◍ 噂の人物
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凛とした空気が、張り詰めている―――。
一方でその空間は、さながら雲の中を漂っているような心地になる所だった。
天に昇るとき、地に生れ落ちるとき、ともすれば人はこういう世界を行き来しているのかもしれない。
場所は、壽星台閣―――清庭臨砦殿。
《 ……して、現在の状況は? 》
「今のところはなんとも……」
うつむいた白髪の影で、彼は面目ない思いを噛みしめていた。
「ただ、備えるならば、この時をもって他にないかと」
《 つまりそれは…… 》
空気がざわめく。霧が立ち込め、遥か頭上に光のにじむ真っ白な空間。
飛叉弥はその中心に片膝をついて、先ほどから低頭している。
いつもの着物姿ではなく、対黒同舟花連隊首――飛蓮としてだ。萼国夜叉の象徴たる、夜深藍の軍服をまとっている。丈が長く装飾的なのは、多くの寄生木を抱えることができる大樹大花の証―――。
ゆったりと宙を棚引く霧が、頭上でとぐろを巻いている。まるで、この取り留めのない現状のようだと、しばらくして “某神” がため息を漏らした。
《 彼を守りきれるか否か…… 》
再召喚してから三日が経つ。せめて、過日のような失態だけは防がなければならない。
鈴の音が、鳴り響く――。
飛蓮は、険をはらんだ面持ちで唸った。
「……恐れながら」
《 なんです? 》
別の方向から、今度は女神の声で疑問符が放たれた。飛蓮は顔を伏せたまま続けた。
「恐れながら、我らでは…」
《 難しいと申すか 》
「……いえ、真に “あれ” を守ることができるのは、あれ自身しかいないと、以前、申し上げた通りです……」
とりあえず皐月は、直接戦いに関与しない環境にとどめ置くことにした。
本人には過日、倒壊を招いた都の再建費を稼げと言ってある。遊びに来いと誘って、ノコノコとこの国を訪れるやつではない。大した用もないのに、留まっているわけもない。
ただ、幸いと言っていいのか、あくまで人間だと言い張っている割に、なんだかんだ向き合う姿勢を見せており、今のところ逃亡する気配はない。
九百万金瑦以上の借金を、一日二日で返すのは困難だ。これでしばらく、彼は華瓊楽に滞在することになるだろう。
鈴の音が、早まっていく――。
《 鬼畜じゃな。…… 》
《 そうでもない。生易しいことは言ってられん。あの少年には、一刻も早く覚醒してもらわねば… 》
《 黒同舟の襲撃を、次も凌げるとは限らないしねぇ 》
《 飛蓮……、お前を信じて、今は我々も、あまり口出しせぬとしよう 》
《 今日は中枢も、お出でにならないご様子 》
《 あのお方も困ったものですなぁ 》
《 どうせ、いつもの “ご視察” に向かわれたのでしょう 》
《 “ご視察” ……ですか 》
なんとも言えない沈黙が流れる。実をいうと、この場には、肝心の華瓊楽奎王が出席していない。
《 あれを、視察と言ってよいものかどうか…… 》
《 ご本人は、立派な仕事だと言い張っておられますがな 》
鈴の音が、いよいよ高まる。
シャンシャカ、シャカシャカ、耳障りなほどに鳴り響く―――。
「ッたく、スケベ親父が…」
ぼそりと響いた呟きに、交錯していた視線が集まった。
《 …… 》
「あ…」
聞こえてしまったか……。自分の声が、無駄によく通ることに舌打ちした飛蓮は、取り繕うように笑った。
「今頃、くしゃみをしているでしょうね。ハハ……」
× × ×
「…ぶぇっくしょいっっ!」
酒が飛び散る。
渾身のラスト―――鈴の音が弾け散るのと同時に、盛大なそれが杯の中に浮かんでいた面輪を乱した。
周りの酌婦らは、さすがに避けるような仕草をしたが、これも戯れ。軽く男を小突きながら、明らかに楽しんでいた。
「いやだわもー、旦那ったら。風邪でもひいたんですか?」
演技を終え、舞台から下りてきた一人に杯を預けて、男は鼻をすすった。
「……ああ、そういえばちと寒いな~」
夜遊びも、大概にしたほうがいいかもしれない。近頃、ぐんと秋が深まってきた。いざす貝の魔力から辛くも逃れ、生き残った華瓊楽の山々は、少しずつだが赤みを帯びてきている。
穹海山原、九天九地の中でも、屈指の界交地であるこの国は、各世界に通じる虫食い穴だらけだ。
界境をめぐっている時化霊だけでなく、暖気寒気、瑞気に瘴気、様々な気がいたるところから流れ込む。
その上、天を突くような奇岩や石柱が城郭内にも乱立しているため、地上はまだ稲刈りをしているような陽気でも、冷え込む頭上は紅葉の見ごろを迎えていたりする。
(季節の変わり目だからなぁ。それともまた、何処かの誰かが、つまらぬ噂でもしているのだろうか……)
「うぅ~ん…。参ったな。頭まで痛くなってきそうな気がするぞ~」
「まぁ大変! それなら大事に至らないよう、私たちが暖めてさしあげますわ」
「お? おお、そうか! そりゃ~ありがたい」
クスクスとこそばゆい酌婦たちの笑い声を抱え、男はまた何事もなかったかのようにはしゃいだ。
癖の強い濃緑の髪は、背の中ほどに届くほど長く、一つに結い上げている。無精ひげを生やしているところを見ると、定職はおろか、決まった住居があるのかどうかすら怪しい様子だが、傍らには一振りの剣が立てかけてあった。
知る人ぞ知る、伝説の英雄が臥竜時代に愛用していた剣である。熱狂者なら、喉から手が出るほど欲しいはず。
おまけに本人の、署名をつけてやってもいい―――。
たわわに実った白玉の枝にあるような心地の中、男はふいと天井を仰いだ。
「……おお、そういえば。何でも最近、妙な舞を見せる美妓を雇ったと噂に聞いたが、お前たちの店か?」
「妙な舞って?」
「あぁ! ほら、あれじゃない? 昔、旅芸人の一座にいたとかいう……、えぇ~と、なんて言ったかしら。話によれば、それはまぁ見事な舞だって評判よ? 同業者が見蕩れてしまう程だというから、私たちも一度、お目にかかりたいと思っていたのだけれど」
「ははは! 芸を盗もうってか? 殊勝なことだな」
「嫌だわ旦那。人聞きの悪い」
「まぁ、確かに? 私たちには、鈴振りしか能がありませんけど~?」
男は拗ねたようにそっぽを向く馴染みの酌婦を、軽くあやした。
店内は強いて言えば、南国調……だろうか。岩室を思わせる内装で、密林を移植したかような一角もある。篝火に似せた照明が点々と置かれていた。
別に珍しいわけでも、特別如何わしいというわけでもない。華瓊楽は界交地というだけあって異国の情緒が混ざり合っており、花街はとりわけ包括的にできている。
仮面のように厚い化粧の下に隠れてしまうのだから、人相なんてほとんど関係ない。庶民向けの界隈では、むしろ珍妙な特徴を持っているほうがウケが良く、人外も紛れ込んでいたりするくらいだ。
確か名前は……、と。左隣の女が、金魚のように腫れぼったい唇に人差し指を添えた。
「……さくも。 “紗雲” と言ったかしら」
「――ほう。珍しい名だな」
「えぇ。東扶桑の出身なのか、色白で、切れ長に近い目が印象的だとか」
「 “さくも” ……か」
男は口周りの無精ひげを撫でながら、思慮深げに反芻した。
「もし行くのだったら、この通りを左に曲がって真っ直ぐの所よ――?」




