◍ 同僚
ガタガッタンッ!
何かが、倒れる音がした。彼女……いや、彼は不審に思って立ち止まった。
突き当りの、着替え部屋からだ。自分も、ちょうどそこに向かうつもりでいた。他の酌婦らはまだ仕事中だから、鉢合わせる心配はないと決め込んで来てしまったが……。
わずかに開いている扉の前まできたところで、隙間から、視線を縫い入れる。
ここに勤め始めてからもう三日になるが、依然、気が抜けない状態が続いていた。
酌婦兼給仕係の天女風衣装が、竿に沢山掛かっている。先々代経営者が得意とした奇術の道具も、奥の壁に寄せて山積みにされていた。
なんにせよ、この調子で客足が伸び続ければ、従業員も増やされ、芸の幅も広げていくことになるだろう。一週間後には色褪せかけているこれらが、フル活用されていてもおかしくない。
どうして、こんな面倒くさいことに……。
三日前までは、想像もしていなかった展開だ。
くずおれそうになるのを堪えて、紗雲―――こと皐月は、なんとか膝に力を入れなおした。
着替え部屋にいたのは、黒髪を旋毛の上で団子にした大柄の女性だった。
ルームメイトの “妙季” という酌婦だ。店では “妙馥” と名乗っている。
本当は、一人部屋にしてもらいたかったのだが、部屋数の関係もあって困っていたところ、この “お妙” が自分の部屋に来いと誘ってくれた。
なんでも、宿舎を利用してはいるが、お妙はちゃんとした住まいを持っているという。しかも、最近まで一緒に部屋を使っていた同僚は、母親の看病のために郷に帰っているとかで、しばらく不在。戻ってくる予定は、まだないのだそうだ。
着替え部屋は狭い。人がすれ違うのもやっとで、落ちたものを拾おうとしたが、かがんだ拍子に尻が反対の棚につかえたのだろう。
頭の上に、関係ない同僚の荷物まで降ってきて、お妙はあーあぁ…、と独りぼやきながら、かき集めていた。
最後の一つ―――、手を伸ばした先に、酌婦とは違う神聖な雰囲気の衣の裾を目にし、お妙は顔をあげた。
「あれ? あんた……」
紗雲という踊り子奇術師に扮している皐月は、無言で拾った化粧道具を手渡す。
喋ってはいけない。喋れば声で男だとばれてしまう。
面倒くさい。なんでよりによって酒場なんだ……。
ありがとよ、と。化粧道具を受け取るお妙を前に、脳裏を嘉壱のバカ野郎が過る。
*――いやぁ~、なんつーか~、やらせてみたかったっつーか?
*――ふざけるな。バレないで済むわけが…
すかさず、物言いしようとした皐月の口をふさぎ、嘉壱は蕩けるような甘い美声をもって諭してきた。
*――ここなら、百二十万くらいすぐに稼げる……、おっと!
俺はあくまで、お前のためを思って紹介してやってんだぜ?
いいのかよ、このまま摩天に帰れなくなっても
それは…………、ヤダ。
*――だろだろ~? あっ、もしかしたら例の食べ損なった焼肉も、
味わえるかもしれないぜぇ~?
*――……肉?
*――そうそう! 肉だよ肉!
上手くいったら、俺たち焼肉の食い放題だ~。ひゃっほーい!
ちゃっかりご相伴にあずかる気満々のはしゃぎ声が、頭痛を引き起こし、遠のいていく。
「……もちゃん、紗雲ちゃん――?」
紗雲はハッとした。
「どうしたんだい? 怖い顔しちゃって。着替えないのかい? もう、今日はあがりなんだろ?」
じっと見つめ返してくる紗雲に、お妙は自分の姿を見下ろした。苦笑を浮かべる。
「ああ…、私はもう終わりなのかって聞きたいのかい? それがねぇ、もう少し働いて稼ぎたいのは山々なんだけど、家にいる子どもたちがねぇ……」
棚に衣装を押し込みながら言う彼女に、紗雲は首をかしげた。
棚の戸を閉じて、お妙は再び笑顔を向けてくる。
「待ってんだよ。ご飯まだかー? って。一番上の子は九歳で、本人はやる気なんだけど、やっぱり火は使わせたくなくってねぇ……」
あぁ、そういうこと、と紗雲は伝わるように大げさに頷いてみせた。
「だからまぁ、今夜もゆっくり足を伸ばして寝るといいさ。こんなおばさんがいちゃー、だだっ広い部屋でも窮屈だろうからね。あははっ!」
お決まりの自虐ネタで締めくくり、お妙が「それじゃあね」と、部屋を出ようとした時だった。
「ああっ、妙さん大変! さ…っ…、紗雲ちゃん見なかった⁉」
「え? ちょうどここにいるけど……」
一体どうしたのか。
尋常じゃない同僚酌婦の慌てぶりに、紗雲はすがりつかれたお妙と顔を見合わせた。




