いて。


(この手で、作ってみせる)


 そう心に誓った夜。

 シャルロットはようやく、本当の意味で「過去」から目を離し、「未来」を見つめ始めたのだった。



* * *




 小さな作業机に、紙と魔導具の部品が並んでいた。


 侯爵家の一角にある古い倉庫を改装した工作室。

 シャルロットはそこに毎日こもって、鍋の模型とにらめっこをしていた。


(火を使わずに加熱し続けて、温度を一定に保てる仕組み……)


 魔力石は熱源に使える。けれど問題は制御だった。

 火加減の調整が難しいのは、加熱し続けるだけの魔力石に「止まる」という概念がないからだ。


(じゃあ、どうする? 前の世界には、温度センサーがあった。

 鍋の中が熱くなりすぎたら、自動で弱火に切り替えて……)


 彼女は、魔力に反応する「熱感知式符紙」を思い出し、それをベースにした魔法陣を描いた。


「魔力が一定温度に達したら、出力を下げて……下げすぎたら再加熱……。うまく、波を作れないかしら」


 理論としてはできる。でも、調整が難しい。


 はじめて組み上げた試作品は、鍋がぐらぐら震え、スープが勢いよく飛び散り──


「うわっ!? あっつ!!」


 大失敗だった。


 けれど、それで落ち込んではいられなかった。


(そうだ。試作品って、最初はうまくいかないのが普通だった)


 彩香として過ごした日々が、そう教えてくれていた。


 上司に何度も企画をやり直され、夜遅くまでプレゼン資料を修正して──

 そのたびに、一歩ずつ前に進んでいた。


 だから、彼女は諦めなかった。


「失敗は、次に生かせる材料よ。……たぶん、ね」


 手に小さな火傷ができたけれど、冷たい水で冷やして、すぐ作業に戻った。


 何度も、何度も繰り返す。


 魔力が暴走したり、鍋が焦げついたり、スープが蒸発したり。

 けれど、少しずつ、確かに前進していた。


 そして──十日目の夜。

 ようやく、魔力の流れがぴたりと安定した。


 静かに湯気を立てる鍋。中のスープは焦げもせず、ゆっくりと「コトコト」と音を立てていた。


「……やった……!」


 スプーンですくって口に運ぶと、にんじんはやわらかく、肉はとろけるほどに煮込まれていた。


 それでいて、鍋の底は真っさらのまま。


 シャルロットは、手を胸に当てて、しばらくその香りをかみしめた。


(これで……料理が苦手な人でも、火が使えない場所でも、煮込みができる)


 それは、この世界の人々にとって、“あたりまえではない幸せ”だった。


 翌日、台所で料理長に試作品を見せたとき、彼は目を丸くして言った。


「これは……どうなってるんですか? 魔力をこめても、まったく焦げません……!」


「わたしが作りました。“火を使わずに、ずっと煮込める鍋”です。

 名前は──そうね……《グツグツさん》。かわいくて、覚えやすいでしょう?」


 使用人たちは最初こそ不思議そうにしていたが、次第に口々に感想を言い始めた。


「放っておいても料理ができるの、ありがたいわ!」

「これ、子どもでも使えるかもしれませんね」


 シャルロットは、彼らの言葉にじんわりと胸が熱くなった。


(わたしが作ったものが、人の手に届いて、誰かの助けになってる)


 それは、王妃になるための努力よりもずっとリアルで、あたたかい喜びだった。


 彼女の中で、確かな感覚が芽生えていた。


 これはきっと、最初の一歩だ。

 まだ小さいけれど──この一歩が、やがて大きな道になると信じられる。


 シャルロットは、作業台にそっと手を置いてつぶやいた。


「次は、もっとたくさんの人に使ってもらえるように……“お店”を作りましょうか」


* * *



 侯爵家の南側に、古くて使われていなかった小さな倉庫がある。


 物置同然だったそこを、シャルロットは自らの手で整理し、棚を並べ、道具を運び込み……今やちいさな工房のような姿に変わっていた。


 けれど──一人では、限界がある。


(商品ができたとしても、それを広めるには人手がいる。作るにも、届けるにも、売るにも)


 これまで社交界の中心で「ふるまう」ことはできても、「雇う」こと、「共に働く」ことはしたことがない。


 でも、彩香として生きていた記憶が、そっと背中を押してくれていた。


(大丈夫。誰かと一緒に働くことの大変さも、あたたかさも、知っている)


 そんなある日。


 シャルロットが倉庫の外を掃除していると、小さな気配に気づいた。


 物陰から、ちらりとのぞく小さな顔。

 ほつれた髪。くすんだ服。やせた腕。

 それは──明らかにこの屋敷の使用人ではない、街の孤児の少女だった。


「……誰?」


 そう声をかけると、少女はびくっと肩をすくめ、逃げようとした。


「待って。あなた、おなか空いてるんでしょう?」


 少女は、ためらいがちに立ち止まった。


 そのまなざしには、怖れと……ほんの少しの、希望があった。


「ティナっていうの。屋根のない市場のすみに寝てたのを、追い出されちゃって……」


 シャルロットは、倉庫の奥にあるベンチで、少女にあたたかいスープを差し出していた。


 もちろん、《グツグツさん》で煮たものだ。


「おいしい……こんなの、初めて」


「よかった」


 少女の目が、少しだけやわらいでいく。


「あなた、どこかで働いてたの?」


「……一度だけ、洗い場。でも、手が小さすぎるって、すぐに追い出されたの」


「そう……」


 シャルロットは、その小さな手を見つめた。


 確かに、まだ仕事に慣れた手ではない。けれど、その目はしっかりと未来を見ていた。


「だったら、うちで働いてみる?」


「えっ……?」


「ここで作る商品を、包んだり、届けたり。わたし一人じゃ手が足りないから、手伝ってくれると助かるの」


「わたし……やってもいいの?」


「もちろん。そのかわり、きちんと“お給料”を払うわ。あなたは“仲間”としてここにいるのよ」


 ティナは、唇をきゅっと噛み、目を見開いたまま、何度も何度も小さくうなずいた。


「……はいっ! がんばります!」


 それから数日、シャルロットはティナと共に、商会の基礎を作り始めた。


 商品名のラベル。包装紙。領収書の書き方。

 ひとつひとつ、手を取りながら教える。


「文字、少しだけ読めます」

「じゃあ、今日からは“少しずつ書ける”にもしていきましょうね」


 シャルロットはふと思う。


(前のわたしなら、ティナのような子に“仕事”を教えるなんて想像もしなかった。

 でも今は、この子の笑顔が、わたしの誇りになっている)


 それは、王妃になるよりも、ずっと深く、胸を満たすものだった。


 “商会”というには、まだ倉庫一つと、少女ひとりだけ。


 けれど、それでも──彼女たちの小さな夢は、確かに始まりつつあった。



* * *



 アルセナール商会──といっても、最初は看板もない、倉庫ひとつから始まった。

 けれど《グツグツさん》は、たちまち噂になった。


 侯爵家から出た「火を使わずに煮込める鍋」は、貴族の間で瞬く間に評判となり、

 やがて街の料理屋、そして地方の領主館にも注文が届くようになった。


 シャルロットは、文字どおり目が回るほど忙しかった。


 ──鍋の改良。

 ──包装の工夫。

 ──領主たちとの手紙のやりとり。

 ──そして、新たな商品開発。


 けれど、どんなに疲れても、不思議と心は晴れていた。


 ティナが書類の読み書きを覚え始め、

 新しく雇った元職人の青年マルコが「もっと便利な道具にできる」と語り、

 彼らと一緒に「どうすれば使いやすいか」を語る時間は、なによりも嬉しかった。


「お嬢様、これ、魔力で水流を出す棒です。床掃除にどうでしょう?」


 ある日、ティナがシャルロットに差し出したのは、金属の先に魔力石を埋めた試作品だった。


 水をつけ、魔力を注ぐと、細く穏やかな水流がすっと伸びた。


「……すごいわね。重たいバケツも雑巾も、必要ない」


「はい。わたし、掃除するときに、服が濡れるのがいやだったんです。それで……」


「……採用決定ね。名前は……そうね、《水流おそうじ棒》。そのまんまだけど、覚えやすいわ」


 ティナは目をきらきらさせて「やった!」と喜んだ。


 小さな発想でも、生活を変えられる。

 それが、シャルロットが彩香の記憶から得た確信だった。


 春の終わりごろ、屋敷に一通の招待状が届いた。


「王都の貴族連合主催の技術展示会、ですって?」


「お嬢様の商会が選ばれたんです! 王都の中心部で……すごいことです!」


 展示会は、貴族や技術者が自らの発明を披露する大舞台。

 しかも今回は、王宮直属の審査員も来るという。


(社交の場ではなく、“実力”で評価される場所……これまでの努力が、試される)


 シャルロットは、決意とともに準備を始めた。


 展示会当日。


 天蓋のある大きな会場の中央に、《グツグツさん》と《水流おそうじ棒》、さらに新製品《冷却パフューム》が並べられた。


 熱い場所でも肌に霧吹きのように吹きかけられる冷感の魔法香水。

 暑がりな貴族の間で、密かに人気が出始めている一品だった。


「これは……おもしろいね。見た目もかわいらしいし、魔力量も少なくてすむ」


 そう声をかけてきたのは、落ち着いた物腰の青年だった。


 銀色の髪に、紺の礼装。背は高く、控えめながらも洗練された雰囲気を纏っている。


 彼の胸元には、公爵家の紋章──“ヴェルディノ公爵家”の徽章が光っていた。


「お初にお目にかかります。レオン=ヴェルディノと申します」


「……アルセナール侯爵家の、シャルロットです」


 丁寧なあいさつのあと、シャルロットは軽く頭を下げた。


 その瞬間、彼の目が、ほんの少しやわらいだ。


「あなたが作られた商品たち、どれも実用的で美しい。……正直、驚きました」


「うれしいです。でも、わたしひとりでは何もできませんでした。支えてくれる人がいるからです」


「それも含めて、あなたの力だと、私は思いますよ」


 まっすぐに、優しく語る声。


 “見せかけ”ではない、“本当に見てくれている”眼差しに、シャルロットの心がふっとほどけた。


(ああ……こういう人と、一緒に未来を語れるなら)


 初対面なのに、不思議と安心できた。


 ──彼こそが、のちにシャルロットの心を支える、新たな婚約者・レオンだった。


 展示会は大成功に終わり、アルセナール商会は一躍話題の中心となった。


 商会の名は、ついに王都の貴族社会にまで知られるようになり──

 シャルロットは、失った名声を“自らの手”で取り戻しつつあった。


* * *



 王都にある貴族連合の広間。

 季節を先取りした花々が香り、琥珀色のシャンデリアが揺れていた。


 その夜、アルセナール侯爵家の娘──シャルロット=アルセナールが、社交界に“正式に”復帰した。


 淡いブルーのドレスに身を包んだ彼女は、以前とは違った静けさと自信をまとっていた。

 もう“王妃候補”としての見せかけではない。

 彼女自身の実力と、周囲の信頼が作り上げた立ち位置だった。


「──あれが“商会の才女”シャルロット嬢か」

「美しいな。昔よりずっと凛としてる」

「グツグツさんの開発者だろう? 侯爵令嬢でありながら、商才もあるとは」


 会場のあちこちで、そんな囁きが聞こえてくる。


 シャルロットは微笑みをたたえながら、丁寧に応じた。

 視線の先に、彼女の手をそっと取る人影がある。


 ──レオン=ヴェルディノ。公爵家の長男。次期当主と目される人物であり、

 シャルロットの新しい婚約者だった。


「……緊張してる?」


 レオンが静かに囁く。

 シャルロットは首を振った。


「いえ……でも、昔のわたしなら逃げ出してたかも」


「今の君は堂々としてるよ。まっすぐに人を見て、話してる。……その姿が好きだ」


 ふいに、頬が熱くなる。


(こんなふうに、わたし自身を好きだと言ってくれる人が……)


 思わず顔をそらすと、彼はくすりと笑って手をぎゅっと握ってくれた。


 その夜、舞踏会の中央で、二人はそっと踊った。


 音楽の調べのなか、シャルロットはふと、視線の端に「かつての自分の未来」を見た。


 ──アルベルト王太子と、その隣に立つリディア。


 彼女は薄桃色のドレスに身を包み、満面の笑みでアルベルトの腕を取っていた。

 けれど、その笑みはどこか作り物のように見えた。


 まるで「ここにいるのは私よ」と周囲に示すためだけの笑顔だった。


「ふふ……まるで昔の、わたしね」


 シャルロットは、自分の唇に浮かぶ笑みが“自然なもの”であることに気づいた。


(わたしは、もう“誰かの隣にいることで自分の価値を示す”必要なんてない)


 シャルロットは、そっと視線を戻し、レオンに微笑んだ。


「ありがとう、レオン。今、すごく幸せだって思えるの」


 レオンは、少しだけ照れたように微笑んで言った。


「僕も、君が隣にいてくれて……本当に良かったと思ってる。これからも、ずっと一緒にいたい」


 言葉よりも先に、シャルロットの胸にあたたかさが広がった。


 それから数日後、王宮の広報を通じて、公式な文書が発表された。


《アルセナール侯爵令嬢・シャルロットと、ヴェルディノ公爵令息・レオンの婚約が承認された》


 その報せは、社交界だけでなく、商業都市や地方領にも広がり、

 “シャルロットという女性”の名前はますます広く知られることとなった。


 その知らせを読んでいた人物が一人──


 王宮の書斎で、書類を手にしたアルベルト王太子は、しばらく無言だった。


 机の向かいでは、リディアが鏡の前で髪をといていた。


「ねえ、殿下? この前のお洋服代、また追加してもいいでしょう? 三日で飽きちゃったの」


「……またか」


「だって、わたしにふさわしいものって限られてるじゃない。王太子妃なんだもの」


 アルベルトは、リディアの声を遠くに感じながら、文書を見つめ続けた。


 ──そこに書かれた名は、かつて隣にいた少女の、いまの姿だった。



* * *



「……また、リディアは遊び歩いていたのか?」


 王宮の応接室で、アルベルト王太子は深いため息を吐いた。


 目の前にあるのは、王宮警備隊の報告書。

 その内容は、もはや毎週のように繰り返されていた。


 ──リディア嬢が王都の高級サロンに夜遅くまで滞在。

 ──同席していたのは、彼女の“友人”だという男爵家の三男。

 ──帰宅は深夜を回り、扉を開けた侍女と口論。


「いったい、何度目だ……」


 かつては「穏やかで上品なお気に入り」と噂されていたリディアだったが、

 王太子妃として迎えられてからというもの、次第にその本性が露わになっていた。


 気まぐれ。

 浪費癖。

 そして、男遊び。


 最初は見て見ぬふりをしていた。

 彼女を守ろうとすら思っていた。

 でも──もう限界だった。


 王宮内でも「王太子は見る目がなかった」という声がちらほら漏れ聞こえる。

 何より、周囲の臣下たちが彼に助言をするたびに、どこか困ったような沈黙を見せるようになっていた。


 その夜、アルベルトは静かにワインを傾けながら、机の引き出しを開けた。


 中にあったのは、かつてシャルロットが贈ってくれた、古びた魔石のペンダント。

 今はもう、誰にも見せることのない思い出の品。


 あの頃の彼女は、確かに笑っていた。

 静かで、強くて、真っ直ぐなまなざしを持っていた。


(──あれが、本当の“王妃”だったのかもしれない)


 気づいたときには、すべてが遅かった。





 一方その頃、シャルロットはヴェルディノ公爵家の庭で、紅茶を片手に書類を確認していた。


「本格的に“貴族相手の注文窓口”を整備したいわ。ティナと相談して、王都支部を作りましょう」


「いいね。僕の母も“グツグツさん”の改良型が気に入ってるよ。『お肉がとろけるように柔らかくなって素晴らしい』って」


「ふふ。嬉しい。……子ども向けの安全モデルも開発したいの」


「その夢、僕にも手伝わせてほしい」


 レオンの言葉に、シャルロットはそっと微笑んだ。


「あなたと一緒なら、きっと何でもできる気がするの」


 そして彼は、少し照れたように言った。


「“王妃”じゃなくても、僕にとって君は“誇り”だよ、シャルロット」


 その言葉は、胸の奥にまっすぐ届いた。

 誰かの隣で見せかけの地位を得るよりも、

 自分の足で立ち、誰かに必要とされる生き方こそが、自分の幸せなのだと──


 その夜、シャルロットはティナと共に屋敷のバルコニーに立ち、星空を見上げていた。


「ねぇ、お嬢様」


「なに?」


「いつか、もっともっと便利なものを作って、国中に届けましょう。

 お金がなくても、立場がなくても、使えるような道具を」


 ティナの瞳は、あの日スープを飲んだあの小さな少女のままだった。

 けれど、その奥には、しっかりと未来を見据える光が宿っていた。


「ええ。きっとやってみせるわ」


 ふたりの間に吹いた風が、静かに星を揺らした。



* * *



 朝靄のなか、王宮の門が静かに開かれた。


 その中庭を歩く、凛とした背筋の女性。

 淡い緑の正装ドレスに身を包んだシャルロットは、緊張と誇らしさを胸に王宮へと足を進めていた。


 今日は──王から直々に、商業功労の褒章を受ける日だった。


「お嬢様、堂々としてますね」


 隣を歩くティナが目を細めて笑う。


「そう見えるなら、成功ね。……内心は、ちょっとだけ震えてるけど」


 軽口を交わしながらも、足取りはまっすぐ。


 貴族たちの視線が集まるなか、彼女は玉座の前に進み出た。


 王は年配の男性だったが、眼差しには鋭さとあたたかさが同居していた。


「シャルロット=アルセナール侯爵令嬢よ。そなたの商会が開発した品々は、

 多くの民の生活を助け、国の技術力と信頼を高めるものとなった」


 静かに差し出されたのは、深紅のリボンで結ばれた金の勲章。


「これは、そなたとその商会の功績を称えるものである。受け取りたまえ」


 シャルロットは、息をひとつ吸い込んで膝をついた。


「光栄に存じます、陛下。わたくしは、これからも人々の暮らしのために尽くしてまいります」


 その声は澄んでいて、震えていなかった。


 拍手が広がるなか、王は静かに頷いた。


「──良き人生を歩め。そなたのような者こそが、未来をつくる柱となろう」


 式が終わり、王宮を出たシャルロットは、庭園で待っていたレオンと目を合わせた。


 彼はゆっくりと彼女に歩み寄り、微笑む。


「……誇らしい気持ちでいっぱいだよ、シャルロット。君がこうして、ひとりで栄光をつかんだことが」


「でも、ひとりじゃなかったわ。ティナも、仲間たちも、あなたもいてくれたから」


 シャルロットは、手にした勲章をそっと見つめた。


 この小さな勲章の裏には、泣いた夜や、悔しかった日々、失ったもの、そして取り戻した尊厳のすべてが詰まっていた。


 そのすべてを抱えて、いま彼女は、胸を張って立っている。


 その夜、屋敷で開かれた小さな祝賀会。


 商会の仲間たちが用意した料理を囲みながら、ティナがぽつりと呟いた。


「ねぇ、お嬢様。わたしたち、どこまで行けるかな」


「きっと、まだまだ先があるわ。だって、便利って、終わりがないもの」


 シャルロットは笑った。


「それに、これからは“公爵夫人になる勉強”もしなきゃいけないし。やることだらけね」


 隣でレオンが、肩をすくめて言う。


「勉強はゆっくりでいいよ。そのぶん、ずっと隣にいるから」


 その言葉に、シャルロットはほんの少しだけ頬を染めて、そっと手を握り返した。


 かつて、王妃になるために積み上げた日々があった。

 けれど、それ以上に──自分の足で歩いたこの道のほうが、ずっと尊く、あたたかい。


 “誰かの隣に立つ”ことではなく、

 “自分の人生を生きる”ことで、彼女は本当の幸せを見つけたのだ。


* * *




 白いカーテンが、初夏の風にやさしく揺れている。

 ここは、ヴェルディノ公爵家の離れにある、新しく整えられた屋敷。


 今日は、シャルロットとレオンの婚礼の日。


 とはいえ、盛大な式ではない。

 ふたりの希望で、家族と商会の仲間だけの、温かな小さな式だった。


 ティナが花束を抱え、目に涙を浮かべながら「おめでとうございます」と笑う。

 マルコや他の仲間たちも、晴れ姿のシャルロットを見て誇らしげに拍手していた。


「……こうしてみんなに祝ってもらえるなんて、昔のわたしじゃ想像できなかった」


 そう言って、シャルロットはふと空を見上げた。

 雲ひとつない、すっきりとした青空。


 ──あの日、あの口笛を聞いたとき。

 すべてが変わった。そして、ここまで来た。


 式のあと、レオンとふたりきりで庭を歩く。


「もうすぐあなたのお嫁さんとヴェルディノ公爵夫人になるのね、わたし」


「そうなるね。でも、“商会の才女”でもあり続けていいんだよ。

 誰にも合わせなくていい。“シャルロットらしく”いてくれたら、それでいい」


 その言葉に、胸がじんわりとあたたかくなった。


 王妃にならなければ意味がないと思っていた。

 完璧な淑女でなければ愛されないと思っていた。

 でも今は──“そのままのわたし”を信じ、支えてくれる人がいる。


「公爵夫人になるけど、同時にたくさんの人を支える道具を作っていきたい」


「うん。君の未来の形を、僕は全部応援するよ。君の隣にいるためなら、何でもできる」


 それは誓いでもあり、優しい肯定だった。


 夜。式が終わり、部屋でドレスを脱いだシャルロットは、鏡の前に立って自分を見つめる。


 そこには、もう“誰かの理想になろうとする少女”はいなかった。

 “自分の意思で、自分の人生を歩く女性”が、確かにそこにいた。


 彼女は、小さく息を吸って言った。


「──ありがとう、彩香。あなたがわたしの中にいてくれて、本当によかった」


 それは、前世と今世が完全にひとつになった証。

 どちらもあってこその“シャルロット”なのだと、彼女は静かに理解していた。


 月の光が静かに差し込むベッドルーム。


 レオンがそっと手を握って、笑いかけた。


「改めて、おめでとう。……君がいてくれて、本当にうれしいよ」


「わたしも。わたしを見てくれて、愛してくれて、ありがとう」


 ふたりは目を閉じた。

 言葉はなくても、伝わる気持ちがある。


 ──過去を知るから、今がまぶしい。

 ──遠回りしたからこそ、選んだ幸せがかけがえない。


 それが、シャルロット=アルセナールの“わたしらしい未来”だった。


* * *


ーーーーーー 5年後



 春の風がやさしく庭の花を揺らしている。


 シャルロットは、膝にスカートをまとめて芝の上に座り、小さな手を握っていた。


「こらこら、あんまり走ったら転んじゃうわよ」


「でもママ~、花が咲いてるの!」


 ふくふくとした頬、くるんと巻いた淡金色の髪。

 ──それは、シャルロットとレオンの娘。名を「リアーナ」という。


「ねぇ、パパは? パパもお花見る?」


「もうすぐ帰ってくるわ。今日の会議、長引いてるみたいだから」


 リアーナは元気にうなずいて、シャルロットの胸に抱きついてくる。


「パパのおみやげ、あるかなぁ~?」


「たぶん、甘いお菓子をこっそり隠してると思うわよ?」


「やったー!」


 小さな笑い声が庭に弾ける。


 屋敷の門が開き、レオンが姿を現した。


「ただいま。……お、いたいた」


「パパーっ!!」


 駆け寄ってくる娘をひょいと抱き上げ、くるりと回る。

 シャルロットはその光景を見ながら、目を細めて微笑んだ。


「おつかれさま。大臣たち、今日はマシだった?」


「うーん、まあ及第点かな。でも、この顔が見られるなら全部吹き飛ぶよ」


 そう言って、レオンはシャルロットの手を取った。


「ありがとう。君が“母になってくれたこと”、本当に感謝してる」


「……わたしのほうこそ。リアーナに出会えたことは、人生で一番の贈り物よ」


 風が吹き、空が広く青く輝いていた。


 家族という小さな王国。

 そこで“幸せ”は、決して声高に叫ばれるものではなく、

 ただ静かに、日々の中で確かに積み重ねられていく。


 そして──

 少女は、母から学び、父に愛され、自分の未来へと歩いていくのだろう。


 未来は、まだまだ広がっていく。








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