無窮の双眸へ
―――知るとは、他ならぬ何かに成ることであり、知ることを知るとは、己が他ならぬ何かとして存在していることを認めることである―――と、セグクレヒト408が声ならぬ声、相貌無き言葉、思考の表面に表れる結果ではなく概念の構造そのものを理解させようとする意志で以て私に伝えて来たのは、〈万界鏡〉の表面から少し沈んだ所から発せられる無数の燐光がおぼめく〈認識の間〉の、暗がりと光とが得も言われぬステップで舞踏を繰り広げている一隅でのことであった。私は夢の通路を通って再びそこへ足を踏み入れていたのだが、深遠で多様な真の驚異を孕むこの壮観の諸可能性、それ自体が既にひとつの強大な力であると感ぜられる数多の展望を仄めかす数知れぬ認識/知識の輝きに圧倒され幻惑され、物も言えずはしゃぎ回りたがる内心に振り回され乍ら、敬虔に膝を震わせていたところだった。私の心の底流には今だあの雑多で下劣でとことん散文的な肉体の生活への嫌悪と反撥、それにそこから逃れて純然たる思考の領域に遊ぶことが出来たことへの子供染みた喜びが渦巻いており、それが私の目を曇らせる可能性があることを理解してい乍ら、そうした極く他愛も無い衝動が状況に依っては却って冷静な分析には到達し得ない所まで手を伸ばすこともあるのだと、些か洗練されざる言い訳を繰り返しつつ、私はその原初的な感情機構の中から我が身を引き離せない儘でいた。
―――何物も―――と、その声ならぬ声は続けた―――、仮令どれだけ取るに足らぬものの様に思われる一片の特徴であろうとも、仮令それが潜勢態に於てであれ現実態に於てであれ、それがこの宇宙の中で某かの座を占めて存在している以上は、必ず何かの関係性の裡に巻き込まれているのでなければならない―――そうでなくてはそれはそもそも存在していると認められることさえ不可能であろうから。そして認識と云う行為とは、その対象の周りに張り巡らされた無数の関係性の中にメスを入れ、自らその関係性に関与することなのだが、それは取りも直さず一個の関係性として自らをこの宇宙の中に定立すると云うことであり、それは正しく存在する――生成して存在すると云うことに他ならない。
―――それは例えば量子レベルでのことを仰っているのでしょうか?―――と私は尋ねた―――少なくとも自分ではそうしようと努めた積もりだった。だが私の中に今だ巣食っている雑駁な不純物共が邪魔をしたのか、その構造には瑣末で局所的なイメージ達や十分に彫琢されていない諸概念が未練がましく、殆ど裸の枝の先にしがみついている干涸びた枯れ葉達の様に纏わり付いた儘だった。私は内心恥ずかしさから鈍い痛みを覚えたが、恐らくは私自身が理解しているよりももっと、彼/彼女には、私の未熟さが見えているのだろうと思うと、その痛みは二重の恥辱となって私の胸の底を疼かせた。今だ万有に対し十分に開かれてはいないこの私のそうした皮相さを、彼/彼女は寛容に受け容れ、静かに見守ってくれるだろうと云うことを知っていた積もりではあったが、その穏やかで慈愛と友愛に満ちた春の日の湖面の様な瞳と目が合うと、私は目の下の辺りがどぎまぎと動悸を速めるのを御し切ることが出来なかった。
―――君は問題を故意に矮小化している―――とセグクレヒト408が伝えて来た。同時にそれが矮小化された反定立を立てることによって理解を深める為にわざと行っていることであり、且つまた彼/彼女との適切な距離を測りたいと云う私の実に不器用な探りの表れでもあると云うことに対する理解と同情との包容力に満ちた波が私を包み込んで来た。見透かされていると云う思いから来る更なる羞恥心が沈み込む様なバスで嘲笑の歌を歌おうとしたが、彼/彼女の寛大さはそれすらも溶かし込んで尚深い様に思われた。私は自分の頬が仄かに熱く火照るのを感じた。常識的に考えれば在る筈の無い感覚を覚えたことを知り、光学的視野の様に私の認識/知覚の根本的な構造に深く関わっているものならばともかく、斯くも自分が深く一個の肉体であることを思い知らされ、私は周囲の空間全てに自らの存在を解放させて行きたいと云う衝動に駆られた。その時彼/彼女が敢えて制止しようとはせず、只私の心の行方を覗き込む様にして、しかし何を問い掛けるでもなく見守っていたのは、恐らく私のことを信頼していたからなのだろう。
彼/彼女の承認と賛同を得て、私は認識の対象となるものが、その知の階梯に応じて如何様にもその存在のホラーキー/ヒエラルキ-構造の中を上下することを、幾つかの具体例――と言っても、通常の生活圏に於ける概念枠に於ては遙かに抽象度の高いものではあるが――を挙げて説明して貰った。対象は我々がどう云う認識をしたいのか、我々がどう云った知でありたいのかに応じて、その姿を変える。言い換えれば、そこに成立する知の形に応じて、その中で対象は自らを定義し、同様にそこで成立する認識者を、その関係性のもう一方の極として捕捉するのである。―――我々は全知の存在ではないのだから―――と、彼/彼女は伝えて来た―――、我々の認識、我々が関わる知は有限的であらざるを得ない。知とは取りも直さず世界内の何処かに成立するものであって、それはホラーキー/ヒエラルキー構造の中の特定の層に於て関係を切り結ぶ、と云うことに他ならない。自らが巻き込まれていることを常に心せよ、己のくれるその一瞥が、世界を新たな形に変容させてしまうことを忘れてはならない。蝶の羽搏きが颱風を惹き起こすことがあるのならば、光るひとつの乱れがひとつの島宇宙の破滅と発展を別けることもあるのだ………。
言葉に翻訳するとそうとでもなりそうな思考の形態に取り組み、読み解いている内に、私は言い様の無い高揚感が胸の内に湧き上がり、次第に頭をはっきりと明晰に、薄荷でも噛んだ様に、見渡す限り一面水と空しか無い南太平洋の晴れた朝の様に澄み渡らせて行くのを感じた。それは私が目覚めのより限定された時空間の中で何度も巡らせたことのある思弁を、更に精緻な表現に置き換えたものに過ぎなかったのだが―――恐らくはそれは私が自分に理解出来る様な形態に変換した結果なのだろう、私が読み解いた後にはまだ、消化し切れずに残っている玄妙な襞の様なパターンが周囲に、身の置き所を見付けられずに手持ち無沙汰で漂っているのが感ぜられた―――、私は今やそれらが再び生命を与えられ、活力を帯びたものと成り、単子の様に、一輪の薔薇の様に、世界の全てを映し込んで生き生きと輝き、より洗練され鍛えられた姿で力んで働いていることに気付かざるを得なかった。私はそれを噛み砕くのに戸惑い、勝手が分からず暫し無様な逡巡と試行錯誤を繰り返した後に少しずつ、それが齎してくれる眺望の余りの曇り無さと、それでいて且つ豊穣さを失っていないことに呆気に取られ、その驚嘆の味を味わえる様になって行った。
私がコミュニケーションの方法、思考の形態を互いに異なる精神同士の間で伝達し合う仕方そもものの方に気を取られていることを逸早く察してくれたのか、セグクレヒト408は然り気無く私に水を向けて来た。矢継ぎ早に質問を繰り出そうとする衝動を何とか堪えて、私が単にこの思考伝達の精妙さに対する不可思議さのみを伝えてみると、彼/彼女は、私が属している時代に於ては、彼/彼女の属している時代には極く普通に用いられている、目を通して与えられる光学的情報と脳に直接送り込まれる電気信号との複雑な組み合わせによって思考の、発想のパターンそのものを立体的に発展的に伝達する遣り方がまだ発明されていないので、こうした形で意思を伝え合うのには不慣れなのだろう、だがコツを覚えれば何れ慣れて自在に扱える様になる、と伝えて来た。―――すると、この伝達方式は、貴方の時代に於て行われているものと同一なのですか―――と私は尋ねた。確かに或る程度彼/彼女が目覚めの世界に於て用いているコミュニケーション手段がこの伝達方式には反映されてはいるが、同一と云う訳ではないし、必ずしも明確な対応関係がなければならぬと云う訳でもない、と云うのがそれに対する回答であった。そこで起きる現象は全て、我々が目覚めの時空間帯域に於て経験可能なことどもに根差し、それらを糧としている。だが我々偏在型の精神にとっては、この時空間を形作っている素材は全て相互に浸透し合っていて不可分の連続体となっている。一見それらが、非連続的な断絶を見せることがあっても、それは表面に於てのみそうであるに過ぎず、より基底的な階層に於てはあらゆる事象は同一の根に繋がっているのだ。従って、現にここで体験される事象として成立しているものは、仮令それがどれだけ特定の時空に於ける特定の文脈に依存している様に見えようとも、決してそれだけで独立した境界を保っている訳ではなく、他の様々な時空の様々な文脈から何等かの形で影響を受けているのである。そしてそれを認識する者が背負っている文脈に即してそれを理解可能な形に翻訳したものが、最終的に認識されるものの形式となる。この伝達方式――と私が把握しているところのもの――にしても、それはより精妙で異質な伝達方式の影の影、セグクレヒト408が自ら慣れ親しんだ伝達方式を基準として利用した伝達方式を、私の極く貧相な精神がようやっと抱え切れるだけに切り取られた、謂わば簡易版なのであった。しかもそのセグクレヒト408や私がそれぞれ背負っている文脈もまた、そららの背後に不可視の土壌から莫大な栄養分を吸い上げていると云う事実、更にそれらの複雑な運動全てを包み込んで、この〈認識の間〉が属している広大な夢の先の領域が独特の理法に従って生成を編み上げていると云う事実が、単純な断定を拒否する非常に力動的な構造を造り上げているのであった。現に、私の神経系はセグクレヒト408が通常用いている様なコミュニケーション手段に対応出来る様な発達もしていなかったし、機械的な補助を常用する習慣を持ち合わせているどころか、そうしたものに関する極く僅かな知識さえ持ち合わせてはいなかった―――何しろ私が属している目覚めの世界の時間帯域は、セグクレヒト408のそれと比べて以前に位置している様なのだ―――。ここでの私は最早肉体の完全な束縛を受けている訳ではないと云うものの、これまでの私を形作って来た長年の習慣は強力に精神としての私を規定し続けていた。単純に考えれば彼/彼女の伝達手段を自分に受容出来る範囲で私が翻訳した、と云うことになるのであろうが、しかし私は同時にセグクレヒト408と同じ素材から成り立っており、或る意味では私はセグクレヒト408と同一の存在であって、単に焦点を強く結ぶ位置が互いに異なっていると云うのに過ぎないのであった。それが証拠に、私には私の認識が取り零しているものども、そしてセグクレヒト408の認識が取り零しているものどもについての、朧気な漠然とした予感があった。驚いたことに、その予感は先程から既に私の中に存在していたのであった。
私の動揺に対し、もっと静的な美を期待していたのではないのかと云う、セグクレヒト408の半ば以上確認の為の質問が打ち寄せて来た。その波は私に、自らが実際に置かれている状況についての切実な実感を伴った認識を促し、そこに見られる混乱と美とを理解させようとして来た。私は自分が慣れ親しんで来た認識論的諸前提からの懸隔――と私には思われたもの――に脅威と不安を感じ、そこから、この存在論的移行についての疑念が湧き上がって来ることを抑えることが出来なかった。私とてそうした方向性を考察したことが無かった訳ではない。人並みの知性と想像力とを備えた者であれば当然辿って然るべき道筋として、また自らの知的好奇心に対する当然の義務として、私はそうした諸可能性について自分なりの考えを巡らせたことはあったのだ。だが、それがこれ程までに私の根本的な存在様式に関わっていようとは思ってもみず、正直に言って私はそれまでそのことを何処か遠い国の話、手の平の上に載せて虫眼鏡で覗き込むことの出来る、素晴らしく魅惑的だが概して害の無い、完全に対象的な事物の様に扱っていたのだった。私は自分の足下が急に取り払われ、よく見知っている筈なのだが今や全く未知の深淵と化して、その下にぱっくりと口を開けたもう一層基底的な真実が自分を待ち受けている様に感じた。それは実にコペルニクス的転回とでも言うべき衝撃を伴って私に襲い掛かり、私は、自分が巻き込まれていると云うことが実際にはどう云うことなのか、その展望がどれだけの深さと広さとを孕んだものなのか、丁度自分が今立っているこの堅牢不動の大地が実は一定の軌道を描いて広大な宇宙の中を運動し続けている一個の惑星であることを初めて全体験的な事実として実感した近世人の様に、初めて得心が行った様に思った。だがそれと同時にまた、自分だけは安全圏に避難しようとする逃避の衝動が殆ど自動的に発動し、この事態を「説明」する為の幾つもの図式が浮かんでは消え、また浮かんで来た。これまで私を数々の冒険へと引っ張り出し、実に数多の戦果をもぎ取って来た焦燥感に駆られて、私は自分の傍らに私などより遙かに物事を弁えているセグクレヒト408が居ること、またあらゆる解答に最も接近し得る強力にして精妙な経路である〈万界鏡〉が在ることを半ば失念した儘、現象を救う為の幾つもの試みによって夢の先の時空間に不均一な乱れを引き起こした。
不整脈の様な息苦しいその揺らぎを感じ取って、私は気を取り直した。〈認識の間〉に充満する静けさは、半ばはその余りに活発な活動に反比例するかの様に闃然と垂れ込める自然な沈黙に因るものではあったが、その秘めやかだが音の裏に隠されているものを暴かずにはおかない深みのある反響は、がさつな大声で思慮の浅い言葉を吐き出すのを自ずと禁じるものでもあった。目の前に穏やかなセグクレヒト408の顔があり、私は自ずと居住まいを正して思考の整理に努めた。非常に俗世的な気恥ずかしさは尚もまだあったが、それよりも私は、自分と云う一個の精神が周囲の〈認識の間〉の時空間に溶け出して行き、そうした細々とした気苦労が没落して行き、より広大な地平へ向かって瞼が開き始めているのだと云う実感を感じつつあり、そちらの方がより有意義な展望へと通じているのだと云うことを理解していた。自分で予想していた以上に急速に、私はこの微かな冷気とも熱気ともつかぬ怜悧なざわめきの中で呼吸することに慣れて来ている様であった。それとも、今の攪拌によって私の理解が幾分なりとも深化を遂げたのだろうか。つい先刻までは、私は自分自身が余りにも肉体であったことに驚いていた。ところが今や、肉体と云う自分がどれだけ非物理的/肉体的なものであるのかと云うことに驚いているのだ………。
無言の儘のセグクレヒト408が何かを促している様に見えた視線の先を辿って行くと、そこには薄暗い周囲の沈黙の中から透き通る様に浮き出ている、〈万界鏡〉に映し出された無数の諸世界の断片の集合と離散とが織り成す、目も彩な光の乱舞があった。「肉体」と云う概念の通常の用法に於ては今は行われていない筈の自分の呼吸する音が、大オーケストラの演奏の様に反響する錯覚に陥りそうな静寂の中、そこに秘められているであろう数多の驚異への暗示は、まるで強力な磁力の様に私の目を惹き付けた。その純粋に濾過された世界の思索は、払暁の地平線上から真直ぐに放射される闇の中から光を凝縮し蒸溜して固めた様なはっきりとした手触りさえ感じさせる赤光の如くに、私の魂のあらゆる障壁を貫通し、私自身さえ気付いていなかった何処か内奥の秘められた未知の領域を、一直線に照らし出した。溜息の様なものが漏れそうになって私は思わずハッとして息を呑み、口許に拳を当てて暫し立ち尽くした。
私がその思考の方向性の急な転換の衝撃を受け止め、再び自らの前途に待ち構えているであろう遙けき光景の広大さに思いを巡らせることが出来る様になるまでの間を置いてから、セグクレヒト408は優しく宥める様に教え諭した。
―――自分の現在の認知的限界を、世界と自分の唯一絶対の限界と思い込んではいけない―――彼/彼女の言葉ならぬ言葉は不思議な位抵抗無く受け容れることが出来た―――。既に決定的な一歩は踏み出したとは云え、君はまだ大いなる探究の緒に付いたばかりなのだ。君はまだまだこれから沢山の経験を重ねることになる。その過程で君は自らの経験の仕方を模索し、新たな諸可能性を自らのものとして取り込み、自らの存在様式を変容させて行くことになる。それは単純な拡大生長ではなく様々な紆余曲折を孕む複雑で一筋縄では行かない遍歴の旅となるだろう。だがそれは君が君の求めるものを得ようと欲するならばどうしても避けては通れない手続きなのだし、そうした途中経過を省いて結果だけを得ようとする試みは悉く空しいものとなるだろう。君は自分の出発点を失うことを恐れている。現在がやがて過去と成り、背後に遺棄され忘れ去られてしまうことを恐れている。君は自分が変容してしまうことを恐れている。そしてその変容の過程で取り残されて行ってしまうものどもが、光無き永劫の闇の中で発するであろう、君の裏切りに対する呪詛と怒号の大合唱を恐れている。それは直接聞こえない分想像の中でより一層その恐ろしさを増し、君を脅かすことだろう。そして君はそうしたことが自分の求めていることとは懸け離れたものであると思っていて、その疑念がやがては探究そのものの意義と目的とを食い荒らし、壊滅させてしまうであろうと予想している。そう、君の恐れは或る面に於ては正しい。だが、或る面に於ては酷く不完全で、短絡的に過ぎる。探究の過程に於て、答えそのものが変容してしまうであろうことを君は見抜いていて、そのことに対して大変な後ろめたさを感じていることは私も知っている。目覚めの時空間に於てならその懸念は全く正当なものである。一度失われたものは永遠に還って来ないし、その個々の具体性は決して他のものによっては代替が不可能な性質である。経験の中で取り戻されたと感じられるものは全て、絶対的なる〈現在〉の中に取り込まれて一度分解され再構成され、書き改められたものに他ならない。〈現在〉はその唯一無二の一回性に於てあらゆる時空連続体の上に君臨し、その統治が終わることは、少なくとも同定可能な何物かがそこに存在し続ける限りに於ては、決して有り得ない。だがその答えは有り得る解答の諸可能性の中の、最も有り触れたもののひとつに過ぎない。そう、君は更に遙かなる光景へ向けて漕ぎ出すことが出来るのだ。君は君の求める解答を現時点ですっかり完全に得てしまったのだと満足してはならない。君がまだ手にすることの出来ない別の解答もまた有り得るのだ。それがどんなものかは無論ここで私が君に教えてやることは出来ないし、君の方でもその準備に必要なだけの経験をまだ積んではいない。だが君が欺瞞と考えるものが絶対的な欺瞞ではない、少なくとも、君が今現在欺瞞と云う概念に対して想定している意味とは異なる、今はまだ隠れた構造を持っていると云うことを確かめる術はある。私が教えよう。それにこの〈認識の間〉で立ち働いている全ての精神達もまた君に協力する。この〈間〉を構成している全ての事象、〈万界鏡〉に映し出されるあらゆる観測/介入-対象が、君の糧と成り、君を作り変え、君の視野を拡大深化させて行くだろう。君は独りで徒手空拳でここに放り出されている訳ではない。ここは敬虔に学び、知と理解を深める為の場であり、その為の技術は長い長い歳月を掛けて蓄積/浸透されて来ているのだ。我々は共に学び、学ぶことによってひとつと成る。認識と云う経験によって君と私はひとつと成り、我々全てがひとつの大いなる知の循環の中に参加し、更なる地平目指して知り、且つ知られて行くのだ。教えておこう、ここに足を踏み入れたその瞬間から、君は全てを知っている。私の知っている全てを知っている。この〈認識の間〉で成し遂げられたあらゆる探究とその成果を君は既にすっかり知ってしまっている。だが現時点にあってはそうした知は今だ、謂わば休眠状態にあって、今の君の視野に届くまでには至っていないのだ。このことを確かめる為には君は君の探究を続けなくてはならない。君は既にその必要性/必然性を理解している。そしてその試みが無駄に終わらないことを朧気乍ら理解し始めている。その先で君を待ち受けているであろう、驚異と深秘の数々へ向けて、君の魂はもう手を伸ばし始めている………。
驚いたことに、私は彼/彼女が正しいことを知っていた。自分の進む先に解答と、解答の変容が用意されてあることを、殆ど骨髄に刻まれた天然自然の本能の様に理解していた。探究が更なる深化を遂げ、精妙な眼差しが交互に飛び交い、目にするもの手に触れるもの全てを巻き込み、また自らも巻き込まれて、この認識と云う営みが続いて行くであろうことがひとつの確定的な事実として、自明の理として私の前に立っていた。何と云うことだろう、勿論そうではないか? 絶望と倦怠の果てに美と恐怖とを見出し、目眩めく戦慄と法悦の裡にあの輝きを受け容れたその瞬間から、私は事態がそう進むであろうことを予想していたのではなかったか? そして今現在他ならぬここにこうして私が存在して立って認識していると云うこと自体が、私が抱えるあらゆる懐疑的な疑念に対する立派な弁明となっているのではなかろうか? その通り、私は知ることになるだろう、私が未だ引き摺っている幾多の欠点や欠陥、未熟さや粗野さにも関わらず、私は新たな宇宙へと足を踏み入れ、未知の時空間を探索して回り、より根源的な存在領域を求めて飽く無き開拓を続けて行くことになるだろう、より解放され、より多くのものと繋がり、過去を救済し、未来を公開し、貪欲に、しかし静謐なる希望を持って、ひとつの必然として存在して行くことだろう、多くを破壊し、多くを造り上げ、切り結び、関係し、生成し生長して行くことだろう、そして最早何物にも掻き乱されることも無い平穏――少なくとも私にとっては平穏を意味する状態――を手に入れた私の屍体が水晶の葦の茂みを抜け、瑪瑙の岸辺の傍らを通り過ぎ、虹色の照り返しが輝く白銀の大洋へと流れ出して遙けき水平線の彼方へと、変化も少なく果ても無い旅を本格的に始める頃には、存在/認識の円環を閉じると云うことが実際にはどう云うことなのか、私ももう少しより理解出来ていることだろう………。私はこの超並列処理的な多元構造の中で夢見られつつある自分達の生が、一体どんな姿を取り得るのだろうかと、様々に思い巡らせた………。
思わず知らずの裡に、私は頭上の暗闇を、赤褐色の荒涼たる大平原に巍峨と聳える、自然のランダム性に任せたものなのか人為的な意匠が反映されたものなのか判然としない表面をした砂岩の大城塞を支えている筈の、巨大な〈万界鏡〉よりも少し高い所にある天井を見上げた。今や私にはここで私が見、聞き、手で触れ肌で感じるものの全てが私と云う焦点によって結ばれ、私と渾然一体となって成立する認識/存在を素材として成り立っていることを、今現在直接には感知されていない潜在的な「見做し存在」をも含めて、私によって経験され、また私を経験すべきものとして成立していることを、この途方も無い重みと無窮の広がりの全てが私であり、また私がこの風景の不可欠の一部として組み込まれていることを、厳粛な気持ちで受け止めることが出来た。そして最前からのセグクレヒト408の言葉ならぬ言葉が全て私の言葉でもあり、同時に、この〈認識の間〉の不可思議な時空間全てから発せられる言葉でもあることを、私は知った。縦横に広げられた薄絹の様な知識の網の目の中で、私は知と未知とが同時に存在し、且つまた矛盾せずして各々その本性を全うしていることを奇異に思わないではいられなかったが、その謎もまた究極的な謎ではなく、単に私の認知的限界に合わせて設定された領域に於てそうした形を取るのが最適であると云うのに過ぎないと云うことを私は確信していた。だが私の中には尚も、その茫漠たる経験/存在の広がりの中で、今の自分の全てが分解しバラバラになり薄められ引き伸ばされ、砂浜に落ちた砂粒の様に、連続してはいないものの他のものと実際上区別が付かなくなってしまうのではないかと云うことへの怖れが、今だ根強く残っていた。私が私であり続ける限り、この私の唯一性/代替不可能性は絶対であると云う前提が、或る地点から先に私の想像力が進むことを妨げていたのだ。それと同時にまた、余りに莫大な事象の単一性と多元性に関する疑問が泉の様に湧いて来ては、結局全ては決定的なものではなく原理としての浮動性があらゆるものを呑み尽くし、成長と進歩を求める一切の試みを嘲笑うことになるのではないかと云う不安を掻き立てた。私はこの狭量であはるが尤もな懸念と、その背後にあって全てを包み込み説明してくれる筈の世界の豊穣さとのギャップに戸惑いを覚えずにはいられなかった。
私の困惑を感じ取ったのか、セグクレヒト408は穏やかな微笑を目許に浮かべて、その長い手を差し上げ、身振りで私を〈万界鏡〉の観察/介入台のひとつに据え付けられた座席へと促した。促される儘に私はその座席の上に座り、いきなり〈万界鏡〉を覗き込んだものかどうか少し迷って、セグクレヒト408の変わらぬ穏やかな香を見上げた。〈万界鏡〉の周りには、私と同じ様に観測/介入台に座を占めた別の探究者達が何人かそれぞれ思い思いの位置に陣取って熱心に中を覗き込んでいて、私達の居る方へは一瞥もくれなかったが、全員が孤立している訳ではなく、寧ろ心の何処かで互いに共鳴し、この時空間の調和めいた複奏パターンの一部として私達と共に在ることが、或る種躯がゾクゾクと膨張する様な感覚として理解出来た。私もまたその響宴に参加したかったが、新参者としての気後れが、曾て私がもっと無知で若く狂おしかった頃の大胆さを殺いでしまっているのが何とももどかしかった。長く内奥を蝕む退屈が連れ込んで来た重苦しく沈鬱な疲労は、女神との邂逅によって浄化された筈だったのだが、数瞬の弱気がいとも容易くその復活を宣言してしまうのではないかと云う考えが脳裏を過り、私はどうにも気が気ではなくなった。
そうした私の居心地の悪さを見抜いているのであろう、セグクレヒト408は何も言わずに私の側から身を乗り出し、私にはその操作方法の大部分が未知のものに留まっている、私から見れば可成り複雑な、しかし実に芸術的に洗練されている数々の器具を、手で押したり引っ張ったり指先で選り分けたり弾いたり視線入力で細かく走査させたり手の平全体を使って様々な指標の様なものをあちこちに動かしたりして―――その操作方法のどれだけが、彼/彼女が暮らしている時代のテクノロジーを反映しているのだろうと、私は興味津々だった―――、様々な世界の断面を目紛しく整理して行った。その大半は視覚的な像として表されていたが、それが特に私に解り易いようにとの配慮からそうした形式を取られたものであることは容易に推察出来た。様々な種類の値によって表現される各種の圧力が何を意味しているのか、私にはその正確なところは殆ど測り難ねたのだが、何にせよ老練な力のある探究者でなければ分け入ることの出来ない領域へと彼/彼女が進みつつあることは想像が付いた。
その内に細かい作業が終わったのだろう、彼/彼女は和音を弾き掛けたピアニストの様に指を曲げた手をとある立体像の上に翳した儘、何かを待つ様に凝っと動かなくなった。像の中では無数の光点達が淡い濃紺の背景の中で絶対的には可成りの速度だが相対的には極くゆっくりとした速度で、放散の様な運動を繰り広げていた。私がつられてその動きの意味を理解しようと覗き込んでいると、不意にセグクレヒト408は質問を投げ掛けて来た。
―――君は我々が観測/介入に際してその手順を整える為に利用し、また測定や判定を行う際の手引きや規準として頼みともし、あらゆる方針を決定する際の根本的な原則として参照すべき大本の原理が、何故〈生成原理〉や〈闘争原理〉、或いは〈刑相〉や〈差異〉や〈同一性〉の〈原理〉ではなく、〈恐怖原理〉と呼び慣わされているのか、その理由が解るだろうか?
数瞬の間躊躇ってその回答を胸の内で引っ繰り返した後、私は解らないと返答した。
―――恐怖と云うものは―――とセグクレヒト408は続けた―――、生命にとって最も根源的な機構だ———尤も、ここで君が身を置いている文脈に即して「恐怖」と翻訳した概念は、実際にはもう少し微妙なニュアンスを含んでいるのだが。恐怖はあらゆる感情の中で最も原初的にして普遍的なものであり、そして感情とは生命が己自身であろうとする努力が生み出した工夫に他ならない。それは一が一であろうとする傾向性、形を有するもの、形を得たものがそれ自身に留まり、己を保全しようと固執する本性を最も単純に表現したものであり、それに基付いてこそ、あらゆる事象は事象として成立し、万有はその歴史を開始することが出来る………。
セグクレヒト408が伝えて来た思考はもう少し精緻な構造を備えていたのだが、その支脈を十分に理解する前に私の方から一度に性急に質問を幾つも繰り出してしまった為、そこで中断してしまい、それ以上の詳細な解読は行われなかった。私は殆ど反射的にそれらの質問を生硬な感情の波に乗せて彼/彼女にぶつけたのだが、驚いたことにそれらのひとつひとつに彼/彼女は並列的に回答を返して来た。無論私の方にも、解読する時とそれを更に翻訳する時の双方に認知的限界と云うものがあるので、混乱を避けて継時的な記述にしようとすると、大体以下の様な回答が得られた。
―――先を急ぎたい気持ちは解る。だが求める解答が求めた時に十分に得られるとは限らない。君のそうした反応を予想してい乍ら私が敢えて君にこの説明をしようとしているのは、今君に解答を与えたいからではない。少し辛抱して多少の回り道に備えて貰いたい。
―――苦痛の方がより根源的ではないかと云う疑問に関しては、苦痛よりも恐怖の方が根源的であると答えておこう。感情と云うものを快苦の原則よりも高次の機能、即ち外延的にはより限定された領域にしか存在しないものであると考えるならば、君の疑問には正当な根拠がある。だがそれは二重の意味に於て誤っている。我々がここで扱っているのはそうした限定的な恐怖ではなく、より普遍的な存在一般の基底原理としての恐怖であるからだ。このことを説明する為にはもうひとつの、認識/行為と存在/行為に於けるホラーキー/ヒエラルキー構造の転倒と云う点に言及せねばならないが、残念乍らこの事態については現在の君にはまだ十分に理解する為の準備が出来ていない。従ってこの件に関してはもう少し目を瞑り、保留した儘先へ進むしか無い。
―――宇宙を生命と同一視することに対する疑念もまた、ホラーキー/ヒエラルキー構造の転倒と云う現象から説明せねばならないのだが、その通り、万有とは霊的生命の発現であり、生成とは即ち生命への参与に他ならない。この時忘れてはならないのは、ここで扱われているのが飽く迄我々が認識/存在する限りに於ての宇宙であると云う点だ。精神と云うものの本質を君がより深く感得した暁には、こうした疑問の正体は自ずと明らかになって行くだろう。
―――恐怖が発見出来ない事態が数多存在していると云う推定は、その判定を行う次元が専ら表層的であると云う点に於て誤っている。尤も、確かに恐怖が成り立っていない、存在の没落した次元の可能性は無視出来ないどころか、存在についてよりよく理解する為には、非在について知る段階を経ることがどうしても必要となる。だがその点についても実は〈恐怖原理〉の中に遺漏無く盛り込まれている。〈恐怖原理〉とは、恐怖の不在についての原理でもあるのだ。
―――恐怖の偏在とは、裏を返せば、恐怖が成立を許されている、即ち、霊的生命の発現として、万物が、万有が、あらゆる事象が、あらゆる恐怖の欠落した次元の可能性にも関わらず、最終的にその成立を許されている、と云うことだ。世界を非在化させて行く手順は君もその極く一部をだが知っている。だが失われた世界を取り戻す方法については、君は余りにも知らなさ過ぎ、偶然に頼り過ぎている。〈恐怖原理〉の下では、世界は全き姿で、ひとつも欠ける所無く再構築され、認識/存在される。我々が対峙/参与することになるのはこうした宇宙だ。君は君が知り得るあらゆる宇宙に対して、そこに慈愛を見出す術を学んで行くことになるだろう。脅かすと云うことは同時に愛すると云うことでもある。君はこの即融不離の見掛け上の逆説について、長い長い旅を経てその真実であることを確かめねばならない………。
「ではクォークや暗黒物質やヴォイドにも愛を認めろと仰るのですか?」と、思わず私は口に出して叫んでいた。以前の習慣がまだ抜け切れずに粗野な表現方法に頼ってしまったことを私は直ぐに後悔し、同じことをより開放的で重層的な思考の波として送り出したが、そうした後悔自体が実に私の面倒な業の深さを表していることは、少し後になって思い返してみるまで気が付かなかった。
―――そうとも―――とセグクレヒト408は冷静さを全く崩さずに答えた―――。一見馬鹿馬鹿しく思えるそれらの命題は、素晴らしい真実であり得るのだ―――君が謙虚に学びさえすれば。宇宙の全ては恐怖によって成り立ち、恐怖は愛によって成り立つ。………だが今の君にはこうしたことをすっかり納得するのは難しいだろう。だから私はこれを君に見せ/認識させ-ることにしよう、そろそろ調律が済んだ頃だ………。
彼/彼女はそうして私に、最前から微調整を続けていた立体像へ注意を向けるよう促した。像の中では無数の輝点達が今やゆらゆらと揺れ動き乍ら煌めいていて、水中に舞う砂粒か銀河の流れを形作る星々の様に、変幻に富む軌跡を描いて幻妖な集団舞踏を繰り広げていたが、恐らく私向けの配慮からなのだろう、像の上に重ね書きされた幾つかの指標から、何処をどう手繰ってやれば更なる眺望を開くことが出来るのか、凡その見当を付けることが出来た。
―――今君が目にすることになるのは、この先君が探究することになる、広大で変化に富む様々な舞台の極く一部だ―――と、その儘フラフラと先へ進みそうになる私を、セグクレヒト408が引き止めた。―――丁度、少し小高い丘の上に立って辺りを一望する時の様に、君は何時もより遠くまで物事を見渡すことが出来るが、だからと言って実際にそこへ足を踏み入れて更なる地平を目指すことが出来る訳ではまだない。君は驚嘆し、己の卑小さと己の偉大とを共に知ることになる。君は我々が有限的な存在であり、その探究にも限りが有ることを理解していはいるが、その限界を何処まで押し広げることが出来るのか、そしてその上でどれだけ自分達が有限であるのか、君はまだ一歩一歩経験を積み重ねて行くことによってその原理的に獲得された視野を個々の実質的な認識/存在で埋めて行かなくてはならない。今行うのはその為の下準備、心構えの為の小さな冒険だ。来るべき探究の過程に於て、君はこれから目にする/理解することになる光景を、再び、しかし異なる経験/認識として目にする/理解することになる。だがそれすらもまた絶対的なものではないことを、君は何れ知るだろう。今は全てを知ろうとしなくても良い―――そうしようとしても不可能だ。君は眼前に展開される光景をよく見、聞き、体験し、可能な限りで構わない、その感覚を自らの記憶に焼き付けてしっかりと憶えておくのだ。何れ時が来れば更にもっとよく理解出来る様になる。全てが君を、君達を待っている。そして君達もまた自分達が全てを待っていたことを知ることになる。
セグクレヒト408が私の名を呼んだ。私は一度だけ振り返り、彼/彼女の目の中を覗き込んだ。
―――飛び立て。君は無窮の双眸だ。
深淵を覗き込んだ時、遙か彼方に多彩な光のうねりが嵐の前の湖面の様に不穏にざわめき立ち、どよめいているのが見えたが、私は気にしなかった。私は寧ろその深さに魅入られ、身を乗り出さんばかりにして息を凝らし乍ら、黙然と凝視を続けた。艶光る長く豊かな黒髪を梳る様な陶酔が私の芯を激しく、しかし緊張感を持って振動させ、たゆたう変化の戦慄の中へとこの身を浸させた。無数の時間の纏まりが数え切れぬ細い束と成って犇めき合い、判別の難しい途切れることの無い流動を繰り返して、私は更に尺度と座標を放り込んだ。一九四四年から四五年にかけてのブリュッセルの古惚けたアパルトマンや一九五六年のトリノ郊外にある岩だらけの荒涼とした小平原の砂利道、二〇一五年六月末の沈鬱な小雨が世界を閉じ込める明るい緞帳と化していた或る日の午後、ジンバブエの周囲を木々に囲まれたバンガローで、木の椅子に腰掛け乍らペンギン版のヘロドトスを読んでいた時に訪れた啓示的な数瞬間や、二〇二五年アラスカの自室でロベルトが自分の頭へ向けて弾丸を撃ち込む直前に見た光景等の中に混じって、私は数十から数百にまでゆっくりと振幅の律動を繰り返す私の視線達の基軸とも支点ともするべき適当な焦点が在りはしないか、慎重に視界を移動させた。私は幾つかの候補の中からタイミングを見計らって狙いを定め、一九九一年カイロの大道に面した或る古書店の前をやや鼻の長い女と擦れ違った際に去来したものどもから取り零された諸可能性の内、最も実現可能性の高かった幾つかの中にそれを見付け出した。うっとりとする様な戦きと共にその点を穴にまで押し広げ、有り得る諸世界の枠を取っ払ってやると、白鳥の断末魔を更に甲高くした様な死産児の高らかな絶叫の一団が、滝壷から撥ね上がる飛沫の様なに快い刺激となって飛散し、周囲の光よりも黒煙の様な力有る厚みを持った光を溢れさせたが、その余波を受けて、上空の捩じれが軋る様な音を一際高く二声、三声角度によって煌めかせた。
開口部を潜って抜けた先にはヒトとしての知覚力の限度を遙かに超えた大きさの世界が広がっており、私はありったけの反射板を駆使して、何十億年もの時間を圧縮し、数学的にしか表現出来ない極微の瞬間を展播しなければならなかった。最初はまるで度の全く合わない眼鏡を掛けた時の様に頭痛を誘う目眩があったが、それに慣れて調節が済むと、途端に片端から、〈支点〉を中心にして万華鏡の様な驚くべき諸世界が、多彩だが統制の取れた速度と頻度で展開して行った。囁く様に視界が爆発した。我々の宇宙に於ける意味での時間が始まりもしない内に終焉を迎えてしまった極短の、乗数を使わなければ数えられない数の宇宙達があった。我々の測定方法から言えば極端に歪曲した時空間を持つ宇宙があった。虚数空間の中に四散して行った宇宙があった。物質が生まれず、それ自身の卵として昏々と眠り続け、夢の中でまで眠っている宇宙があった。際限無く拡散し続ける宇宙があった。延々と爆発と爆縮を繰り返している宇宙があった。幅は有るが長さの無い宇宙があった。星々は生まれたが超銀河団や銀河団は生まれず、ぱっくり派手に分壊してしまった宇宙があった。静かに、緩やかに明滅を繰り返してばかりいる宇宙があった。凝っと押し黙って何も語ろうとしない宇宙があった。次第に積み重なってゆっくりと大きな弧を描いて生長したが、終には自分自身に突き刺さって崩壊した宇宙があった。光に満たされた宇宙があった。空無の充満した、偏頗の無い、形の無い、部分の無い宇宙があった。時空間で有り得るものを生み出しはしたが、そこを満たすものが全く何も無い位置だけの世界があった。途中から壊れたレコードの様に何度も何度も同じ過程を繰り返し、そこから生まれた別の宇宙にあっと云う間に呑み込まれてしまった宇宙があった。極限値を持たず、飽きもせずに爆散し続ける宇宙があった。自分の複製を生み出し続け、泡の様な塊になって増殖を続ける宇宙があった。綺麗な球型に広がり、回転し続ける宇宙があった。螺旋を描いて拡大し、一定の比で相似形を作り出している宇宙があった。非ユークリッド的な極めて単純な形のみに展開する宇宙があった。空間それ自体に上と下があるかの様に、一方の端から他方の端へと絶え間無く流れ続け、別の宇宙へと開いた経路を通じて循環する宇宙があった。複雑な捩れを描き続けると同時に、自身の完璧な鏡像を生み出す宇宙があった。二連星に似た相補的な運動で生長を続ける宇宙があった。無数の穴によって無数の他の宇宙と繋がり、一大ネットワークを形成している宇宙があった。或る種のヒエラルキーを成して子宇宙を生み続けていたが、やがて全てを使い果たしてしまって母子もろともに瓦解した多産な宇宙があった。幾度もの生と死を繰り返し、以前のものを踏み台にして新たな多様性を身に付ける宇宙があった。気難しく、しゃっくりでもするかの様に不規則に急激な相転位を繰り返し、その度にそれぞれ性質の異なる子宇宙を生み出していたが、或る時突然爆縮と分裂を起こして子宇宙達の中へバラバラに吸い込まれて行った宇宙があった。虚数空間へと延長した部分が一種の反転を起こして母宇宙の起源と成ってしまった子宇宙があった。無数の枝分かれを繰り返したが、或る種の反物質情報を共有することによって、成長の度合いを共有する連続体宇宙があった。或る一定の大きさにまで生長すると泡状に分裂し、その泡のひとつひとつがまた生長すると泡状に分裂する宇宙があった。数学的な情報可能性として規則的に生み出され続けはするが、他の宇宙と或る種の重ね合わせ状態になると途端に破裂してしまう為に何時まで経っても実体のあるものが生まれない宇宙があった。幾つかの他の宇宙の中へと一種の種の様な情報として拡散し結晶化して行った後、その内の幾つかが好条件を得て発芽し、苗床宇宙と融合したり相手を呑み込んだりそこから分かれて別の宇宙へと発展して行った宇宙があった。他の二つと互いに浸透し合ったところ、急に組成が維持出来なくなって時空連続体を失ってしまった影の様な宇宙があった。高密度のガス状星雲を腹いっぱいに詰め込んだ儘膨張を続け、どんどん希薄化して行く宇宙があった。渦を巻いて一点へと収斂し、ひたすら虚無へと戻ろうとする宇宙があった。殆ど有り得ない様な確率の偶然によって暗黒物質が不可解極まり無い連鎖反応を起こした為に猛烈な意欲が生じ、萌芽だろうと収穫期にあろうと主に活動する次元が全く異なろうと自分より大質量だろうと自分と似た組成をしていようと取るに足らぬ程極微のスケールのものだろうと、とにかく全くお構い無しに、激しく抵抗しようが無抵抗だろうが積極的に吸い付いて来ようが、手当り次第に他の宇宙に喰らい付き、貪り、肥大化し、歪で不安定な巨大な複合体にまで膨れ上がった宇宙があった。重ね合わせの状態で無際限に増殖し、到底言葉に翻訳することなど出来ない程多様な彩りを展開してみせたが、やがては自らが課した物理法則によってその大半が無残にも崩壊してしまった宇宙があった。全く馬鹿馬鹿しくなる位に多くてしかも変化に富む紆余曲折を経た後、無数の次元断層やひっきり無しに瞬きを繰り返す相転位雲、疲れを知らぬ局所爆縮流等によって酷いあばた面になり乍らも全体的には何とか安定を手に入れたものの、或る時次元断層のひとつから生まれたばかりの他の威勢のいい宇宙が侵入して来て、あっと云う間に時空連続体を乗っ取られてしまった宇宙があった。存在と非存在との間をさざ波の様に細かく行ったり来たりする宇宙があった。折り畳まれて長い間凝っと動かずにいたが、時折思い出した様にくしゃみの様な痙攣を引き起こし、その度に新たな銀河が生まれ、古い銀河が消えて行ったが、終には纏まった銀河団を形成すること無く終わった宇宙があった。二次元で安定していたが、ふとした弾みで生まれ掛けの別の宇宙と接触することにより、一気に二六次元にまで複雑化し、様々なレベルでの生命を発生させた宇宙があった。不可逆的で単純な一様性を帯びた非対称性を持ち、虚数時間にして文字通りに永遠に、他の諸宇宙の直中に君臨し続ける宇宙があった。一寸した脱分極が切っ掛けになり、一瞬にして各レベルに於ける分割可能性の分だけ自分の複製を生み出した宇宙があった。明るい虚無があった。とても追い切れぬ程の沢山の誕生と死があった………。
私は眼前に展開される目眩く光景に圧倒され、幻惑され、混乱に陥り、そして気が付くと口元を両手で覆って啜り泣いていた。私は再び元の私に戻っていた。そしてこの相互浸透する理解と同情に満ちた、しかし静かな意志と決意を固く保持した時空間の中に位置する座席に座っていて、その傍らには、目覚めの世界と呼ばれる、あの淡く遷ろい易い領域にセグクレヒト408と云う名で影を落としている物腰の穏やかな先達が立ち、私を落ち着かせ力付ける為に宥めと励ましの言葉ならぬ言葉を投げ掛けて来ていた。〈恐怖原理〉の探究に於て、私がここまで根源的な部分を覗き見たのは、確かにこれが初めてだった。通常、我々の宇宙は我々にとって完全に閉じていると言っても良く、出入り口は我々の手の届かない遙か彼方にある。だが、〈万界鏡〉がこの卑賎な身にも条件を整えれば瞥見を許してくれる深秘の数々には、〈原理〉の成り立ちそのものにこれ程までに近く、肉迫した領域さえも含まれるのだ。確かに諸世界は許されている。斯くも深奥なる理の上に、堂々とその存在/認識を繰り広げている。深秘が深々と口を開ける深淵の縁で、歓喜と悲哀と、怒号と喪失と、呪詛と静寂を飽きもせず高らかに歌っている。私は真の驚異を目にした喜びに途方も無い法悦が身ぬちに湧き起こるのを感じると同時に、これまで自分ではそれなりに蘊奥を極めて積もりでいたのだが、それが単なる思い上がりに過ぎなかったことが露見して打ち拉がれ、自分が全く何も知らなかったに等しいことを知って愕然とし、そしてこれから更に知らねばならぬ真実の昏さに不安に駆られ、身を震わせ、それから暫く間を置いてから、この上も無く厳粛な気持ちで〈万界鏡〉の前に姿勢を正した。あれから幾つものもっと精妙な観察方法を学び、数多の驚くべき生成を目の当たりにし、世界の更なる深玄さを知って息を呑んで来たが、この、初めて我々の宇宙の誕生を、碌に同定すら儘ならぬ果ての見えない変転の直中に目撃した時の衝撃は今でも私の胸の奥底に焼き付いていて離れない。この時〈万界鏡〉から透かして見える彼方では、生成の実相が尚も繰り広げられていた。私はセグクレヒト408に礼を言うと、再び諸世界を開く作業に取り掛かった。