冬にした忘れものを、春、迎えに行く。
自室の時計がちょうど22時を指し示すころ、――ふいにオッサンみたいなくしゃみが出た。
続けて二回。全部で三回。
「あぁ、クソ」
まったくイヤになる。
もう4月だというのに、どうやら温かくなるのはもう少し先のようで、鼻っ面をグシグシと袖で拭い、ベッドへと無造作に身体を預ける。
その時に零れ出た、何度目かわからない溜息の情けなさは、いったい何なのだろうか。
夜ともなればまだまだ寒さの厳しい日が続き、そのせいか。春は体調を崩しやすい季節だとも聞くし、なんだか最近、気分が優れない。
別段、発熱や体型の変化など目に見えるものはないのだが、どうしてだろう。精神的なものか、この一ヶ月の間、日に日に胸の辺りが重く、弱っていっている気がしてならない。
今まで病気の類いと言えば風邪くらいしか経験が無いからか、めったに起こらない体調の変化に、どうやら今度ばかりはいささか参っているようだ。
こんな情けない俺を見たら、アイツは何と言うのだろう。
いつものように笑いながら元気いっぱい『しっかりしなさい! ほら、気合を入れて!』なんて騒ぎ散らすのだろうか。
あと数時間で日付の変わる頃合いに、自室でひとり。もう近くには居ない同級生の顔を思いだし、また不思議と胸の奥が重くなった。
――アイツを最後に見たのは、桜の咲き始めたとある休日の事だった。
もともと出来の良い奴である。
高校生活を終えると、当然のように都市部にある有名な大学へと進学し、この三月をもって彼女は住み慣れた町を離れることになったのだ。
仲の良かった数名の同級生もその学校へと進み、良かったねと皆で笑い合えれば最高だったのだけど、……何にでもオチはあるもので。
蓋を開ければサクラチル。俺だけが近場の三流大学に滑り込む結果に終わった。
当然、その結末に納得は出来ていないのだが、今更ああだこうだと言っても仕方がない。すべては俺の実力が足りていなかっただけの話なんだから。
『仕方ないじゃない。アンタは努力したもの』
最後のあの言葉を思い出し、またもや心臓が痛くなる。
『別に一生会えなくなるわけじゃないわ。……だから、アンタもがんばんなさい』
あの無理して張り付けた笑顔が、俺の呼吸を妨げる。
『じゃあね』
何か言いたげに、でも何も言わず電車に飛び乗ったアイツの背中は、どうしてだろう。やけに小さく見えた。
「……じゃあね、か」
そういえば、あれから一回も電話が来ない。
ほんの最近まで、ほぼ毎日のようにアイツの声を聞いていたのに、中学の時からだから約6年か。ある程度の腐れ縁も、離れてしまえばこんなもんで、やっぱり、今までのようにはいかないようだ。
『なんか意地張ってるみたいですよ? 誰かさんの声を聞くとホームシックになるだとかなんだとか。やれやれですよね。お姉ちゃん、ほんとバカなんだもん』
先日、たまたま駅で会ったアイツの妹は、そう呆れた口調で言っていたが、……そうか。まずは元気そうで安心した。
別れ際に、
『このままでいいんですか? 逃した魚は大きいとおもいますけどね。お互いに』
妙なことを、どこか意味ありげに言ってはいたが、きっと妹なりに姉のことが心配なのだろう。
なんせ時期的に五月病ってのもあるからな。
せっかく行きたかった学校で、やりたい勉強をこれから力一杯やれるんだ。きっと向こうの大学で、忙しい毎日を送っているのだろうし、ホームシックなんてなろうもんなら大変だもんな。
慣れない一人暮らしに、持ち前の負けん気で必死に立ち向かっているアイツの姿は容易に想像できる。
それに、向こうには仲の良い女友達もいっしょに進学しているからさ、アイツの事だ、多少のことなら乗り越えるだろう。
もしかしたらすでに良い人の一人でもみつけたのかもしれない。見てくれはそこそこだし、誰にでも優しくて明るいヤツだからな、そういうヤツらが助けてくれるのもありえない話ではない。
「そうだよな。楽しくやってるよな」
そうなれば、俺なんてしょせん地元の『元』同級生のひとりでしかないからな。電話なんざかけてくるほうがおかしいか。
そうひとりごち、ベッドに寝転がったまま、天井に携帯電話をかざす。
ふと、思い出の中の隣で笑う彼女の顔がチラついて、見慣れたアドレスを開き眺めていると、なんだかまた少し、心臓がチクリと痛んだ。
仲の良いヤツだったからさ、それなのに。
こんなくそダサい感情、はた迷惑なもんだと理解してはいるのだけど、――俺だけ仲間はずれにされたような、鳴らない電話にほんの少しの疎外感。――だからかもしれない。
こんな肌寒い夜に、ひとりアイツの顔なんて思い出し、ちょっとしたノスタルジーに浸るもんだから、――原因不明の体調不良も手伝って、弱った心が悪さをしたのかもしれない。
勝手に動いた指先は、アイツのアドレスを押していて。
ハッと我に返り、しくじったと飛び起きたが、もはや後の祭り。
アイツもさ、たまたまスマホをいじっていたのか、一呼吸も置かない速度で出るんだもんな。
俺ってヤツは、ホント何やってんだろうね。何を話せばいいのやら、そもそも電話の理由が無さすぎる。こっちからかけておきながら大慌てだ。
「――も、もしもし俺だ。突然ワルいな」
ええいとスマホを耳に当ててはみたものの、――不意に聞こえてきたのは悲鳴のような女子連中の黄色い声だった。
『あ、ちょっと、聞こえない、みんな、ねぇ、ちょっ……』
でも、やっぱり電話の先にはアイツが居るようで、はじめは外野がうるさくてなんて言っているかわからなかったけど、
『もう! 静かにしてっ!! 怒るよっ!!』
次に聞こえてきたのは、雷のような一括。
久しぶりに聞くアイツの声がコレか。でも、何でだろうな。以前となにも変わらない、俺の知ってる彼女らしさにちょっとだけ笑みがこぼれた。
「けっこう盛り上がってるみたいだけど、今電話、大丈夫か?」
『――コホン。う、うん大丈夫よ、久しぶりね。一ヶ月ぶりくらいかしら。どうかしたの?』
声がえらく上ずっているが、やはり何か取り込み中だったのか、
『きゃー。やっぱアイツからじゃん』『おっそいのよ、あのボンクラ唐変木』『ほら、ちゃんと自分で言いな。会いたいって。毎日泣いてるって』
うしろの方から、一緒に進学した女友達の、ヒソヒソとした話声が途切れ途切れで聞こえてくる。
昔から仲の良いヤツらだったからな。向こうでも相変わらず楽しくやっているようだ。
「……いや、別段どうしたという訳でもないんだけどな、ただ、元気にやってるかなと思ってさ」
『え? あぁうん、まぁ元気だけど、何? それだけの理由でかけてきたの?』
「う、あ、そのだな……それだけじゃ駄目か?」
『べ、別に駄目じゃないけど。でも、ホントどうしたのよ。アンタの声に元気がないわ。毎日ちゃんと食べてるの?』
「食生活は昔と変わらないぞ、まだ実家に住んでるからな」
『なら、ちゃんと運動もしなさいよ。寝てばっかだとブクブク太っちゃうから』
「わかったよ」
『あ、そうだ。おばさんは元気?』
「あぁ。母さん、お前が遊びに来ないからさびしいってよ」
『そう。――あ、ほらっ! お鍋吹きこぼれてる!』
会話の中断は、突然だった。
わいわいキャーキャーと後ろから聞こえるあいつらの声。
急にどうしたんだ。なにかあったのか。なんて、ちょっとだけ背筋が冷えたが、
――何で誰も見てないの!? 一旦火を止めて! ダメよ火傷したらどうすんの! あぁもうアタシがやるからっ!
かしましい女性陣の喧噪に、大体の所は理解できた。
「相変わらず何やってんだよ、あいつらは」
『……ゴメン、ちょっと待っててすぐかけなおすから』
「おう、わかった。――あ、そうだ」
現在進行形で電話の向こうからはてんやわんやな生活音が聞こえてくるんだ。ホントなら、すぐに切ってやるべきだよな。でも、
『何?』
「えっと、」
『ん? 何よ』
「あーっと、アレだ」
『だから、何よ』
「なんだろうな」
『もう、なによそれ』
「いや、すまん。忘れてくれ」
――ほんと、俺ってヤツは無様で滑稽な生き物だ。
俺は彼女の言葉をさえぎるかのようにすぐさま通話を切ると、スマホをベッドへと放り投げた。
なんてこった。
脳みその中でぐるぐると言葉が回り、チクチクと心臓で感情がうごめく。
うろうろと部屋の中を意味も無く行ったり来たり。今のこの感情がなんなのか。どうにも、思考がまとまらない。
本当に、なんなのだろう。
今の会話の中で、アイツの声を聞いてすぐ。ふいに行き着いた結論が理解できなくて。でも、この感情には嘘をつきようがない。
あぁクソ。と、グチャグチャな心のまま、おもわず空中へと溢れる気持ちを吐き出した。
「なんてこった」
本当に、このマヌケな感情に対し、今更だもんな。なんてこったとしか言えそうにない。
あぁ、ホントなんてこった。……俺は、こんなにもアイツの声が聞きたかったのか。
――それから丸一日たったが、向こうから電話はかかってこなかった。
だけど、
「なによ?」
「え……ど、どうしたんだ?」
アイツはそこにいた。
大学から帰る俺を待ち伏せるかのように、いつもの駅で、いつか見たあの顔で、彼女は立っていたんだ。
一瞬見間違いかと自分の目を疑ったけど、バカ言うな。俺がアイツを見間違うわけがない。
「アンタがあんな電話をよこすもんだから」
なんて、不服そうに口を尖らせながら言っていたが、改札口のすぐ先で、――俺と目が合うとすぐに、さっきまでの不安そうな顔は何処へやら。
眉なんてこんなつり上げて、早足で近寄ってくるんだもんな。
無駄に付き合いだけは長いんだ。俺もヒトの事なんて言えやしないけれど、あの悔しそうな顔を見ればわかる。
昨日の晩の、あんな数分ほどの短い会話の中で、しかも電話越しなのに、俺の異変に気がついてくれて、それで、
「……とか言って、お前、本当は寂しかったんだろ」
茶化すような俺の声色に、アイツの顔が真っ赤に染まった。
「ば、ちょ、馬っ鹿じゃないの!? そんな事あるわけないじゃない! ……ただ」
「ただ?」
彼女はうつむいて「あ~、え~」っと2・3度言葉を選ぶかのように言いよどむ。そして、
「ただね、その、ふと無意識にアンタの名前を呼んだとき、……あ~、う~、……へ、返事が無いのがイヤなだけよ」
チラリと上目遣いで俺の顔を覗き込む、その仕草にやられたのかもしれない。
そもそも今コイツの住んでるところから、ここまでかなりの距離がある。飛行機や新幹線にでも飛び乗らなければ、到底この時間には間に合わない。
交通費だってバカにならないはずなのに、それなのに、アイツは今こうしてココにいてくれて。
たぶん、ようやく俺は、自分のこの昨日から続く不可解な感情を認めたのだろう。
なんでとか、どうしてだとか、今更そんな事を考えるわけもなく、思わずアイツの体を抱きしめてしまった。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと」
「俺もだ」
「え?」
たぶん、そのときの俺は勢いに任せすぎていたきらいがあったかもしれない。
なんせ、相手の気持ちをこれっぽっちも確かめてはいないんだ。一方的な俺の感情を向けただけなんだ。
迷惑かもしれない。イヤがられて拒絶されるかもしれない。
でも、どうにもアイツを抱きしめないわけにはいかなくて。
彼女の息を飲む音が聞こえ、心臓の鼓動が伝わってくる。
後々思い出したとき、たぶん死ぬほど恥ずかしい思いをするだろうし、コイツからも何言われるかわかったものではない。でも、そんなもん知ったことか。
人通りのある駅の構内で、もうコイツの顔なんて直視できなかった。
必死に閉じた俺の目が何を堪えているのかなんて、背中に回ったアイツの手が力一杯俺を抱きしめてくるんだ。きっとなにもかもがバレバレだろうな。
昨日行き着いた今更な結論が俺の胸を締め付けて、あの時、遠くへ旅立つあの日に、一度離した彼女の身体は今、自分の腕の中でとても温かくて。
……口からこぼれたアイツの名。返ってきたのは、涙で濡れた声だった。
俺の名前をアイツが、ぽつりぽつりと呟くから、同じくらい何度も何度も、ただ彼女の名前だけを呼び続け、胸元ですすり泣くアイツの声に……ちょっとだけ歯を食いしばる。
「……俺も、お前が居ないとイヤだ」
それでも、かすれて引きつったマヌケな声で、頑張ったんだけどさ。どうにも溢れる感情に溺れてどうにもなりそうにない。
でも、言わないといけないことだけはわかったから。
ムリヤリ抱き寄せた『元』同級生に向かい、俺はまるで自分に言い聞かせるようにもう一度、とんでもない事をのたまった。
あの日のように名前を呼んで、
「俺は、もうお前が居ないとイヤだ」
――その後、あぁだこうだと小っ恥ずかしい一悶着がいろいろとあったわけだが、
「いい? ヒマなときでいいから二日に一回、ううん、三日に一回は電話をすること。あと、アタシの電話には可能なら最低3コール以内で出なさい。あ、それと、」
「何だ?」
「あのね、」
「だから、何だ?」
「そのさ、」
「ほんと、どうしたんだ?」
ほにゃっと表情を崩し、アイツは笑みをこぼした。
「えへへ、なんでもない」
――『彼女』の乗った電車は遠くに走り去っていく。それを見送りながら、俺は頭をかしげていた。
ちょうど電車のお尻が見えなくなる頃、ふいにスマホが震え、
『困ったわ。もう寂しくて泣きそう』
電話越しに聞こえるアイツの声に思わず吹き出した。
「俺もだ」
鼻をすする音と、嬉しそうな笑い声。
『浮気は許さないから』
「安心しろ、昔からお前一筋だ」
我ながら、歯の浮くような台詞をよくもまぁ。失笑とはまさに今の俺の顔だろう。
何言ってんのとバカにされるかも。
なんて笑いはしたが、『ふぇぇえ』と言った涙混じりのマヌケな声が聞こえ、ちょっと間を開けてラインで送られてきたのは目一杯のハートマーク。
しかも、次から次に。
「なんだこりゃ」
声に出してくれればいいのにと、何処か残念に思いながらも、すっかり見えなくなった電車の影を目で追いかける。
そういえば、結局あの痛みはなんだったんだろう。ここ数日、あれだけ重く、苦しかったのに、
「ラインの返事は、俺もハートマークでいいのかな?」
遠くを行く列車のように、いつの間にか、胸の痛みはどこかへ旅だっていた。