◍ 鬼畜と白花曼殊沙華
*――あら…っ! おいでなさいまし~!
女将はその男が来ると、いつも極端なほど畏まり、愛想笑いが三倍に増した。
紗雲は、彼女の上ずった声を耳にして振りかえった―――。
萌神荘に呼び出され、否応なく修行に励まされることとなったキッカケ。一体、何があったのかというと……。
* * *
「また、あんたか……」
舌打ちしそうな物言いにも、武尊は八面玲瓏な人柄を見せて歩み寄ってきた。
「おお! 紗雲。今日も儲かってるか~?」
「ああ…、どっかの暇人飲み師が、ひいき的につぎ込んでくれるもんでね。そりゃーもう、こっちは大助かり…」
紗雲はつと、肩たたきにしていた盆を取り落とした。
「ぅん? ――おお」
武尊はその視線をたどって、体をそちらに向けた。
「今日は連れがいるのだ。これ、往生際が悪いにも程があるぞ、お前」
後半は、その “連れ” に向けられた台詞だ。入り口に垂らされた羅帳を挟んで、一進一退を続けている白ひげの老爺が、ここぞとばかり踏ん張る。
「酒には滅法強いくせに。こやつめッ! さては奥方に財布を握られてますなッ?」
引きずり出された白髪青年は、犬のように牙を剥いた。
「俺は未婚だッ」
「とかなんとか言ってぇ、 “あの娘子” とよろしゅうやっておるんじゃろ~? 嗚呼~ッ、これだから今時の若いもんは…」
「黙れじじいッ」
「じじい言うでないッ!」
「じゃあクソじじいだッ!」
「なぬぬぅう~ッ!?」
と、伸び上がった老爺は、そのまま対手の青年に齧りついた。食い合う二人を、周囲は遠巻きに見守っている。
「右のじいさんが、燦寿。左の男が飛叉弥と言ってな。俺の酒飲み仲間だ」
ああ、ちなみに飛叉弥は普段、忙しい奴で、こんな所には滅多にこないのだが、今日はお前の舞を、どうしても見せてやりたくてな。無理やり連れてきた。
「今日も踊るのだろ? ……ってぇ、何をしておるのだ? 紗雲」
急いで拾いあげた盆を顔に押し付け、紗雲は近くの柱に体を密着させていた。
天女風衣装の内側を、大量の冷や汗が湿らせていく。
髻に飾っている白萩の生花が、内心と同調しているかのように、ハラハラと散っていく。
……め、眩暈がしてきた。
「どうした? そんなところに寄りかかって。気分でも悪いのか?」
武尊の心配げな声に気づいて、飛叉弥は燦寿の顔面を押しのけた。
「どうかしたのか、そのおん…………、ぅん?」
早足になって、ずかずかと歩み寄ってくる気配に、紗雲の鼓動が早鐘を打つ。
ま…、マズい。武尊と入れ替わった飛叉弥が、ものすごく近い所に顔を寄せてくる。
釵をいじったり、袖をハタハタと振ったり、腰帯を手にとって眺めたり、後ろの髪を引っ張ったり
「痛ッ…」
小さかったが、思わず声をもらすと、飛叉弥は数泊固まった後、他人の秘密を知って悪だくみする悪人の面で、にんまりした。
「これが噂の舞姫殿か――? なんで給仕の仕事まで」
「店がこの通り、大繁盛しているものだから、手伝ってやってるんだよな? 器用貧乏というやつだ」
哀れみと呆れの嘆息をつき、武尊が腕を組んで代弁した。
「頼まれると断れないから、いいようにこき使われる質なのだろう。少し手習いするだけで、百の技を覚えられる天才肌の反面、すぐ物にしてしまうが故に、放り出すのも早い。だから、何が特技かと聞かれても「ない」という返答になる。しかし、蓋を開けてみると、ひとよりも様々なことができるわけで―――」
こういう奴だから、むしろ苦労するというわけさ。
「なんでも――? 多額の負債を背負わせてきた、糞ムカつく鬼畜野郎との “手切れ金を稼いでいるつもり” らしいぞ?」
「ほぉ~」
「……。」
飛叉弥が軽く鼻で笑いながら、身を乗り出してきた。壁ドンじゃなく、柱ドンッ!! してきた……。
「かわいそうになぁ。せいぜい稼ぎまくって見せろ。その鬼畜糞バカ野郎との悪縁が切れたら、今度は俺と、切っても切っても切れないくらい図太い、注連縄のような縁を結ぼうじゃないか、紗雲殿――?」
……。誰も、糞バカ野郎とまでは言っていない。
「だが、今日は具合が悪そうだ。いずれにせよ、失礼して出直すとしよう。その代わり、返事として “これ” をもらって行く―――」
飛叉弥は紗雲の髻を飾っている生花の中から、ある一輪を抜き取って、麗しき悪鬼の微笑みを添えた。
白花曼殊沙華―――。蝶の触覚のような長い蕊と、細い百合に似た花びらが放射状に開く、自然の芸術品といっても良い装飾的な花だ。
花言葉は「また逢う日を、楽しみに」―――であった……。
* * *
「大っッ体……」
水路沿いを走ってきた紗雲は、怒りに任せて吐き捨てた。
「昼間あいてる仕事って言ったら、水商売しかないだろうがッ」
そんなことはないが、今は細かいことなどどうでもいい。あれ以来、弱味をにぎられたも同然で、手が空いている日中、飛叉弥の考案した訓練を強いられてきた。
中でも厄介なのが、霊応を引き出さなければならない纏霊術の稽古……。
思い出して、ため息をつきつつ、紗雲は突き当った柵を飛び越えた。
「いっそのこと、妖魔相手のほうが気楽なんだけどな……」
常人ならば、決して飛び越えてはならない柵であった。
いびつな高層の建物群の狭間に、霓裳をはためかせつつ、吸い込まれていく――。




