◍ 纏霊術をものにせよ | 借金取りと同僚
*――この前、湖に落ちるまでの間に見てて思ったんだが~……
ここ数日、皐月は毎朝のように聞き流していた。
霊応の使い方――纏霊術についてである。
* * *
「少なくとも、お前が操る風には斑があると思うんだよ」
嘉壱先生が、鼻上の銀縁メガネを指で押し上げながら言った。
たぶん勇のメガネだ……。今ごろ必死に探しているだろうその姿を想像すると、余計に話が入ってこなかった。
「纏霊術は神代の霊言葉で “降臨の柱” ――現形化とも言う」
森羅万象、すべての輪郭は、その要素たる〝魄〟を結ぶことによって生まれ、保つことにより存在し続ける。つまり、結合剤が必須。これが “産霊” と呼ばれる力だ。
火神は厳密にいうと、火魄を結ぶ火産霊、水神は水産霊使いの強者や究極体そのもので、木、風、雷、土―――あらゆる “造現力” を持つ者は、創造神に匹敵する。
そんな大それた存在でないとしても、自然界を形成している様々な神霊・妖魔との交渉に、これほど有効な物はないという三本指に入るほど、花人の血肉は極上の依り代――、造現力の源とされてきた。
とりわけ、火魄に限って纏い、現業化することに長けていれば、火霊使い――薫子のように火将を名乗り、万能型であれば造世神霊使い――飛叉弥のように万将として恐れられるわけだ。
「なんにしろ、造力の質が高いほど甚大な現象を引き起こすし、そいつの技も、そいつ自体も神がかったものになって、なかなか消滅しない。とりあえず、ここまでは分るよな?」
試験その一、三分以内で、現形化について説明しなさい。
とりあえず合格だ――。退屈そうな生徒の顔をして、皐月は実際、〝嘉壱先生〟の採点をしていた。
説明の仕方は思ったほど悪くなかった。だが、教え方が下手くそな奴は、総じて要領が悪い。まずは、生徒がどこまで理解し、何が、どうしてできないのか、正確に分析する工程を踏まなければ、優良な教官とは言えない。
「一言に “現形化させる” つっても、色々な形があり得る。中でも風は、バリエーションが利きやすい。用途によって繊細な扱いが求められるから、コントロールを鍛えるには最適…」
「ってわけで――」
「え……。」
嘉壱はあくまで講義中心にするつもりだったが、飛叉弥が実戦あるのみとばかり、さらりとさっそく過ぎる話に移した。
「今から嘉壱の放つ “風削” に対し、お前は同等の技で対抗する。勝っても、押し返されてもいけない理由は言うまでもないだろう。嘉壱の攻撃威力を、お前が、同じ威力を有する風をもって相殺できるようになれば、コントロールの調整修行完了だ」
飛叉弥先生は端折り過ぎで、言ってることがもはや、ひよこに対し、怪獣キングギズラへの進化を要求しているに等しい……。
「完了前に死ぬよそれ、俺か嘉壱が」
「たぶん俺よッ!! 手加減知らねぇぴよこ頭のヒグマ相手に、相撲教えてやれってな状況よ!? 今っ! やっぱし座学で良くねっ!? とりあえず、お座り、待てから教えようぜえっッ!?」
そもそも、わが身を犠牲にしなければならない意味が分からない。風を使って霊応の出力を鍛えるなら、切り刻まれる対象物は、紙とか竹で十分なはずだ。
「たとえば半紙を的として前後に置く! 一枚目は破るけど、二枚目は破らないようにする! クリアできたら、次は竹を前に置いて、後ろに半紙を置く! それなりの威力で竹を斬りながらも、半紙は斬らないよう風を抑えられれば、俺はもうお役御免ッ!」
「とはならない。お前を的にしなければ意味がない」
「なんでだ~~っ。なんでなんだよお~~…っ」
「お前に意味がない」
いつもの煙草を懐から取り出し、悠々と吸い始める飛叉弥に、嘉壱は半泣きしながら頭をかきむしる。
ようするに、嘉壱先生には “踏み越えて行かれる屍の価値” しかないということだろう。
そう断言してしまうのはさすがに悪い気がするが、やはり、飛叉弥の口出しは的確。 “問題の根本” を見抜いている―――。
*
こうして、萌神荘の一角では、しばらく嘉壱の悲鳴が絶えない日々が続いた。
もちろん、お互いにハイリスクな特訓だった。案の定、八つ放たれた風削のうち、すべてを同じようには打ち消せず、風の刃の断片が首筋をかすめた時にはゾっとさせられた。
だが、意図しない牙を剥いて、嘉壱に襲い掛かっていくそれを見た瞬間の方が
自分は正直、生きた心地がしなかったのである――。
* * *
砂袋が落ちたような衝撃音をさせながらも、紗雲は着地してすぐに駆け出した。
高架橋下に続く、陰気な商店街へ突入。ここはよく言えばレトロだが、所々に水漏れが見られ、瓦市という実店舗を持たない、乞食のようなガラクタ売りが集うところだ。
駆け抜けてしまえば、怪しい商売人もただの黒い人影でしかないため、声を掛けられないよう、出口まで疾走した。
ガス灯が、点々と道を示しているが、灯りの色がやや緑がかっていて不気味だ。
しばらくすると、水路から階段を上がってくる客のため、角灯を下げている河房沿いの道に出た。
夜目にも真っ赤な衣と口紅、黒髪を盛りに盛った女が、ちょうど舟から降りた痩せ気味の男を招じ入れていた。
生気を吸う鬼女だろうか――……。
怪しんでいた時、つと、あらぬ方から悲鳴が聞こえた。
道の左へ顔を振り向けると、柳がなびくアーチ状の橋上に、小太りの人影が駆け上ってくるのが見えた。
人影は後ずさって、尻餅をついた。ごろんと転がった拍子に、片方の靴が脱げて宙を舞った。
そこに、五、六人の男の影が迫っていく―――。
× × ×
「オラッ、おばさん。分かってんだろ!? 逃げても無駄だって」
「こっちはもう二ヶ月も待ってやったんだ。いい加減、払ってくんねぇーと困るんだよ。例の借金」
「す…、すみませんッ! 今月中には、今月中にはなんとかしますんで…、あぁっ!」
取りすがってこようとした彼女を、一人が足先で突き返した。
防御に手をかざされると、昔から余計に暴行したくなるタチの男どもは、鼻で笑って、ダンゴ虫になっている女の腹や尻を蹴る。
「もう聞き飽きたんだよ、その台詞」
「そうだ、娘をよこしなよ。俺らが高く売ってやるぜ? 沢山いすぎちゃ、あんたも大変だろう?」
「そんなぁ…っ!」
髪を振り乱して跳ね起きた女は、お妙だった。
お妙は訴える声を縮み上がらせた。どうか、どうかそれだけは……っ。堪らず目をつむった時、柳のそよぐ影の中を、静かな足音が淡々と近づいてきた。
「もういいでしょ……」
深々とため息をつきながら、しばらくして、月明かりの下に現れ出た姿を見た男たちは、片眉をつりあげた。
「ア――? なんだ、この姉ちゃんは」
「さ…っ、紗雲……ちゃん?」
一人、また一人と、独特の歩き方をする男たちが、彼女に詰め寄って行く。お妙は喉に力を込めたが、肝心の声が恐怖に絡んで出てこない。
「おじさんたちは、お仕事してるだけなんだよ。お姉さんみたいな女が、首を突っ込んでいいことじゃない。分かるだろ~?」
薄笑いを浮かべて、頬から顎先に触れてきた角刈り男に、紗雲は無言で挨拶した。
「っ…ッ⁉」
頭髪を鷲つかみにされた男は、驚いている間に、足元へ顔面を叩きつけられた。その衝撃は、後頭部に隕石でも食らったような、傍目にも凄まじいものだった。
目を剥いた残りの五人が、慌てて身構える。
お妙も瞠目していたが、今座り込んでいる位置からでは、おもむろに立ち上がった紗雲の黒髪が、風になびいている様子だけしかうかがえない。
「こ、このっ…、調子に乗りやがってえぇッ!」
「おい止めろ…っッ!!」
一番後方にいる禿頭の男が叫んだが、果敢に殴り付けに行った二人目から、骨を折られたような絶叫が上がる。意味が分からないあまり、彼らの恐怖は倍増した。
「いくら?」
「あ…っ、ああ⁉」
もはや逃げ腰の男たちに向け、紗雲が発する声は、あくまでも物静かだ。
「この人の借金、いくらだって聞いてるんだよ」
「な…、何言ってやがんだこい…」
ぱしっ、と
足元に投げつけられた封筒から、思いがけない札束が滑り出てきて、男たちは見下ろしたまま硬直した。
「これだけあれば十分でしょ。お仲間の治療代込み。今日はとりあえず帰ったら――?」
もう夜も遅いし―――と、紗雲はお妙の靴を拾い上げる。
近くで野良犬同士が喰らいあうように喧嘩をしている物音と、相対して落ち着いているその物言いが、不気味でならない。
手首を傷めた仲間がその場にうずくまって、半分泣いている。
末端中の末端とはいえ、黒社会に属して培った勘が、禿頭の男に警鐘を鳴らしていた。
花街では、白とも黒ともつかない正体不明な連中が、各々の目的のために潜伏しているのが常だ。尻尾を巻いてでも、逃げなければならないと直感すること自体は珍しくないが、こいつはまさに、清とも濁とも言い切れない、厄介な奴と見た―――。
「ひ、引き上げるぞ…っ、お前ら」
禿頭の男は努めて威厳を保ちつつ、手下たちを急かした。
手下どもは一応不服そうな顔をして見せたが、異論があるはずもない。歯のかけた重傷者一名を引きずって後に続き、小走りに去って行った。
お妙は、バタバタと遠のいていく足音を聞きながら、頃合を見て口を開いた。
「……さ…つき、……皐月くん…っ……」
蚊の鳴くような声だった。皐月は体を起こそうとしているお妙に歩み寄り、手を貸した。
「立てる――?」
「あ…あんた、今のお金…っ、もしかして」
「ああ、いいよ別に。もう一週間、働けば済む話…」
「バカッ! あんな…、あんな大金をッ! あんただって、金に困ってたんだろ? それを…っ」
お妙の膝が砕ける。バランスを崩した彼女を、皐月は咄嗟に抱えこんだが支えきれなかった。
欄干に背中から打ちつけられたが、痛がっている場合ではなかった。
「お妙さん……? お妙さん―――ッ」
辺りを見渡したが、自分の声が響くだけ。助けは望めなかった。
2021.12.18投稿。長文のため分割




