◍ 凍縛
《 …っギアアアアアアアアア――――――――――――…ッッッ!! 》
一瞬で湖面を駆けぬけ、息を詰めるほど激しく吹きつけてきたのは、真っ白なガラス片
ではない。
高層の建築物が崩落したところに居合わせたような、耐え難い諸々を浴びせられ、ただひたすら顔を背けて耐えていた嘉壱は
(ヤベ…ッ‼)
肩越しに視線を走らせた。右足を巻き取っていた触手が、大きくしなった。
湖虞霊は案の定、憤怒を込めて、嘉壱を捕えている触手を振り下ろした。
たたき割られた水面が盛大な水しぶきを上げたが、その衝撃よりもある意味凄まじいもので、しばらく動けなくなる。
《 ギアアアァ…ッッ! ギャアアアァァァァァ…ッッっ!! 》
さながら、誰何を求める人の最期を目の当たりにしているようで――……、
《 ギュアアアァァァァァぁぁぁ…ッッっ!!! 》
化け物とはいえ、残酷に感じないでもない光景であった。
呼吸を忘れるほど呆然として、嘉壱はその一部始終を傍観させられた。
大部分はシルエット状にしかうかがえないため、何が起きているのか一目瞭然とはいかないが、耳をつんざく絶叫がくり返される中、窓ガラスに少しずつヒビが入っていくような、嫌な音がしている。
濛々と立ちこめる氷の粉塵を振り払い、天高く突き上げられた触角が小刻みに震える。
《 ……サァ――……… 》
何度も張り上げられる断末魔を、くすくすと笑っていなす “女たちの声” が、上空の冷気で螺旋を描きながら、ふんわりと舞い下りてきた。
蠱惑的な美女の囁きなら心地よいだろうが、実際には不気味としか言いようがない。
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しばらくすると、スモークのほとんどが森にはけ、わずかな残りが緩慢に湖上を行き違うだけとなった。
花びらが舞っている。
雪嶺から吹き降りてくる雪片――風花のように、真っ白な――……。
「……ハハ、マジかよ」
ふと、風に煽られた冷気の波間に、黒髪をそよがせている少年の後ろ姿が垣間見え、嘉壱はおもむろに立ち上がった。意識しても上手く笑えていない自分に気づていたが、あえて陽気な調子で話しかけた。
「お前、 “凍縛” なんて使えるんだなぁ…!」
息の詰まるような静けさが辺りを支配している。
圧倒的な存在感を放ちながらも、造作なく造りだされたものだということが無言のうちに伝わってくる湖虞霊の氷山を見上げ、嘉壱はこっそり固唾を呑んだ。
まさか、こんな荒技を見せつけてくれるとは――。
「大丈夫か?」
皐月は返事もせず、黙々と右腕に付着した霜をはたき落としていたが、ふいに口を利いた。
「お前は――?」
気遣い返されたことが意外で、一瞬不自然な固まり方をしてしまったが、嘉壱はすぐさま笑い返した。
「お…、おう! 助かったぜ。サンキューサンキュー。あはははっ」
皐月はやはり無視するように、さっさと岸へ向かっていく。
「おいっ、待てよ」
嘉壱はすがるように続けた。確かめたいことがある―――いや、本当は確かめるまでもないのだが、触れずにやり過ごすのは、さすがにズルい気がした。
「悪り、いろいろ無理させたってーか……、こっちの勝手な都合ばっかり優先して。どういう状況か、気づいてるよな? もう」
「お前の三文芝居を見せられ続けるのに飽きた。ただそれだけ」
「怒ってるんだろ? でも、おかげではっきりしたよ。俺たちの戦力になるってのも、まんざら嘘じゃねぇどころか、お前には明らかに “紫眼の花人” に近い霊応がある。ってことはだ! 素性を隠すために “あえて抑制してる” って話も…」
「誰から吹きこまれてんの――? そんなこと」
皐月の足は荒々しい音をさせて、水面を無理やり蹴り進み続ける。
「普通を装いたいのは分かるぜ? よく考えてみりゃ、お前は “あっち” に暮らしてるんだし――……」
嘉壱は眉尻を下げた。とにかく会話を繋げなければいけない気はするのだが、頭に浮かぶのは、先ほど目の当たりにした凄まじい光景ばかり。
「言っとくけど――……」
皐月の足が止まった。
「そうやって、理解者を装おうとしても無駄だから。あんたたち “花人” の問題に関わるのも、今回限りにさせてもらいたい……」
波紋とともに、沈黙が広がっていく。
若干の逡巡がうかがえる語尾の余韻に、嘉壱は苦笑をこぼした。
「まぁそう言うなよ。実はとっくに自覚してんだろ? 俺たちは関わらないではいられない。それにお前ぇ、なんだかんだ言って、押しに弱えーってぇか~……」
“良い奴” だしな。
「――……」
「特殊な紫眼を隠し持ってるなら、白花なしでも十分な霊応を発揮できることにだって納得がいく。あとは、もうちっと素直に白旗上げて、こっちの側に来れば…」
…………。話が終わらぬうちに、再び歩きだしてしまう見事な拒絶ぶりに、嘉壱は望み薄だと確信させられた。
「オイッ」
「急いでるんでしょ? ムダ口叩いてる暇あんの?」
「~~~……」
ジトっと目を据えていても置いて行かれる一方なので、嘉壱も頭の後ろを掻き回しながら、あらためて踏みだした。
――――【 今さらな始まり 】―――
水際から、ゆるやかな上り坂を描いている湖畔を登りきると、森に入って頭上が暗くなった。
夜目には分かりにくいが、華瓊楽は秋色に衣替えしはじめている。周囲の木々も、着実にその気配を深めてきている。
「待てってッ。だいたいお前ぇ~……顔面パーツが “あいつ” とほぼ一緒な件は、本当にただの偶然だってのかッ?」
嫌そうな顔をするのが分かっているこの質問で、しつこく追い込もうとした時、つと、赤い発光体を視界の左端に捉えた。
鼻先スレスレをゆっくりと横切るそれに、嘉壱は思わず硬直を余儀なくされた。
この時期よく見かける、黄泉路蜻蛉という霊虫だ。別名、死神とんぼ。人の心の闇に囁きかけ、死の淵へ誘うと古くから信じられている。曼珠沙華の最盛期に繁殖するからだろう。かの花が縁どる道や、覆い尽くす野を飛び交かい、枯れ果てた後も、何故かしばらく、咲いていた場所に郡舞するという。
幻想的ながら、いつ “声” を掛けられるかと緊張していたが、結局何事もなくやり過ごせた。
右手の闇の奥に、その光が消えていくのをいつまでも見ていると――
「はい」
いきなり鳩尾の辺りに、右拳が突き出されてきた。
刺繍糸を編み合わせたような組紐がにぎられている。
これは華瓊楽滞在中の皐月にとっては、もはや必需品といえる代物だ。
「髪――」
皐月は眠たそうな半眼だが、どうしてかその顔は、今日はじめて真面目にも見えた。
「うっとうしいから結んで」
「~~~……」
嘉壱は舌打ちしつつ、紐を受け取り、背後に回った。
「ガキじゃあるまいしッ、これからは、髪くらい自分で結えるようにしろよッ」
「これが最後だと思えば、お安い御用でしょ?」
「~~~っ……。」
ああ言えばこう言う……。
「ほらよッ」
横髪を結わいただけだが、少しは視野がすっきりしただろう。機動性を考慮するなら、しの字に結い上げた方がいいのかもしれないが、時おりさりげなく身震いしているやつには、こっちの方が首周りが暖かくて助かるはずだ。
嘉壱は深いため息をついた。(寒いならそう素直に言やーいいのに……。意地っ張りが)
「なに」
「なんでもねぇよッ。案外丈夫そうだな、それ」
「?」
ますます不審がる皐月は、背中にいたずらをされたと思い、疑ってくる子どものようで面白い。
嘉壱はうそぶくのを止め、苦笑をこぼした。
「その髪縛りだよ。まあ、見た目は少し不恰好だけど――?」
なにやら思いだしたらしい皐月が、ここでようやく、「ああ……」と微かな笑みを見せた。
その脳裏には、ある一人の少女の姿が浮かんでいるはずだ。 “悪夢のような体験” をした記憶まで呼び覚ます代物だろうが、皐月はこの組紐を右手首に結び付け、なくさないようにしていたと思われる。
嘉壱は自分が歩きだすと、少しして後についてくる足音を聞きながら薄く笑った。
「あれからもう四ヶ月かぁ。早ぇよなぁ~。でも、なんにも変わっちゃいねぇ。お前がはじめて、この国に吹っ飛ばされてきた時のまんま――」
嘉壱の退屈そうな物言いに、皐月も珍しく少し笑っていた。
以外にしっかりと前を見据えながら、何かを思い起こし、呆れている口ぶりで―――
「未だに信じられないよ……」
「あ?」
*――これを、お前に……
すべては “あいつ” のせいだ。
凍り付いたように縛られてきたのも、それが、溶けだす時を迎えるのも――……。
皐月がそんなことを心の中で唱えているとは、さすがに想像もしていない嘉壱である。
「なんで今さら…」
「サラ――? 皿がどうした」
聞き返しながらも、大して気に留めていなかった。
どーせまた愚痴だろうと思っているのが声色で伝わったのか、皐月は再び、ムスッとした素っ気ない口調に戻った。
「や、こっちの話」
「なんだよ。何かあるなら言えよ」
「いいの? さっきのトンボ蛍が、お前の後ろに…」
「ギャあああああああァァァーーーー~~~っっっッ!!」
【 序鐘 ◇ 月下の対峙 / END 】




