ソーダ味のクリームソーダ
ハチさんは、買い物カゴを持って、シロとクロを連れてお屋敷へと帰っていった。
由良様は私を、大通りの脇の路地を抜けた先にある、喫茶店へと連れていってくれた。
濃い色合いの椅子や、ソファの並んだ静かな店内には、私と由良様以外にお客さんはいなかった。
窓際の席に座ると、お店の女性がお水を持ってきてくれる。
手をふく用のおしぼりは暖かく、わずかに柑橘系の香りがした。
「薫子。何を頼もうか。なんでも好きなものを食べるといいよ」
「は、はい。ありがとうございます」
「シロとクロはクリームソーダが好きらしい。紅茶もあるし、珈琲もある。パフェや、チーズケーキなんかも美味しい」
メニュー表を指で示しながら、由良様が教えてくれる。
「クリームソーダを、飲んでみる? 紅茶や珈琲でもいいけれど」
「せっかくですので、クリームソーダを」
「うん。この、紅茶クッキーも食べてみる? きっと、美味しい」
由良様が注文をしてしばらくすると、緑色の液体の中に泡がいっぱい入っていて、その上にとろりとしたクリームのようなものと、さくらんぼが飾られた飲み物が届けられる。
氷の周りに泡の粒々がたくさんあり、気泡がパチパチとはじけては消えていく。
花の形をしたクッキーには、紅茶の茶葉が練り込んである。
お菓子というものを、私は作ったことがない。
食事の支度はしていたけれどお菓子は──時々、出入りの業者さんから届けられるお菓子を、皿に盛り付けて運んだりしたことがあるぐらいだ。
私でも、作ることができるだろうか。
「焼き菓子は、最近ではよく見かけるようになったね。焼き菓子や、パンを食べると、異国にいるような気分に浸れるのだそうだよ」
「異国に……」
「海の向こうにも国があるのだという。信じられないけれど、そうらしい」
「海の向こうに、国があるのですか」
「そう。世界は広いね」
由良様はクッキーを一つ手にすると、私の口元へと持ってくる。
何かと思ってじっとしていると、「口を開けて」と言われた。
薄く唇を開くと、その中にクッキーが押し込まれる。
「……っ」
「美味しい?」
「ん……」
指先が、唇を撫でて離れていく。
一口大のクッキーを口の中に入れられて、私はサクサクそれを食べた。
紅茶の風味が口の中に広がる。
紅茶を飲んだ経験はないので、実はよくわかっていないのだけれど。
麦茶や緑茶とは違う。芳しい香りが鼻に抜けた。
「美味しい……!」
口をおさえて、思わず呟く。
そこまで甘くはないけれど、サクサクしていて、口の中でほろほろ溶けていく。
「ふふ、よかった。笑ってくれた」
「……あ」
咲子さんとのことを、由良様は気遣ってくれている。
そんなことは分かっていた。
分かっていたはずなのに、安堵したように微笑む由良様を見ていると、由良様の優しさが、口の中でとろけるクッキーのように、体にとけて染みていくようだった。
「お恥ずかしい姿を、お見せしてしまいました。助けていただいて、ありがとうございます」
「少し、遅くなってしまった。もっと早く、君の元に辿りついていれば」
「大丈夫です。本当に、私は……大丈夫なんです。あれぐらいの言葉は、慣れていて」
「慣れてはいけない」
由良様は咎めるように口にする。
私は視線を落とした。
由良様の前に置かれているカップの中の珈琲に、クリームがくるくると円を描くようにして溶けていく。
「すまない。怒っているわけではないんだ。……だが、君を貶められることは、許されない。それが家族であっても、君自身であっても。君は、俺の大切な人なのだから」
「……っ、はい。ありがとうございます」
「嘘でも、誇張でもない。俺は本当にそう思っている」
「……はい。その……嬉しく、思います。……ごめんなさい。他にどう言っていいのか、わからなくて」
傷が、ついていたのだろうか。
貶められていたのだろうか。
私にとってそれは、変わらない日々の、日常の、ひとつに過ぎなかった。
けれど、咲子さんにひどい言葉をぶつけられているとき、それを由良様に見られることは恥だと感じた。
恥ずかしかった。
慣れていると口では言いながら、貶められている自分を恥ずかしいと思っていたのだ。
私は──。
「……ごめんなさい。こんなふうに、大切にしていただいたことが、なくて。誰かが、私のために怒ってくれることも、闘ってくれることも、なかったものですから」
視界が潤む。
紅茶のクッキーも、クリームソーダも、クリームの溶ける珈琲も、ぼやけてしまう。
由良様の指が伸びて、私の目尻に触れた。
涙はこぼれなかったけれど、由良様の指先が濡れる。
「これからは、俺が君を守る。妻も守れずに、人々を守ることなどできないからね。薫子、俺がいる。俺たち、家族が君にはいる。……君もそう思っているから、怒ってくれたのだろう。俺を、悪くいうなと。そして、クロとシロを、庇ってくれた」
「……何も、できませんでした。恥を晒すばかりで」
「そんなことはないよ。薫子、俺は君を誇らしく思う。君を迎えてよかったと、毎日繰り返し、考えている」
「それは、私のほうで……!」
「では、俺と君はきっと、運命の赤い糸で結ばれていたのだろうね」
「運命、赤い糸、ですか……?」
「知らない?」
由良様は小指を軽く立てると、首をかしげる。
それから「口説き文句にならなかったね」と言って、苦笑した。
私は恥ずかしさを誤魔化すようにして、クリームソーダのストローに口をつける。
口の中でパチパチ、シュワシュワ弾ける泡にびっくりしていると、由良様が「気に入った?」と尋ねてくる。
「美味しいです。不思議な感じが、します」
「そう。お祭りでは、ラムネが売られるのではないかな。飲んでみようか。瓶にビー玉が入っていてね」
「ビー玉が……?」
「それを、ポンっと、開けるのだけれど」
「ビー玉を……?」
いつの間にか、涙はとまっていた。
空にかかっていた虹のように、私の心も妙に軽くて、すっきりとしていて。
黒い染みのように影を落としていた咲子さんのことや、八十神家でのことが、頭の中からすっとどこかに消えていくのを感じた。




