◍ この物語の救世主は、やるべきことが色々
人には、それぞれ “務め” がある。
矛を振るい、己の役目に、力を尽くす様を表している字だ。
務めは大人にも、子供にも、男にも女にもある。
ところで「霧」は、なぜ「雨」に「務」と書くのか、考えたことはあるだろうか――?
絵と文字を生み出し、この世のあらゆる伝承に携わってきた畵仙らによれば、今も昔も五里霧中においては手探りで、切り開くための尽力が、不可欠であるからだという。
神代と謳われたその昔、強大な力を誇った神々も、同じように己の “務め” について模索した。
それは自然発生したものであり、与えられたものであり、 “こうあるべきだ” という思い込みであった。
その末に起こったのが、四千年前の破壊と崩壊―――。
かの龍王は、天地の関守。かの月花神は、神代の世界樹たる務めから、己を解放したかったのだという説がある。
だが、歴代随一の “千里眼” を誇ったこの龍王でさえも彷徨ったように、天と地を隔てていた八雲原が消滅したところで、状況は変わらなかった。むしろ、元来の務めを失い、余計に右往左往する者もあった。
人原に光明をもたらし、神々の変遷を見守ることを新たな “務め” と決めた龍王の配下、同志らでさえ、後に分裂を来したのだから。
新世界で何を役目とし、己が何に、力を尽くすべきかを巡って―――。
【 語り部の声……『雲霧の間』より 】
◆ ◇ ◆
――――【 新たな出会い 】――――
「じゃぁ……、はいこれ!」
手渡された封筒の厚みを、紗雲はしっかりと握りしめた。
初給料。にして、おそらくは宵瑯閣でもらう最後の給料である。
これなら確実に足りるだろう。個人的にもらったチップも含めれば、九百六十万金瑦――百二十万円相当になる。
まさか、こんな大金、本当にたったの一週間ちょっとで稼げるとは思わなかった。自分とそっくりな鬼畜野郎の顔を脳裏に浮かべ、紗雲はフッ、と鼻で笑ってやった。
なんでもかんでも、飛叉弥の思惑通りになってたまるか。こっちが素直に向き合ってやれば、調子に乗りやがって……。
札束を握り潰しそうになった手を、その時、女将が横からガバリとつかみとった。
「あなたのお陰よ! うちの経営も、随分安定したことだし、これからもよろしくね‼」
目尻に袖を当てる彼女を前に、紗雲は「うんうん」しつつ、内心で嗤っていた。――悪いな女将。だが、雇ってくれた恩は十分に返したはず。
さらば宵瑯閣。さらば李彌殷―――。
紗雲は満面の笑みでお辞儀をして、女将の部屋の扉を閉めた。
パタン…
それ行け。衣の裾をたくしあげ、猛ダッシュ。通路の突き当りをスライディング。階段を鮮やかにショートカットし、一気に加速する。
このまま貞糺の店に行って衣装を返し、レンタル代を支払って、稼いだ金を「飛叉弥に渡して」って頼んだら、後は界口に即行ダイブだ。
前回、きちんと整備された越境用の港が地下にあると聞いたが、国営の界口路は “抜足鬼” が利用できる状態ではない。検罪庁という軍の管理下にあって、真救世主と銘打たれたこの面は、上層部の一部高官には、すでに割れていることが判明している。
勝手に華瓊楽を発とうとすれば飛叉弥に通報され、また嘉壱が連行しに来るだろう。どんな所か、試しに視察しに出向いてみるとしても、今ではない。
もう、さすがに限界だ。束の間でもいいから、家に帰らせてくれ。
体力をつける修行だかなんだか知らないが、飛叉弥はいつしか、このズタボロの体に鞭打って、戦闘訓練を強いるようになった。
あんなの、これから毎日続けてたら死ぬ……。
ひた走りながら、先日の修行風景を思い起こした皐月は、口元を引きつらせた。
* * *
数日前の早朝―――。
皐月は布団の中で丸くなっていた。
ふと、頭のほうにある両開きの窓が、片側だけそろっと開く音がした。
「……なに」
「げッ‼」
「嘉壱だろ……?」
部屋に半分足を突っ込んだ状態のままでは辛いので、嘉壱はとりあえず床に下りた。
「……お前、一体どこに目ぇついてんだよ。すっぽり頭までもぐってるのに、なんで俺だって分かった?」
「二階の窓から入ってくるのは泥棒。でなければ、何処かの誰かさんみたいに非常識な鳥人間。他、心当たりなし」
「まぁ、そうだわな……。って~~……」
皐月はさりげなく布団をたぐり、密閉して饅頭となる。だが、長い黒髪がはみだしていた。嘉壱はその一房を、くいくいっと引っ張った。
思えば、宿舎の通路で会った晩以来――……。
「おーい、起きろ。ぐーたら野郎~」
「ヤダ、止めろハゲ」
「はっ…!?」
*――安心しなよ……
皐月は、先日の言葉通り、何も気にしていない様子でやり取りした。
窓の外でさんざん躊躇った末に入ってきた嘉壱は、まったく気にせずに訪れたわけではないと思うが、話し出せばこれだ。
「ハゲって言ったか今。誰がハゲだコラあっッ! この目の覚めるような金髪頭をしかと見ろっ!!」
「グー……」
「起きろッてのおっ! 飛叉弥が呼んでんだよっ!」
いつもの口うるさい調子にエンジンが掛かったため、しばらく放っておくつもりだったのに―――、やっぱりそういうことで、仕方なく来たわけか。皐月は舌打ちした。
ムクムクと動きだす。髪の毛は、言うまでもなく鳥の巣状態だった。立てた片膝上に肘を置き、眉間をつまんだ。
「~~~…………ッ。なに」
「あ…、ああ。なんか、とにかく邸に戻って来いって。用件はそれからみたいだぜ?」
相変わらず、こそくな鬼畜野郎だ。用件を教えれば、行くか行かないかの選択肢を与えることになるからだろう……。皐月は、ため息混じりに膝を押した。
足がもつれた。
「お…、おい」
ずっこけた。頬を引きつらせる嘉壱が見守る中、なんとか起き上がる。
「だ……、大丈夫か?」
ヨロヨロと洗面所に向かったが、途中の方卓に足の小指をぶつけた。
「っ~~~~…………ッ」
× × ×
石段を登りきった先―――例の如く、門楼を潜ったすぐそこの園路に立って背を向け、鬼畜野郎はのん気に山肌の色づきを眺めていた。
気づいてるくせに……。飄々と鼻歌を歌っているのが聞こえてきて、皐月は殺意をくゆらせた。
「お? 来たな寝ぼけ目。どうだ借金の方は。返済できそうか?」
「なんの用だ……」
寝ぼけ目というより、皐月の目は据わっている。
だが、飛叉弥は気にしない。一つ空咳をして切りだした。
「そろそろ稼ぎに、落ち着きが出てきた頃だろうと思ってな? 今日からお前に、ちょっとした体力づくりをしてもらおうと…」
「は?」
「嘉壱がどんな仕事を、お前に紹介したのかは知らないが? なんでも日中は、予定がないそうじゃないか」
「や…」
「だったら、少しでも花人として戦えるよう訓練しなくちゃなぁ。皐月、お前そんな線の細い体じゃ、これからの事に到底ついていけんぞ」
つーわけで、これ。
額に押し付けられてきた紙をふんだくって、皐月は飛叉弥を一睨みし、内容に目を通した。いくつかの項目が、さらりと達筆な字で、ビ…っッチリ箇条書きにされている。
嘉壱は一向に反応のない皐月の肩先から、文面をのぞき込んだ。
「なになにぃ~? ……その一、邸の掃除イコール廊下の雑巾がけ。&夕食の買出し。イコール、邸の門をくぐるまでにある石階段の往復。&嘉壱との組み手+纏霊術の勉強…………、ぅん?」
なんでぇえええええ…っ!!? という心の叫びが、嘉壱の顔に出た。
飛叉弥はきれいな顔で、にっこりと笑った。
「修行だ修行。風将は霊力の繊細な扱いに長けているからな。嘉壱を先生にするのが、おそらくきっと、立派な新隊長となる近道だ。じゃ、がんばりなさい新人くん」
「ちょっと待った。あんた、俺が毎日どれだけの苦労して働いてると思って…」
「仕事に苦労はつきものだ。てか、俺はお前がいう “働き” を知らん」
「知らんわけあるか。あんた二日前、俺の仕事場に来…」
……。となった皐月を、そそり立つ絶壁の如く見下ろし、飛叉弥は目を細めて嘲笑った。
「お前の仕事場が、どうしたってぇ―――?」
この二日前、実をいうと皐月は、飛叉弥に一度、面会していたのである。売れっ子美人奇術師 “紗雲ちゃん” として…………。




