◍ 迷える年頃の猫娘
啓蟄。冬篭りしていた虫たちが、目覚め出す頃――。
山襞の合間を蛇行している沢は、ところどころ渡れるようになっていて、人や獣の往来も活気づいてきている。
頭上には索道が交錯し、山菜などを詰めた籠を滑車に取り付けて送りあうこともできる、なかなか便利なところであった。
真澹という仙境のようなこの渓谷に、蒐集家たちの村がある。
――* * *――
ふと、鼻先に紅い花弁が散り落ちてきて、立ち止まっていた仁華は視線を上げた。
朝日が射した山肌に、紅梅の点描が見られる。日陰で湿っぽい蒼湶祠の敷地にいるため、余計に輝かしく、貴重な温かみに感じられた。
梅の次は桃花が盛りを迎える。そうなると、今は小さな柳の芽も本格的に吹き始め、春の色と香りを濃密にしていく。
*――萼を思い出すなぁ……
紅い飛花を浴びていると、最近耳にした、懐かしそうな呟きがよみがえってきた。
そろそろ雀が囀りはじめてもいい時刻だが、今朝は冷え込んでいるせいか、まだなんの気配もない。
つい、物思いに耽ってしまい、近くの滝の音を聞いているうちに首回りが寒くなった仁華は、身震いして急ぎ足となった。
その両手で持つ大きめの籠からは、ぐちゃぐちゃに押し込まれている着物の袖やら、裾やらが垂れている。
――――【 象徴の鳥 】――――
石階段を下ったところで、風を切る黒っぽい影とすれ違い、思わず振り返った。
燕だ。この先にある洞窟から、飛び出してきたらしい―――。
「あら、野良ちゃん。おはよう。早いわねぇ」
起き抜けの遊女のような隣人にも遭遇した。
「野良じゃないです仁華です。お早うございます。綾羅さんも珍しく早いですね。顔を洗いに来たんですか?」
「そういう仁華ちゃんのそれは――?」
綾羅はいつもの如く、興味深そうに笑う。脂粉が香ってきそうな緋の衣から、白く豊満な四肢を見せつけるように。
彼女は古着や端切れの蒐集家だ。正確に言うと、そこに籠っている “情念” を集めているため、やはり、なかなかの変わり者であった。
「もしかして “あいつ” の下着?」
唇を吊り上げて笑われ、仁華はため息交じりに、ドサッと籠を置いて返した。
「寝巻と敷物です。師匠、昨日から風邪引いてて…」
「鬼でも風邪ひくんだねぇ。毛布代わりに添い寝でもしてやったらどう?」
「こんな神聖な空気に満ちた場所で、よくそんな冗談が言えますね」
仁華が “野良” と呼ばれたのは、そもそもが野良猫のような余所者だったからだ。
人外との混血――いわゆる脈持児。
ところどころ目に付く仁華の特徴は、西原の砂漠に生息している、砂猫のそれを思わせる。
山姥のような乱髪だが、正面から見ると十五、六の生意気な小娘。
前髪の一房が白茶けた金色で、その下からのぞく瞳は榛色。
誰彼かまわず睨みつける豪胆。口の利き方も、はじめは今よりずっと悪かった。
「頭に耳が生えてりゃあ、そんな目つきでも、多少はかわいく見えるのに。ホント残念」
「私に生えるのは、一瞬で窓帳をズタズタに引き裂ける鉤爪だけ。毛布や抱き枕代わりに差し出せる毛皮も、尻尾もありませんよ」
水がないところで育った砂猫の遺伝子のせいか、雨が苦手なのに、滝行をさせられているような姿でいたところを哀れまれ、気が付いたら真澹で暮らすことになっていた。
正確には、事あるごとに “命の恩人を自称する男の奴隷として” である。
仁華は自分に大した異能がないことを早口で並べ立て、少しムッとして黙った。
それは、獣扱いされた腹立たしさからではなく―――、
役立たずだということを、最近、頻繁に意識するようになったからであった。




