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払雲花伝〈ある花人たちの物語〉【塵積版】  作者: 讀翁久乃
◆ ―――――― 序鐘 ◇ どうして ――――――
90/194

◍ 噂の人物

 


   *



 凛とした空気が、張り詰めている―――。

 一方でその空間は、さながら雲の中を漂っているような心地になる所だった。

 天に昇るとき、地に生れ落ちるとき、ともすれば人はこういう世界を行き来しているのかもしれない。

 場所は、壽星台閣じゅせいたいかく―――清庭臨砦殿せいていりんさいでん



《 ……して、現在の状況は? 》


「今のところはなんとも……」


 うつむいた白髪の影で、彼は面目ない思いを噛みしめていた。


「ただ、備えるならば、この時をもって他にないかと」


《 つまりそれは…… 》


 空気がざわめく。霧が立ち込め、遥か頭上に光のにじむ真っ白な空間。

 飛叉弥はその中心に片膝をついて、先ほどから低頭している。

 いつもの着物姿ではなく、対黒同舟花連隊首――飛蓮フェイレンとしてだ。萼国夜叉きょうごくやしゃの象徴たる、夜深藍の軍服をまとっている。丈が長く装飾的なのは、多くの寄生木ほよを抱えることができる大樹大花の証―――。


 ゆったりと宙を棚引く霧が、頭上でとぐろを巻いている。まるで、この取り留めのない現状のようだと、しばらくして “某神ぼうかみ” がため息を漏らした。



《 彼を守りきれるか否か…… 》


 再召喚してから三日が経つ。せめて、過日のような失態だけは防がなければならない。



              鈴の音が、鳴り響く――。




 飛蓮フェイレンは、険をはらんだ面持ちで唸った。


「……恐れながら」


《 なんです? 》


 別の方向から、今度は女神の声で疑問符が放たれた。飛蓮は顔を伏せたまま続けた。


「恐れながら、我らでは…」


《 難しいと申すか 》


「……いえ、真に “あれ” を守ることができるのは、あれ自身しかいないと、以前、申し上げた通りです……」


 とりあえず皐月は、直接戦いに関与しない環境にとどめ置くことにした。

 本人には過日、倒壊を招いた都の再建費を稼げと言ってある。遊びに来いと誘って、ノコノコとこの国を訪れるやつではない。大した用もないのに、留まっているわけもない。

 ただ、幸いと言っていいのか、あくまで人間だと言い張っている割に、なんだかんだ向き合う姿勢を見せており、今のところ逃亡する気配はない。

 九百万金瑦(クオル)以上の借金を、一日二日で返すのは困難だ。これでしばらく、彼は華瓊楽カヌラに滞在することになるだろう。



             鈴の音が、早まっていく――。



《 鬼畜じゃな。…… 》


《 そうでもない。生易しいことは言ってられん。あの少年には、一刻も早く覚醒してもらわねば… 》


《 黒同舟の襲撃を、次も凌げるとは限らないしねぇ 》


飛蓮フェイレン……、お前を信じて、今は我々も、あまり口出しせぬとしよう 》


《 今日は中枢(ちゅうすう)も、お出でにならないご様子 》


《 あのお方も困ったものですなぁ 》


《 どうせ、いつもの “ご視察” に向かわれたのでしょう 》


《 “ご視察” ……ですか 》


 なんとも言えない沈黙が流れる。実をいうと、この場には、肝心の華瓊楽カヌラ奎王けいおうが出席していない。


《 あれを、視察と言ってよいものかどうか…… 》


《 ご本人は、立派な仕事だと言い張っておられますがな 》



          鈴の音が、いよいよ高まる。

    シャンシャカ、シャカシャカ、耳障りなほどに鳴り響く―――。





「ッたく、スケベ親父が…」


 ぼそりと響いた呟きに、交錯していた視線が集まった。


《 …… 》


「あ…」


 聞こえてしまったか……。自分の声が、無駄によく通ることに舌打ちした飛蓮は、取り繕うように笑った。


「今頃、くしゃみをしているでしょうね。ハハ……」



 


   ×     ×     ×





「…ぶぇっくしょいっっ!」


 酒が飛び散る。

 渾身(こんしん)のラスト―――鈴の音が弾け散るのと同時に、盛大なそれが杯の中に浮かんでいた面輪を乱した。


 周りの酌婦らは、さすがに避けるような仕草をしたが、これも戯れ。軽く男を小突きながら、明らかに楽しんでいた。


「いやだわもー、旦那ったら。風邪でもひいたんですか?」


 演技を終え、舞台から下りてきた一人に杯を預けて、男は鼻をすすった。


「……ああ、そういえばちと寒いな~」


 夜遊びも、大概にしたほうがいいかもしれない。近頃、ぐんと秋が深まってきた。いざす貝の魔力から辛くも逃れ、生き残った華瓊楽カヌラの山々は、少しずつだが赤みを帯びてきている。

 穹海山原、九天九地の中でも、屈指の界交地ラヴァイアであるこの国は、各世界に通じる虫食い穴だらけだ。

 界境をめぐっている時化霊トケビだけでなく、暖気寒気、瑞気に瘴気、様々な気がいたるところから流れ込む。

 その上、天を突くような奇岩や石柱が城郭内にも乱立しているため、地上はまだ稲刈りをしているような陽気でも、冷え込む頭上は紅葉の見ごろを迎えていたりする。


(季節の変わり目だからなぁ。それともまた、何処かの誰かが、つまらぬ噂でもしているのだろうか……)


「うぅ~ん…。参ったな。頭まで痛くなってきそうな気がするぞ~」


「まぁ大変! それなら大事に至らないよう、私たちが暖めてさしあげますわ」


「お? おお、そうか! そりゃ~ありがたい」


 クスクスとこそばゆい酌婦たちの笑い声を抱え、男はまた何事もなかったかのようにはしゃいだ。

 癖の強い濃緑の髪は、背の中ほどに届くほど長く、一つに結い上げている。無精ひげを生やしているところを見ると、定職はおろか、決まった住居があるのかどうかすら怪しい様子だが、傍らには一振りの剣が立てかけてあった。

 知る人ぞ知る、伝説の英雄が臥竜時代に愛用していた剣である。熱狂者ファンなら、喉から手が出るほど欲しいはず。

 おまけに本人の、署名サインをつけてやってもいい―――。



 たわわに実った白玉の枝にあるような心地の中、男はふいと天井を仰いだ。


「……おお、そういえば。何でも最近、妙な舞を見せる美妓(びぎ)を雇ったと噂に聞いたが、お前たちの店か?」


「妙な舞って?」


「あぁ! ほら、あれじゃない? 昔、旅芸人の一座にいたとかいう……、えぇ~と、なんて言ったかしら。話によれば、それはまぁ見事な舞だって評判よ? 同業者が見蕩(みと)れてしまう程だというから、私たちも一度、お目にかかりたいと思っていたのだけれど」


「ははは! 芸を盗もうってか? 殊勝なことだな」


「嫌だわ旦那。人聞きの悪い」


「まぁ、確かに? 私たちには、鈴振りしか能がありませんけど~?」


 男は拗ねたようにそっぽを向く馴染みの酌婦を、軽くあやした。


 店内は強いて言えば、南国調……だろうか。岩室を思わせる内装で、密林を移植したかような一角もある。篝火に似せた照明が点々と置かれていた。

 別に珍しいわけでも、特別如何(いかが)わしいというわけでもない。華瓊楽カヌラは界交地というだけあって異国の情緒が混ざり合っており、花街はとりわけ包括的にできている。

 仮面のように厚い化粧の下に隠れてしまうのだから、人相なんてほとんど関係ない。庶民向けの界隈では、むしろ珍妙な特徴を持っているほうがウケが良く、人外も紛れ込んでいたりするくらいだ。



 確か名前は……、と。左隣の女が、金魚のように腫れぼったい唇に人差し指を添えた。


「……さくも。 “紗雲(さくも)” と言ったかしら」


「――ほう。珍しい名だな」


「えぇ。東扶桑ひがしふそうの出身なのか、色白で、切れ長に近い目が印象的だとか」 


「 “さくも” ……か」


 男は口周りの無精ひげを撫でながら、思慮深げに反芻はんすうした。



「もし行くのだったら、この通りを左に曲がって真っ直ぐの所よ――?」 




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